空 忘れたくなかったのに。
ときどきキミの声がどんな声だったか思い返さないと、少しずつ滲んで逃げていく輪郭を捕まえられない。
退任する大臣の後任選抜、財政状況の芳しくない村々へ向けた支援策の進言、来週の晩餐会のメニュー、不穏因子の、知らせ。
最後の報告はそっと小さく耳打ちされた。
世界を脅かす脅威が無くなれば、また燻っていた者たちが暗躍し始める。自らの身が危険に晒されなくなると、他人のものが羨ましくなってくるのもまた、人間というものなのだろう。
そんなに思い通りにさせてはやらないけれど。もう十四歳の私とは違うのだから。
大小様々に入り混じった捌かなければいけない書類を端から片付けアポロに指示を出し退室させて、テラスにするりと抜け出した。
パプニカの空は、今日も深い海の色をうつして抜けるようにひろがっている。
小さい頃、父と空を見ながら色々な話をしたのを思い出す。まだ自分が護られ庇護されていた頃の、柔らかな記憶の彼方からずっと変わらない、私の守りたい空。
この空を見上げるたびに彼を探してしまう。でも何度見上げても広い広い一面の青は想うものの姿を見せてくれることはなくて、でもそれを寂しく思う間もないくらい、私の前には取り組むべき課題が山積みだった。
あの時の。彼が光の中に消えていった時の、あの鮮やかな色は、いつだって思い出せるのに。
「……姫! 姫さま‼︎」
ばたばたと回廊を走る足音がして、さっき閉まったばかりの扉がばんと開かれる。アポロが息を切らして走り込んできて、肩をすくめて振り返った。
「もう! 一息くらいつかせてほしいわ。……何事ですか」
「気球塔から、連絡が――……」
「……!」
アポロが続ける言葉が終わるのを待たずに、私は駆け出した。
✴︎✴︎✴︎
螺旋の階段は、気球を抱く空に向かってくるくる回る。
白い階段の上に見える光に向かって駆け上がる。足がもつれてもどかしい。この足が、もっと速く動いたらいいのに。
弾む息でたどり着いた階段の出口に、丸く切り取られた海色の空、それを背景にふわふわと揺れる気球。
――その横に靡くマントと、優しい黒茶の髪の色。
「――レオナ‼︎」
開けた屋上に歩み出る。
くるりと振り返ったその人は、溢れるように笑って軽やかに駆けてくると、私の肩をぎゅっと掴んだ。高い位置にある顔の影が、一番上まで上った太陽を遮って、よく見えない。
あんまりずっと願っていたから、これは夢なのかもしれない。執務の間にうたた寝でもしてしまったのかも。
でも目を瞑ってまた開けてみても、目の前の彼の面影のあるその大きな影は消えなくて。
何度も瞬きを繰り返していると、不安げな声色が落ちてきた。
「な……なんだよレオナ……⁉︎ おれのこと、忘れちゃったの……?」
すこし後ろに身体を引いた彼の後ろから太陽が差す。気まずそうに頬を掻く仕草が変わっていなくて、でもいつか星空の下で聞いた同じ言葉は、精悍な低音に変わっていた。
「……あっ! これ、だめだったかな、ごめん!」
赤くなってばっと肩から手を離すその表情が怒られた子どもみたいで、小さかった彼の姿がふいに重なった。
そっと手を伸ばして頬に触れると、確かに温かくて、そこにいる。
――夢なんかじゃ、ない。
彼の輪郭が空の中に滲む。きらきらと太陽の光がきらめいて、急いで瞬きをすると目の縁から温かいものが溢れて落ちて、涙だと気づいた。
高くなった顔の位置には背伸びしても届かない。首に手を回して飛びつくと、うわぁ、と声をあげて慌てた彼は、でも少しもふらつきもせずに受け止めてくれた。
ふわりと体が持ち上がって宙に浮く。
「ダイくん……ダイくん! ……おかえりなさい!」
「――ただいま! レオナ」
二人だけの冒険の、あの明るい夏の日からもう長い時間が経ったけど。
私の勇者。ずっとずっと、あなたの帰る世界を作ってた。一緒に暮らせるこの世界を。
たぶん完璧になんて、ならないけれど。
ここがあなたの帰る場所。