『イサミ、すまないイサミ、ゆるしてくれ』今日、1人の青年が仏道を修行する為に門をくぐった。
「初めまして、本日からよろしくお願いいたします」
悲しそうに伏せられる青年の瞼は、どこか色ぽく、
真っ直ぐにこちらを射ぬくアーモンドの瞳は、この道を唐突に目指す者としては珍しくガラスのように透明で美しく輝いていた。
「ああ、初めましてアオ・イサミ君。
私はここの住職だ。
わからないことがあればなんでも聞いてくれ
ささ、入ってくれ」
「はい」
靴を脱ぎ、静静と長い廊下を歩く姿もまた水彩画のように儚く、ほんの少し目を離してしまえば消えて無くなってしまいそうな程なのに、
ズボンから見える鍛え上げた二本の脚は何年もそこにある大木のように逞しく、生命力に満ち溢れているようにも見えるのだから不思議だ。
「ここが今日から君の家だ」
「……はい」
"家"という単語を聞いた瞬間、アオ・イサミ君の瞳はさらにキラキラと輝き、泣くのを堪えるように瞼を伏せる。
突如地球に現れたデスドライヴズによる爪痕は深い。
きっと彼もまた大切な家族を失ってしまったのだろうと、努めて明るく扉を開けて回る。
「ここの部屋は一番庭が綺麗に見える場所なんだよアオ君」
「……ぁ、本当ですね」
ようやくそれであアオ・イサミ君の伏せられたままの顔は上げられ、美しい庭を眺め微笑む
「毎朝、私達が綺麗にしているんだ
そうやって動けばお腹が空く。
お腹が空けばご飯が美味しい。
誰かと食べればもっと美味しい」
「……」
身1つ、心1つでやって来たアオ・イサミ君はどこか軽い風船のような危うさで
目を離せば飛んで消えてしまいそうな儚さがあった。
そんなアオ・イサミ青年が来て、数日。
夜中に起きてしまった住職。
「……ああ、今何時だろう」
朝日と共に起き、月と共に眠る生活をしているが
年と共に寝る時間は短くなり、ふとしたもの音や尿意や腰痛で起きてしまう。
煎餅布団から起き上がると
ギシギシと木の鳴る音がする。
これはいつもの、家鳴りだろうとゴキゴキと鳴りそうな程に固まった身体を伸ばしてゆっくりと立ち上がる。
1度目覚めてしまえば、すぐに眠ることなどできない。
ならば、厠へ行き、厨(くりや)で水を飲み
夜風に当たり気分転換でもしようと戸を開け、ギシギシとしなる冷たい床を歩く
ホーホーホー
と鳴く梟の鳴き声がどこか怪しく、何か妖のような雰囲気さえある。
チリンチリン
と鳴く虫の音は、子供が転がしてしまった鈴の音にも聞こえる。
オギャアオギャアオギャア
と鳴く赤子の泣くような声にも聞こえる猫の声は深夜に聞けば気味が悪く、
朝とはまた違った生き物がそこにいるような気さえする。
ざわざわ
と草木が掠れる音が、何者かがこそこそと話す声にも聞こえる。
やはり、こんな夜遅くに出歩くべきではなかったかと足早に目的を済ませ
来た道を見る。
ピタリ、と足が硬直し、それを見てしまう。
黒く大きな影。
あの辺りにあんな大きな岩も木も無かった筈だと、先ほど潤したばかりの喉が恐怖で干上がり、ゴクリと唾を飲んで、何かの見間違えかと目蓋を数度、緊張と恐怖で痙攣させながらじっとその影を見つめるが、今日は生憎の天気で月夜の光がその影の正体を明かしてくれないのだから、身体は石化したようにピクリとも動けない。
あれは、この世のものではない。
それだけは、頬に当たる生暖かい異様な空気でひしひしと感じる。
『イサミ、すまない、イサミ』
う"あ"ぁ"ぁ"ぁ"!!!!と、叫ばなかったことが奇跡だった。
実際には喉が恐怖で張り付いたようになり、「ぁ"、ぁ"」と魚のように口をパクパクとさせながらあれに感づかれはまずいと口を手で本能的に覆い隠して、息を殺していた。
『イサミ、ゆるしてくれ、イサミ』
完全に人語を介するその影に恐怖する。
聞き間違えや、何かの鳴き声ではない。
子供や門下生の悪戯なんて可愛いものでもない。
口を両手でふさいでいるせいで耳を塞げず、異様な生暖い風がその怪しい声を耳朶に響かせねっとりと一言一句、確実にこれが夢幻の類いではないと、伝えてくる。
『イサミ、ゆるしてくれ、イサミ。
もしもゆるしてくれるならこの戸を開けてまた私に君の顔を見せてくれないか』
ああ、ああ!
そうだ、そうだった!
あの巨大な影が開けようとしている部屋は、つい最近来たばかりの
アオ・イサミ君の部屋じゃないか!
これはいけない!
アオ君!その戸を開けちゃならん!
そう忠告しに行きたいが、厨からアオ・イサミ君の部屋に繋がる道はたった1つ
つまり、あの大きな影の目の前を通らなければいけないのだ!
立っていることが精一杯で、ガクガクと震える膝は如実に恐怖を全身に伝える。
『イサミ、ゆるしてくれ、イサミ
もしも君がゆるしてくれるのならば、この先の私の全ては君のものだ』
ああ、ああ!恐ろしい!
巨大な影が囁く甘い声は愛おしい人に向けるそれで
きっとアオ君にはその声が愛おしい人の声に聞こえるのだろう。
だが、開けては駄目だアオ君!
それは君の恋おしい人じゃない!
しかし、願いは通じず、
ゆっくりとアオ・イサミ君の部屋の扉は開き、人影が出るとぼんやりと緑の光が照らしその人影が間違いなく、アオ・イサミ君だと視認できてしまう。
ああ、ああ!いけないアオ君!
まるで恋人と手を繋ぐように手を伸ばした瞬間、緑の光はアオ・イサミ君ごと消えたのだ
あれは!あれはなんなんだ!?!?
ホタルがあんな大きいものか!
しくしくと泣くような声を出すものか!
あんな甘い声を出せる生物がこの世の中にいるものか!
気がつけば天井を見ていた、住職は朝日と共に急いでイサミの部屋に駆けつけ、腰を抜かす。
そこには、巨人のような足跡と、両手を付いていた痕跡が残っていたのだ。
ああ、ああ!
昨夜の巨大な影は本物だったのだ!
夢幻ではなかったのだ!!!
「アオ君!失礼するよ!!!!」
戸を開け放ち、住職は唖然とする。
なぜならば、アオ・イサミ青年がいたらしき痕跡が一切ないのだ。
住職が持って来た、教本や布団はきちんとそのまま置いてあり
1mmも使って置き直した痕跡がないのだ。
人間が1人、確かにここにいたという暖かさが無いのだ。
まるで、初めからアオ・イサミ君なんて人物は夢幻でいなかったかのようで
これが神隠しか、狸か狐に化かされたのかと思うほうがまだ現実的で、
しかし、アオ・イサミ君を歓迎する為に劣化した畳を取り替えたばかりの新しいイグサの香りだけは、
確かにここにアオ・イサミ君がいたという記憶と結びつき
その顔を思い出すことができた。
「け、警察か?救急か?」
人、1人消えたのだ。
しかるべき場所に連絡すべきだと慌てて唯一ある固定電話に飛び付こうとしたところで、1本の電話がかかり
その必要がなくなったのだった。
◆
『この度は、驚かせてもうしわけがなかった』
「いえ、いえ、まさかこの世界を救ったブレイバーン様とは
私も驚いてしまい、申し訳ないくらいです」
9mのロボット、ブレイバーンが庭に座り頭を下げる光景に慌てて「顔を上げてください」と懇願するくらいだった。
「俺からも、勝手にいなくなってしまってすいませんでした」
「いいんですよ、いいんですよ
行くべき時に行かねば掴めないものがあるのですから」
「はい、ありがとうございました」
そう言い、真っ直ぐに顔を上げたアオ・イサミ君の顔は晴れやかで、迷いが無く憑き物が落ちたようにしっかりと生命力に満ち溢れた若者の顔をしていた。
これならもう心配はないだろうと、2人を見送り、庭に再びできたあの巨大な足跡すらあの2人の愛の刻印のように見え
しばらくは庭掃除をしないでおこうと門下生達と頷き笑い合った。
補足。
Q「なぜ使った痕跡が無かったのだ?」
A「自衛隊の癖で1mmも違わずに元に戻してしまいました」