本丸の空気は、柔らかい。
帰還してすぐの廊下に、夏草の匂いが漂っていた。
遠征の荷を解き、報告を終えた自室への帰り道。
ふと顔を上げると、縁側に腰掛けている君の姿があった。
団扇を片手に風を仰いでいたが、僕の気配に気づくと、軽く首を傾げ、こちらを見る。
──まるで、何か言いたげに。
「遠征お疲れ様。怪我とかはなかった?」
君が言う。いつも通りの声、いつも通りの表情。
だが、僕は知っている。
その「いつも通り」を、君がどれほど慎重に、大切にしているかを。
だからこそ僕は、静かに近づき、腰を下ろす。
彼女の隣に。少し距離を空けて。
僕の様子をちらりちらりと確認していた君は隣に腰かけた僕を見て少し目を見開く。
「ふむ、心配してくれたのかね」
「別に。」
「では、出発の時普段ならとっくに寝ているはずの君が窓から見送ってくれたのも、この僕の部屋へ向かう廊下にいたのも、偶然かね?」
「む……」
「沈黙は好きに解釈しても?」
「……別に...」
くつり、と笑いがこぼれそうになった。
けれど、笑ってはいけない。
君の“強がり”を、私は誰より丁寧に扱いたい。
少しだけ風が吹く。
蝉が庭のどこかの木で鳴いている。
葉が揺れて、君の髪に木漏れ日が踊る。
ふと、思い出したのは、あのカエル。
湿った森の底で、じっと私を見上げていた。
口にしてみようか。届かなくてもいい。
ただ、今だけは──“遠征報告”という名を借りて、君に想いを預けたかった。
「……君を、思い出したよ」
声が掠れる。考えていたより、ずっと率直な言葉が口から落ちる。小さく小さく息を吐いてから視線を横にやる。
君は、止まっていた。
団扇を動かす手も、瞬きも止めて。
そのまま、ゆっくりとこちらを見る。
「……ふうん…なんで思い出したん?」
「カエルを、だよ」
「…………」
「カエルを見て、君を思い出したんだ」
「……なんて???カエル?????」
君の声が、裏返った。
私は堪える。笑ってはいけない。
真剣な告白を、冗談と取られては意味がない。
「待って、え、えぇ!?カエル!?あの、ぴょこぴょこ跳ねて、ぬるぬるで、あの!?」
「君が以前、池を覗き込んで呟いていただろう。
“急に現れて、急にいなくなる感じが好き”なのだと」
「え、えぇぇ……?覚えてたの、あんな一言……」
「僕はね、君の言葉を忘れたことはないよ」
──沈黙。
君がわずかに頬を赤らめる。それが暑さのせいなのか、他の要因は分からない。
だが、それでいい。
「君を思い出したというのは……単純にね。
僕の目の前に現れて、心を掴んで、なにひとつ説明せずにふいっとどこかへ行ってしまう、そんな在り方が──似ていると思ったのだ」
「……はぁ…?……わっかんねー…」
「……まったく、君という人は」
団扇で顔を隠すように扇ぐ君に、私も目を伏せた。
風が通り抜け、二人の間の距離を少しだけ撫でていく
──もしも、この距離が一跳びで縮まるものなら。
カエルの様に、躊躇いなく君の懐に飛び込めたなら。
けれどそれを望むには、私はまだ勇気が足りない。
学者である私は、君に対するこの感情の名前をまだ定義できていない。
だから今はまだ、ただの“遠征報告”として語るしかないのだ。
「……じゃあ、今度、池にカエル見に行く?」
君が呟く。
小さな声で。
私は、少しだけ息をのむ。視線を向けると、君はまだ顔を隠したまま。
「また、見かけたら教えて」
「……ふむ。それはつまり、次も君を思い出す許可をもらえたと、受け取ってよろしいのかな?」
「…………」
「沈黙は肯定と、解釈しても?」
「……好きにすれば」
──ふふ。君という人は、本当に。
まるであの森のカエルのように
こちらが踏み込むとふいっと逃げ
それでも、なぜか同じ場所にまた戻ってくる。
……逃げないのなら、捕まえてしまおうか。
そんな野暮は、まだしないけれど。
縁側に、生ぬるい風が吹き抜けた。