子どもが生まれた。女の子だったら俺が、男の子だったら**が名付け親になろうと決めていたから、その子は**が名付けることになった。**はその子に碧と名付けた。みどり。俺たちのかわいい子ども。
碧は俺と同じ色の目をしていた。黄色と赤のオッドアイで、左右の位置だけが鏡写しのように異なっている。変わった色ではあるが、俺には幸い視力の異常はない。だから、この子もきっとそうだろう。……そうであってほしい。
髪は、俺のものでも**のものでもない銀色だった。俺の目の色も両親とはまるで違う色だったから、そういうおかしな遺伝をする血筋なのかもな、と笑った。
碧は賢い子だった。喋り出すのも早かったし、この年齢なら出来ないだろう計算なんかも簡単に解いた。親馬鹿と言われるかもしれないが、まわりの子どもたちと比べて明らかに大人びていた。
ある休みの日、**が昼食を作っている間、リビングで碧と過ごしていたときのことだった。さっき言ったとおり碧は大人びていて、子ども向けの番組を見たり人形遊びをしたりすることはない。碧は勉強をしたがった。俺とは正反対だと思いながら、止める理由もないので簡単な漢字や算数のドリルを買って、解いているところを見てやることにしていた。同じ年頃の子はまだひらがなを覚えているくらいなのに、本当に賢い子なんだ。少し、怖いくらいに。
碧は、いつもどおりすらすらと漢字を書き取っていたけれど、はたと手を止めて言った。
「僕のこと覚えてる?」
碧はじっと俺の目を見ていた。言葉の意味はわからなかったが、表情は真剣で、どこか不安げにも見えた。
「覚えてるって……どうしたんだ? 忘れるはずないだろ?」
「僕の名前は?」
安心させるように笑ってみても、不安そうな顔色は変わらない。じゅうぶん可愛がっていたつもりだったが、 俺から忘れられている、なんて感じるようなことがあったのだろうか。思い当たる節はないのだけれど、実際に碧はそう思っている。
「碧。パパの一番の宝物だ!」
そう言って立ち上がり、行儀よく椅子に座っていた碧を抱き上げる。大丈夫、おまえが大好きだよ、忘れたりするもんか。そう伝えるように。
「……そっか」
けれど碧は少し悲しそうにそう呟いた。なにか言いたいことを我慢しているんじゃないか、そう思わせる声だった。これくらいの子どもならもっと感情をそのまま出しそうなものだし、そうしてくれないと親としては心配なのだけれど、どうすればいいのかわからなかった。
「僕が一番なの?」
どうしたらこの子は自分の思っていることを口に出してくれるのだろう。そう思いながら背を撫でていると、碧が小さな声でそう聞いてきた。
「ああ、もちろん!」
「じゃあ、ママより僕のほうが大事だよね?」
「あはは、碧もママも同じくらい大事だぞ」
少し機嫌よく笑顔を作ってくれたから、安心しながらそう言った。家族なんだから、誰が一番だ、なんてないよ。碧だってパパとママのことどっちも好きだろ? そう続けようとした。けれど俺の言葉を聞いた碧は、今度は冷たくにらみつけるように俺を見た。まだ小さな子どもなのに、どんな表情をしても愛らしいもののはずなのに、その目で見つめられると背筋がぞくりと震えるようだった。
「僕が一番じゃないの?」
碧は、眼差しと同じように冷たい声で言った。うそをついたの? 僕を騙したの? そう非難しているような声で。
早く、なにか言わなければいけない。そんな焦燥感にかられたけれど、言うべき言葉が見つからなかった。そうやって返事に迷っていたとき、隣から楽しそうな声が聞こえてきた。
「私はパパより碧のほうが大事だよ。碧が一番大事!」
いつからか会話を聞いていたらしい**が、そう言って碧の頬にキスをした。碧は少し驚いた顔をしたあと、ママありがとう、と笑顔を作った。それはとても幸せな光景のはずなのに、どうしてか、舞台上の芝居を見ているような気持ちになった。
碧はたまに、こんなふうに作り物のような笑みを浮かべることがある。我が子かわいさに綺麗な作り物だなんて思ってしまう、ということではない。俺はむしろその笑みに、どこか不気味な印象を受けていた。自分の子どもにこんなことを思うなんて、どうかしているのだろうか。ああ、さっきは思い当たる節がない、なんて思ったけれど、俺にこう思われているとうっすらと勘づいているのかもしれない。
「ほら、あなたも言ってあげて」
そう耳元でささやかれる。そうだ、碧は不安なんだ。きっと俺の態度がそんな暗い気持ちを生んだのだろう。だったら、ちゃんと安心させてやらないといけない。
「……そうだな、俺もママより碧のほうが大事だ!」
そう言って笑いかけると、碧はうれしそうに目を細めた。かわいらしい、そう素直に思える表情をしていた。
その日は碧とふたりで買い物に出ていた。碧が買い物カゴに投げ入れてきたお菓子を棚に戻しては、なんで買ってくれないの、と文句を言われるのを繰り返す。碧にこうやってわがままを言ってもらえると安心した。かわいいと思った。幸せな時間だった。
「パパはその目、好き?」
そのとき、ふと碧が聞いてきた。繋いでいた手がぎゅっと握られる。
「……どうしたんだ? 友達にからかわれたりしたのか?」
「僕の話じゃない。パパは自分の目が好きなの、って聞いてる」
前から、碧が友達と遊びに行ったり、友達を家に呼んだりすることはほとんど、というか俺が覚えている限りでは一度もなくて、少し心配しているところはあった。それでも碧が小学校を休みたがることはなかったし、怪我をしたり服が汚されたりしていることもなかったから、いじめられているとまでは思っていなかった。けれど、こんなことを聞かれるとやっぱり胸がざわついた。
「……パパは、この目が好きだよ。碧の目も好きだ」
「どっちも黄色い目だったらよかったのに、って思わなかった?」
「思わない。どっちも俺の大切な目だ」
繋いだ手をほどいて、その小さな頭を撫でる。さらさらした髪がくしゃりと乱れたけれど、碧は嫌がらなかった。誰かの通行の邪魔になっていないことを確認してから、しゃがんで目線を合わせる。
「俺は、碧とお揃いの目でうれしいよ。碧にも、そう思ってほしいな」
なるべく優しく、そう心がけて笑いかける。それでもそう思えないなら、誰かにからかわれているなら……そう続けようとしたとき碧は俺の手からするりと抜け出して背を向けた。だから、僕の話はしてないって。そう拗ねたように言う。
「……でも、パパとお揃いなのは、僕も気に入ってる」
碧はそっぽを向いたまま、けれどさっきとは違う、あたたかい声でつぶやいた。そう都合よく聞こえただけかもしれないけれど。
その日の夕食の材料と、切れかけていた洗剤と、それから碧がいつの間にかカゴに入れていたシュークリームとチョコレート菓子が入ったエコバッグを、車の助手席に乗せる。碧は助手席に乗りたがるけれど、どこかで助手席は一番危ないと聞いて、それからはなるべく座らせないようにしている。はじめは、パパは事故を起こす気なの、とそれはもう不満げに言われたものだった。起こす気がなくても起こってしまうこともあるんだ、と時間をかけて説得したら、納得したのか諦めたのかはわからないけれど、とにかく言うことを聞いて、今は渋々ながら後部座席に座るようになってくれている。
「パパは約束ってしたことある?」
信号待ちの時間、タブレットで遊ぶ(こう言うと碧は遊んでなんかないと怒る)ことに飽きたらしい碧が話しかけてくる。
「約束? うーん、遊びに行く約束とかならいくらでもしてきたけどな。他になにがあるだろう……」
「もし、約束を忘れられたらどうする?」
碧の顔は見えないけれど、その声色はさっきまでの穏やかなものとは違っていた。話の内容として、友達に約束を破られて怒ったり思い悩んだりしているようなものなら自然に聞こえるんだろうが、その声にそんな感情は宿っていなかった。じゃあどんな、と言われても困ってしまう。だって、はじめて聞いた声だった。どう表していいのかわからない。……強いて言うなら、すべてを諦めているような平坦な声に聞こえてしまった。
「……なんだ、友達が約束を忘れちゃったのか?」
「僕のことは関係ない。パパっていつもそうやって僕の話にすりかえるよね」
「ああ……確かにそうだな。ごめん」
そう言われてようやく気づく。碧の言葉にまっすぐ向き合ったことがなかったことに。聞き流していたわけじゃない。ただ、その全部に、子どもらしい背景があるんだと決めつけていた。
「もういい。パパならどうするの?」
でもそれは碧のことを気にかけていたからなんだ、だって碧が学校の話も友達の話もしてくれないから、と、誰に言うでもない言い訳が頭にうずまいて、結局なにも言えずにいるうちに、しびれを切らしたのか碧のほうから不機嫌そうに質問が投げかけられた。
「そうだなぁ……やっぱり直接言うだろうな」
「言っても思い出してもらえなかったら?」
「ただの待ち合わせの約束くらいなら諦める、というか自分の記憶違いかなって思うけど……大事な約束だったら、思い出してもらえるように頑張るよ。参考になったか?」
碧に寄り添って、言葉の向こう側を勝手に探ることをやめて答える。といってもそんな経験はほとんどないからほとんど仮定の話になるのだけど、碧はそれでもさっきまでの答えよりは満足したようだった。
「……うん、ありがとう」
後部座席に座っている碧の顔は見えない。でも、不機嫌じゃなくなったことは確かにわかった。
それから少しして、碧は家のことを手伝うようになった。これまでもまったくしていなかったわけじゃないけれど、そのときは皿を並べるくらいの簡単なお手伝いくらいしかさせていなかった。碧はそれすらも嫌そうにやっていたのに、それなのに最近は、買い物や料理はもちろん、面倒な掃除や洗濯まで進んでやるようになった。しかも、買い物に行く時は、家計簿を見ながら必要なものを無理のない値段で買ってきているらしかった。**は、今じゃ碧のほうが私よりしっかりしてる、と笑っていた。
「ママは休んでていいよ。今日は全部僕がやってあげる」
この言葉を聞くのももう何度目かわからない。勉強熱心で、問題も起こさず、家のこともこんなに手伝って親に優しくしてくれる。非の打ち所がないくらいいい子だ。**もそう思っている。
お友達の話を聞けないのは心配だけど、ひとりのほうが落ち着くって子もいるもんね。無理にみんなに合わせる必要なんてないよ。学校だけが世界のすべてじゃないんだからさ。それに、こんなに優しいんだから、大学生になる頃には話の合う子のひとりやふたり出会えるんじゃないかな。
**はいつも楽観的だった。碧を信じているからこその言葉だとわかっていた。
でも、俺は不安だった。
碧はもうこの家を出て行きたいんじゃないか。賢いこの子なら、優しい優等生を演じることなんて簡単だろう。そうやって今のうちからひとり暮らしに必要なことを覚えていって、近いうちに……。
もちろん碧はまだ小学生、それも低学年だ。そんなことできるはずがない。そのはずなのに、この子ならできてしまうんじゃないか。それも、いとも簡単に。そんな不安がずっと付きまとっていた。
碧が寝静まったのを確認してから、ひとりでリビングに向かう。ほんの少し先にあるスリッパを履く気にもならず、裸足でフローリングを踏んでいく。冷たさは気にならない。
冷蔵庫から漏れる薄い明かりが暗いキッチンをぼんやりと照らして、そのまま消えていった。取り出した缶を開けて、味もわからないまま喉に流し込む。全部飲み干したように思ったけれど、手に感じる重みから、おそらく半分以上は残っているのだろうと予想できた。
テレビはつけない。はじめは、誰かの声や音楽で全部かき消してほしいと思っていたけれど、気休めにもならないのだともうわかってしまった。
奥の部屋も見に行かない。ここ数日は入ってもいない。誰が見ても薄情な夫だろう。でも、どうしても直視できなかった。理解したくなかった。俺が理解しようがしまいが、現実は変わらないことなんてわかっているのに。
でも、理解しなければ、俺の中ではまだ、それは現実じゃないんだ。もしかしたらインターホンが鳴るかもしれない。鍵忘れちゃった、って笑ってくれるかもしれない。そうしたら俺だって、俺も碧もいなかったらどうするつもりだったんだよ、って笑ってドアを開けて迎えてやるんだ。
「パパは悪くないよ」
飛び起きるような勢いで振り返る。碧が心配そうな目で俺を見つめている。
「僕のためにジュースを買ってきてくれたんだもんね?」
「みどり、」
「僕が、ジュースが飲みたいなんて言ったからだよ」
「ちがう、ちがう……ごめん、おまえは絶対に悪くないんだ、パパが、全部……」
碧は、葬式で泣くことすらしなかったのに、こうやって俺をなぐさめるようなことまで言う。大好きだった母が死んだことを、自分のせいだなんてことまで言って。それがなぐさめの言葉じゃなくて、碧の本心だって言うなら、それこそ俺が、碧がそんなことを思わないでいられるように振る舞うべきなのに。現実は、俺はこうやって酒を飲んで**の死から目を背け続けている。そして碧には、それができない。
**は、碧のたったひとりの母親は、碧の目の前で死んだ。旅行中に起きた事故だった。俺がのんきに自販機で飲み物を買っている間に、碧をかばって死んでしまった。だから碧には、その死から目を逸らす選択肢なんて残ってなかった。
碧は、俺のせいで泣けないんだ。俺のために気丈に振舞っているんだ。本来なら、俺がもっとしっかりして、この子にちゃんと悲しんでいいと、泣いていいんだと伝えなければならないのに。
「パパは悪くないよ。大丈夫。パパが苦しむことなんてなにもないんだよ」
そう言って、碧はそっと俺を抱きしめた。その体温は暖かくて、安心できて、情けなかった。ぼろぼろと涙をこぼしながら抱きしめ返す。
「ごめんな。碧にばっかり頑張らせて。パパ、ちゃんとしっかりするから……だから碧だって、泣いていいんだよ」
「いいよ。僕が頑張りたくて頑張ってるだけだもの」
碧はなんの迷いもなく言う。こんな時じゃなければ、強い子だと褒めてやれるのに。その強さが悲しかった。この子は、俺が弱いせいで強くならざるを得なかったんだ。
「今、パパと僕のふたりきりだね。僕しか見えないよね? ……ねえパパ、僕の名前、呼んでくれない?」
「……みどり、碧……愛してる。ママの分まで、俺が碧を守るよ」
碧にも泣いてほしかった。寂しい、ママに会いたいと叫んでほしかった。でも碧は俺の言葉を聞いても、なにも言わずに俺の背中を撫でるばかりだった。
泣いていてもなにも変わらない、という言葉の意味をいやでも理解させられた。泣いていても明日はやって来て、これまでとなにも変わらない日常に戻っていかなければならない。**がいないこと以外はなにも変わらない日常に。
義母がこの家に通うか、なんなら同居するかという話になった。呼ぶのなら俺の母さんを呼ぶつもりだったけれど、娘が遺したこの子を娘の分まで愛してやりたいと涙ぐまれては、断る言葉がどこを探しても見つからなかった。
けれど碧は言い切った。いらない。義母の涙混じりの願いも、かける言葉が見つからなかった俺の悲しみも、碧はそのたった一言ですべて否定し、拒絶した。
「……そんなこと言うなよ。おばあちゃんに来てもらおう。そうしたら寂しくないだろ?」
「寂しくない。ひとりで大丈夫だよ」
「でも、パパだけじゃこれまでみたいにはいかないんだ」
「パパだけじゃない。僕がいるよ。僕が、家のことは全部できる。前にも言ったでしょ?」
そう言った碧は、怖かった。
碧は一度も泣かなかった。死んだと告げられたときも、じゃあこれからはパパとふたりで暮らすんだね、としか言わなかった。そして、家でやらないといけないことはもう覚えたから大丈夫だよ、となんでもないことのように言った。
強がっているんだと思っていた。俺が頼りないせいで表に出せないだけで、本当は悲しいんだと、寂しいんだと、当然のようにそう思っていた。
考えすぎだ。だって、自分の母親が死んで悲しまない子どもなんているはずがない。絶対に、絶対にそうだ。碧は、……碧がそんな子なはずない。全部俺が悪いんだ。俺がしっかりしていれば、きっと碧は泣いたはずだ。ママに会いたいって、そう泣きじゃくったはずなんだ。そのはずだ。きっとそうだ。そうであってほしい。
何度思い出してみても、記憶の中の碧はいつも、作り物みたいな冷たい笑顔で**を見ていた。