Under the starry sky「……また、流れた!」
砂の上に座って夜空を見上げたダイは、短い尾を引いて空を横切る流星を指差して横に腰を下ろしたラーハルトを振り返った。
砂浜を歩いてきたので手に持ったままだったブーツを横に置く。素足に伝わる砂のさらさらとした感触をつま先で蹴るとぱさりと乾いた音がした。
「今日、流れ星がたくさん降る日なのかな……たまにそういう日があるんだ」
ラーハルトが真珠の色に輝く月を見遣る。高い位置に浮かんだ満月は、その下の群青色の海に静かに光を落としていた。
「流星群ですね。この地域ですと、ちょうど時期です」
「え、流れ星って時期があるの? 知らなかった!」
頷くラーハルトに、毎日見てたのになあ、と言ってダイはころりと砂浜に仰向けに寝転がった。そのまま砂の上で両手を上下に動かすと砂に放射状の跡がつく。
「これ、懐かしいな。ラーハルトもやった事ある?」
「幼い頃は、海の近くにおりませんでしたので」
「じゃあやってみようよ」
「ご命令とあらば」
「もう、すぐ命令しろって言う。こんなことでしないよ」
あはは、と子どものように笑うダイにラーハルトは微笑む。腕を動かすのを止めたダイはうーん、と大きく伸びをした。手に触れる砂をつまんでさらさらと落として呟く。
「……小さい頃、じいちゃんに怒られるとここに来て寝っ転がって大陸を眺めてたんだ」
ほら、と穏やかに寄せる波の向こうを指差す。夜の水平線の端にうっすらと浮かぶのは大陸の影。
海の上を湿り気を含んだ温かい風が渡る。弾けて白く泡の飛沫をあげる波が静かに砂を攫って模様を描いては、また消していった。
「おれ、昔は魔法がなかなかできなかったんだ。だからじいちゃん、ものすごく怒ってさ。魔法使いは向いてないって言ってたのに」
「……期待されていたのですね」
ダイはわずかに微笑んで寝転んだまま手のひらを上に向けた。手のひらに意識を集中させると、ぱりぱりと弾けるような音がして、光る小さな雷光の玉が空に生まれる。浮かんだ光は二人の顔を淡く照らした。
「島の外へ出て、勇者になって冒険するんだって、思ってたよ」
手の中の小さな光を投げ上げるように宙に放ると、細い雷の糸を纏わせながら蛍のように何度か明滅したそれは、溶けるように空中で消えていった。
消えた跡を見上げると、一面に広がる群青の空と、まるで白い砂の粒を撒いたように無数に散らばる星。その間をまた一筋、太い尾を引いて星が流れる。
流星の軌跡を掴むようにダイは夜空に手をかざした。
「……叶ったな」
こぼれたのは、溜息のような小さな声。だれに聞かせるためでもない、ただ、溢れただけの。
夜空に向けたダイの手のひらは、星の尾が溶けて消えた後の虚空を掴んだ。
ラーハルトはその言葉を否定も肯定もせずに目を細める。
「なあ、ラーハルト」
「はい」
ざあ、と一際大きい波の音が砂に吸い込まれる。
「この島に、来てくれてありがとう。……お前と一緒に、来たかったんだ」
「……貴方のお側にいるのは、当然のことです」
ラーハルトは砂浜に寝そべったままの主君を見つめた。追いかけて、やっとその側に馳せ参じることができたのは戦いの最中だった。武装を解いたダイの姿はもちろん見たことはあるが、ごく僅かの間だけ。それを必要としていない姿を見るのは、初めてと言ってもいい。
あの鬼神のごとき圧倒的な強さをふるう戦場での姿と、伸びやかに年相応の青年の顔をしている今の姿と、どちらが本来なのだろうか。
しばらく黙って夜空を見上げていたダイは、目をぎゅっと瞑ってから何かを決心したように小さく「うん」と呟く。ひょいと腹筋だけで上半身を起こしたダイはぱんぱんと服の砂を払ってラーハルトに向き直った。
「……ずっとどうしようかなって、考えてたんだ。またここに住むのも、いいなあって」
ラーハルトは沈黙したままダイの次の言葉を待つ。
戦い続けた日々は、終わった。強大な敵を討ち倒したその後、平和を掴んだその後に。
生き残った戦の神はどこへ行けば良いのだろうか。
強い力が一箇所にだけ留まり続けることは、世界の均衡を壊す。それは歴史が物語る、繰り返される厳然とした事実だ。だが、どこにも属さないこの魔物の島の中で生きればあるいは、人間の世界の脅威にはならないかもしれない――少なくとも、争いを巻き起こす可能性は減るだろう。
人間たちのいないこの島で。永遠に。平和に。
「……そう思ってたんだけど」
ダイは砂の上に目を落として、一瞬迷ったように唇を結ぶ。砂浜に先程ダイがつけた腕の跡がその姿の後ろに重なって、まるで羽のようだ、とラーハルトはふと思った。
「でも、オレはさ……この世界を旅してみたい。守った世界を……もう一度自分の目で、見てみたいんだ」
だから、とダイは一呼吸置いてから瞳を開くと、ラーハルトに手を差し出した。
「ついてきてくれるかい」
自分を見つめるダイの凪いだ瞳と静かな声に、ラーハルトは居竦められたように動けなくなった。
遠い記憶がざあ、と打ち寄せる波の音と共によぎる。
母を打ち払う拳。縋った自分に舌打ちをして蹴り込まれた爪先。それを庇った母の悲鳴に被せられた、呪いの言葉。
弱り枯れ果てて、最後にはただ木のように固まって汚れた布の上に落ちた、あの母の手。
人間の世界は、主君が見るに足りるものだろうか。
――人に交わり、もしも再び絶望したその時は。
押し寄せた波はまたざあと音を立てて引いて行く。白い砂の中から貝殻が波に洗われて姿をあらわす。虹の淡い輝きを溜める貝の内側が、視界の端できらめいた。
波の音に誘われてまたいくつもの記憶が脳裏を掠めていく。
こだわるべきものは種族ではないと、いつも怒っていたあの賢者。自らを罪と呼びながら、それでも自分は人の中で生きると言った友。ダイはダイだ、と叫んだあの魔導士の、声。
寄せてはかえす飛沫。途切れることのない、その引いては満ちる繰り返し。
かさり、と波の間に微かな紙の擦れる音がした気がした。
あの手紙の、音が。
――ああ、そうだ。今この時のために、あの方は手紙を残されたのかもしれない。
「……否やはございません」
ラーハルトの言葉に目を見開いたダイが一瞬の間のあと、んん、と唸って気まずい表情をした。
「……いな……? ごめん……どういう意味?」
ダメってこと?と不安そうに尋ねるダイに、ラーハルトは首を振って差し出された手を取る。ダイがすうと息を呑んだ。そっと持ち上げてその手の甲に口付ける。
「――ダイ様。私は、貴方の行くところどこまでも、ともに参ります」
自分が共にある事でまた、主君の歩める道は広がるのかもしれないから。
貴方を信じる。その意思と共に、生きよう。
ラーハルトが顔を上げると、驚いた顔からくしゃりと破顔したダイがへへ、と笑った。
「決まらなかったなあ……もうちょっと勉強するよ」
ありがとう、と言うダイの声が波の音に混ざって溶けていく。
重ねたままの手を砂浜の上に置いて、そっとダイはラーハルトの身体を引き寄せた。
砂浜に伸びる二人の影が重なってひとつになる。
幾千もの星が瞬く中、真円の月が静かに砂と海を照らしていた。
その空にまた、一筋の光が流れていった。