静かだった。
筆の音も止まり、雨もやみかけていた。
偏頭痛と戦い疲れた主は机に突っ伏したまま、軽く寝息を立てていた。
頭痛の峠は越えたのだろうか。
眉間の皺も薄らぎ、代わりに額のあたりに、薄い汗が滲んでいた。
落ちた髪を耳にかけようと指を伸ばし──
気づけば、そのまま唇が額に触れていた。
……。
(……なにを)
(なにを、しているんだ。僕は)
数秒、思考が停止した。
理性が遅れて警鐘を鳴らす。
けれどもう、すでに行動を起こしてしまっている。
唇を離した瞬間──
君のまつ毛がぴくりと揺れた。
そのまま、ぱちり、と。
真っ赤に染まった君が目を開けた。
目が合った。僕は動けなかった。
顔が近すぎる。
言い訳も準備していない。
何より、触れた唇に君の額の感触がまだ残っている気がして──その温もりが、僕を縫い止めていた。
「………………へ???」
困惑と驚愕と、ほんの少しの“照れ”が混じった声だった。
まったく君らしい。危機感が足りない。
こんな状況下で、怒るでもなく、泣くでもなく、
ただ「へ?」と言ってしまうあたりが。
(……ここから入れる保険は、あっただろうか)
そんな考えが脳裏をよぎる。
少なくとも“反省”や“刀解”で済むような保険はない。
どう誤魔化そうか。
額の熱を測っていた? いやそれは無理がある。
霊障か何かを確認した? ……嘘が過ぎる。
君はまだ目を瞬かせたまま、動かない。
額に触れた唇の痕がじんわりと赤く染まり始めている。
これは──謝るべきか?
だが謝れば、僕の行為が“明確な意志”の元だったと伝わってしまう。
……いや、既に伝わっているか。
君が、額に手を伸ばした。
こちらに寄越した視線は、まるで“さっきの続きを求める”ような、あるいは“どうしてそんなことをしたのか問おうとする”ような、曖昧な熱を帯びている。
僕は思わずその手を取った。
指先は少し汗ばんでいて、でもしっかりと僕の手を握り返してきた。
「…その…すまない」
それが、精一杯だった。
理性を取り繕いながら、ぎりぎり口にできる言葉。
けれど君は、僕の手を振りほどかなかった。
むしろ指を軽く絡めてくる。
頬はまだ赤いまま、でも──微かに笑っていた。
……助かった、と思った。
同時に、どうしようもなく、惜しいとも思った。
この子は、僕を許してくれる。
どんなに男士として常軌を逸した感情を向けても、
“先生”と呼んでくれている。
けれど、今この瞬間から、もう誤魔化す理由はなくなった。僕は、明確に君に触れた。
“欲しい”と思っていることを、行動で示してしまった。
後戻りは、もうできない。
「……熱を、測ろうと、思ったもので、つい」
ぎこちない嘘を口にすると、
君はまた、「……そっか」と笑った。
「じゃあ、次も熱測る時はその方法でお願い」
……それは、つまり。次が、あると。
僕の中の理性が、最後の警鐘を鳴らした。
けれど、それはもはや遠くの祭囃子のようで、
今はただ、目の前の君の熱が全てだった。
(……信頼されている)
(縋られている)
(そして、もしかしなくても、
選ばれようとしている……?)
指を握る力が、少し強くなった。
それは、君の方からだった。
ああ──
これは、もう理性で覆い隠せるものではない。
この感情は、確かに恋で。
それ以上の執着で。
君という存在の、全てを欲してやまない“熱病”だ。
雨は、止んでいた。
けれど、心の奥は、嵐のように荒れている。
──逃げるなら今しかないよ、君。
そう思いながら、もう一度その額に顔を近づける。
今度は、正面から、誤魔化す理由などないまま。