【クリ想】小指は温度を伝えない 二次会、というものを大人はするらしい。
お酒のある食事を終わらせて、場所を変えてまた飲む。河岸を変えるとも言うけど、結局同じことだと思う。
クリスさんはお酒を飲まなかったのに、僕を二軒目の店に連れて行った。
これまでは、夜の食事が終わったらそのまま別れていた。定食を出す居酒屋に何度か、イタリアンの店に何度か、お寿司屋さんに何度か、今日はこれまでとは雰囲気の違うイタリアンだった。食事が終わったからいつも通り帰るんだろうと思っていたのに、クリスさんは真面目くさった顔で「コーヒーを飲みませんか」と僕を誘った。
だから今、知らないビルの細い階段を上った先にある、レコードが山積みになった雑然とした喫茶店にいる。レコードから流れる知らないジャズや産地ごとに分けて書かれたコーヒーのメニューの中に突然現れる泡盛の雑然とした雰囲気は、きっとこの店のマスターが良いと思ったものをとにかく詰め込んだ結果なんだろう。統一感がない雰囲気に少し面食らったけど、好きなものを詰め込んだクリスさんの頭の中みたいだと思った瞬間、すごく良い場所のような気がしてきた。
――そう思うってことは、僕は。
「想楽」
いつもの呼びかけより低く、クリスさんは囁くようだった。
窓際の席はコーヒーカップを二つ置いたらいっぱいになる。ほとんど残っていないテーブルの余白にはクリスさんが手を乗せていて、僕は自分の膝の上に手を置いていた。
「……――」
距離が近いからクリスさんの視線は痛いほどだ。どうしたの、といつもの声音で訊きたいのに声がうまく出せなくて、僕は窓の向こうに顔ごと向ける。
窓から見下ろす道では色々な人が行き交っていた。繁華街が近いから、見えるのは飲み会帰りのサラリーマンと大学生ばかり。笑っている人がほとんどで、どんな話をしているかは聞こえないけど、どの顔もみんな無邪気に見えた。
「想楽」
「……」
返事はしない。
クリスさんの声なんて聞こえていないみたいに、僕は窓の外だけ見ている。
「……」
手を。
テーブルの上に、置いた。
膝の上に手を置くより、テーブルの上に置いた方がよほど楽だ、って今気付いたみたいに。
コーヒーカップ二客と、クリスさんの手でテーブルはちょうど埋まっていた。僕がテーブルに手を置くには、何かとぶつかるしかない。
それがクリスさんの手だとしても、仕方ない。
「――、想楽……」
クリスさんの声が、湿ったような気がする。
明日はクリスさんも僕も仕事は入っていない。明日は平日で二限を入れてしまったけど、一日休んでも単位は取れる。だから大丈夫――これから、何が起こっても大丈夫。
小指にクリスさんの肌がある。爪だけ当たっているから、クリスさんの体温も分からないのがなぜか悔しい。クリスさんが僕の手を引いてしまえば体温は簡単に暴けるのに、クリスさんはいつまで経ってもそのままでいた。
「……っ、……」
どっちの呼吸の音なのか、喉が動いて大気が揺れた。
もしかしたらそれは、心臓の音だったのかもしれない。
温度が伝わる速度は時計の短針よりも緩慢だ。待ちきれなくて心臓は飛び出しそうなのに、肌は縫い付けられたように動けずにいた。