一月 初詣に行くお話
「あっ、坊、コンビニ寄りたいです」
神社から少し離れて大通りに出ると、寒さに耐えかねた志摩は道路の向かいにあるコンビニを指差す。それに勝呂が了承すると、二十四時間営業も大変やなぁと思いながら、信号を渡ってコンビニの自動ドアを通り抜ける。
「何買うん」
「ん~? 寒いから温かいの~……あったあった」
ホットドリンクのコーナーを見付けると一目散にそこへ向かい、しばし悩んだ後で志摩はホットココアのペットボトルを手に取る。
「坊も何や飲みます?」
「ほなお茶」
ハイハイ~、と間延びした声を上げながら、志摩は複数あるボトルから特に迷うこともなくほうじ茶を手にする。その足でレジへと進んだかと思えば、その直前で立ち止まった。なんやねんと訝しげに尋ねれば、じっと見詰める先にはからあげやフランクフルトが並ぶホットショーケース。そしてその隣の肉まんが並ぶスチーマーがあった。
「やば、肉まん食いたい。豚まんもええな……」
「今何時や思てんねん」
「う~……いや、我慢してもしゃーないわ、食いたい時に俺は食う!」
誰に宣言をしているのか、そう意気込んだ志摩は一度止めた足をレジへ向け、ペットボトルを置きながらスチーマーを指差す。
「あと豚まんを~……坊は?」
「俺は要らん」
「ほな豚まん一個ください。あ、袋要らないです~」
「はい、489円です」
そう言って店員がスチーマーから豚まんを取り出す間に、志摩もセルフレジに小銭を入れて会計を済ます。お釣りを財布に、レシートは備え付けのレシート入れに滑らせながらほうじ茶を勝呂に渡す。おおきに、と言う勝呂の声に重なって、お待たせしましたと言いながら店員は豚まんの入った包みを志摩に差し出した。
「ありがとうございます~。ほな坊、行きましょおか」
おん、と頷いた勝呂と共に店を出ると、また寒空に逆戻りだ。しかし今の志摩の手の中にはほかほかの豚まんとホットココアが存在している。
両手に持っていては食べられないため、ペットボトルは一度コートのポケットへとねじ込む。紙の包みのテープで止められた部分を剥がしていると、勝呂が口を開いた。
「豚まんとココアて、どないな組み合わせやねん」
「う…それは俺も買ってから思いましたけど、ええやん。しょっぱいもんの後に甘いもん!」
駄目とは言うてへんけどと言いながら、勝呂はペットボトルの蓋を回してその中身を飲んでいる。そんな勝呂を横目に志摩はふわりと湯気が浮かぶ白い生地に噛み付いた。
大口を開けてかぶりついたお陰で、ふんわりとした分厚い生地の先に文字通りどっしりと構えている具にたどり着く。普通の肉まんでは感じることのできない、ごろっと大きめな具が口の中に入ってきた。味が濃すぎるわけでもない、ほど良いしょっぱみを感じる具と、甘味を感じる生地のバランスがちょうどいい。まだ一口かじっただけだが、ペロッと食べられてしまいそうだった。冷めないうちにともう一口、再び大口を開けてかぶりつく。
はふはふと齧ったところを冷ましていると、ぶわりと湯気が視界を煙らせる。これメガネとかかけてたら曇るんやろな、と普段からメガネをかけている三輪や雪男、更にはパソコンを触っている時にPCメガネをつけている勝呂のことを思い浮かべた。
「あ〜…うま。坊も一口どないです?」
そう言いながら志摩は紙を少し捲って隣を歩く勝呂の方へと差し出してみる。勝呂はペットボトルを手のひらで持って暖を取りながら、志摩の言葉に緩く瞬きを繰り返していた。ゆうて坊こやってあんま食うてくれへんけど、と思いながらもこの美味しさを一人で堪能してしまうのももったいない気がした。何より、勝呂と共有したかったのだ。
「……、あー……」
しばらく間延びした声を上げたかと思えば、そうやな、と小さく紡いで勝呂はピタリと足を止め、歩く志摩の腕を掴んだ。立ち止まるとは思わなかったのか、志摩が腕を掴まれるまま瞬きをする間に、手元の豚まんに勝呂が顔を寄せていた。志摩が齧った端の方からかぶりつく様子を眺めていると、伏し目がちな勝呂の睫毛が緩やかに上下しているのが視認できた。
「ん、美味いな」
掴んだ手を離してもぐもぐと咀嚼している勝呂を見詰めていれば、口に広がる旨味に僅かに表情が喜色を帯びた気がした。途端に、志摩も自分の口元が緩むのを感じた。
「あは、そぉですやろ〜? たまーに食いたくなるんなんでやろな」
「なんでお前が得意げやねん」
えへへ、と志摩は笑いながら、美味しさを共有できたことの喜びや、志摩の手から食べてくれた嬉しさにほわりと胸が温まる気持ちだった。
再び歩き出す勝呂に続いて、横に並びながら志摩は上機嫌でぱくぱくと豚まんを食べ進める。成人男性の口で咀嚼していればあっという間に無くなるもので、ごちそーさん、と志摩はひとりでに合掌する。そして豚まんから剥がした敷き紙と包んでいた紙を共に折り畳んでポケットにしまっていると、ふと視線を感じた。勝呂の瞳が、志摩のポケットの方を向いていた。
「ん? 何ですか?」
「……いや、なんも」
勝呂と比べたら面倒くさがりな志摩が紙を丸めずに折り畳んでいる。少なからず自分の影響なのだろうなと勝呂は思ったが、それを態々言うこともしない。自分の癖が志摩に移っているように、無意識のうちに志摩の癖もまた自分に移っているものもあるのだろう。ふ、と思わず笑いながら、変なことはしとらんはずやと己に言い聞かせる。勝呂が一つ息を吐いてみると、吐き出した分の息が白く見える。それが消えていく様を眺めていた。
その横で、あー、とどこか名残惜しそうな声が響く。
「豚まん……何個でも食えそうやあ」
食べ終えたばかりの豚まんに想いを馳せる様子に、勝呂は思わず喉の奥でクツリと笑う。そういえば、と興味本位で以前に調べたことを思い出す。
「せや。志摩知っとるか、豚まんのカロリーて、さん」
「わーッッ言わんでええです‼ 聞きたない~‼」
勝呂の言葉にハッとした志摩は両手で耳を覆って、あーあーと声を上げ始めた。これ以上煩くしても近所迷惑になると思ったのか無理に続けることはしなかった。志摩の危ない危ない、と言いながらポケットにしまっておいたペットボトルを取り出す様子をチラリと見る。ココアと豚まんの総カロリーを計算しつつ、明日の雑煮は餅一つ減らすか、などと考えていた。
二月 バレンタインのお話
勝呂は今まさに頭を悩ませていた。見詰める先はカレンダー、週のど真ん中に位置する日付は十四日だった。
事の発端は一週間前。一月が終わりを告げるその日に、坊ちょっとええですか、と志摩が神妙な面持ちで勝呂に話しかけてきた時のこと。いつになく真面目な志摩の表情に、勝呂は思わず髪を乾かす手を止めた。ドライヤーの音が止まると、途端に周囲がシンと静まり返る。
「なんや、どないしてん」
そう問いかける勝呂に、志摩はこくりと頷く。やはり表情は神妙なままだった。
「ドライヤー終わったらでええんです、リビング居るんで声かけてください」
髪を乾かすことを促した志摩は、それだけ伝えて洗面所から去っていく。一体なんなんだと思いながらも、一先ず髪を乾かさないことには始まらないと勝呂は再びドライヤーのスイッチを入れた。
「――で、なんやねん」
髪を乾かし終えた勝呂は、リビングで待つ志摩の元へ向かい、ソファの隣へ腰を下ろしながら用件をうかがう。ぼんやりとテレビを見ていた志摩は勝呂の言葉にハッとしてテレビの電源を切ると、横に置いてあったスツールへと座り直した。その行動に勝呂は一瞬首を傾げたが、顔を突き合わせて話がしたいと言うことなのだろうと理解する。
軽く握った拳を膝の上に置いて、ピンと背筋を伸ばしながら、志摩はじっと勝呂の顔を見詰める。いつになく真剣な表情に、勝呂は訝しげに眉を寄せた。
「坊、明日んなれば二月です」
勝呂が空気に堪えかねて、もう一度なんやねんと紡ぐ前に、志摩が口を開いた。今日は一月末日。明日になれば二月だと、誰もが知っている。話の本筋が見えず、勝呂は二回ほど瞬きをする。
「……二月やな」
「二月です」
志摩の言葉を勝呂が繰り返せば、志摩がまたそれを繰り返す。正直に言えば、志摩が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。それが志摩にも伝わったのか、ふう、と志摩が一息吐く。
「坊、二月と言えば、なんですか」
「は?」
「二月と言えば」
二月、なんやったか、塾生らの認定試験やっけ。勝呂が口に出す前に、認定試験やないですよ、と釘を刺された。
「これです坊」
テレビの横に置いてある卓上カレンダーを手に取り、一枚捲って志摩が指で示す。その指は十四日を指していた。思っていた数十倍くだらない気配に、勝呂の瞳が細められる。対して志摩の瞳は、この日は何ですかと訴えている。どうやら、どうしても勝呂に言わせたいらしい。
「……、バレンタインやな」
「そうです バレンタインです」
「声でか」
どっと勝呂の力が抜けた。しょうもなさすぎる。
「でかくもなりますやろ⁉ 去年できひんかったやないですか、バレンタイン‼」
去年は確か各々が前日から任務に出ていて、色々なトラブルに巻き込まれた挙句に勝呂はライトニングに引きずられて帰ったのはバレンタインなどとっくに過ぎた一週間後だった。今更何かするのもな、と特に何も用意しなかった勝呂に、志摩はブーブーと文句を言っていたことを思い出す。あれは面倒やったな、と勝呂は遠い目をした。
「ほら、こーゆーイベントは大切にしなアカンやん。ネッ」
「本音は?」
「坊から愛のこもったチョコを貰いたいです」
キリリとした顔でそう言い放つ志摩に、呆れ顔で大きく溜息を吐く。
「なんやねん愛て。そもそもやろう言われてやるもんでもないやろ」
「だって坊、俺が言わへんかったら普通にスルーしそうなんやもん」
いや、と言ったところで口を噤む。バレンタインに何かするという思考が全くなかったわけではないが、どちらかと言えば最近は仕事に追われてそれを考える余裕もなかったのだ。ただ、志摩にこうして言われなければ自ら用意したかと問われると、声を大にしてYESとは言えない気がした。
「ぼ~ん~バレンタインしましょうよ~」
真面目な顔から一転して、志摩はスツールから勝呂の隣に移動しながらめそめそと勝呂に泣きつく。そんな志摩は一旦無視して、バレンタインなあ、と勝呂は考える。
「ねえ坊ってば~」
「ああもう、ひつこい。分かったから離れろ」
そんな了承の言葉に瞳を輝かせた志摩に、用済んだならさっさと寝ろやと付け足したのが、ちょうど一週間前のことだった。
「……人、多いな」
卓上カレンダーと睨めっこをしたのは昨日。今勝呂が居るのは所謂デパートの製菓コーナーだった。今日は仕事も早上がりだったため、志摩の〝バレンタインしましょう〟という言葉を真面目に考えることにしたのだ。
デパートの製菓コーナーの多くは、バレンタインフェアと称してチョコをはじめとしたお菓子が至るところに並んでいた。ただでさえデパートには人が集まるのに加え、バレンタインともなると余計に人が多く感じる。そして同時に、道行く人々が浮足立っているのも感じて勝呂は小さく溜息を吐いた。
女性客の割合が多いこの場所を回るのは気が引けたが、通販で済ませてしまうのも味気ないのが正直なところだ。おし、と勝呂は意を決して踏み出した。
「ほー……色々あるんやなあ」
一度見て回り出せば周囲に女性客が多いことなど気にならずに、どれを志摩に贈るべきかを考えることに集中できた。何より、今は見栄えもいい様々なチョコが売り出されているのだと感心する。
最初は特に足を止めることなく一周して、全体的に何があるかを把握した。そして今はある程度の候補は絞ったうえで、その場所を回っている。
どれを選んでも志摩は喜びそうなもんやけど、と勝呂は悩む。
「まあ、まだ一週間あるし……何とかなるやろ」
もともと下見の予定だった勝呂は、一先ず今日の目標は達成できたと己を納得させる。その後はスーパーで買い出しを済ませてから帰路につくことにした。
それから数日後、バレンタインを二日前に控えて勝呂は再びあのデパートへと足を運んだ。案の定というべきか、以前下見に来たよりも賑わっている。買う店と買うものを事前に決めてきた勝呂は、他の店には目もくれず真っ直ぐに目的の店へと向かった。
「え、売り切れですか?」
「申し訳ございません。そちら明日になれば入荷するのですが……」
八割がたの女性客をくぐり抜け、目的の店にたどり着いた勝呂の前には、申し訳なさそうな店員の姿。ショーケースに並んでいる目星をつけていた商品は〝本日分完売〟の札が貼られていた。
「あー……まあ、この人ですもんね。わかりました、ありがとうございます」
申し訳ございません、と頭を下げているが、別に店員は悪くないのだ。強いて言うならまさか売り切れてしまうなどと考えもしなかった自分に非があると、勝呂は首を振った。
三月 お花見をするお話
時刻は夜の六時を回ったところ。互いに少し早上がりができて、夕飯は二人で近場の定食屋に足を運んだ。今日は家に帰ってから作る気力が無いと言った方が正しかった。
「明日坊も休みやんなあ。休み被るのむっちゃ久々やないです?」
「そもそも最近は緊急出動多かったし、休み自体が久々な気ィしよるけどな」
「確かに。祓魔師てブラック企業やった……?」
志摩は甘だれのかかった唐揚げと白米をかきこんでから、ふと神妙な顔をしながら紡ぐ。勝呂はアジフライをかじっていた。
「人手不足解消するために、俺らが候補生育てとるんやで」
講師と兼任や割に合わへん、と志摩が嘆いても、勝呂は乾いた笑みを浮かべただけで何も言わない。自分たちよりももっと早い段階で祓魔師と講師を両立させていたかつての同級生を思い浮かべる。彼と比べたら幾分かましだろうという言葉は、今は一先ず飲み込んだ。
「ちゅうかデートもしたいし休みたいし買い物も行きたい~休み足りひん~」
欲望丸出しやな、と勝呂は小さく笑う。志摩の言うデート云々はさておき、確かに休みの日にやりたいことは山のようにある。それでも体が休息を求めているのもまた事実だった。
まあ志摩との時間が取れてへんのも事実か、と心の中でぼやく。共に暮らしているので二人で過ごす時間が全くないわけではないが、所謂恋人として二人で過ごす時間はそう多くない。志摩のデートがしたいという発言もそこからきているのだということは容易に想像ができた。
「……弁当作って、花見くらいならありかもなぁ」
溜まっている家事を思い浮かべて、遠出は最初から選択肢にない勝呂はぽつりと紡ぐ。
季節は春。まだ夜になると肌寒さは残るが、昼間はぽかぽか陽気で気持ちのいい日が続いていた。テレビを見ずとも今は端末に桜の開花情報が飛び込んでくるし、何より学校の桜がもう満開だと告げていた。ふと、去年は早咲きで入学式の頃にはすっかり葉桜になってしまったことを思い出す。今年は正十字学園の入学式まで桜は持つだろうかと、そんなことを考えた。
「え、待って坊、弁当作ってくらはるん? 何それ行きたいんやけど!」
思いのほか食いつきのいい言葉が返ってきて、勝呂は両目を瞬いた。
自宅から歩いていける距離にレジャーシートを広げて花見ができるくらいの公園がある。どんちゃん騒ぎをするような公園でもなく、近所の家族連れや軽く運動をする人たちが集まる場所なので、男二人で花見をしていても然程悪目立ちはしないだろう。公園の外周の一部が桜の木で囲われていることもあり、この時期は花見客もちらほらやってくるのだ。
「そないに凝ったもんは作られへんけど、リクエストあれば今の内やで」
「からあげ!」
勝呂の言葉に被せるようにして志摩が即答する。ふは、と思わず笑みがこぼれた。
「と、ハンバーグと~、たまご焼きも欲しいなぁ。坊がよう作る甘くないやつ♡」
あとなんやろなぁと、おかずを指折り数える志摩の声はトーンが一つか二つ上がっている。よほど嬉しいのだろう。からあげとハンバーグをいかに効率よく作るかを頭の中でシミュレーションしながら、ふわりと胸中が温かくなるのを感じて思わず勝呂は口元を緩ませる。
遠出するわけでもない、ただ公園に行って桜を見ながら弁当を食べるだけ。それにもかかわらず、そんな風に喜んでくれることが思いのほか嬉しかったようだ。
「ほなせっかくやし、行きしなにビールでも買うてきますかね。近くにコンビニあったし~」
ああそれええな、勝呂はそう返しながら、冷蔵庫に残った食材を思い浮かべて副菜のことを考える。どうにも今残っている食材だけでは弁当に彩りを豊かにするのは難しそうだった。
少し残った冷めた味噌汁を飲み干してから、ごちそうさん、と勝呂は手を合わせる。
「そん前に、スーパー行くで。肉は冷凍しとるのがあるけど野菜が足りひん」
「はぁい。あ、ついでに薬局も寄りたいです」
志摩の言葉に、勝呂は緩く首を傾げた。志摩は勝呂より早く食べ終えていたので、勝呂が伝票を持って立ち上がれば志摩もそれに続いた。
「トイレットペ―パーなら昨日買うたやん」
「え~、こないなとこで言わさんでくださいよお」
二人分の代金を払い、レジの店員にごちそうさまでした、と声をかけた後で、志摩はにへら、と締まりのない笑みを浮かべる。少しだけ勝呂の方に体を寄せ、耳元で声をひそめた。
「ゴム、もうなくなるんで買――」
志摩が言葉を紡ぎ終えるよりも前に、べち、と背中を思い切り叩かれた。理不尽! と嘆く志摩を置いて、勝呂は大きな溜息と共にスーパーへと足を運んだ。
翌朝、勝呂はもぞりと身じろぎながら瞳を持ち上げる。枕元の端末に手を伸ばせば、アラームが鳴る十五分前だった。一度目蓋を伏せて布団の中でしばらく考えた後、小さく唸りながら鳴る前のアラームを切って布団から這い出る。隣で眠っている志摩はアラームを鳴らさなかったおかげで、未だすやすやと夢の中だった。
休みの日はジョギングをするつもりでいたが今日はその時間もない。昨日の思い付きで花見へ行くことを決め、その足で弁当に詰めるための食材を買い出して最小限の仕込みをした。午後からのんびりでもええですけど、と志摩は言ったがそれでは花見だけで一日が終わってしまう。休みの日まで溜めていた家事は今日のうちに片付けたかった。
「何から作るか……」
寝起きの姿のまま、勝呂はキッチンへ移動して冷蔵庫の中を眺める。昨日買ったばかりの卵のパックや昨夜漬け込んでおいたからあげの元が視界に入るが、寝起き故にまだぼんやりとしている。とりあえずからあげでええか、とジッパー付きの袋と小麦粉を取り出した。
油をフライパンに注いで温める間に粉をまぶす。菜箸で油の温度が適温になったのを確認した後で、からあげを一つずつ油の中に入れていく。ジュワジュワと肉に火が通る様子を眺めながら、勝呂は一度菜箸を置いてハンバーグの準備をするべく野菜室から玉ねぎを取り出した。
四月 新人祓魔師くんの教育指導係になるお話
事の発端は三カ月前。雪男と勝呂が二人で事務作業を行っている時のことだった。
雪男は高校を卒業してからも相変わらず仕事に追われている。既に何年も前の話ではあるが、学校生活がなくなった分祓魔師に全振りができると言っていた彼の眼は笑っていなかったことを思い出す。これが社畜かと勝呂は渇いた笑みを浮かべる。とは言っても自分もライトニングに頼まれた作業と両立している以上、同じようなものかと思いながら気分転換にと飴を舐め始めた。
「あ、そうだ、勝呂くん」
紙を捲る音、カタカタとキーボードを打つ音やマウスをクリックする音が静かに響いていた中で聞こえた雪男の声は思いの外勝呂の耳に大きく聞こえた。
「ん~?」
文字を打ち込みながら生返事をする。時折こうして雑談を交えるのも珍しいことではない。大抵疲れを見せ始めるとピリピリした雰囲気を漂わせる雪男だが、元同級生がいると言うのが少しだけ気を緩ませるのだろう。そう言った時は決まって勝呂と少しの雑談を持ちかける。なんだかんだ言って、雪男たちとも長い付き合いになるのだ。
「四月の年度初めに合わせて新しい祓魔師が来るのは知ってるよね」
新しい祓魔師。別の支部から新しい人が来るわけではなく、所謂新米祓魔師。祓魔師不足故に、一時はその話題で持ち切りなったがそれもその時だけだった。まあ直接指導する人以外は特に何かするわけやないしな、と勝呂は廃れていく話題に苦笑した記憶があることを思い浮かべた。
「あー、ほんまは京都支部行く予定やったけど、こっち来るようなった言う奴?」
「そうそう、さすが勝呂くん。志摩くんに言ったら誰それって顔してたよ」
その光景が目に浮かんで勝呂は自嘲する。これが女性の新入りだったら目の色を変えていたことが容易に想像できた。
「せやろなぁ、女やなかったら一ミリも興味あれへん言うようなやつやし」
「でね、その新入りの指導、君にお願いすることにしたから」
「おん、分かっ……」
いつものような雑談の中で紡がれた言葉を、決して横流しに聞いているわけではない。それでも反射的に了承の言葉を返す途中で勝呂の動きが止まった。ついでに言えば思考も止まっていた。
「……ん?」
手に持っていた書類を見つめていた瞳を二度か三度上下させ、そのままデスクを挟んで斜め前に座る雪男の方へと視線を向けた。
瞳を向けた先で、雪男はこちらを見ていた。にっこりと無駄に人当たりのいい顔で。
「新入りの指導、君にお願いすることにしたから」
これは勝呂に承諾を取るための相談でもない。なんなら勝呂が勝手に雑談と思っていただけで、雑談ですらなかった。ただの決定事項の伝達だ。
「……、……こーゆうのて、事前に本人に確認するもんとちゃうん?」
覆ることはない決定事項だと理解して、長い沈黙の後で勝呂はため息交じりに雪男に問いかける。そう言葉を投げられた雪男はきょとんとした表情を浮かべながら首を傾げた。
「え? だって君、どうせ断らないでしょ?」
お人好しだから、なんて言葉があとに続きそうで勝呂は頭を抱えたくなった。同僚に対する扱い雑になってへんかと突っ込みたい気持ちを何とか堪える。今となっては懐かしい高校時代、彼の育ての親に関することで銃口を向けられるなどという緊迫した瞬間もあったが、今ではたまに燐と接する時のようなフランクさが垣間見える。それ自体は構わないのだが、普段とのギャップに時折ついていけなくなるのだ。
「……まあ、断らへんけど」
「うん、知ってた。あと勝呂くんは知ってるだろうから要点だけ伝えると、〝新米祓魔師はしっかり育てよう〟てことだから育成計画は立てておいてもらえると助かる。とはいっても、一人前の祓魔師だ、特に君の手を煩わせることも少ないと思うけど」
「そう言うて、去年の秋だかに配属された新米はひと月経たんと辞めてもーたやん」
勝呂は雪男からメールで送られてきた新米祓魔師の名簿を眺める。悪魔が見えるのは魔障を受けた人間で、通常であれば知りえない職種だった。サタンとの戦いがあって魔障を受けていない人間にも悪魔を認識できるようになってしまったとはいえ、自らこの仕事を選ぶ人間はそう多くはない。しかし自分で選んだからといって決して楽ではない仕事故に離職率も高い。年がら年中人手不足なのは自分たちが高校生だった頃から変わっていなかった。だからこそ、そんな離職率を下げるために新米には慣れた祓魔師を付けてペアで行動させる取り組みを始めた。だがそれも昨年は上手くいかずに貴重な新入りを泣く泣く手放す結果となってしまった。
「……あれは兄さんが悪い」
ちらりと雪男の方を見れば、苦虫を噛み潰したような顔で低く呻いた。昨年の指導担当は燐だったのだ。雪男は絶対に無理だから代えた方がいいと最後まで主張していたが、本人のやってみるよという意思と彼の成長にも繋がるでしょうというメフィストの後押しで燐が教育担当になった。その結果、燐の具体性のない指示や指導で自信をなくしてしまった新入りは、奥村さんは優しくしてくれるんですけど僕ではみなさんの役に立てないことが分かりました、そう言って辞職を申し出たのだ。指導担当と新入りの相性もあるだろうから仕方のないこととはいえ、燐もその時は酷く落ち込んでいたことを思い出す。
「まあええわ、ひとまず了解。ゆうて俺も上手くできるか分からへんけどなあ」
「生徒からは人気じゃない、勝呂先生」
「それとこれとは話が別やんけ……」
雪男の細められた瞳が勝呂を捉えて、少しだけその口角が上がっている。これは揶揄う時のそれだと声音で分かってため息混じりに言葉を返した。生徒の指導と祓魔師の育成はまた別の話だと思いながら、育成方針をどうしようかと脳のリソースをまたひとつ割き始めた。
家に帰ってから志摩にそのことを話せば、何で坊やねん他にもおるやろと唇を尖らせていた。ほなお前が代わるかと返してみれば、ゲェ、と舌を出して肩を竦める。勝呂が夕飯を食べている横でテレビを見てはいるが、脳裏には今の話題が脳裏を占めていた。
(新人教育に時間取られんのも嫌やけど、それ以上にな〜……)
志摩は一抹の不安を抱えながらも、どうせ決定事項やしとそれ以上何かを言うことはなかった。
「……で、なんでお前がここにおんねん、志摩」
「俺のことは気にしぃひんと、任務続けたってください〜」
人離れが進む村から悪魔の報告があったとされ、現地調査に向かった勝呂は呼ばれもしていない志摩がいることに人知れず頭を抱えていた。もちろん勝呂の隣には新入りの泉もいる。
「えっと……」
ちらりと視線を志摩の方へ向ける泉に、勝呂はああ、と相槌を打つ。
「スマンな、こいつは同僚の志摩や。ほんまは今日ここの担当やないんやけど、勝手についてきてん、面倒やさかいこいつのことは空気とでも思ってくれ」
「気にしぃひんととは言うたけど、その扱いは酷ない?」
「ほな泉、とりあえず行こか。さっきも言うたけど俺らは西の方から状況確認。俺が纏めながら行くから、なんや見つけたら報告頼むわ」
淡々と指示を出す勝呂に、泉は少しだけ気まずそうにしながらも、分かりましたと小さく頷いて指定された方へと歩き出す。
「あ、志摩さんもう空気なんやね、了解です~」
その場に残された志摩はそう独り言ち、しばらく考えてから勝呂の背を追いかけた。
六月 雨の日のお話
勝呂が自宅で夕飯の準備をし終えてから一時間程後のこと。志摩はほどなくして業務を終え、ぐぐっと体を伸ばしながら雨が叩きつけられる窓を見てげんなりとしていた。
「うーわ、なんやさっきより雨ひどなってへん……?」
横のコンビニで傘買って行かへんとなぁ、と思いながら帰り支度の準備をする。勝呂からのメッセージは入っていないことを確認して、スーパーで他に何か買っていこうかと考えつつ出入口へ向かうと、そこには外の様子を眺める見知った人物がいた。
「あっれ、出雲ちゃんや~♡ 久々に顔見た気ぃするなあ、どないしてん」
声のトーンを一つか二つ上げて、デレデレとした声色で近付く志摩に、神木はゲッと眉を寄せていた。
「何日かヴァチカン本部行ってたのよ。で、帰ってきたらこれ」
雨降るなんて聞いてないんだけどと続けながらため息を吐く神木に、志摩はへらりと目尻を下げながら笑う。
「俺も傘忘れてもーてん。そこのコンビニで傘買うてくるから駅まで一緒に帰らへん?」
「はあ? なんであんたと一緒に帰らなきゃなんないのよ。イヤ」
「え~なんでやあ、待ってても雨やまへんのとちゃう?」
明確な拒絶を示されても志摩がめげることはない。神木も引き下がらない志摩は予想の範囲内だったのだろう、舌打ちを一つ溢して、そもそもね、と続ける。
「横のコンビニならもうあたしが行った。傘品切れだったわよ」
「えっ」
「みんな考えることは同じね」
ふん、とどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべているが、傘を持っていない時点で勝ちも何もない。それでも明らかに落胆する志摩に神木は気分がよかったらしい。
「ええ~困るわあ」
傘が買えないとなると、神木がここで立ち尽くしていたのも頷ける。隣のコンビニ以外だとしばらく歩かないとコンビニにはたどり着けない。つまり、そこに行くまでに濡れ鼠になることは必至だった。俺のハンバーグ~、と項垂れながら、弱まりそうにない雨を少しだけ恨んだ。
やまないものは仕方がないと、志摩は神木と雑談に勤しんだ。神木も面倒そうにはしていたが答えてくれるのでそれだけで志摩は満足げだった。しかしほんまにやめへんなぁと、勝呂に雨宿り中だと伝えるべく端末を開く。
「あ、」
「……何してんねんお前ら」
不意に神木が上げた声と同時に、関西訛りの声がした。志摩はパッと顔を上げれば、外で傘を差しながらこちらに向かってくる勝呂を視界に飛び込んだ。
「あれ、坊?」
「雨宿り。見たら分かるでしょ」
二人から声をかけられて勝呂は呆れたように肩を落とす。
「お前も傘持ってへんのかい。天気予報よう見ろや」
屋根のあるところまで来ると、一度傘を閉じて水気を払う。それでも土砂降りの中差してきた傘の先からはぽたぽたと水が伝い床に水たまりを広げていく。
「何よ、あたしさっきまでヴァチカンに居たんだから知らなくても仕方ないでしょ」
気が合うようで合わない二人がすぐに喧嘩腰になるのはいつものことだったが、志摩は勝呂がここにいることが一番の疑問だった。否、勝呂が現れた時は疑問だったが、傘を差す手とは反対の手に持っているビニール傘でなんとなく察している。思わず緩みそうになる口元を押さえるべく、咄嗟に口に手を当てた。
「坊、こないなとこまでどうしたん」
勝呂の言葉で聞きたくて、分かっていてもそう問いかける。勝呂は神木との言い合いを中断すると志摩の方へ瞳を向けた。志摩自身は隠しているつもりなのだろうが、その緩んだ表情に言わせたい魂胆が丸わかりで再びため息を吐いた。
「これ以上傘買われても困んねん。迎え来た」
あとスーパーで余計なもん買いそうやし、そう付け加える勝呂に嬉々とする志摩と、よくやるわねと呆れた神木はどこか対照的だった。
「よかったじゃない、お迎えが来て。うるさいからさっさと連れて帰りなさいよ」
「え~さっきまで楽しくおしゃべりしてたやんかあ。照れ屋さん♡」
「うざい」
しっし、と手を払う仕草にもめげない志摩は勝呂から見てもいつものことだった。その光景に何度目か分からないため息を溢しつつ、勝呂は片手に持っていたビニール傘の持ち手を神木の方に差し出す。それにきょとんとしたのは神木だけではなかった。
「え、何」
「やるわ。しばらく雨やめへん言うてたし、遅くなんのも困るやろ」
「いや、でもあんたこれ」
流石に遠慮の色を見せる神木に、勝呂はちらりと横の志摩を見る。視線を送られた志摩は双眸を瞬いた後でへらりと笑っていた。
「こいつが雨降る度にビニ傘買うてくるから溢れてんねん。別に返さへんでええから要らんかったら処分しぃや」
「……めちゃくちゃ、これ俺のって視線感じるんだけど」
視線を感じる先に神木は瞳を向けないようにしているが、勝呂にもその正体は分かっている。勝呂の横で、え~これ俺のやのにな~と言いたげな視線を送っている志摩のことだった。しかし勝呂はきっぱりと首を横に振る。
「放っといてええで、あれは構って欲しいだけやさかい」
あっひど、と今度こそ横で声を上げているが、構いだすと話が逸れるので一旦無視する。
「まあ、あんた達がいいなら。……ありがと」
ん、と、さも当然のように傘を差しだす勝呂に、神木は少し躊躇いを見せはしたが素直に傘を受け取った。志摩はその光景ににやりと口元に弧を描く。
「坊おっとこまえ~。出雲ちゃん、濡れずに済んでよかったなあ」
茶化しを入れる志摩の背を思い切り叩いて、神木は貰った傘をバッと開く。そのまま雨の下に出ると、勝呂に気ィ付けて帰るんやで、と声をかけられて神木は一度振り返る。
「あんた達も、気を付けて帰りなさいよ!」
そう言って早足で去っていく神木を見送りながら、志摩は振っていた手をぽんと勝呂の肩に乗せる。
「で、ぼーん。相合傘してくれるんですか?」
「……」
したり顔の志摩に勝呂は無言でボディバッグを前に持ってきて中から何かを取り出す。それを目の前に差し出された志摩はきょとんとしていたが、その形状には見覚えがあった。
「……ハッ。何あんた、折り畳み傘まで持ってきたん⁉」
驚愕と用意周到すぎる勝呂に呆れの声を上げる。
「お前はこれや」
「この雨風でえ⁉」
そうや、と至極真面目な顔で言うものだから、最初は冗談と思っていたのがこれは本気なのかと錯覚させる。外は雷は収まってきたものの、雨風はまだ強い。折り畳み傘なんて差したらあっという間にひっくり返ってしまうのは目に見えている。それでも勝呂は、はよ帰るでと帰宅を促してくるからああこれは本気なのだと志摩は観念した。
八月 志摩さんが怪我をするお話
結局、勝呂が本来やりたかった仕事はほとんど進まず、講義が終わった後の人の少ない部屋で黙々と事務作業を続けることになる。こめかみの奥でズキズキと疼くような頭痛に眉間の皺を深めた。
「あ、勝呂じゃん。まだ居たのか」
不意に、後ろから聞こえた声に首を捻る。そこには同じく祓魔師の制服に身を纏った燐の姿があった。任務帰りなのか、少しだけくたびれた様子だった。
「おー、お疲れさん。いや、師匠に振り回されとった時間が長くてな」
「相変わらずだなあ……」
そう紡ぐ勝呂に苦笑しながら、燐は横の空いている席に腰を下ろす。つかれたぁ、と紡ぐ燐の横顔を見て、勝呂は引き出しから携帯食料の箱を机の上に置いた。
「飯まだなんやろ? 腹ごなしになるんちゃう」
「お~~ありがとう勝呂~~」
高々に掲げて拝んでから、燐はその箱と袋を開けてバクバクと食べ進める。二袋目を開けながら燐は口を尖らせながら言葉を紡いだ。
「明日もさあ、朝から討伐行かなきゃいけねーんだよ。俺のことコキ使いすぎじゃね?」
「はは、頼りにされとるっちゅーことやろ。気張って行ってこいや、気ィ付けるんやで」
モニターに向き直りながら勝呂は小さく笑う。青い炎を持つ燐は、その強さ故に多方面から引っ張りだこだった。優しいことのために力を使いたいと言う彼の望み通りにはなっている。ふと反応がなくなってどうしたものかと横を見れば、燐がきょとんとした顔をしていた。
「……あ? 何やねん、変なこと言うたか?」
「あ、いや、……やっぱいいな、行ってらっしゃいとか、気を付けて、とか言われんの」
少し照れくさそうに笑う燐を見て、今度は勝呂が瞳を瞬く。改まってそんなことを言われるとは思わなかったのだ。なんやねんそれ、と何処か呆れた口調で紡げば、燐は少しムキになる。
「行ってらっしゃいも嬉しいけど、気を付けてって言われるとシャキッとするっつーか、うん、気を付けよって気持ちになるじゃん」
「まあ、それはそうかもしらんけど」
ふと、それを言うことで本当に事故率が下がるのだと、どこかで聞いたことがあったのを思い出す。燐の言うこともあながち間違っていないのかもしれないと思った。勝呂はそんな燐を横目に、机に置きっぱなしにしている端末に一瞬視線を移す。そういえば今日志摩には言わんかったなとぼんやり思いながら、通知があると点滅する場所に特に変化がないことを確認する。
「あれ、そーいや志摩は? あいつも今日どっかの討伐行くって言ってなかっけ」
「まだ戻ってへんな。なんや手こずってるんとちゃう? 知らんけど」
ゆうて燐かてそないにかかる予定とちゃうかったやろ、と突っ込みを入れてみれば、バツの悪そうな顔で口を尖らせていた。
「いや~ちょっと壊しすぎただけなんだけどさ~……」
雪男がさぁ、と尻すぼみになる言葉になんとなく察して勝呂は苦笑した。相変わらず気苦労が多い雪男に同情しつつ、勝呂は書類の束を持ち上げてトントンと端を揃える。時計を見れば九時を回っていて、さすがに空腹を訴えていた。
「もう帰んのか? 飯食ってこーぜ、雪男も遅くなるっつってるから一人なんだよ~」
勝呂は二つ返事でええなあ、と了承を返したが、ふと開けた口のまま固まる。そのまま、あー、と僅かに考える素振りを見せた。
「いやスマン、やっぱ今日はパス。志摩もそんうち帰ってくるやろし、なんやスーパーですぐ食えるもん買うて帰るわ」
「ちぇ~。まあいいや、したら今度またみんなで飲みいこーぜ。最近忙しくて集まってねーし」
「それええな、また日程調整しようや」
そんな会話をしながら、勝呂は机の上を整理して帰り支度を整える。ほとんどデスクに居ることのない志摩の散らかったままの机を一瞥して、勝呂は燐に手を振った。
軽く買い物を済ませて帰宅する頃には十時半になるところだった。夜になっても蝉が煩くて、疲れている所為かもしれないが耳障りにすら思えた。冷蔵庫にしまうものだけ先にしまって、勝呂は深い溜息を吐く。空腹も通り越してしまい、食事をするのすら面倒になる。早く横になりたい気持ちに駆られたが、流石に風呂だけは済ませなくてはとコートを脱ぐ。それをハンガーにかけながら、テーブルに置いた端末に瞳を向ける。まだ新しい連絡は入っていない。
「……あのアホ、遅なるんなら連絡くらい寄越さんか」
小さな舌打ちを残して、勝呂は部屋着を片手に足早に風呂場へと向かった。
勝呂がリビングに戻ってきたのは、帰宅してから三十分が経過した頃だった。湯船に浸かった方が疲れが取れることは重々承知していたが、面倒な気持ちが勝って諦めた。そもそも暑くて入る気にすらなれなかった。夏場は髪を乾かすのですら億劫だと言うのに。そんな髪を手早く乾かして出てくると、喉が渇いて蛇口から水を汲む。ごくごくと飲み干すが、いやに温くて冷やしておけばよかったと少しだけ後悔した。渇いた喉が潤されると、勝呂はようやく一息つく。
「お、志摩か」
ふと、テーブルに置いたままの端末がチカチカと光っているのを視認した。先に寝るから静かに帰ってこいと文句の一つでも言ってやろうかと端末を持ち上げる。
「――ん? 着信?」
画面に表示されるアイコンはメッセージではなく、不在着信があったことを示す受話器のアイコンだった。電話なんぞしてきぃひんでもメッセージ残したらええやろと思いながら通知を開くと、その相手は志摩ではなかった。
「……霧隠先生?」
よくよく通知を見ると、着信は二回あった。何かあった時の連絡用に登録はしていたが、ほとんどは業務用の端末でのやり取りがメインだった。プライベートの端末にシュラから連絡がかかってきたことなんて、今まで一度もない。それがこの時間に、二度の着信。それがすべてを物語っていた。ヒュ、と喉の奥に抜ける空気がやけに冷たい。
ああ、志摩に何かあったのだと、瞬時に理解した。
勝呂は片手に持ったままだった水の入ったグラスを置き、逆の手でシュラに電話を繋ぐ。耳元に当てた端末の奥から響く音が異様なまでに無機質に感じた。一度、二度とコール音が響いてから、ブツッと向こうと繋がる音がした。
「霧隠先生」
『――勝呂か。落ち着いて聞け、志摩が』
急な電話にもかかわらず、シュラは待っていたかのような口調で話し出す。そして一拍、間が開いた。祓魔師の仕事は危険と隣り合わせだと、殉職が珍しくない職種であると重々理解している。ましてや志摩は未だにメフィストの元で諜報活動を並行して行っている。正直、いつどこで死んだって何も可笑しくないのだ。志摩が死んだと、そう聞かされるのだろうか。僅かに手が震えた。
『…志摩が、悪魔討伐の任務の最中に重傷を負った。今病院で治療を受けている』
シュラが続けた言葉は、勝呂がした最悪の想像とは少し違っていた。ハッと勝呂は顔を上げ、自然と声を荒げた。
「っ生きては、いるんですね?」
『……まだ、な。正直、容体は思わしくない』
少し間を空けた後で紡ぐシュラの声音は、重いままだった。まだ、と言われたその言葉の重みに、勝呂の端末を握る指先が白む。端末の向こうでシュラが何か続ける気配があったため、勝呂は開いた口を閉じてその続きを待つ。
九月 水族館デートをするお話
二日後、勝呂は近所で借りたレンタカーの運転席に座ってエンジンをかける。座席の位置を調整してからシートベルトを締めていると、助手席に乗り込んだ志摩がカーナビで目的地の設定をしていた。
「あ、出た出た。二時間かからんみたいですけど、道どないやろね」
目的地の到着時刻は十時ちょうどを示している。そして現在時刻は八時半だ。
「ん~……言うて平日やしなあ、朝は道混むかもしれへんわ」
そう言いながら、ほな行くでと勝呂が言えば、よろしくお願いします~と志摩が声を上げる。レンタカーを借りた敷地からでて道路に出れば、いよいよドライブの始まりだった。
高速に乗るまではやはり道が混んでいて、しばらくはのろのろ運転が続く。その状態で車内が静かだと寝そうやと言い出した志摩が音楽を流していると、ふと思いついたように志摩が紡ぐ。
「レンタカー、便利やけど時間指定とか借りに行って返しに行ったりすんの、結構面倒ですよね」
何の前触れもなく車の話をし始めた志摩に、勝呂は青になった信号を見てアクセルを踏む。
「まあそれはそうやな、特に帰りはぎりぎりんなると焦る」
「やんなあ。いっそ車買います?」
「通勤で使わへんし、この辺やと車なくても移動に困らへんのが現状やで」
行こうと思えば電車で事足りる都内では、車の重要性は低い。持ってしまえばドライブで使うようになるかもしれないが、今現状は頻繁に使っている姿もイメージができなかった。
「んあ~、あったら気軽にドライブできるっちゅう気持ちが今マシマシです」
「マシマシはええけど駐車場の確保が大変そうやん。今んとこ駐車場空きあったか?」
え、と志摩は自宅の駐車場を思い出す。集合住宅地なので比較的大きい駐車場はあるが、確かにそのほとんどが埋まっていたような気もする。家の周辺には時間貸駐車場は多く存在しても月極駐車場は数も少なく競争率が高い。
「う……なん、もう家買う方が先なんか……?」
「待て待て飛躍しすぎやわ」
真面目な顔でぽつりと紡いだ言葉に勝呂は思わず吹き出してツッコミをいれる。話をしているうちにようやく高速に乗り、勝呂はスピードを上げた。志摩もどうせ本気ではないだろうが、家かあ、とまだぼやいている。
「ああせや、パーキングエリア寄んなら言いや」
「んえ? あー、了解です。あ、そう言えば途中ででっかいパーキングエリアありましたよね。俺そこでアイス食いたいなあ。ジェラートとソフトクリーム一緒になっとるやつ!」
腹壊しそうやなと勝呂が笑いながら言えば、安心してください胃薬は持ってますと志摩がキリリとした表情で返して、勝呂はまた笑った。
途中で寄ったパーキングエリアで海を眺めながらソフトクリームを食べ、特に何を買うわけでもなくお土産コーナーをうろうろしてから運転を再開する。そこから車を一時間程走らせると、ようやく目的地の水族館に到着した。時刻は十一時を回ったところだった。
「運転ありがとうございました~……いやあっっっつ」
エンジンを切って車を降りると、ギラギラの太陽が容赦なく二人を照り付ける。あれもう九月中旬やんな……? と志摩はぼやきながらキャップをかぶった。勝呂も車内の快適さと比べてしまって、堪らずに胸元を摘まんで襟ぐりのところからぱたぱたと風を送り込む。生温い空気が送り込まれるだけで焼け石に水だった。
「朝はそうでもなかったけど、やっぱ日中はまだあかんなこれ。熱中症も気ィ付けんと」
「ほんまですねえ……駐車場から水族館まで地味に距離あんのがやばい、もう汗かく」
勝呂と肩を並べた志摩は暑い暑いと馬鹿の一つ覚えのように紡ぎながら、それでも目的の水族館のゲートと共にシャチのモニュメントが見えると、おおっとテンションが上がっていた。
「写真撮ったろか、シャチとツーショットで」
「なんで俺一人⁉ さすがに恥ずかしいからええです」
「そら残念」
ツーショットは撮らなかったが、それでも遠巻きにモニュメントだけ写真を残している志摩を横目に勝呂は券売機へと足を進める。夏休みも終わった平日ともなれば、客足はそこまで多くない。大人二人分を購入すればシャチの写真が印刷されたチケットが二枚出てきた。
写真を撮り終えたのか、志摩は満足げな様子で勝呂の方に戻ってくる。同時に手元のチケットに気付くと、ポケットから財布を取り出す。
「坊仕事早い~。いくらやったっけ」
勝呂は手元の一枚を志摩に押し付けて入場口へと進んだ。
「ええわ別に。ほらとっとと行くで」
「え~、別にそういうつもりやなかったのに……ほな昼飯俺が出しますね」
志摩は素直に受け取ると、おおきに、と小さく拝んで勝呂の後を追った。
メインゲートをくぐって、順路の最初は川に生息する魚たちが出迎えてくれる。薄暗い空間でさらさらと流れる水の音が心地好かった。
「なんや、水族館の最初てこういうイメージある」
「前行ったとこもそんな始まりやったな」
志摩が呟いた言葉に、勝呂が以前の水族館を思い浮かべて同調する。しかし志摩は数秒間を空けて、こてりと首を傾げた。
「……え? そうやった?」
「適当か」
覚えているのも珍しいなと感心したのに、本当にただのイメージだけで話している志摩に勝呂は呆れて溜息を吐いた。川から海へと繋がるイメージで作られた展示をゆったりと見ながら、次のエリアに辿り着く。エリアと言っても、そこはシアターに近い場所だった。階段を上った先には多くの座席と、そこに座る人たち。そしてその中心には大きなシアターと大きな水槽。〝ベルーガパフォーマンス 次回十一時三〇分から〟と案内が出されていて、勝呂は端末で時間を確認すれば後十五分で始まるところだった。
「志摩ストップ」
てくてくと素通りしようとする志摩のボディバッグを掴むと、うえ、と志摩が潰れたカエルのような声を出しながら止まった。そのまま通行の邪魔にならぬように通路の端で勝呂は志摩を捕まえたまま端末を操作する。
「え~、なんですのん」
「……あー、後ちょいでここパフォーマンス始まるみたいや。ほんで見たい言うてたシャチのショーが十三時からある。合間に昼飯食ったらちょうどええんちゃう思うて」
「おおっ、ええやんそれ。平日やしそない昼時も混んでへんやろ~」
ほな席座りますかと志摩は早速周囲を見渡してよさそうな席を探す。水槽の真ん前、前の方の席は既に埋まっていたが後ろの方ならちらほらと空きが見えた。こっちこっち、と志摩は勝呂を誘導して二人は座席に腰を下ろした。