弄んでいたらバチが恋をしている女性は可愛いと思う。
瞳孔が大きくなり、その瞳はキラキラと輝く。
それが自分に向けられ、さらに自分も憎からず思っている相手からなら尚更だ。
降谷零はそんなことを頭の片隅で考えながら、宮野志保がデスクまで持ってきた資料の説明をするのを聞いていた。
普段はつけていない小ぶりなピアスをつけ、その身体からは微かにスパイシーな香水の香りもする。
年上の降谷に合わせ、大人びた雰囲気を醸し出そうとしているのかもしれない。
「……というわけだから、明日には完全なデータを提出できると……な、なに?」
デスクに頬杖をついて志保の顔をじっと見つめている降谷に気付いて、志保が説明の言葉を止める。
狼狽えた様子で僅かに頬を染め、降谷を見つめ返してきた。
そのグリーンの瞳は、やはり煌めいている。
「ちゃんと聞いてたよ。でも、明日詳細データが出るなら、報告は明日でもよかったのに」
「……それは、少しでも進捗情報があったほうがいいかと思ったから」
忙しなく横髪を耳にかける爪は、ミルキーなカラーのグラデーション。
研究職の彼女らしくもない。
こうして降谷に会う少しの時間のために、自分を彩ってきているのがよくわかる。降谷が気付くかどうかもわからない色を選ぶために、どれほどの時間をかけたのか考えれば口元が緩んだ。
「そうか、ありがとう。志保さんの仕事は早くて丁寧だから助かるよ」
笑みを見せれば、わかりやすく志保の表情も綻んだ。
その如実な変化が可愛らしく、つい降谷には悪戯心が出る。
彼女の細い手を取って、その手首に顔を近づけた。
びくりとその手は震えるが、振り払われることはない。
「今日、香水つけてる? もしかして仕事が終わったら、デートの予定でもあるのかな」
わざと、そんなことを聞く自分は大層意地が悪いと思う。
彼女にそんな相手がいないことは、よく知っているのに。
肌が触れるか触れないかのところで、吐息だけを彼女に掠めさせて顔を上げた。
降谷の行動に対して、志保は耳まで肌を赤く染める。
「志保さん?」
しれっと彼女の名前を呼んでみると、志保の首が大きく左右に振れる。
「で、デートする相手なんか、いないわよ。香水は、その……たまたま、見つけていい匂いだったから」
志保は視線を逸らしながら言った。
予想通りの答えに降谷は満足し、親指でするりと滑らかな手の甲を撫でて細い手首を解放する。
「じゃあ、このあと夕飯一緒にどう? 今日は定時に上がれるんだ」
部下を誘うのと同じようなトーンで誘いの言葉をかければ、彼女は一瞬固まったのちにこくこくと頷いた。
そして、嬉しそうに笑うのだ。
恋をしている女性は可愛い。
その中でも志保は特別だ。
こちらの一挙手一投足に反応する志保を長く見ていたくて、彼女の恋心に気付かない振りをしてしまう。
いつか、降谷も彼女と同じ気持ちなのだと告げれば、彼女はどんな顔をするだろう。
確実に訪れるだろう、その日に思いを馳せる。
早く訪れさせたい気もするが、やはりいまはこの状況を楽しみたい。
志保につられるように、降谷は余裕を含んだ笑みを浮かべた。
***
その日、降谷は喫茶ポアロのバイトから警察庁に向かっていた。
気分的に歩きたかったために、車は遠めのパーキングに停めて警察庁近くの公園内を歩く。
木々は赤く染まりかけ、秋の気配を感じる。
園内には若い男女が肩を寄せ合って歩く姿も見える。この微妙な肌寒さは、恋人たちにとって幸いだろう。
その中に、見慣れた赤茶の髪の毛が目に入る。
秋色のロングワンピースを着た後ろ姿。
見間違うはずもない。
風に靡く髪の毛を志保が片手で押さえたところで、彼女に近づく人影が現れた。
遠目でよくはわからないが、降谷の知らない男であることは確認できる。
ウェーブのかかった明るい色の髪に、眼鏡をかけた細身の男だ。
志保とそれほど歳が変わらなそうな彼は、彼女の髪の毛についていた落ち葉を躊躇いもなく取った。
志保は屈託なく笑いながらそれを受け入れ、同じように男の髪の毛に触れる。
そして、それを優しい手つきで撫でた。
(……あれ?)
もや、とした居心地の悪さ。
降谷は不思議と彼女らを見ていることができず、そこから離れるように進行方向を変えて庁舎方面への公園出口へと向かう。
顎に手を触れさせながら、今見た光景を脳内で反芻させた。
ここ最近───といっても月単位で、志保とは顔を合わせていなかった。
降谷自身も仕事が忙しく、メールやメッセージアプリでの連絡すら取っていない。
スマートフォンに届いていた、彼女からのメッセージを何度かスルーしてしまったことさえある。
(あれ?)
両手をブルゾンのポケットに突っ込み、横断歩道を渡る。
庁舎に入り、エレベーターの中でも首を傾げる。
普段は更衣室でスーツに着替えてなからデスクにつくのに、それも忘れてしまっていた。
「降谷さん、お疲れ様です」
不意に、瞬きの動作を思い出す。
デスクのそばにやってきた風見裕也が声を掛けてくるまで、仕事用のパソコンの電源も入れずにぼんやりしていたようだ。
「………………なんだ?」
降谷の不機嫌な問いに、風見は戸惑いの色を見せながら腕時計に視線を落とす。そして、片手でジャケットの内ポケットを探った。
「あの……降谷さんに呼ばれたので来たんですが」
風見は取り出したスマートフォンを操作して、メッセージを表示させる。確かに、昨晩そんな指示を出した気がする。
降谷は髪の毛をくしゃくしゃと掻き混ぜると、悪い、と部下に謝罪の言葉を投げた。
働いていなかった頭を稼働させるため、両手で軽く自らの頬を打つ。
「大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。ここのところ忙しかったから、少し疲れが出たかな」
「ご無理はされませんよう。あ、そうだ……よろしければ」
風見はスーツのポケットからいくつかの個包装の飴を取り出してデスクに置いた。強面の彼から出てきたイチゴ模様のそれに、降谷は苦笑を漏らす。
「随分と可愛いのが出てきたな」
「さっき、宮野さんにもらったんですよ。たまたま本庁のエントランスで出会って」
宮野、という言葉にぴくりと指先が反応する。
「……彼女、来てたのか」
先ほど公園で見かけた姿は、風見と会った後だったらしい。
「ええ。捜査一課の高木に用事があったようですね」
「用事って?」
「あ、そこまでは……。なにか、気にかかることでも?」
それもそうだ。
風見に話す義理などないだろう。
降谷はピンク色の飴をひとつ手に取る。
「いや、なんでもない。彼女、一人だったか?」
「……え? あ、はい。ただ、これから待ち合わせだとかで、少し急いでいる様子でしたね」
眼鏡をかけた明るい髪色の男の姿が思い浮かぶ。
待ち合わせというのは十中八九彼のことだろう。
「降谷さん?」
「……なんだ」
「あの、自分への用件は……」
再びの苛立たしげな降谷の振る舞いに、風見はおずおずと告げる。
彼を呼び出したのは自分であることを再度思い出す。
女一人のことで、こんなに頭が回らなくなるとは。
頭から水でもかぶりたい気分だ。
ようやくパソコンの電源を入れると、降谷は仕事へと意識を集中させた。