独占衝動波に揺られもしないほど安定した船体の中、照明の加減か、それとも場の熱気か──この豪華客船の空間は、やけに煌びやかに見えた。
「……」
視線の先に立つのは弥代。
祠堂たちが用意した、Aporia本部共通の黒と赤のドレス。それを纏った彼女は、まるでこの世の者ではないような雰囲気を纏っていた。
いつもは隠れている耳。
そこから伸びる滑らかな首筋。
ドレスの切れ込みから覗く太腿。
そして、足元の高いヒール。
無防備だと──最初に思った。
だが、同時にその姿に目が離せなくなった。
同僚であり、自分とは立場の違う護るべき一般人であるはずの彼女に、触れたいと思ったのは、たぶん初めてじゃない。
ただ、それを自覚したのは今だった。
(何かあったら、手を貸す)
そんな名目で、視線を離さずにいた。
他のメンバーが席を外した一瞬の隙、弥代は一人きりになっていた。
状況を読まず、酔った男が近づく。
「……」
男は酒を片手に弥代へと言葉を投げていた。どうやら一緒に酒を飲まないかと誘っているようだったが、彼女は断っている。それでも奴は引かない。
距離を詰め、手を伸ばし彼女の露出した肩に触れようとした。
その瞬間、思考は途切れた。
「やめろ」
声は冷たく、鋭く響いた。
男が弥代に触れる寸前、俺はその手首を掴んでいた。力加減はしていない。軋むような音がしたのは、関節か、それとも俺の内側か。
「彼女に触れるな。次はその手、使えなくなる」
「な、なんだお前……ッ」
男は怯んだが、離そうとはしなかった。
無言で睨みつけると、奴の顔が青くなり、ようやく腕を引いた。
男が去っても、苛立ちは消えない。
誰にも触れさせたくない、誰の目にも晒したくない。
それは、任務のためでも、仲間としてでもない。
ただの独占欲だった。
「……平気か」
「……恩田さん。すみません」
少し遅れて声をかける。
彼女はうなずいた。動揺はない。だが──
「お前のその格好は、危険を引き寄せすぎる」
気づけば、俺の手は彼女の耳元に伸びていた。
髪の隙間から覗く柔らかな輪郭に、そっと触れる。
手袋越しに、当然ながら彼女の体温は感じ取れない。
ただ、そこに確かに彼女がいて、俺が触れているという現実だけがある。
……それが、余計に苛立たしかった。
この布一枚を隔ててすら、俺は弥代に触れることを許されていないような気がした。
触れているのに、何も届かない。
護っているのに、満たされない。
その距離が、ひどく堪える。
「ヒールの高さと、露出の多さ、状況を考慮すべきだったな。……俺の見立てが甘かった」
低く呟く。
自分に向けた言葉だ。
彼女の装いに、あの男に、そして何より、こうして触れたいと思った己自身に。
「他のメンバーが戻るまで、俺のそばを離れるな」
それだけ言って、手を離す。
何も伝えられなかった手袋が、妙に冷たく感じた。
波音に包まれたデッキの縁。
照明は遠く、ふたりの影を静かに引き伸ばしていた。
「……ここなら、誰も来ない」
「わざわざすみません。ありがとうございます」
それだけだ。何も問わない。
感情の起伏がなさすぎて、時折こちらの言葉が届いているのかさえ分からなくなる。
「お前、さっきの状況で一切顔を歪めなかったな。酒を勧められても、肌を触れられそうになっても、微動だにしなかった。……普通の人間なら、嫌悪の色ぐらい浮かべる」
「……すみません、表情に出ないものでして」
そう言う彼女の頬を見つめる。
そこには、いつも通りの無表情。
だが、それが──“壊れている”と感じさせる。
「……どこか壊れてるな。お前は」
呟くと、弥代はゆっくりとこちらを見た。
否定はしない。それが何よりの証拠だった。
Aporiaで出会って一年。
オーナー代理という肩書きでいながら、何かあればすべての責任を押しつけられ、切り捨てられる立場。
彼女が壊れているのは、そう生きるために必要な防衛だ。
──善良だ。だが、どこか人間味が削ぎ落とされている気がする彼女。
それが、逆にこちらの理性を揺らす。
「俺は……お前に触れたくなった」
「え、と。触れたいとは、先程のように顔にですか?」
「……顔というか、ただ、弥代に」
「……それは、何故」
「ただの衝動だ。……だが、俺の手は、誰かを癒すものじゃない」
そう言いながら、手袋を外した。
革が軋む音がした。
「それでも……今だけは、俺のわがままを許せ」
その言葉とともに、手を伸ばす。
彼女の頬に触れると、ようやく、指先に体温が伝わってきた。
無反応のようでいて、弥代の睫毛が僅かに揺れた。
「温かいな。……手袋越しだったから、知らなかった」
その温度が、思っていたよりも優しかった。
だが、それに甘えることはできない。
彼女は“誰かに寄りかかる”という概念を持っていない。
「この一年、少しはお前のことを知れたと思う。普通以上に空気を読むくせに、自分の価値には無頓着だ」
「……自分の価値、なんて……」
言葉が止まる。
自分でも、今どこに向かっているのか分からない。
「……壊れてる。だけど、それが俺には、どうしようもなく惹かれる理由になってる」
あの日から。出会った時から。
人間であって人間らしくない女。
善良でいて、冷たいまま沈黙を選ぶ女。
「だから今だけは、命令でも、任務でもなく──お前を、俺のものにしたいと思った」
衝動だった。
けれど、それは抑えきれない本音だった。
彼女が何を思っているかは分からない。
けれど、俺の手が頬に触れていて、彼女がそれを拒まなかった事実だけがすべてだった。
指先が触れている場所は、確かに温かい。
だが、それ以上に彼女の無反応が、逆に深く刺さる。
拒まれていない。けれど、受け入れられてもいない。
まるで、誰にも心を許す術を知らずに生きてきた人間のようだった。
俺は、手を頬から耳の裏へと滑らせる。
ドレスで露出した小さな耳。
普段、髪に隠されて決して見えない場所。
その形の繊細さに、息を潜める。
「……耳が出てる。珍しいな」
「……はい。祠堂さんに仕上げてもらいました」
「……そうか」
短く返しながら、指先で軽く触れる。
弥代の身体が、僅かに揺れた。
驚いたのか、それとも、何か感じたのか。
それを俺に読み取らせるような素振りは一切ない。
だが、この空気。この距離。
それだけで、胸の奥が熱を帯びていくのを感じた。
「……嫌なら、今すぐ止める」
そう告げたのは、最後の理性だった。
だが彼女は、ただこちらを見つめ返しただけだった。
無表情の中に、微かな──本当に微かな、迷いにも似た瞬き。
その沈黙が、「否」と言わないことの証だと捉えてしまった俺は──
身体を前へと傾け、彼女の唇へと、ゆっくりと、重ねた。
触れるだけの口づけではない。
手袋を外した片手が、彼女の首の後ろに回り、そっと支える。
舌が触れる。
彼女の驚きが、呼吸の中に一瞬混ざる。
それでも逃げない。抗わず、受け入れた。
誰にも見られてはいけない、誰にも知られてはいけない。
仕事の最中であるにも関わらず、デッキの影で交わされたそれは、感情でも、欲でも、境界を越える寸前の、危うい熱だった。
長くは続けなかった。
それは理性が、ぎりぎりのところで引き戻した。
唇を離すと、弥代は少しだけ瞬きをして、呼吸を整えていた。
その表情は、やはり無表情のままだった。
だが、わずかに震える睫毛と、耳の赤みが、確かに余韻を物語っていた。
「……今のは、すまない。仕事中だというのに、理性を捨てかけた」
「……いえ、問題ありません。……たぶん、ですけど」
たぶん。
その言葉に含まれる曖昧な肯定が、今は何よりも重く響いた。
「俺は、きっと──もう引き返せないところまで来てる」
誰にも知られずに交わしたそれが、
確かに“何か”の始まりだった。