登山家の記録山を登る。
生まれた時からまるで運命みたいにずっとやってきた事だった。
もちろん、危険な山にだって登ったことがある。親父も、母さんも、2人とも山登りが好きだったから、心配された事はあっても、反対された事はない。
登るなって言われるの、辛いだろうって。それが好きって事なんだって。俺としてもそう思う。
小さい頃は大きく見えた山も、大人になると小さくなって、だからこそ、同じ山に何度も登ったりした。
山はいつだってそこにあって変わらないのに、少し間が空いただけで全然違う物になる。
それが山だ。
でも、どうして山に登るの?と聞かれると、いつも返答に迷ってしまう。
なんで呼吸をするの?って聞かれている感じ。大袈裟と思う人もいたし、気味悪がる人もいたけど、でも、他の答えがあるわけでもなくて、「そこに山があるから」って俺は答えてきた。
コンクリートの敷き詰められた地面より、急な山道の方が好きだ。
大理石の敷き詰められた床より、獣道の方が好きだ。
好きなものを突き詰めていったら、最終的に登山家になっていた。
いろんな山を登って、計測したり、写真を撮ったり、色んな作業を経て山を知る。まさに天職だ。
仕事なのだからと、いつも気持ちを切り替えようとするが、そこは残念ながら備わった機能にないようで、あっちこっちと気持ちのままに進んだり、人の観察に徹したりする事もあった。
とにかくやりたい様にやってしまう。仕事は副産物なんだ。
でも、稀に、俺の心を落ち着けてしまう山がある。
それはいわゆる、登山家やプロと呼ばれる人だからこそ登る山。生死をかける山。危険な山というやつだ。
もちろん普段からどんなに小さな山でも俺には死ぬ可能性がある。誰しもそうだろう、山とは元来人が立ち入れる様に作られた空間じゃない。
山が山としてあるべき形をとってそこに鎮座しているのだ。
だから、いつ何時俺がその山としての当たり前に踏み込むかなど、わかりはしない。
でも、当初から死ぬか否かを考えて準備をしないといけない山々は、そういった身近にある危険とは違う。
「だからこそ!登りたい!」
そう声に出せば自然と、同じ思いを持つ人や色々な理由があって山に登る人と知り合う。
そうなってからは、山を好きな人や、山に挑む人を知ることも楽しみになった。
山を登る理由が、増えた。そんな感じだ。
沢山はない時間の中で、どれだけ山にいる時間を長く稼げるか。そこでしか得られない人脈や経験を、多く残せるか、この身に刻めるか。
それが登山家としての俺の価値。
そうして行き着いた先に何があっても、俺は、俺である限り山を愛していく。
それが狂気と呼ばれるほどになっても。