花束「わあ!……すごい」
森の木々が途切れた先にある開けた野原。緑の中に、その花びらを一面に広げて色とりどりの花が冬の寒さを越えて優しくなってきた風の中にそよいでいた。
「こんなに咲いてるの、初めて見たわ!」
「この間、薬草を探しに来た時に見つけたんだ。……お前に、見せたいと思って」
散歩に行かないか、とヒュンケルに誘われてついてきたマァムだったが、散歩にしてはだいぶ森の中に入るのを不思議に思っていたところだった。
森の中にも木々の合間に密やかに花は咲いていたが、この野原は光がいちめんに当たるせいか森の中とは咲く花の種類が少し違う。柔らかな花弁を重ねるようにして空に向けて開く鮮やかな色にマァムは目を細めた。
「嬉しい。でも……突然どうしたの?」
ヒュンケルはマァムの問いに微笑んで答える。
「今日は、感謝の日だろう」
「あ! そうか……ありがとう!」
「花を贈る習慣があると聞いて……先生に」
「カールに行った時?」
「ああ」
***
「そういえば。今月の十四日は、感謝の日ですね」
天窓が高く開いた昼の光に溢れた部屋で、突然そう言う師に、ヒュンケルはその意図を図りかねてカップに琥珀色の紅茶を注ぐその顔を見つめた。
最後の黄金色の一滴がほんの微かな水音をたてて水面に落ちる。注がれた紅茶からたちのぼった蒸気は、ふわりと揺れてアバンの眼鏡を白く曇らせた。
一国の王が使用するというにはいささか簡素な設えのその部屋は、調度品が多くない代わりにたくさんの緑に彩られていた。陽光が溢れるように当たる窓辺に段を作って並ぶ大小の鉢植えはそろって光の方に葉を開き、上からいくつも下げられた硝子の鉢からはさまざまの形の緑が溢れ、白や赤の花々を咲かせていた。
「家族にお花を贈って、日頃の感謝を伝える日なんですよ。謂れは色々ですけれど」
「……聞いたことはありますが。それが」
「ロモスでも習慣があると思いますよ」
「……」
――ちゃんとやっているか?ということだろうか。
白く眼鏡を湯気で曇らせたまま、見事なカールを描く髭をつやつやとさせて尋ねるアバンに抱いた感情をヒュンケルは特に隠しもせずに顔に出した。具体的には、眉をわずかに顰めて軽く睨んだ。
「ときに……マァムは元気ですか?」
「元気でなかったら、ここにいません」
身も蓋もない返事を淡々と返す弟子に、アバンはそれでもにこにこと頷いて続ける。
「それはよかった。たまにこうして直接近況を聞けると安心しますよ。まめに手紙をくれますけれど……何かあっても言うような子ではないですしね」
「それは……先生に言われたくないと思いますが」
無表情のままそう言うヒュンケルに、アバンは「さっきから、言葉に棘が……」と心なしかしおれた髭を指先で撫でるようにしていじけた顔をした。
しかしその横でフローラが神妙な顔で「ヒュンケルの言う通りよ」と静かに頷くと、アバンは何かとても心当たりがあったのかびくりと肩をすくめる。ははは、と乾いた笑いが部屋に響いた。
しばし降りる沈黙。その空気にうう、と唸ったアバンは突然思いついたようにぽんと大仰な身振りで手を打った。
「そっ。そういえば……スコーンも焼いたんでした! 今日は胡桃と、ブルーベリーをたくさん入れたんです。オーブンを見てこないと!」
ひらひらとエプロンの裾を翻して部屋から出ていくアバンの背中を見送ったフローラは小さくため息をつく。それからテーブルの上で白く柔らかな湯気をあげる紅茶のカップを見て、くすりと笑った。
「……お茶が冷めてしまうわね。先にいただきましょうか」
蔦の柄が深い緑と金色で描かれた瀟洒なティーカップを優雅に持つフローラに、ヒュンケルは一瞬どうしたものかと戸惑ったがそれを見越していたのかフローラはどうぞ、と促した。
「非公式の場だから、気にしないで。王様が自分でお菓子を焼いているくらいだから。お茶を楽しむ時間ですもの」
「……はい」
その言葉にヒュンケルも卓に置かれたティーカップを手に取った。中を満たす深い飴色の紅茶をひとくち飲むと、舌の上に心地よい渋味が乗ってから華やかな香りが鼻に抜ける。温かい紅茶が喉をすべりおちて、その馥郁たる香りに思わずヒュンケルが目を細めると、同じように紅茶をひとくち飲んだフローラがカップを持ったまま苦笑する。
「あの人、あなたとこうして話せるのが嬉しくて、あんなふうに言ってしまうのよ。許してあげてね」
「――いえ」
ヒュンケルは、一呼吸置いてから彼にしては珍しく、呟くような小さな声で続けた。
「……こういう時間も。悪くはないと……思っています」
そう言って、口元を隠すようにまた紅茶のカップを傾けたヒュンケルに、あら、とフローラはその長い睫毛を瞬かせた。
「余計なお世話だったわね」
高い天窓から部屋に降り注ぐ光の加減のせいだろうか。心なしかヒュンケルの頬の色には僅かに赤みがさしていて。
ヒュンケルがカールに立ち寄るという知らせを受けて、いそいそと今日の準備をしていた夫の姿を思い出してフローラはおかしくなった。
アバン曰く、胡桃とブルーベリーは彼の一番弟子の好物だったらしい。ただし、彼がまだ幼かった頃の、好物。
キッチンに用意したたくさんの食材の中から、わざわざ大粒の胡桃と果実をせっせと選り分けるアバンに『今も好きなのかしら?』とフローラが尋ねると、『分からないですけど』とアバンは眉を下げて笑った。
――でも、作りたくて。自己満足ですけどね。
そう言いながら悪戯っぽいような、愛おしいものを懐かしむような、そのふたつが混ざり合った不思議な表情をしていたアバンは、しばらくしたら無愛想に紅茶を啜る弟子の前に陽気に笑って現れるのだろう。焼きたてのスコーンを籠いっぱいに積み上げて。
そうしてまた眉を顰められるのを、おそらくアバンも楽しんでいるのだ。
そう、遠い昔の時間を取り戻すように。
そのぎこちない師弟のやりとりにフローラはひとりくすりと笑って、またひとくち紅茶を含んだ。
***
溢れるように咲く花の、紫色の一輪を摘んだマァムがそれを手巾に大事そうに乗せる。
「先生にも見せたいから。贈ろうと思って」
「持って行くのか?」
「ううん。手紙につけるの」
「どうやって……」
ロモスからカールまで、馬で運んでも10日では着かない。流石に生花は枯れてしまうと思うが、鉢植えにでもするのだろうか。ヒュンケルが首を傾げると、「押し花にすればいいのよ」とマァムが紅の花弁を開く花をもう一輪摘んだ。
「紙とか、布に挟んで重石をして乾かすの。あんまり大きい花だとうまくいかないけど、これくらいならきれいにできると思う。いつでも見られるわ」
花をあえて枯らして長く飾る方法は見たことがあるが、似たようなものだろうか。確かに水分を飛ばしてしまえば色形を長く保つことができる。
「……標本のようなものか?」
いちめんに咲く花を見つめて少し感心したように生真面目につぶやくヒュンケルに、マァムは瞬きをして笑う。
「そうね。花はすぐ枯れちゃうけど……咲いているときの姿を少しでも残しておきたいっていう気持ちでみんな色々工夫をするのね」
さあ、と草原の奥の森から風が吹き渡る。風に吹かれた花々はその花弁を優しく震わせた。
マァムは手巾に載せた花を飛ばないようにそっと押さえて悪戯っぽくヒュンケルを見上げる。
「『ヒュンケルが贈ってくれた花です』って書こうかな」
「やめてくれ……」
手紙を受け取った時のアバンの顔と、その次に会った時の微笑みが浮かんでしまって、ヒュンケルは強めにかぶりをふった。
「冗談よ」
マァムがそのヒュンケルのしかめ面を見てくすくすと笑う。
太陽の光を浴びて光る緑の葉。その中に揺れる白と紅、青と紫。
花々を揺らす風は谷を越えて、丘を越えて。花の香りを遠くまで届けるだろう。