骨川の日記総じて、あまり困った事はない。
そう言う経験がないというのは後々になるとより深刻だと言われるが、作中に語る骨川羅夢は、経験のなさこそ後々になれば、よりどうにでもなると言う。
幼少期から恵まれた家庭環境に身を置き、よく周囲にマウントを取っては縁を切られたり罵られたりしてきたが、それすら全部含めて僻みであって、気にする事はない。
気にすると言うなら、それだけ大事な縁だったと思っていたという事で、誠心誠意謝れば許してくれるというのも、彼の家庭環境故の見解だ。
「今年も僕は別荘に」
そこまで行って、ああその期間は皆に会えないんだなぁと思ったこともある。
高校生にもなるとそんな振り返りは些細なもので、幼少期の自分は寂しがりだったんだと思う程度。本人も気づかない所で、まだ寂しいと感じているのは、もっと大人になってからきっと自覚するだろう。
何はともあれ、骨川は人よりも本能的に生きているのだ。人より上でありたい。ヒエラルキーがどれほど大事かは、親の姿を見て学んだ。
だが、どうにも骨川はまだ、納得しきれないところがあった。それこそ、成長するにつれてそのヒエラルキーがひどく可哀想なものに見えてならないのだ。
「まぁ、僕としては、僕に勝るものはないから。」
それが結論だ。
僕が何よりと上にいるのだから、どんな生き恥を晒しても、誰かを救うために行動しても、どんな選択をしても、全てが自分が残したもので、賞賛されるべき事。
つまり、最初の文に戻り、総じて、あまり困った事はない。
「困ったことが起きたとき、それは年齢に関わらず人の手を借りたら大体どうにでもなるんだよ!
でも、大人になればなるほど友達の人数は増えてるんだから助けてくれる人も多いだろう?
なら、なんの心配もないじゃないか!」
そうやって笑うのは、自分の日記を書いている時くらいだ。
日々の思いや出来事を振り返り、自分を見つめる事は上に立つべき人間がもっと自分を理解するために必要な事。
自分を理解すれば、自分が良いと思う方向がわかる。選択を必要とした時直感を迷わなくなる。
少し大袈裟ではあるが、一応理に適った方法で、彼なりに続けているのだからと、両親は優しく見守っている。健気な努力は身を結ぶと教えたのはその両親だからだ。
「そろそろ晩御飯よ!羅夢ちゃん!」
「はぁーい!ままぁ!」