創作一話モノフォニーの旋律が、人気のない講義室棟の冷たいコンクリートに染み入っていた。静かな音色に、不規則にローファーの足音が重なる。窓から溢れる金色の光は、無彩色の廊下をノスタルジックに染めている。リリは、扉の前に立つと、胸に抱えたファイルをきゅっと抱きしめた。
「おじゃま、します」
ほとんど声にならぬ声で断りながら、扉を押し開け中に入る。途端、クリアになったピアノの音色が秋風のように頬をかすめ、夕焼けに溶け出した。劇的とはこういう出会いを言うのか、しかし、その音はどうも不器用だった。
リリは、素朴な講義室の中に佇む楽器とその奏者に目を向けた。その人はリリに気づかない様子で、聞いたことのあるような、ないような、そういう曲を右手で手遊んでいる。
「あの……、あの!」
絞り出すように大声を出すと、その人は肩を小さく揺らして手を止めた。
「ご、ごめんなさい。何か用?」
少年のような所作に反して、小春日和のような落ち着いた温もりを感じる声だった。長い髪を耳にかけると、リリに向かってふわりと微笑んだ。
不思議な求心力を持つ人だ。一瞬目を奪われた後、リリは慌てて言葉を形にしようとする。
「え、えっと!ここ、つかい、使ってもいい、ですか」
「ピアノ?試験が近いものね、どうぞ」
緊張して挙動不審になるリリを笑うこともなく、終始穏やかな様子だ。髪は白いものの、おそらく十代後半の青年だろう。それにしては随分大人びた感じがする。その人はリリにピアノを譲ろうと、立ち上がった。
「うたです、ばしょ、場所です」
リリは焦って両手を振って否定する。とさりと音がした。両手に抱えていたファイルが支えを失って床に落ちたのだ。いつの間に近くに来たのか、リリが拾うよりも先に、白髪の人がファイルを拾い上げた。「はい」と手渡す顔を見上げる。
女性にしては背の高い人で、身長の低いリリは圧倒されるほどだった。胸に掛かった髪をよく見ると、白髪混じりの逆のような感じに、淡い紫色の髪が混じっている。白髪はどうも地毛らしい、上向いた睫毛までもほとんど白く、アネモネのような淡くも深い青紫色の瞳を縁取るさまは神秘的だった。否、長い前髪に影になってわかりづらいが、左右で色が違うような。
「それじゃあ、私、帰るね」
リリがぼんやりしている間にその人はドアノブに手をかけていた。
「えっ、あ」
「気にしないで!元々帰るつもりだったし。あ、電気だけお願いね」
引き留める間もなかった。長いスカートをはためかせ風のように去った背中の残像を、リリは眺めるだけだった。
「風みたいな人だったな……」
ポツリ独り言ちて、リリはポケットから電子メトロノームを取り出すと発声練習を始めた。
その後、試験の日まで例の講義室にその人が現れることはなかった。現れないからと言って、それがリリにとって何かあるわけではない。ただ、ほとんど毎日、同じ場所で練習して、誰かと鉢合わせたのがあの一度きりだったので、少し心に残っただけだ。
試験が終わった日のリリは、落ち着かない様子で辺りを見渡していた。いつもに増して挙動不審で、よそ見をしては度々人にぶつかった。探し物をしていたのだ。リリは不器用で、失せ物が多かった。
昨日から今日までの通った道や部屋を遡るように辿っていくが、小さなそれはなかなか見つからず、最後にはあの講義室棟にたどり着いた。いつもと同じ、冷ややかな空気で満ちている。アンダンテよりもやや遅く、ローファーは孤独な音を響かせている。
夕日の差す時間だが、重い曇天で、照明のついていない廊下は薄暗かった。講義室からは光が漏れ出ている。リリは軽く扉をノックすると、あの日と同じように、緊張した面持ちで扉を押し開けた。
明るい照明の下で白髪が煌めいた。
熱い気流が押し寄せるようなメロディだった。
聞いたことのあるクラシックだ。その人は、エチュードらしい激しい16分音符の連なりをほとんど正確に刻んでいた。
リリは瞠目した。人違いだろうか。しかし、音色はあの日の、少年のような音のままだ。リズムだけが際立って正確で、不思議な感覚になった。
「あれ」