旅路 高いいななきの声に振り返ると、二頭の馬の手綱を持ったマァムが貸し馬の駅舎から歩いてくるところだった。
目的の村まで歩いて数日、だがその途中の街道に貸し馬が整備されていると宿の主人から聞いて、マァムが乗ってみようと言い出したのだった。
「お待たせ!ちょうど二頭、借りられたわ」
「ありがとう。荷物は、これでいいか?」
袋の中には薬草と毒消し草の束、硬く焼いたパンと干し肉とチーズの塊が入った包み。一番底にはキメラの翼が収まっている。
「薬草、ずいぶん多いんじゃない?」
袋に収まった束の厚みにその数を数えたマァムが目を瞬かせた。
「安く売っていた。多くて困ることもないだろうと思ったが……」
ふふ、とマァムは笑って袋の中にそれをしまう。
「そうね、これだけあれば旅の間は安心」
栗色と灰色の毛並みの二頭の馬は、周りに立ち並ぶ木々の隙間から溢れる木漏れ日にその毛並みを淡く光らせていた。
渡された手綱を取ると灰色の馬は耳をまっすぐに立てたままそっと鼻先を近づけ、その黒い瞳でヒュンケルを見つめた。馬は繊細な生き物だが、乗るものの技術を測る。今回の主はどの程度のものか、と考えているのだろうか。
「馬に乗ったのは、子どもの時が最後だな」
マァムが驚いた、という顔で荷物を馬の背に括る手を止めた。
「本当?」
「ラーハルトの竜には乗ったことがあるが」
「え、じゃあ平気よ。私、竜に乗ったことなんてないけど、馬なら乗れるもの」
荷を縛る紐を締めて緩みがないことを確認してからぽん、とマァムが馬の背を軽く叩く。それにつられるかのように後ろでぱしんと馬の長い尻尾が動いた。
「乗れば思い出すと思うが、見せてくれないか」
「乗り方?簡単よ!こう」
手綱と逆の手で馬のたてがみを握ったマァムは、ひょいと軽い動きで地面を蹴って鞍の上へと自分の身体を引き上げた。大人しく前を見つめて指示を待つ馬の背で手綱を握り直して、鎧に足をかける。
すうと背筋を伸ばして馬の鞍の上から見下ろすマァムの顔の位置が随分高いのが新鮮だった。後ろでまとめた桜色の髪がくるりと身体の位置を回転させる馬の尻尾の動きに合わせて靡く。
「手綱の動きで指示を出して。進め、はこう」
マァムが軽く踵で馬の腹を押すようにすると馬が歩き出す。手綱を握って横に引くと、その動きに合わせて馬はゆるりと大きな円を描くように一回りした。蹄の音が道に敷かれた敷石を柔らかく叩く。
「止まれ、は手綱だけじゃなくて体全体で、引いて止めるの。こうやって」
手綱を引かれた馬はぶる、と鼻先を震わせて指示通りに歩みを止める。
マァムがたてがみに指を絡ませてから首を優しく叩いてやると、どこか自慢げにも見える仕草で茶色の馬はヒュンケルを見遣った。
「一回乗ってみたらすぐに思い出すと思うわ。こういうところの馬は色んな人に慣れてるから、ちょっとくらい間違っても大丈夫よ」
ヒュンケルが灰色の馬の首を同じ様に摩ってやると、馬は大人しく動きを止めたまま尻尾だけがぱしりと毛並みを叩いた。
「やってみよう」
頷くマァムの横で鎧に足をかけて苦もなく鞍に乗り上げる。手綱を持ち直すと、マァムの乗る馬が横に歩み寄って鼻を鳴らした。
「上手!」
かつりかつりと音をたてながら馬は手綱の指示通りにその場で大きく一回転して、ぶるると鼻を震わせた。ふ、と鼻息を吐いて尻尾をばさりと振った馬は、どうやら乗り手のことを認めたらしい。
「竜に乗るのも、楽しそうね!今度ラーハルトに会ったらお願いしてみようかしら」
「あいつは乗り方にうるさいんだ。言う通りにしないとすぐに小言が飛んでくる」
「あなたは上手に乗れそうだけど」
「細やかさが足りないと言われたな……」
「いい先生ね。ちゃんと聞いたら上達が早そう」
「エイミはさんざん小言を言われて膨れていたぞ」
「想像できちゃう」
マァムがくすくすと笑った後に、悪戯っぽく続けた。
「……そんなことないとは思ってたけど、ヒュンケルがもし乗れなかったら、一頭は戻して二人で乗るのもいいかなってさっき思ったの。二人乗りも楽しいかなって」
「乗れないふりをすればよかったな」
笑う二人に、マァムの乗る馬が不満げに首を少し振る。マァムが目を丸くして馬の顔を覗き込んだ。
「この子、言葉が分かってるみたいね」
「賢いからな。本当に理解しているのかもしれない」
「大丈夫よ、私しか乗らないわ!次の村まで、よろしくね」
マァムの声に馬はぶる、と鼻息をあげて、マァムがその首を掻いてやると早く行こう、とばかりにひとつ蹄を鳴らした。
「行きましょう」
「ああ」
手綱を引くと、首を一振りして馬が歩み始める。馬の乗り方を習ったのは、アバンと旅をしていた時だった。
馬の背に乗ると高くなる視界に心が弾んで、横を歩くアバンを見下ろせることに得意になったのを思い出す。本当は走らせてみたかったが、今日は荷物を運んで貰うんですよ、と言われてしぶしぶアバンに手綱をひかれて馬の背に揺られてゆっくりと歩んだあの日。
それ以降もう一度教わる機会がないままに師とは別れてしまった。
雲がふうと切れてその間から光があたたかく差す。柔らかな春の日差しは、あの馬の背で揺られた幼い日のものと同じ。
春の陽光さす中、少し前を歩くマァムが振り返ってふわりと笑う。
自分の人生に、これほどの穏やかな時間がまた訪れることがあるなどと、昔の自分が聞いたら笑うだろうか。――弱くなったと、吐き捨てるだろうか。
「――マァム」
「なぁに」
「走らないか?」
「えっ?」
聞き返すマァムに笑って、馬の腹を踵で軽く叩いてやると、馬は黒いたてがみを振って嬉しそうに蹄で敷石を一度蹴ってから軽く走り始める。
「待って!」
突然走り始めたヒュンケルの馬に、マァムが慌てた声で茶色の馬の手綱を握り直した。
「ヒュンケル、速い!」
春の草がそこかしこに芽吹く、二人の先へと続く道。
二頭の馬は高らかに蹄の音を立てて、走っていく。