遠征先にて湿っている。
遠征地の森は、どこまでも湿っている。
空気は重く、靴の裏には泥がまとわりつき、葉裏には水滴が鈍く光る。
だが、この空気は嫌いではない。
土が香る。草木が呻く。命の気配が濃い。
それは、己の探究心を否応なく刺激してくる。
さてどこから観察しようかと足を踏み出す──が。
「……む」
踏み出した足元に、小さな異物感。
見下ろすと、そこには掌ほどの緑の塊がちょこんと座り込んでいた。
カエルだった。
柔らかな皮膚に水をまとい、こちらをじっと見上げている。
「ふむ……逃げないのかね、君は」
しゃがみ込んで観察を始める。
迷彩のように土に紛れた肌色、発達した後肢、小さな指の形状……。
この辺りで見かけるアカガエルの亜種だろうか? だが体色がやや薄い。
記録しておこう。
手帳を取り出し、簡易スケッチを走らせながらふと──
「……」
目が合った気がした。
カエルと、だ。
……くだらない。
目の配置的に、正面からの視認は難しいはずなのに。
それでも、妙な既視感が脳裏に過ったのは事実だった。
本丸には、君がいる。
審神者。今の持ち主。付喪神を従えるもの。
けれど、それだけでは説明のつかない存在。
君が笑えば空気が弾み、
君が沈黙すれば本丸全体が静かになる。
統率ではない。支配でもない。
──重力なのだ…と思ったことがある。
本丸の中心に在るのは、ただ君一人。
自分達は、その周りを廻る衛星の一つでしかない。
先日、君は小さな池を覗き込んで、こう呟いた。
『カエルっていいよね。急に現れて急にいなくなる感じ、好き』
なぜ突然そんなことを言ったのか。
僕にはわからなかった。あや、意味などないのかもしれない。
ただ、今こうして見知らぬ遠征地で、
君の言っていた“カエル”と遭遇し──
真っ先に思い出したのが、その君の言葉だった。
些細なことで、感情が波立つ。
自分は学者だ。合理と記録の徒。
なのに、どうしてこの胸のざわめきには理屈が通じないのか。
なぜカエルごときで、君を思い出す。
なぜ君を思い出して、こうも胸がざわつく。
理解不能だ。
いや、理解したくないだけかもしれない。
「……まったく」
苛立ち紛れに、再びカエルへと視線を戻す。
まだ居た。
同じ場所に、さっきと同じ姿勢で。
変わらずこちらを見ているような──そんな気がする。
「……君がその目で何を見ているかは知らないが、
君がこのまま無事に寝床へ帰れる保証はどこにも無いのだぞ」
語りかけてみても、相手は無言だ。──にもかかわらず。
まるで『分かっているよ』とでも言いたげに、
ぴょん、と一跳びして消えた。
葉陰に、もうその姿はない。
馬鹿げている。
僕は何をしている?
カエルと会話したつもりか?
──いや。
本当は気づいていた。
あの生き物は、ただの媒介に過ぎない。
あの瞬間、あの湿気と静寂の中で、君の気配を感じた。
まるで、君が僕の様子を見に来たかのように錯覚した。
宿営地に戻る。他の遠征部隊の面々が戻り、焚き火の煙が漂う。
私は黙って、自分の帳面を開いた。
今日の出来事を記す。
──観察記録:アカガエル属の一種。
特徴、体長、跳躍距離、目の位置。
書き連ねていくうちに、ふと手が止まる。
あの胸のざわめきを、書きたくなった。
けれど書いてしまえば、何かが壊れるような気がして。
だから私は、こう綴った。
「カエルを見た。
主を思い出した。
理由は、わからない」
火が小さく爆ぜる音がする。
夜は濃くなり、闇がまた深くなる。
書き記した帳面を仕舞う。
寝床へ入り、目を閉じる。
次に目を開けたとき、この胸のざわめきが、何か別のものに名前を変えているかもしれないと……
ほんの少しだけ、思いながら。