恋の魔法 夜中にマァムはふと目を覚ました。
頭が少しぼんやりする。昼間は初めてのジュース売りとたくさんのお客にてんてこまいで、流石にその程度で疲れてしまうようなことはないけれど、すこし身体が熱い気がした。
首筋に手を当ててみるとじとりと汗をかいている。熱があるわけではないと思うけれど、昼間暑かったから体に熱が溜まってしまったのだろうか。
隣のベッドですうすうと寝息を立てているレオナを起こさないようにそっと起き上がる。少しこもった部屋の空気を変えたくて窓を開けると、夜の闇に寝静まった村が見渡せた。ぽつぽつと建つ家のどこにももう灯りは灯っていない。
窓を開けてみても外の空気もやはり蒸し暑かった。村のどこかで花が咲いているのだろうか。うっすらと空気に甘い香りが混じっている。
眠るレオナはそんなに暑そうにしている様子もないのが不思議だった。纏わりつくような暑さにぱたぱたと顔を手であおいで、ふと昼間に通った村はずれに泉があったのを思い出した。
「……水浴びでもしに行こうかな」
そんなに村人の数も多くない小さい村だし、この深夜なら外を歩いている人もいないはず。汗を流せば少しさっぱりして寝られるかもしれない。
思い立ったら早い方がいい。簡単に着替えを袋に入れて、マァムは静かに部屋のドアを開けた。
***
昼間見かけたその泉は、少し歩いた村のはずれの周りを木々に囲まれた奥まったところにあった。
近くには民家もないし、わざわざ泉にやってこない限り人の通るような様子はない。ここなら少しくらい水浴びをしても大丈夫だろう。
念の為周りを確認してから、汗でまとわりつく服を脱いでそっと泉の水に足先を浸す。
「大丈夫そう」
水は胸元までくらいの深さで冷たすぎることもなくて、安心してとぷりと身を沈める。水に浸かってみてもなんとなく火照ったままの体から蒸し暑い空気を振り払いたくて、マァムは泉の水に身体を預けて空を見上げた。
上に広がる夜空は風の流れが速くて、大きな雲が流れるように動いていた。
「空は、同じなのね……」
異世界の空にも、月がひとつ、星がたくさん。
星をいっぱいに湛えた夜空を隠したりまた覗かせたりして形を変えていく雲を見て、ふと元の世界のことを思い出す。大魔王と戦う直前にこんなことになるなんて。
この不思議な世界に迷い込んでしまった原因はまだ分からない。戻れるのかどうかも分からない状況は不安だけれど、良いこともあった。
ヒュンケルが目の前に現れてくれて、泣きそうなほど安心したのだ。
――無事でよかった。本当に――。
でも、とマァムは考えた。なぜヒュンケルだけが私たちと違うところから現れたのだろう。自分でもわからないと言っていたが、魔槍を持っていたと言うことは、あの時の大魔王の攻撃に飲み込まれたところでこちらに飛ばされてきたのだろうか。
とすると、クロコダインが一緒ではないのが不思議だった。クロコダインもこの世界のどこかにいるのだろうか。
ポップは怪しいと疑っていたけれど。あらわれたヒュンケルがこちらを向いた瞬間に、彼の目を見た瞬間に、疑う気持ちは消えてしまった。
まるで何か、魔法にかかってしまったみたいに。
今も、不思議だと思うのに、彼のことを考えるとどんどん頭の中に靄がかかっていくようだった。
「……ヒュンケル……」
ふと。どこかから、またあの甘い花の香りがした。
湿った風にのって漂ってくる、甘い、甘い匂い。嗅いだことのないこの香りは、何の匂いなのだろう。近くに咲いている花は見えないけれど、何か別のものの匂いなのだろうか。
一度嗅ぐと鼻の奥に残る、花びらの落ちる寸前の花のような。熟れ過ぎた果物のような。
何かに似ていると思ったけれど、思い出せなかった。せっかく水に浸かっているのに、また頬が熱い。この世界だとうまく身体が動かせないから疲れているのかもしれない。
頭がぼうっとしてきて、マァムはうとうとと吸い込まれるように瞼を閉じた。
――……ァム。
夢の中で、ふいにどこかからヒュンケルの声が響いた気がした。
今、呼ばれただろうか。近いのか遠いのか分からないその声を追いかけて辺りを見回す。
誰もいないけれど――。
「……ヒュンケル……?」
柔らかに名を呼ぶ声が聞こえた気がするのは、鬱蒼と蔦の絡む木々の暗がりの中。
――マァム。
暗闇から呼ぶ声。甘い、絡みつくような香りがいっそう強くなる。
マァムはその匂いに誘われるように森の暗がりの声のする方へと、ふらりと足を踏み出した。
「――――おい!」
そのときものすごく聞き慣れた声がして、マァムはばちんと目を見開いた。
夢? 今、夢を見ていた――。
この短い間に眠ってしまっていたらしい。反射的に体を水に沈めると、体を包む清冽な水の冷たさに意識にかかっていた甘い香りの霞がさあと晴れた。
「――おい、ヒュンケル! 何をコソコソやってんだ‼︎」
「――っ」
がさがさと何かがあわてて草むらを揺らして去っていくような気配がした。
その気配が消えたと同時に、敵意とともに飛びかかってくる黒い影。その軌道を見据えてマァムは水の中で腰の位置に拳を構えた。
「はぁああああああっ!」
突進してきた影に、水の中にあった手を突き上げて全力の掌底を打ち込んだ。ぐえ、と濁った声をあげた人影はそのまま綺麗な放物線を描いて吹っ飛んでいく。
月にかかっていた雲が晴れたのかうっすらとその人影を月明かりが照らす。草むらの上にどさりと落ちて再びにぶい呻き声を上げたのは、見慣れた緑の法衣の少年――ポップだった。
その横でもうひとつの黒い影がぴょこんと驚いたように跳ねる。暗がりから一歩踏み出したそのブーツの足にもとても見覚えがある。
「えっ⁉︎ マ、マァム⁉︎」
果たして、響いた声はもう一人の弟弟子のものだった。
「……やっぱり」
揃ったいつもの面子に、マァムはなんとなく頭痛がしてこめかみを押さえた。
こちらを見ないようにあわてて横を向いたダイが、怒られる前の子どものような顔のままじりじりと後退りして後ろの木の影に隠れる。
「ご、ごめんよマァム! ポップ……! だから言っただろ」
「……ぐ……いってぇ……」
べちょんと草の上に潰れた状態で唸りながら顔を上げたポップは、池の水に再び浸かったマァムの怒りをあらわにした表情を見てひぃぃ、と悲鳴のような声を喉の奥から漏らして後退りした。
「いっ……今ここにヒュンケルが……」
「ヒュンケルが……?」
さっきうとうとしたときに見た夢にヒュンケルの声がした気がするけど。あれは夢だった。
マァムは泉の周りをぐるりと見渡してから、同じ動きで周りを確認したポップの方に向き直る。その形相にポップがごくりと唾を飲んだ。
「ど、こ、に? いるっていうのよ……」
「おう……い、いねえな……。って、おい、マァム。まて。待っ……これは、誤解だ!」
水面の上でぎりりと音がしそうなほど固く握られた拳に、ポップがばたばたと手を振って弁解を続けようとする。
「違うんだ。ヒュンケルが、夜中に部屋をこそこそ抜け出してよぉ……追いかけたら、ここに」
「覗きに来ておいて、どういう言い訳なの⁉︎ 」
「こんな夜中に泉にいるなんて思うわけねえだろ⁉︎」
「じゃあどうして思ってもないのにここにいるのよ……こんなところ、用が無かったら来ないでしょ!……いつまで、見てるのよーっ‼︎」
「見てねえ! ていうか、見えねえ! 暗すぎ。あ、いや、違う、違ぇよ! すまねぇ、今のは冗談で……」
余計な一言にぶるぶると怒りで震えながら泉の中のそこそこ大きめの岩をぐわ、と持ち上げたマァムに、ポップが再び悲鳴をあげて後退り、ほうほうのていで逃げていく。
「本当に、知らなかったんだよぉおおおお‼︎」
その後をダイがぱたぱたと「だから言ったろ!」と追いかけていった。
「もう!」
ばしゃん、と音をたてて岩を水の中に戻す。ちょっと音を大きくたててしまったのは仕方がない。
腰に手を当てて、マァムは大きくため息をついた。
せっかくの水浴びだったけれど、流石にもう浸かっている気にはなれなかった。
濡れた髪を手早く結って、ざっと身体を拭いて着替えに持ってきた服を身につける。疲れていたとはいえ突然眠ってしまったことに自分でも驚いたし、一人で来るのはやっぱりちょっと迂闊だったかもしれない、と少し反省もした。
「……そういえば」
さっきポップが掴みかかってくるその瞬間に、草むらの中に走る去っていく小さな黒い影の気配を感じた。すぐに消えてしまったからさっきの騒動で忘れていたけれど、あれは何だったのだろう。
鬱蒼と茂った木々の暗がりを念の為確認してみたが、やはりもう何もいない。
「小さいモンスターか何か……だったのかしら」
ポップは、『ヒュンケルが』なんて言っていたけれど。
小さい生き物でなければ通り抜けることはできないであろう、複雑に枝葉を絡め合う木々と草むらを見て、マァムは「全く」と腰に手を当てて大きくため息をついた。
例えばヒュンケルがこの近くにいたとしてもこんなところを大人の体格で痕跡も残さずに通り抜けるのは不可能だし、そもそも彼がこっそり隠れたりする意味が分からない。
荷物をまとめてくるりと泉に背を向ける。なんだかいろいろあったけど、もう時間も遅いから早く寝てしまわなければ。
「明日も、たくさんジュースを売らないとね」
――そして、早く元の世界に帰らなきゃ。分からないことも、心配なこともたくさんあるけれど、今は目の前のできることをやるしかないもの。
小さく拳を握ってよし、と呟くと、マァムは宿へと戻っていった。
***
「……あの小僧、余計な邪魔を! もう少しで小娘を完全に術に落とせたというのに!」
悪魔の目玉と林の中へと逃げ込んでいたザボエラは、泉に誰もいなくなったのを確認するとがさがさと隠れていた草むらの奥から這い出て忌々しげに舌打ちをした。
「チィ……まあよい……」
ザボエラが口の中で低く呪文を詠唱を始めると、やがて怪しい色の煙が周りに漂い始め、そして指先から、足先から、煙の中の姿がぐしゃりと歪んでいく。
歪んで崩れるように煙に溶けた姿が再び現れると、そこには銀髪の青年――
ヒュンケルの姿を擬したザボエラは変化した姿を悪魔の目玉に写して確認すると、彼にはあり得ない陰湿な笑みをその顔に浮かべた。
後ろの木からぶら下がって触手をざわざわとゆする悪魔の目玉に「下がれ。偵察を続けろ」と威丈高に手を振って命じると、魔物は長い触手を蠢かせて森の中へと消えていった。
何かあれば思念波で報告するよう村のあちこちに悪魔の目玉を忍ばせている。日中はダイたちと行動をともにしなければならないため、迂闊な動きはできないからだ。
「此奴の格好など腹立たしいが仕方あるまい。あの小娘には恋の魔法が良く効いておるようだからな……」
ザボエラが使ったのはモシャスの高位魔法で、恋するものの姿に変化し、思考力を奪う魔法。暗殺や奇襲に使う、テランで使ったものと同じものだった。なぜかこの世界では魔法の力が弱まってしまうため、攻撃魔法は役に立たないが、変化の術は問題なく使える。
「あの小娘といい、小僧といい、どいつもこいつも愚かな連中よのう。惚れた相手の姿で動揺させれば簡単に術中にはまりおる。そのうち仲間割れを起こして、気づいた時には寝首を掻かれて仕舞いじゃ……」
フン、と鼻を鳴らしてザボエラはヒュンケルの顔で低く嗤う。
「本物は牢の中。兄弟子が惨たらしく処刑されるのを、あの世から指を咥えて見るが良い……最も……異世界で死んではあの世もクソもあるまいがな!」
暗く静かな闇に引き攣れた哄笑が、響く。