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    suika

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    suika

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    (23)×(18)地底魔城ヒュンマの途中までです。
    出会うのがもう少し遅かったら、ヒュンケルはもっと追い詰められて
    マァムの説得は少し違ったものであったかもしれない…
    というifストーリーです。暗い。
    Twitterや支部で断片的に投稿していたものを含みます。

    完成したら本になります!(予定)

    #ヒュンマ
    hygmma

    Droplet 軋む音を立てて鉄格子の扉が開く。
     
     地底魔城に捕えられて、この牢屋に放り込まれてから半日ほどが経っただろうか。

     マァムはその音に顔を上げて灯りの方を睨んだ。
     牢屋番は二人いたはず。何か動きがあったのか。ダイたちが来てくれたのか、それとも――。
     
    「……!」
     
     考えを巡らせて身構えたマァムの前に姿を現した人物はしかし牢屋番の骸骨たちではなかった。
     驚いて目を見開いたマァムの前で影がゆらりとゆらめいて、その腰に穿いたおどろおどろしい装飾の剣が鈍くがしゃりと金属音を立てる。
     マァムは、頼りなく揺れる明かりの下に照らされた銀色の髪と、その下で細められた灰色の瞳を見つめた。
     
    「ヒュンケル……」

    ――まさか彼が自ら牢までやってくるなんて。
     
     薄暗い炎の下に揺れる硬質な白い相貌。冷たい牢獄の中にかつ、と靴の立てる音が響く。
      
    「おまえは囮だ。勇者さえ仕留められれば、逃してやる。……無駄な足掻きをするな」
     
     マァムの腕を後手に縛る縄の結び目に視線を走らせて、ヒュンケルが釘を刺すように言った。牢に入れられてからずっと拘束が解けないか試していたマァムは、それに気づかれていることに内心で小さく唇を噛む。
     またかつりと靴の音を立てて、ヒュンケルが縄で縛られたまま床に座るマァムの前までやってくる。
     表情なく自分を見下ろすヒュンケルを見て、マァムはその整った顔はまるで陶器でできているようだ、と思った。
     白くて透明な、落としたら高い音を立てて割れてしまう陶器のよう。
     その表情を見ると、なぜか胸の奥がずきり、と痛んだ。
     牢の中を照らす灯りは入り口に控える牢屋番の魔物のもつ松明のみ。牢の中の空気は澱んでいたが、通路にはどこか風の通る場所があるのか、松明の炎はわずかに揺れていた。

    「私も勇者の仲間よ。なぜ殺さないの?」

     ここに連れてこられる前の戦いでダイとポップに向けられた殺意のこもった剣にくらべて、ヒュンケルの自分に対する手加減は明白だった。
     手加減の上での戦いにも負け、さらに捕まってしまったことは情けない。せめて二人の足手纏いにならないよう、状況を変える糸口を見つけなければ。マァムはそう考えながら自分を見下ろすヒュンケルを見つめ返す。

    「……女を殺すのは父の教えに反する。口を塞がれたくなければ、黙っているんだな。大人しくしていれば怪我をすることもない」

    「あなたは……お父さんを、尊敬していたのね」

     マァムがつぶやいた言葉にヒュンケルの口元が僅かにぴくりと動く。

    「無論だ……父は、誇り高き戦士だった。魔王軍の中にあっても武人としての誇りを忘れることは決してなかった。――アバンに殺される最後の瞬間までな」

     父親のことを語るその瞬間だけ彼の瞳から厳しい怒りの気配が消えるが、父への尊敬と愛情のこもった彼の言葉は、アバンと人間への呪いの言葉で塗りつぶされていく。
     何とかして彼の閉ざされた心を開く糸口を見つけたい。本当はきっと、彼自身もわかっているのに。
      
    「ヒュンケル……あなたはなぜ魔王軍にいるの? お父さんを殺した先生が憎いというけれど、あなたの憎むアバン先生は……もう、亡くなったのよ。この世界のどこにも、いない」

     マァムの言葉に、ヒュンケルは顰めた眉の下で目を眇めて皮肉げに言った。
     
    「そのようだな。ハドラーを倒すためにメガンテまで使って、跡形もなく吹き飛んだ。力もない弟子を守るために自分の命まで捨てるとは……馬鹿馬鹿しい。いかにも勇者のやりそうなことだ」

     ハドラー、という呼び方に違和感を覚えてマァムは思考を巡らせた。
     自身を統率する立場のものに向かっての呼称とは思えない。彼は、魔王軍に絶対の忠誠を誓っているわけではないのかもしれない。黙ったままのマァムにヒュンケルは唇を突然歪める。

    「……憎むものがいない、と言ったか? 最大の仇であるアバンが勝手に死んだのは口惜しい。だが、オレの憎むものはあいつだけではない――お前たち、人間すべてだ」

     アバンの名を口に乗せた瞬間、それまで冷たく感情の見えなかったヒュンケルの瞳に怒りの炎が灯る。マァムは引き結んだ唇を僅かも動かさずに、黙ったままそれを見つめかえした。

    「今の人間どもの安穏とした暮らしはすべてオレの父の、家族の死の上にある。お前達の振り翳す正義とやらは、オレにとっては真逆のものだ。オレの住んでいた世界を壊し、大切なものたちを殺したのはアバン。その意思を引き継ぎ、平和にのうのうと生きるお前たち全てが――オレの敵だ」

    「……私も。父を先の大戦で失ったわ」

     マァムの発した静かな声に、ヒュンケルは不意を突かれたように言葉を止める。

    「私の父さんの名前は、ロカ。母さんの名前はレイラ。この二人を、知っている?」

    「……お前は……」

     ヒュンケルがマァムのあげた名に一瞬驚いた様子で眉を上げた。
     やはり、知っている――父と母に、彼は出会ったことがある。
     
    「あのアバンの仲間の、娘か? つまり……お前の仇は、ハドラーということか」

     松明の照らす影がまたゆらりと揺れる。
     ふ、とヒュンケルは低く嗤う。口の端が吊り上がっていびつな笑いがその端正な顔を歪めた。

    「だからその程度の力で無謀にも立ち向かってくるのか? オレを倒して、後ろにいるハドラーを……親の仇を殺すために」

    「違う」

    「……違う、だと」

     はっきりと否定するマァムの言葉に、明らかにヒュンケルの顔色が変わった。白い顔がさらに怒りの気配に色をなくして青褪めるのが薄暗い光の中でも見える。
     マァムはその色を見つめながら、静かに続けた。

    「父さんはあの戦いで亡くなったわ。アバン先生も、そうよ、魔王に殺された。私の大事な人を二人も奪ったのは魔王。でも、私は……奪われたその恨みで魔王を倒したいわけじゃない」
     
     マァムの言葉にヒュンケルは鼻白んだ様子で顎をあげた。

    「悔しいし、悲しいわ。でも……魔王をいくら恨んでも二人は帰ってこない。自分の悲しみを、同じ暴力をふるいかえすことで晴らしてはいけないの」

    「……ふっ」

     ヒュンケルの口の端がまたぐいと歪む。怒りと嘲笑の入り混じった表情で憎々しげに吐き出す言葉が牢に響いた。
     
    「いかにもあいつが、アバンがのたまいそうな口上だ……。そして、力を振るわずにどうする? 黙って踏み躙られたままでいろと? 奪われたものを、奪われたままでいろというのか!?」

    「ちがう!」

    ――違う、違う。そうじゃない。
     
     叫んだマァムの頬を一滴、雫が伝う。
     ぽつ、と微かな音を立てて石の床に落ちたその雫の軌跡を目で追ったヒュンケルが、小さく息を呑んだ。
     
    ――魔王軍の中で、たった一人で。子供が大人になるほどの長い年月を生きていくのは、どれほど辛いことだっただろう。辛さを払い除けるために、強さを手に入れるために、彼はどれほどの困難を超えてきたのだろう。
     お父さんを失って、悲しみの中でずっと一人で生きていて、見えなくなってしまったのだ。
       
    「本当はあなたも分かっているでしょう? 憎しみを晴らすのに暴力を使っても、またあたらしい憎しみが生まれるのよ。
     たとえあなたの言うように、人間を全て滅ぼしても。――あなたのお父さんは」

     ざわり、とヒュンケルのまとう気配が変わった。
     
    「お父さんは、喜ばない――先生も……戻ってこない!」
     
     ばし、と鈍い音がして、腕を拘束されたままのマァムの身体が石の床の上に倒れ込んだ。その頬を張ったヒュンケルの手が痙攣するように震える。

    「う、っ……」
     
    「黙れ! アバンが死んだならば今はお前たちがオレの敵だ。あいつと同じ綺麗事をのたまうお前たちがな! お前たちの守ろうとする人間どもも、全て!」

     口の中が切れて鉄の味がする。小さく呻きながらそれでもマァムは身を起こし、ヒュンケルの声にも怯まずに叫ぶ。

    「目を覚まして、ヒュンケル!アバン先生は間違った人にしるしを渡したりしない。あなたは……自分の憎しみに負けるような、弱い人じゃ――っ、」
     
     なおも言い募るマァムの首をヒュンケルの手が突然がしりと掴んだ。顔ごと持ち上げられて呼吸が詰まる。

    「―っ、う、ぐっ……」
     
    「――人質の立場を忘れているなら、思い出させてやろう。お前のことなど、どうにでもできる」

    「……ヒュン、ケル……っ」

     開いた瞳孔の灰色は、怒りに冷え切って銀色に光っていた。
     どくりどくりと心臓の音が頭の中でこだまする。かろうじて喉を通った息がひゅうと音を鳴らした。
     
    「……オレと、お前の。何が違う? お前が魔物たちを倒し、ハドラーの息の根を止めようとすることと……オレが父の仇の人間たちを、お前たち勇者を倒すことの、何が違う?」
     
     ぎりり、とヒュンケルが奥歯を噛む音が耳に響いた。
     冷たい石の床の上に引き倒されて、鈍い衝撃が身体に走る。のしかかってきたヒュンケルの腰に履いた大剣ががしゃりと大きく音を立てた。

    「――この城に生きていた魔物たちは……父さんは! 勇者たちに無惨に殺された。あの日、お前たち人間の平和を守るためにな……。……お前は、目の前に家族の死体を積まれたことがあるか? ……なければ分かるまい。もしあるならば、分かるだろう……」

     その地を這うような低い声は奇妙な震えを伴って、慟哭にも聞こえた。

    「ヒュ……っ」

    「綺麗事など……もう、聞き飽きた……。
     あいつの……アバンの口からな!」
     
     腹の奥から絞り出す、唸り声のようなヒュンケルの声にマァムはもう一度その名を呼ぼうと唇を開いたが、それより早く首にかかる手に体重がかけられた。
     気道を潰されたマァムは小さくえずいて身体を捩る。縛られた腕が体の下敷きになってぎりぎりと痛んだ。
    「あ、ぐっ……」
     体重をかけて食い込んでくるその指からなんとか逃れようとマァムは首を振ろうとしたが、その強い力に動くことはできなかった。
     苦しい。黒い影に切り取られた暗い天井の映る視界にぼつぼつと黒い染みができて、増えて、大きくなっていく。入らない空気を求めて口が痙攣するように震えた。
     
     息が。これ以上、もう――……。

     視界が暗転しかけた瞬間、喉を締めていた重みが突然消えて呼吸ががすうと通った。
     げほげほと咳き込むマァムを見落ろす彼の表情は影になってよく見えない。
     突然動きを止めたヒュンケルを訝しく思い、掴まれたままの首元に目をやると、掴まれて乱れた服の首元からこぼれ落ちる金の鎖がきらりと小さく松明の光を弾き返した。
     彼の目線の先にあったのは、マァムがつけているアバンのしるしの燦き。
     まるで先生が彼の衝動を止めてくれたかのよう――

    「……ッ!」

     その光に歯軋りをして上半身を起こしたヒュンケルが、呪いの言葉を口から吐いた。
     金色の鎖に手がかけられる。ひゅう、とマァムが息を吸い込む間も無く強く引かれて、首の後ろにそれが食い込む痛みのあとにぶつり、と音がして鎖が切れた。
     
    「……っ、だ……め、!」

     切れ切れの息の合間に何とかそう絞り出す。
     
     肩で息をしたままマァムの首から引きちぎった鎖を握ったヒュンケルの腕が、瘧のように震えた。
     低く唸ったヒュンケルがその鎖を何かを振り切払うように強く振った。しゃり、と鎖が微かに音をたてる。

    「……逃げれば……これを魔物に海に捨てさせる」

     マァムはなおもヒュンケルを呼び止めようとしたが、締められた喉がうまく開かなくて咽せ込んだ。踵を返したヒュンケルが何事か素早く牢屋番の魔物に命じて牢から出ていく。
     短く返事をした牢屋番がそろって鉄格子のはまった扉を引いた。

     がしゃり、と錠の落ちる音が暗い牢屋に重く響く。

    「――っ」

     マァムは仰向けに倒れた身体をなんとか横に向けて息を吐いた。やっと気道が開いて呼吸が通る。
     口の中が切れている。叩かれた頬も、喉も痛かった。
     でも、本当にずきずきと堪えられないほどに痛むのは自分の心だった。
     彼の抱えるとてつもない悲しみと、圧倒的な怒り。
     声は届かない。

    「ヒュンケル……」

    ――どうしたら、伝わるのだろう。どうしたら、彼を止められるのだろう。
     
     冷たい石の床の上で。
     マァムはわずかな鉄格子の隙間から漏れる灯りを見つめて唇を噛んだ。






    ***





    ――冷静にならなければ。自らを律することのできない者になど、何も成し遂げることはできない。
     
     ヒュンケルは昂った自らの感情を押さえ込もうと牢から自室への道を歩いていた。
     腹から息を押し出すようにして、そして深く吸う。じりじりと燻る熾火のように腫れて昂った神経を、一呼吸ごとにわずかずつ冷やすことを意識する。
     
     忌々しい。全てが忌々しい。
     自らの非力を認めることもできぬ愚かな魔王、くだらぬ正義に酔い、信じきってそれを振りかざす小僧ども。

     ――それに、あの女。

     牢の床に落ちた涙が脳裏をよぎる。涙をこぼしたその顔が思い出されて、まだ生々しく殴打の感触の残る右手を思わず目の前で開く。そこには女から奪ったアバンのしるし。
     あのときパプニカで捨てたこれをまた手にすることになるとは。
     どこまでも呪いのように着いて回るアバンの影。見るのも腹立たしいそれを乱暴に懐に捩じ込む。
     
     それでも、牢で自分が女にしたことには吐き気がする思いだった。
     あれほどに短絡的で感情に任せた行動を、なぜ取ってしまったのかは自分でも分からない。
     
    ――あの女の目を見ると、あの哀れみに満ちた声を聞くと、理性が吹き飛んでしまいそうになるのは、何故だ。
     
     脳裏に浮かんだのは、ヒュンケル、と名を苦しそうに呼ぶ女の声と、牢の冷たい床にぽつりと落ちた涙。
     光る雫をこぼして見上げてきた女の顔がまた過ぎって、口から呪いの言葉を吐いてそれを打ち消した。
     
     燭台のみが僅かに光を届ける薄暗い路に、かつりかつりと硬い足音が響く。間隔を空けて灯された揺れる炎に照らされて、目の前に自らの影が長く伸びていた。
     足元からひたりと伸びるその影は歩くごとに別の灯りの光も受けて、ひとつが薄く、ひとつが濃くなって、最後に真黒の長い影へと戻っていく。長い永い回廊を、その繰り返しを睨みつけながら歩んだ。
     時折、番をする骸たちが主人の姿を認めると、乾いた骨の音を立てて端に下がり直立不動の姿勢をとった。
     
     時刻は夕刻から夜にかわる頃か。陽の光の入らぬこの城では、時刻の間隔も曖昧だった。
     闘技場への階段へ続く扉を開けると、肌にまとわりつくような湿った風が濡れた土の匂いを含んで押し寄せてくる。雨がもうすぐ、降るのだろうか。
     ぽかりと空いた黒い空洞のような出口を目指して外へと続く階段を登る。
     闘技場に出ると、一層強い風が渦巻いて吹き付けてきた。幼い頃、上がることを許されなかったこの場所。濁った色の土に固められた地面は、決して元々この色であったわけではないのだろう。数知れぬ生き物の血を吸って、凝り、固まった色。
     
     ぼつり、と落ちた雨粒が、その地面にいっそう黒い染みを描いた。
     
     空を見上げる。蒼緑色の薄気味悪い雲が立ち込めて、見る間に銀の糸を引いて重たい雨粒が落ちてくる。
     
     遠雷が響く。獣が、低く喉を鳴らす音のように。
     
     遠くの空に雷雲がとぐろを巻いて、その中心で一際大きな雷鳴が光った。






    ***






     牢の中で、マァムは夢を見た。



     靄のかかった薄暗い場所。ここがどこなのかは分からない。
     霞がかった視界の遠くに、一人歩く小さな影。

    「……待って」

     マァムはその人影を追いかけた。追いかけなければいけないと思ったから。
     走っても走っても追いつけない。けれどマァムは知っていた。振り向きもしないその小さな人影が歩いていくその先。そこに一人で行ってはいけない。戻れなくなってしまうから。

     全力で走っているのに足がうまく動かない。前を歩く人影はその小ささからおそらく子どもだった。走っているようにも見えないのに、どうして追いつけないのだろう。
     

    「だめ!そっちへ行ったらーー」

     
     必死に手を伸ばすが、ますますその背中は小さくなっていって今にも消えてしまいそうだった。
     だめ。行かないで。
     呼び止めないと。名前を、あの子の名前を呼ばないとーー
     

    「ーー……‼︎」

     声にならない名前を呼んだその瞬間。

     走る足が何かにぶつかった。がくりと身体が傾いで次に気づいた瞬間には、マァムの身体は暗い穴の中へ落ちていった。





     どれくらい、経ったのだろうか。
     マァムが薄らと目を開けると、そこは暗闇の中で。

     横に一人、簡素な身なりの少年が俯いて座っていた。

    「……よかった!無事だったのね」
     
     その少年は、マァムがそう声をかけると俯いたままその銀色の髪をふるわせた。


    「――どうしてオレのところに来たの?」

     少年が小さく溢した言葉にマァムは驚いてぱちりと瞬いた。
     顔をあげた少年は、綺麗な灰色の瞳をしている。どこかでこの色を見たことがある。同じ瞳を持った人に会ったことがある気がする。
     そうマァムが考えるうちに、その灰色の瞳にみるみるうちに涙が溜まってぐしゃりと歪む。

    「オレは……オレの手は。こんなに……汚れてるのに」

     そう呟いて少年が開いた両の手を一面に染めるべたりとついた赤黒い汚れ。
     それをぎゅうと握り締めて、少年は肩を小さく震わせた。

     その少年の細い肩をマァムは思わず抱きしめた。

     はっと息を詰めて体を固くする少年にマァムは自分の中に言葉を探した。

    ――どうして?

     問われてもそこに何かがあるはずも、なかった。

    「理由なんて、ないわ。ただ……貴方を一人にしたくない」

     抱きしめた腕の中で固まったままぎゅう、と身を縮めるその背にそっと手を当ててマァムはつぶやいた。

    「……私にも、どうしたらいいのかわからない。でも、一緒に考えたら、道が見つかるかもしれないわ。だから」

     身動ぎをした身体をもう一度かき抱くと、その温かい体温が伝わってくる。

    「だから。一人で、行かないで。……ヒュンケル」
     
     少年がぱちりとその瞳を瞬いた、その瞬間。




    ーーマァムは固い牢の床の上で、目が覚めた。




    ***






    ――せんせい

    「どうしました? ヒュンケル 」

     呼ぶ声に、くるりとアバンが振り返った。いつもの力の抜けた笑みを浮かべながら。

    「……今のところを、もう一度。
     アバン流刀殺法の奥義は、地を切り、海を切り、空を切る。この3つです。質量のないものを切るのは容易ではありませんよ。力だけでも、剣の技術だけでもない。その本質を見極める目と、剣を扱うための正しい心を養わなければ、修得することはできません」

    「……理論は分かりました。でも、実際にやらなければできるようにならない。教えてください」

     ――お前の持つその技術を早く、よこせ。
     そのためならオレはどんな辛さにも耐えてみせよう。お前に教えを乞うと言う、屈辱にも。
     睨みつけるとアバンがまなじりを下げて困ったように微笑んだ。
     心に暗く影が忍び寄る。またあの顔だ。憐れむような、あの表情。あの顔を見ると心が波立って、ごう、と頭の奥で音が鳴る。
     吹き付ける風に、少し伸びた髪がばらばらと頬を叩いていった。

    「……では……いきますよ」

     アバンが腰を落として剣を構える。

     そうだ、勿体ぶらずに早く教えろ。お前の剣を、その正義の剣とやらを見せてみろ。
     全て吸収したあとに、お前が正義面で奪ったものの重さを思い知らせてやる、
     柄を握り直すとまた風が吹き付けて、構えを取った二人の間を強く吹き抜けていく。耳障りなごうと唸る音がする。風の音か、それともこれはよく聞こえるあの音だっただろうか。

    「ヒュンケル……あなたの本当に切りたいものは、何ですか?」

     アバンが突然、こちらを見据えて静かな声でそう言った。
     構えをとったまま、唐突に白々しく問うてくるアバンに奥歯をぎりりと噛み締める。口の中に金臭さが広がった。

    「オレの本当に切りたいもの……?」
     
     そんなものは、決まっている。
     剣を振りかぶると、その込めた殺気に気づいたのか、焦った様子で目を見開いたアバンが自分の名を短く呼んだ。

    「……待ちなさい、ヒュンケル!」

    ――切りたいものは、お前だ。

     剣を上段に構えたまま跳躍する。全力で打ち下ろしたその瞬間。
     その白刃が当たる寸前に、アバンの姿がかき消えた。

    「……っ」

     虚空を薙いだ剣が、がつりと鈍い音を立てて石畳を割り地面に食い込んだ。

    「どこへ……」

     振り返ると、そこは黒い煙の上がる廃墟だった。
     素早く周りを確認すると、目に入ったのは崩れた家々と破壊された白い石畳の道。瓦礫の間から静かに立ち昇る煙、そこかしこに燻る赤い炎。
     垂れ込めた黒い雲が覆い尽くす空に、折れた尖塔が奇妙な影を描いている。

    ――ここは……そうだ、パプニカ。

     手にした魔剣が鈍い音をたてて何かにぶつかった。足元に目をやると、刃のその先には空を仰いで目を見開き、口を叫びの形に歪めたまま動かない人間。
     その纏う黒い兵装は、元の色が分からないほどに赤黒い血で染めあげられていた。

    「……」

     ぽつ、と雨粒が落ちてくる。もう閉じないその瞳に落ちる。ぽつり。ぽつりと。
     次から次へと、頬に、口に、その血濡れた服に。
    瞳に落ちた雨の雫に、固まったはずの血がなぜか溶け出して赤い涙が目尻から溢れる。口から、目から、雨が幾筋もの赤い線になって流れ出た。それを見るうちに死体の下からじわりと血溜まりが滲み出して、広がっていく。
     その奥にも兵士の遺骸が転がっていた。何人も、何人も。
     横たわる骸のひとつひとつから、血がまた流れ出始めた。濡れた土の上をじわじわと広がり、やがてお互いに混じり合ったその色は足元を紅く染めていく。
     雨混じりの風が吹きつけた。
     ああ、またあの音がする。ごう、と、耳障りな、ずっと聞こえるあの音が。
     血の海の中、その音を振り切るように骸たちへと手を翳す。
     傀儡の技を受けてごとり、ごとりと奇妙な音を立ててそこかしこで死んだはずの兵士たちが立ち上がった。脚のないもの、腕のないもの、頭が奇妙に傾いているもの。
     手に力を込める。痛覚のない骸たちは天から吊られたように一斉に体をぎこちなく震わせると、欠けた身体にも構わず一足を踏み出し、進み始めた。

     骸たちの歩みの中で、立ち上がらない骸が一体、いや、二体。
     よく見るとそれは、あの勇者の小僧とその仲間。

    「……まだ死んでいなかったか」

     翳していた掌を握りしめると、骸たちは不自然な姿勢のままその場でぴたりと動きを止める。青と緑の服の小僧たちはこちらを睨みつけてなんとか立ち上がろうと足掻いていた。

    「待てよ、ヒュンケル…っ」

    「愚かな……。余計な正義など振りかざさなければ、楽に死ねたものを」

     確かもう一匹、仲間がいたはずだ。あの煩い女が。
     走り寄る足音に剣を構え直すと、果たしてあの女が立っていた。
     手に後生大事に握りしめているのは、捨てたはずのしるし。
     
    「待って、ヒュンケル! もう……もう、悪の剣をふるうのはやめて!」

     ごう。頭の中でまた音が鳴る。風の音のような、滝の音のような。一体これは何の音だ。ずっと、ずっと聞こえる。

    「おまえに、何が分かる……」

     向き直った足がびしゃり、と水音をたてる。そうだ、これは血だ。オレの殺してきた、何百という人間たちの。この姿を見ろ。血濡れた赤い、この手を、身体を。
     だがこれは、アバンと同じ色だ。お前たちが師と崇めるものが、オレの家族の血で染めた、その色と同じ。
     通路に累々と横たわる魔物たちは、何度呼んでも揺すっても動かなかった。昨日まで背に乗せて遊んでくれた、ヒュンケル、と呼んでくれた彼ら。
     父のあの優しく抱き上げてくれた腕も、頭を撫でてくれた手も。その思い出も。全て灰となって何も残らなかった。
     オレの家族を、大好きだった父さんを、殺したのはあいつなんだ。

    「あいつを……アバンを、許せるわけがない!」

     だからオレは、繰り返す。アバンと同じ事を。アバンが守った平和とやらを、この手で壊して思い知らせてやる。

    「……もう先生は、いないのに?」

     静かに呟く女が目を伏せる。長い睫毛に縁取られたその目尻から、ひとひらの雫が落ちた。

    「……っ」

     あのときの雫。父さんが落としたのと同じ、灰の中に消えていった雫。
     目尻に溜まっては次々と溢れ落ちる水滴が、厚い雲に隠れて差さないはずの光を弾く。

    「あなたは、もっと強い人のはずよ……」

     違う。強さなど、とうに手に入れた。そのために血反吐を吐きながら鍛錬してきた。駆け出しの小僧の勇者どもになど、負けるはずがない。

    「お願い、聞いて。ヒュンケル」

    「……黙れ」

     女が手の中のしるしをその内に握りしめて一歩歩み寄ってくる。ちゃり、と鎖の擦れる聞き慣れた音がした。あの鎖の。

    「目を覚まして……!」

     ごう。またあの音がした。
     ああ、そうか、これは血の音。オレの身の内に巣食う、恨みの血が渦巻く音だ。
     うるさい その綺麗事を並べる喧しい口を 閉じろ
     
    「……黙れ――黙れっ‼︎」

     目の前が赤く閃く。
     衝動的に女の喉笛へと伸ばしたはずのその手は、しかし虚空を切った。


    「……っ‼︎」

     がくりと傾いだ身体、見開いた目が捉えたのは暗い天井。寝台の上、空に突き出すように鉤型に曲がった自らの指が五本、禍々しく黒い影を描く。

     どくり、どくりと心臓の音が耳にうるさい。

    「……っ、はぁっ……」

     息を吸う音があまりに大きくて、まるで他人のもののように感じられる。
     汗で濡れた額の髪をかきあげて上半身を起こした。がり、と爪で胸元を掻くと指先に触れる感触に違和感があってそこに思わず目を落とす。

    「……っ」

     そうだ、あの鎖はないのだ。もう必要がない。
     アバンは、死んだ。あの女も手中にある。正義のお題目の好きな小僧どもは、あの女を見捨てることなどしまい。のこのこと助けにやってきたところを討ち取って、そして――

    「……様。……ヒュンケル様」

     静かに扉の前でモルグの声がする。

    「……どうした」

    「お休みのところ申し訳ございません。人質が……あの娘が牢から脱走しました。どうやったものか分かりませんが……牢の鍵が消えております」

    「何だと!」

    「面目もございません」

    「言い訳はいい。発見したのはいつだ」

    「つい先程です。牢屋番たちが、近くで爆発音がしたので確認しに行き戻ったら娘が消えていたと。ですが、城の門番の兵たちは、娘が通った形跡はないと申しております」

     ならば外には出ていない。城内には隠れる場所がいくらでもある。崩れた部屋、武器庫、通気孔。

    「門番の数を倍に増やせ。陽動に乗るな。骸どもを並べて入り口から奥へ虱潰しに探せ」

     一息に指示を出し、立てかけてあった剣の柄を握って立ち上がる。


    「……捕らえろ。決して、逃すな」





    ***







    「動かないで」
     
     魔物の後ろで魔弾銃をかちゃり、と音を立てて構えたままそう言うと、食事の用意をしていたらしいその魔物は動きを止めてナイフを置いた。
     
    「これは……驚きました」
     
     振り向かぬままそう言う声には聞き覚えがある。やはり、地底魔城に連れてこられた時にミイラ男達を先導していたあの魔物だった。
     彼の手元には切りかけの塩漬け肉と僅かばかりの野菜。人間の食事に見えるが、その量はせいぜい一人分だった。やはりこの城には彼しか人間がいないのか。それとも主人のための食事だけを作っているのだろうか。
     マァムはそう考えながら、銃口を動かさずに静かに伝える。
     
    「そのナイフから離れて。あなたを傷つけるつもりはないわ」
     
    「おかしなことをおっしゃいますね。ではなぜ、このようなことを?」
     
     ナイフを置いた台から離れる魔物の動きに合わせて魔弾銃を構えたまま、マァムはゆっくりと言った。
     
    「あなたにお願いがあるの。……私を、ヒュンケルのところまで連れて行って」
     
     その言葉に、しかし魔物は焦った様子もなくくつくつと笑う。
     
    「……私に人質としての価値はありませんよ、お嬢さん。私を盾にしても、ヒュンケル様は私ごと切り捨てるでしょう」
     
    「そうは思えない」
     
    「もしそうだとしたら、ますます頷けませんな。どうぞ、その魔法を使うとよろしい」
     
     当然、頷くとは思っていなかったけれど。
     背を向けたまま動かない魔物にマァムは首を振った。
     
    「あなたを盾にして彼を脅すつもりじゃないの。私は、ただ……ヒュンケルともう一度、話がしたい」
     
     そのマァムの言葉に、魔物が驚いた様子で肩越しにこちらを振り向いた。
     
    「ヒュンケル様と話されたのですか?……まさか、牢に?」
    「ええ。……でも、怒らせてしまったわ。私の言葉が……足りなかった」

     魔物が両手を上げてこちらを振り返り、銃を構えるマァムの腫れた頬に目を止めた。

    「そういうことでしたか……」

     魔物はひとつ頷いて、後ろの棚を指差した。

    「そこの棚に薬草があります」
    「私は回復魔法が使えるわ。大丈夫よ」
    「しかし、治していない。魔力を温存されているのでしょう? 使われるとよろしい。勝手ながら……主人の無礼を詫びましょう」

    「……ありがとう」
     
     
     ***
     

     薬草は味も匂いも地上で使われているものと同じだった。おそらくここはヒュンケルのための食料や回復薬を保管する場所なのだろう。
     
    「私は、マァム。あなたは?」
    「モルグと申します」
    「最初に会った時も驚いたの。あなたは……話せるのね」
    「ええ。ほんの少しばかり」
     好好爺然としたどこか愛嬌のある返し方にマァムは思わず笑みを溢した。
     魔王軍の拠点の中で好戦的な様子の全くない魔物と会話を交わしているというのは不思議な状況だった。
    「言葉の通じる魔物に会ったのは初めてですか。死体の魔物に意志があるはずがない、と思われましたかな?」
    「……今までは、そう思っていたわ。でも、私は今、こうしてあなたと話してる」
     マァムが今まで見たことのある不死の魔物は、誰かに操られているかただ人に害を為そうと襲いかかってくるものばかりで、悪しき本能のままに動いているものだと思っていた。
     しかし、この城の魔物たちはそれとは違う気がする。
     マァムのいた地下牢にも牢屋番の骸骨剣士が二体監視についていたが、彼らは魔物同士で時折何事かを話していた。近くに操るものもいないのに。
     それがマァムには驚きだった。
     はっきりと内容は聞こえなかったけれど、とぼけた老人のような口調と、若い、まだ幼さの残るような口調と。
     目の前で、静かな物言いで話すのは腐った死体――と呼ばれる魔物ではあったが、そう呼ぶのは憚られた。小綺麗に整えられた身なり、清潔な服装。落ち窪んだ両の眼窩に片方だけ残る濁った色の瞳は、しかし彼の話す言葉に合わせて意思を持って動いている。
     じっとこちらを見るモルグの薄黄色に濁った瞳を見つめ返してマァムは答えた。
    「あなたたちには……自分の考えが、あるように見えるわ」
     モルグはふむ、と頷いてから小さく笑って頷いた。
    「……やはり、面白いことをおっしゃるお嬢さんですな。アンデッドに自分の考え、ですか。確かにこうして多少お喋りすることはできますが、それがなぜなのかは私にはわかりません。全く話さないアンデッドもおりますしな」
     その言葉にマァムはパプニカで戦ったアンデッドたちを思い出した。あの骸骨たちはヒュンケルが操っていたようだが、やはりこの城に住まうのは傀儡の魔物ばかりではないのかもしれない
    「私は、ヒュンケル様の従者。そう定められてこの世に在るのです。あの方の行く所ならば、どこまでも共に参りましょう。たとえその行先が地獄でも。魔物が恐れる場所ではありません」
     
    「地獄……」
     
     まるで謡うように滔々と続けるモルグの言葉を、マァムは思わず口の中で繰り返した。
     ヒュンケルからは、自ら死へと向かう者の匂いが色濃く感じられる。「人間を滅ぼす」と彼の紡ぐ言葉のその向かう先に、彼の憎む人間たちを殺して歩く血濡れた道のその先に、何処か彼の辿り着くところがあるとは思えなかった。
     
    「そうです。ヒュンケル様の――我々魔王軍の目指すものは魔族と魔物の世界。力が全てを統率する修羅の世界です。……それを人間の言葉では地獄と呼ぶのではないですかな。あの方はその中で生き残るためにずっと鍛錬を続け、戦われてきました」

     彼はずっと戦ってきたのだ。きっとアバン先生への恨みの一心で。
     何とかして、彼を止めたい。救いたい。
     本当は救いたいなんて、傲慢なのかもしれない。――でもせめて、そばにいてあげられたら違うのかもしれないのに。
     
    「……ですが。地獄とは、人間が住むにはいささか辛い場所でしょう。私とて、まだ訪れたことはございませんが」
     
     少し戯けたようなモルグのその口調に、マァムははっと顔をあげた。
     
    「できれば人の身では、行かぬ方がよろしい」

     モルグは、低く静かな声で独りごちるようにそう呟いた。もう半分溶け落ちた瞼の下で黄ばんだ眼球がくるりと動く。
     
    「モルグさん。あなたは、ヒュンケルのこと……」

     モルグは
     
    「――お嬢さん。いえ、マァムさん。あなたをヒュンケル様のところへお連れしましょう。どちらにせよ、我々はあなたを探し出せという命を受けている」

     
    「どうか。……あの方を、助けて差し上げてください」
     
     黒く空いた眼窩の奥には確かに彼自身の、願いがあった。

     
    <続く>


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