水を飲もう。暗闇がそこにある。
それだけで彼女の足は動くのだ。
名前は桜川祈。一部ではそこそこ名の知れたホラー作家であり、生粋の変人だ。
墓、風呂、トイレ、トンネル、ダム、廃墟、ベットの下。
少しでも暗がりがあれば、彼女にとっては貴重な題材になる。
そうやって、彼女自身多くの経験をもとに小説を書いてきた。カタカタと、打ち込む文字に命を吹き込み、人の想像と恐怖を煽り、目を向けることがなかった暗がりを全ての主人公へと変えていく。
その為ならば、彼女は無防備にも無責任にもなる。
そうやって、自らが怖い思いをして得たものは多い。
今も然り、バタバタと走って向かった先は自分の家であり、転がるように靴を脱いでパソコンを起動する。
その間さえも貴重なもので、どうにか頭の中に残っている恐怖の断片を手繰り寄せては、繰り返して染み込ませる。
なぜ人間は忘れてしまう生き物なんだろう。
そんなことを思いながら、やっと開いた執筆ページに新規のファイルを追加して指をキーボードの上で踊らせる。
カタカタと、刻みの良い音とは裏腹に、その表情は血気迫っていて、余裕もなければ時間もないと語っている。
期限に追われている訳ではない。とにかく時間によって薄れる感情の起伏がもったいなくて仕方なかった。
そうして黙り込んで指を動かし、頭の中にあるものをゴロゴロと転がしていく様子は狂気的だ。
ふと、気づいて顔を上げた時、桜川自身が暗がりにいた。
締めっぱなしの窓から、暗くなった街に月が浮かぶのが見える。もうそんな時間かと時計へと視線を彷徨わせると、もう23時を越えようとしていた。
立ち上がり、ふらついて、電気をつける。
部屋が明るくなれば、物の後ろに暗がりが隠れていった。
そんな様子を眺めながら桜川は一息を吐き出して、流し台へと向かった。
カラカラになった喉を潤すために手を伸ばして、あぁ、そうだ。この渇望だ。と、手を引っ込める。
そうして踵を返してパソコンに向かった。
たった一つ打ち込んだ文字は。