焚火戻ってくるエイミの足音にラーハルトは振り向く。
エイミは旅の間、魔物はもちろん生き物、植物の生態からその土地の生活文化、言語の違いなど種々さまざまなことを聞き取っては熱心に書きつけている。
今日も通りがかった村の水車の機構がパプニカのものと違うと言い、ダイの情報を集めがてらそこの村人に話を聞く間ラーハルトとヒュンケルは待機することになった。
都市部はともかく、地方の村ではまだラーハルトの外見は人々を怯えさせることが多く、ヒュンケルは人当たりが良いとはお世辞にも言えない。村人に聞き込みをするのはもっぱらエイミの役回りになっていた。
「何か情報は」
「……何も」
首を振るエイミに剣を手入れしていたヒュンケルがそうか、とだけ呟いて手に持つ白刃を鞘に収めた。
勇者を探す旅に出て以来、何の手がかりもなかった。あの光を見た、それ以外の情報は得られていない。
大戦で傷を負ったヒュンケルは、日常生活には支障がない程度には回復したものの十分に戦闘ができる身体ではない。
護身用に持っているのは力で振り下ろすことのない、細身の剣だった。それほど振るうことのないそれを、しかし時間が空けば丁寧に手入れをしている。
いざというとき錆びていたら困るから、とは本人の言だが、どちらかというとエイミの目を盗んで素振りなどを始めたいからではないかとラーハルトは思いながら言う。
「なら、別の場所を探すまでだ」
ふと見るとエイミは手に小さな麻袋を持っていた。視線に気づいたエイミがああ、これ、と言って袋を持ち上げた。
「小麦粉を頂いたの。水車の話を聞いていたら、少し持っていきなさいって」
「粉?……焼いたものをよこせばいいものを」
「今日の夕ご飯に使えばいいじゃない。よろしくね、食事当番さん」
形の良い唇を完璧な角度に持ち上げてエイミが袋を目の前に差し出してくる。それをぱしりと音を立てて受け取ってラーハルトは口の端を歪めた。
「……オレが作る日でよかったな。焦げた何やらは食いたくない」
「そんなに焦がしてないわよ!」
エイミが作る食事は良い時と悪い時の差が激しい。恐らく火の勢いがうまく使いこなせていないのだ。
野営の火を使って料理をしたのが初めてな割にはましな方だとは思っているが、言ってやる義理はない。
窯と要領が違うの、とかなんとか後ろでやかましく騒ぐのを無視してマントを羽織る。
「行くぞ」
***
街道とも言えぬ細い道をしばらく行くと小川に突き当たった。太陽はもう傾きかけていて、黄色から徐々に橙色を深めて刻々と色を変えている。
「この先はかなり険しくなるようだし、今日はこのあたりで休んでおいた方がいいんじゃないかしら」
「そうだな」
地図を広げるエイミに、ヒュンケルも頷いてラーハルトを振り返る。
ラーハルト1人なら夜通し歩いたところで問題はないが、完全に回復していないヒュンケルと体力の低いエイミを連れていてはこれ以上無理だろう。
短く溜息をついて荷物を担ぎ直す。
「……分かった。火を起こせる場所を探すぞ」
流れを辿ると、野営に使えそうな少し開けた場所に辿り着く。斜面から落ちてくるその川はところどころの岩の隙間に小さな滝を作りながら緩い流れを作っていた。
日中もこの時期にしては珍しく柔らかい日差しがさしていて、幸い今日はそれほど冷え込まなさそうだった。
エイミが荷物を置いてほとりの岩に腰掛け、ほっとしたようにため息をつく。
「火を起こして水を汲んでおけ」
何か獲ってくる、と言い置きラーハルトは槍を掴んで西日の差し込む森へと入った。
***
木々の間から入る光ももうなくなりかける頃、ぱちぱちと薪のはぜる音が木々の間に小さく響くのをラーハルトの人間より聴力の高い耳が拾う。
「……でも、水車の機構も違ったけど、水車小屋の運用が違うのに驚いたの。村人で共同使用しているそうよ。だから粉挽き代を払う必要がない」
ふむ、と相槌を打つヒュンケルが一拍置いてから尋ねる。
「水車の管理は誰がしているんだ?」
「それも共同で。だから修繕が必要になったら村の共同費から払われると言っていたわ。領主も関与しない。こういう仕組みもあり得るのね」
パプニカでもそうできないのかしら、とエイミが呟いた。
水車小屋には悪魔が住むという。
収穫した小麦を挽いて粉にするためは、領主の管理する水車小屋の利用が課せられて強制的に金を払わされるためだ。貧しい者にとってはその金額も重くのしかかる。
小屋を管理する粉挽きが目方をごまかしたり、何かと理由をつけて不当に高い料金を請求するなどの悪事も蔓延りがちだった。
だから挽いた粉をよこすなど、エイミの賢者の冠の威光に媚びへつらったのだろうと思ったが。
ざく、と横たわる細枝を踏む音に、ラーハルトが戻ってきたのに気づいたヒュンケルが振り向くと、エイミも焚火の灯りで眺めていた書き付けから顔を上げる。
「早かったな」
仕留めた兎を手に持ったままラーハルトは鼻を鳴らした。
「粉挽きで得る金を領主が手放すはずがない。自分の金を溜め込むことにしか興味のない奴らばかりだろう」
エイミが目を瞬かせてからああ、と頷いた。
「さっきの、聞こえてたの?」
国の中枢にいれば色々と目にするものは多いのだろう。少しだけ目を伏せたエイミはそうね、とラーハルトの言葉に頷いて、しかし続けた。
「……既得権益を手放させるのは簡単じゃないし、もちろん粉挽き代は貴重な財源のひとつでもあるわ。でも、今は貧しい人々にばかり労苦を負わせる構造になってしまっている……。何か、方法はないのかしら」
最後の方は誰に尋ねるともなく言うエイミのその手元の書き付けには、水車の絵が丁寧に書き込まれている。
ぱち、と一際高く薪のはぜる音が響いて、火を見つめるその長い睫毛の影が顔の上をちらちらと揺れた。
「……勉強の時間は終わりだ。手伝え」
ラーハルトがもう一方の手に持つものを見て、ヒュンケルは不思議そうに尋ねた。
「それは何だ?」
「香草だ。疲労回復の効果がある」
ヒュンケルが兎を捌く傍で、ラーハルトは川から見繕ってきた平たい石を組み、焚き火から薪を取って簡易な竈のように整えた。
手を流れで清めてから火のそばに腰を下ろしたヒュンケルが興味深そうにそれを眺める。
小麦と水を混ぜて生地を作り、練ったものを伸ばして熱した石に焼き付けると、しばらくして香ばしい小麦の焼ける香りが漂い始めた。
「よくそんなことを思いつくものだな」
「丁度いい大きさの石がないとできない。運が良かったな」
兎を焚火の火で炙る様子を見るエイミに、焼けたら全部刻んでおけ、と指示を出した。
「刻むって、お肉を?」
このまま食べるんじゃないの、とエイミが首を傾げる。
「炙り肉はもう飽きた。その香草と一緒に刻んで混ぜておけ」
狐色になったあたりで焼き付けた薄い小麦の皮をナイフで石から剥がし、食欲をそそる香りを放つ兎肉と刻んだ香草を中に挟んで巻いて整えた。
最後に袋の中に忘れられそうになっていたチーズのかけらを放り込んで2人に渡してやる。
初めて食べるもので、蕩けて落ちてきそうなチーズにエイミはどこから口をつけたものかと思案して結局大人しく端から口に入れることにした。一口口にすると広がる皮の香ばしさと肉の脂の甘みに驚く。入れた香草が味を引き立てているのだろうか。
「……おいしい!」
無邪気に言うエイミと、目を瞬かせてその横で頷くヒュンケルにラーハルトは子どもか、と笑った。
「本当に美味しいから言ったのよ」
「野営でもたまにはましなものが食いたいからな」
「寒い地域にしか生息しないのね」
持って帰れるかしら、と残った香草を手に取って観察するエイミに、ラーハルトは火の勢いが弱くなった薪の隙間に強く息を吹きこんでから呟く。
「やめておけ。似た形の毒草がある。間違えて食ったら死ぬぞ」
「それならちゃんと見分け方を覚えたいわ。次に見かけたら教えてね」
「そういって少し聞き齧ったやつが危ないんだ」
面倒くさいからそう言ってるでしょ、とエイミがわざわざ向き直って言うのでラーハルトは返事の代わりにはっ、と鼻から息を吐いた。分かっているなら話が早い。
「そうだな、面倒だ」
「私、ずっと聞くわよ。教えた方が早いと思う。この間回復してあげたお礼はまだかしら」
「自分でも治せる。頼んでいない」
「うそ、あなたのホイミ、切り傷も治せないじゃない」
「……うるさい。肉が抉れていなければ治せる」
エイミは先程の野草を丁寧に広げて書き付け用の手帳にに挟みながら言う。
「そうだったかしら。前見た時は全然治ってなかったけど。あと、キアリーもかけてあげたわね」
「……」
ヒュンケルはラーハルトとエイミのやりとりは我関せずといった表情で黙々と手に持った料理を咀嚼している。
誰のせいでこのやかましい女が付いてきていると思っているんだ。
「美味いな」
ヒュンケルが突然呟いた。二人の視線が集まるのにああ、と一瞬はにかんで続ける。
「……アバンが野営の時に、よく凝った料理を作っていたのを思い出した。美味いものが食べたいから、と言って」
「アバン様は、料理がお上手で有名だものね。
……きっと、大切なあなたにいろいろな美味しいものの味を教えてあげたかったんじゃないかしら」
エイミの言葉にヒュンケルがそういうものか、と呟いて揺れる火に目を落とす。それにエイミが柔らかに微笑んだ。
ラーハルトはその様子を見て嘆息した。
自分は人を幸せにはできないなどと嘯いているこの男が、エイミとあの妹弟子とやらのどちらを選ぶのか、はたまたどちらも選ばないつもりなのか自分には知る由もないが。
見ていて苛々することがある。この男は、まわりのものを拒みもしないが、何も手にしようともしない。
ふいに風が吹いて、火の粉が夜空に舞い上がった。ちらちらと群青色の中に散らばる煌めきに、あの日の光が重なる。行方知れずの主君の姿がよぎった気がしてラーハルトは目を細めた。
自分の幸せは、大切なものは、自分から手を伸ばさなければ掴めないのに。
「なぁ、ラーハルト」
自分を呼ぶ声に我に帰る。ヒュンケルがこちらを見てどこか楽しげに言った。
「美味かった。また、作ってくれ」
「……今度はお前が作れ。見てただろう」
そう言ってやると、焦がしても怒るなよ、とヒュンケルが笑った。