小屋「前にも会ったことがあるな」
沈みかけた夕陽を映して煌めく鱗と瞳の色に覚えがあり、そう竜に話しかけるヒュンケルに鞍の金具を外すラーハルトが言う。
「分かるのか?空竜は気性が荒いがな、国の周りだと飛べる方がなにかと面倒がない」
空竜にしては小型のその竜はヒュンケルのことを金色の眼で見やるとふしゅう、と息を吐いて小屋の隣に体を丸めた。長い尾がぱたりぱたりと動いて収まりの良い位置を探すのを眺める。
「お前のことは気に入っているようだぞ。気に入らない奴は間合いに入れた瞬間に薙ぎ倒す」
パプニカの領地の外れの山あいにあるこの小屋はラーハルトがたまに寝泊まりをしているらしい。
宮殿内にも部屋を与えられているはずだが、ダイに呼ばれた時以外はほとんど寄り付いていない様子だった。
投げ渡された麻袋の中には干し肉と干し葡萄と木の実が入っていた。適当にそれを皿に出しているとラーハルトが自慢げに酒の瓶を渡してくる。夜空のような群青色の瓶だった。
「上物だぞ。ありがたく飲め」
グラスは、と聞くとこれしかないとラーハルトが取り出してきたのは木製の杯だった。
「いいのか?色がつかないか」
中身を揺らさないように握った木栓に僅かに力を込めると小気味良い音がした。瓶の中身が赤紫のワインであるのを見て尋ねると、ラーハルトが笑う。
「こんなところにグラスなどあるわけないだろう。使えなくなったらまた作るからいい」
「作った?お前が?」
意外な思いで木杯を手に取る。木をくり抜いて形作ったものに鑢がかけられ、滑らかな表面の木杯は、ちょうど手に馴染む重みだった。
「そんな趣味があったとは知らなかった」
ラーハルトは共に旅をしたときにも野営の際の煮炊きやら、あるもので日用品の工面をするのが3人の中では飛び抜けて上手かった。
意匠があるわけでもなく簡素だが、丁寧な造りの木杯に感心してひとしきり眺めているとラーハルトがそれを見つめて呟く。
「昔、母が作っていた。生計の足しになると。……見よう見まねだが、手慰みになる」
卓に置くと、こつ、と木の鳴る柔らかな音がする、
「……ありがたく使わせてもらおう」
ワインを注ぐととぷとぷと静かな水音が部屋に響いた。
閉め切っていた小屋の空気はわずかに澱んでいる。ラーハルトが窓を開けると、ふうと外の風が入ってきて二人の頬を撫でていった。
***
どちらからともなく杯を合わせて乾杯し、口をつけると杯の木の香りがワインの深い樽香を際立たせて鼻に抜けていく。
「確かに、上等だな」
「そうだろう。城の奥から拝借してきたからな」
それくらい許されるだろう、とラーハルトは鼻息荒く言って側机代わりの木箱に脚を乗せる。
「城で何か、あったのか」
「……王配殿下が魔界をふらついているのが気に食わないやつらがいるそうだ。魔族どもを引き連れて、な」
ラーハルトは皮肉げに言って杯を傾けた。
「……」
「ダイ様のお気持ちも知らず、よく言う。今回はエイミたちがうまく収めたがどうかな。ああいう有象無象はいくらでも現れる」
人々を統治する者の所には富が、権力が集まる。それがなければ国という巨大なものを動かすことができないからだが、その利益だけを恣にしようとあらゆる手を使って忍び込み、狙ってくるもの達がいるのも事実だった。
以前聞いた、マトリフやポップの父が王宮を離れた理由が脳裏をよぎる。そういった者は実力と心ある者たちを厭うのだ。
「そもそも、なぜ竜の騎士が人間どもの国に仕えなければいけないんだ?」
王配なのだから仕えているわけではないが、ラーハルトの言い様の裏にある気持ちは分かる。
机に置いた杯を持ち上げると、赤い水面に映る自分の顔が僅かに揺れるのが見えた。
「……ダイも女王も、共にいることを選んだからだろう」
「女王と離れがたいというなら、一緒に魔界へ連れてくればいい。力だけの世界なら、我らがお守りできるというのに」
乱暴だが彼なりのダイへの思いなのだろう。城という場所に巣食う魔物は槍を突き立てていなくなるものではない。自分たちの手が届かない王宮内の彼らを案じる気持ちはヒュンケルも同じだった。
「だが、ダイはここに残ると決めたんだろう?……人間の愚かな部分も、含めて受け入れると」
「ダイ様のご意向とあらば受け入れる以外にないが。愚かな輩が万が一にも牙を剥いてくるようなことがなければな」
憎々しげに言うラーハルトを見て、ヒュンケルは苦笑する。
「女王は優れた治世者だ。オレが誰よりも良く知っている。……臣下たちが暴走するようなことがなければその程度、実害はもたらすまい」
「誰が暴走するか。立場とやらは弁えているぞ」
ラーハルトはワインをあおった。
思うところはあるのだろうが城の中では彼は誰に対しても不遜な態度は見せない。回廊で出会った大臣に何事かを言われて殊勝に一礼をしたラーハルトの後ろでエイミと目くばせをしあったのは記憶に新しい。
「……まあ、しばらくは様子を見るさ。ダイ様の見込まれた[[rb:やつら> 人間]]がどれほどのものか、見せてもらおう」
***
溜息をついてラーハルトは言う。
「だいたい、人間は恋だの愛だの面倒くさいな。オレには分からん」
「別に、人間に限った事ではないだろう」
魔族にももちろん婚姻という習慣はある。だが長い寿命を持つためか、人間のそれのように一生続く関係というものでもないようだった。
「オレはその点魔族の血が濃いようだな。誰かと添い遂げるなど想像もつかない。後腐れがないのが一番だ」
元超竜軍団の指揮官という肩書きもあり、魔族にはその強さが魅力として映るようだった。魔界を共に旅した時もときおり夜にふらりとどこかへ消えていくことがあった。
「そのうち刺されても知らんぞ」
「お前じゃあるまいし、そんな面倒ごと誰が背負い込むか」
「……お前のように遊んだ覚えはない」
「遊ぶ程度で丁度いい。欲が解消できればそれで終いだし、オレはそんなに愛情深くない。だいたい、毎回同じ相手で飽きないか?」
干し肉を噛みちぎりながら言うラーハルトの言い様に、ヒュンケルは苦笑して言う。
「飽きるとか飽きないとかで考えたことがないな。飽きない」
ラーハルトがしばらくヒュンケルの顔をまじまじと見てから口の中の肉を咀嚼して、ふぅん、と鼻を鳴らした。
「……自覚がなくて大層なことだ」
「何がだ」
開け放った窓から柔らかな風がまた吹き込んでランプの灯を揺らした。パプニカは暖かい。春の夜の空気はもう緩んでいて、遠くに草と微かな花の香りを含んでいる。
ラーハルトがワインの瓶を持ち上げたが、もう中身は残っていない。軽く舌打ちをして立ち上がったラーハルトが窓際へと歩み寄ると、小屋の隣で休んでいた竜が主人の気配に気付いたのか首をもたげた。
しゅう、と息を吐いて開いた窓から顔を覗かせる竜を、口の中で転がすような音を立てて宥めるのを眺める。
ラーハルトが干し肉を一枚放ってやると、黄金色の竜は仕方がないといった風情でそれを一口で飲み込んだ。
「……また明日飛んでやるから、今はそれで我慢しろ」
窓の向こうには一面に星が広がっていた。
竜の主は飾り気のない棚をがさがさと探ったかと思うと、もう1本酒瓶を手に握って戻ってきた。
「飲み足りない、付き合え」
***
酒瓶を結局3本も空にして、寝るか、とラーハルトが呟いたのは深夜も相当回った頃だった
そっちを使え、と寝台を指さしたラーハルトに「オレが長椅子で寝る」と言うとラーハルトが口の端を上げて言う。
「勘違いするな。敷藁を打っていないからそっちの方が固い」
敷布が無造作に敷いてあるだけの寝台は、布枕のようなものが置いてある長椅子よりたしかに固そうではあった。が、どう見ても長椅子は彼の体格には小さすぎるだろう。気遣いなのかよく分からない言葉にヒュンケルは笑って返した。
「家主の指示に従おう」
「お前はこれからどうするんだ」
長椅子から足をだいぶはみ出させて寝転がるラーハルトがふとヒュンケルに尋ねる。
パプニカは王配を迎えて安定したと言っていい。カールも、リンガイアも復興の途を辿っている。
「オレは……そうだな、どこかで武術を教えることができれば」
「弟子でも取ると?師匠の真似事か?」
弟子というのかわからないが、と寝台に腰掛けながらヒュンケルはつぶやいた。
「……もうオレに戦う力はないが、力の使い方を教えることはできるかもしれない」
ヒュンケルは自分の掌を見つめた。もう戦士のものではなくなった手は、この手はいつまで動くのだろうか。
10年後は生きているかもしれない。しかし20年、30年後はわからない。マトリフやブロキーナのような長寿もいることにはいるが、人間の寿命はせいぜい5、60年だ。
「人間はすぐ死ぬんだ。その前に、自分の得たものを伝えていかねばならない。正しく扱える心とともに」
それに、と続けてヒュンケルは呟く。
「ダイのそばに、心ある者たちを残してやりたい。……お前だけでなく」
恐らく竜の騎士の寿命は人間より長い。平和な時代が続くならばなおさらだ。自分も、マァムも、ポップも、レオナですらも、彼の寿命に寄り添うことはできないだろう。
だが次世代に繋いでいけば、あるいは。
「……ダイ様のお側には、オレがいれば十分だ。勝手に増やしたいなら好きにするがいい」
それきり目を閉じて黙ったラーハルトを見やって、ヒュンケルもまた硬い床に身を横たえた。
***
翌朝、酒精の残りなどまるでないといった様子で飄々と起きてきたラーハルトは、ダイからの命を受けてまた魔界へ行くのだと言う。
甘えて低く唸る竜の喉を目を細めて掻いてやる姿は彼自身が言うほど他者への愛情が深くないとは思えなかった。愛情を注ぎたいと思う相手の選択肢が狭いのだろう。
「……ふっ」
微笑むヒュンケルを見てラーハルトはあからさまに眉を顰めてきた。
「何を笑っている」
「別に」
ラーハルトの爪先が地面を蹴り上げて砂が飛んでくる。身体を捻って躱すと、手綱を掴んだラーハルトが笑いながら竜の背に乗り上げた。
「まだそれくらいは避けられるのか。安心した」
「お前な……」
「人間に教えるくらいは、できるだろう。どれくらいのものになるか知らんが」
ぐるる、と鳴いて指示を待つ様子の竜の首を摩って言う。
「お前、昨日はやたら饒舌だったな。何か言い忘れてるんじゃないか?」
びゅう、と若草の香りを含んだ風が吹いてラーハルトの逆立つ髪が横に靡いた。昨日よりもだいぶ風が強い。
顎を上げて見下ろしてくる顔を見返すと、片目を器用に細めてにやりと微笑んでくる。
「……秋に、子が産まれる。会ってやってくれ」
やっと言ったか、と笑ってラーハルトは続ける。
「お前に子どもとはな。放り投げても泣かなくなったら、鍛えてやろう」
「ありがたい申し出だが……それは本人に聞いてみよう」
ふ、と笑ってブーツの足が竜の横腹を蹴った。竜の翼がばんと空を切り、風圧に目を細めると上からラーハルトの声だけが降ってくる。
「生きる理由が、増えたな。ヒュンケル 」
彼なりの言祝ぎの言葉なのだろう。
瞬く間に遠く空に小さくなる竜と友の背を見送ってから、ヒュンケルは帰路に踵を返した。