志保さんに怒る降谷さんの話降谷零は腹を立てていた。
なぜ、彼が怒っているのか。
それは多分に、宮野志保に責任があった。
彼が強く掴むのは、志保の手首。どうあがいても抜けられそうもないので、引かれるままに志保は大人しく従う。
乱暴と言っていい動作で降谷はひとつのドアを開けると、その内側へと志保を引き摺り込んだ。
ここは米花市の中心部に位置するホテル。取調べ目的と嘯いて、降谷は支配人に空いている部屋を用意させていた。
そして、つい先刻まで志保がいたのも、同じホテルの別の部屋だった。
何故宿泊目的でもなく、ホテルの一室にいたかと言えば、それは志保の失態、そして油断だった。
少し前から志保に付き纏っていたストーカーに連れ去られ、軟禁されそうになったのだ。
ストーカー程度、一人でなんとかなると思い、身元を突き止めるために泳がせていたところ、その男は思いのほか早く志保に接触してきた。
まだそこまでの行動力はないと考えていたため、心構えも装備も不十分だった。
不意を突かれて、気付けばホテルのベッドの上。手足を縛られて身動きできない状態だった。
幸い、以前ちらりと不審者について工藤新一に話していたことが功を奏し、志保の不在を不審に思った彼が、たまたま一緒にいたという降谷と一緒に志保が捕らえられていた部屋へと踏み込んできてくれた。
ただ、ちょうど彼らが踏み込んだ瞬間は、ストーカーによって顔に精液がかけられたところだったため、手放しで喜ぶのは難しかったが。
生臭い男の体液の匂いに咽せていれば、降谷がストーカーを取り押さえ、工藤は志保に駆け寄って拘束を解いてくれた。
すぐに工藤が用意してくれた濡れタオルで顔を拭っている間に、降谷はストーカーをベルトで縛り上げ、その腹を固い革靴の爪先で蹴り上げていた。普段、温厚な彼にしては珍しい行為だ。
降谷は警察を呼んだ旨を告げると、あとは任せたと工藤に言い置いて、志保を連れて部屋を出た。
そして、今に至る。
「取り調べは、あなたの仕事じゃないでしょ……」
個人のストーカー事件など、彼が関わるような案件ではない。
本来なら警視庁の生活安全課あたりの担当のはずだ。
「ホテルに対する方便に決まってるだろ。本庁にも連絡してある。宮野さんは精神的にひどいショックを受けているため、話は明日にしてくれと」
「別に、ショックなんか」
ずんずんと手を引かれるまま部屋の中を進めば、美しく整えられたダブルサイズのベッドが置かれた寝室。
降谷はその上に志保の身体を投げ出す。ベッドのスプリングに身体が跳ねた。
「ちょっと、なにす……」
文句を言う前に、志保は男の身体によって組み敷かれてしまう。
腰の上を跨がれ、両手首は一纏めに掴まれて頭の上で滑らかなシーツに縫い止められた。
相手は片手だというのに、振り解こうとしてもびくともしない。細身に見える身体だが、さすがは警察官というところか。
艶やかな金の前髪の奥から、いつになく暗い色をした青い瞳が志保を見る。
「降谷、さん……?」
尋常でない空気を感じ、志保の声は自然と彼の機嫌を窺うように小さくなる。
「……一人でどうにかできると思っていたのか?」
組織が壊滅し、数年の時間をかけて彼とはそれなりに親しい間柄になっていた。
その間、喧嘩もしたし説教をされたこともある。
しかし、いま頭上から降ってきたような低い声を聞いたのは初めてだった。
ずくん、と緊張に心臓が強く鳴る。
それは、組織の人間を身近に感じたときと似ている。
一瞬にして冷や汗が背中に広がるが、怯えを表情に出すのは癪だった。
志保は、自分を押さえつける男の顔を睨め付けて言う。
「あんなの、隙を見て逃げられたわ」
すう、と降谷の瞳が細まった。
「隙ができるまで、あの男にレイプされ続けて、か」
手足を縛られ、ストーカーの男が志保の目の前で性器を取り出した時の光景が思い出される。
あのとき感じた、恐怖感と嫌悪感。
それを見透かされるようで降谷から目を逸らす。
「それは……そんなことになる前に、どうにか……」
「ふざけるなよ」
言葉を遮り、降谷の手のひらが乱暴に志保の顔を擦った。
あのストーカーの吐き出した体液で汚された部分だ。
工藤が丁寧に拭き取ってくれたおかげで欠片も残ってはいないはずだが、残滓でも見えるかのように彼の手が擦ってくる。
「……ん、っぷ」
苦しさに頭を振る合間に、ちっ、と舌打ちが聞こえたのは気のせいではないと思う。
「新一くんが異変に気付かなかったら、どうなってたと思う」
「……逃げられたわよ。あなたたちが来なくたって」
「拘束されていたのに? 弛緩剤でも打たれたらどうする。君を傷つけることも厭わない輩に、足の腱を切られたら? 都心のホテルじゃなく、車で山奥に連れ去られていたら?」
降谷はネクタイを解くと、志保の身体をうつ伏せにしてその手首を後ろ手に縛り上げた。血流が止まるような、容赦のない力加減だ。
「ちょっと、なにす……」
再び仰向けにされた志保の抗議など聞く様子も見せず、降谷は上着の内ポケットから錠剤の入ったPTPシートを一枚取り出した。
青い錠剤の詰まったそれに、志保は嫌な予感を覚える。
「あの男が所持していたものの一部だよ。最近、よく繁華街で出回ってる、媚薬の混ざったデートレイプドラッグだな」
ぱち、と音を立てて中から錠剤をひとつ取り出した。
「待って……まさか」
「君がどんな目に遭いそうだったのか、教えてやる」
「うそ、ねえ……やめて……!」
「やめて、で犯罪が止まるなら、僕は用無しだな」
頬を強く掴まれ、無理やり開けさせられた口から、喉奥まで錠剤が差し込まれる。抵抗のために噛みつこうとしたが、その前にさっさと彼の指は逃げ去ってしまった。
吐き出す暇もなく、志保の唇を塞いだのは降谷のそれだった。
キスなんて甘いものではない。
流し込まれる温い唾液によって、舌の上の錠剤が崩れていくのが感じ取れた。
風味もなにもない薬は、唾液と共に志保の喉へと流れ落ちていく。
喉が動いたのを確認したのか、降谷は顔を離して起き上がると、濡れた口元を上着の袖で拭った。
「安心しろ。科警研の分析によれば、身体に害はない。そのうち身体が怠くなって、感覚が鋭敏になってくるだけだ」
「……どうして、こんなこと……」
「君の好きな科学実験と同じさ。仮説を立てて検証する。───確か、捕まっても隙を見て逃げられるんだったよな?」
やってみろ、と降谷は冷たい瞳で志保を見下ろした。