不意に近づく息 床に座り、対面した状態でさわさわと両手で頭部を触られている。仮にも恋仲であるならば、その触れ合いに幾何かの熱や甘さがあっても良さそうだが、そういうものは伝わってこない。恋仲になるその前からも、頭を撫でられることはあった。元より幾分、手の主は他人に対して距離の近い性質があった。そこに多少なりとも周囲よりも後輩として気にかけられていたとは感じている。身長差が丁度良かったこともあるだろうが、その触れ合いは単に幼子への称賛対応に似ていた。少々悔しさはあったが、かと言って不快ではなかった。さて、要するに眼前の彼は常闇の感触が人の頭皮とは違うから気に入ったようだった。
しかしながら、二人の関係が少しばかり変化した頃から、こうやってただひたすら感触を楽しむような触れ方をしてくるようになった。無機質とまではいかないが、これまでの褒美をくれるような特別な触れ方と違っており、少なからず戸惑った。恋仲の方がむしろ情熱的になりそうなものなのに、違っていたのだ。いつも唐突に始まり、わしわしと心地よい程度の乱暴さで触れられ、本人が満足したらなのか知らないが唐突に終わる。不思議ではあるが、嫌なわけではないので常闇は好きにさせている。しかし、熱がないとはいえ、恋仲の大きな手で触れられれば心臓は高鳴り、身体は緊張をする。そんな常闇の心境を知ってか知らずか、今日もまたホークスは両手で常闇の頭を撫でていた。頭部から後頭部へ移る手を、常闇は少し頭を下げて目を閉じて受け入れていた。両頬が包まれ、小指の先が首元に触れ、くすぐったさに首を竦めた。親指が嘴の根本をかすり、ぴたりと手が止まった。どうしたのたのかと目を開けば、ホークスがじっと嘴を見つめていた。
「ねぇ、常闇君って初めて?」
何のことだろうか、と両頬を包まれたまま軽く首を傾げると、ああ、とホークスが呟いた。
「キスとか、なんかそういうの」
突然の言葉に常闇の目が瞬いた。恋仲ではあるが、そういう話題をしたこともなければ雰囲気になったことすらない。そして、その言葉にもまた特段の熱はないように感じられた。だから素直に驚いた。今だってそうだ。そんな風に自分へ触れてはいなかったではないか、と思うのだ。
「ごめん、さすがにデリカシーのない聞き方だったね」
なんでもない、と手が頬から離れていく。ホークスの手の動きを目で追えば、自然と常闇の目線は下に落ちた。
「…そういうことはもちろん、恋人も、貴方が初めてだ」
短い沈黙の後、視線を上げて目線がぱちりと合ってから常闇は答えた。聞いたのはホークスにも関わらず、答えを聞いて瞬きの回数が増えるのは、またホークスの方だった。そう、と小さく声が漏れた。
「貴方は、どうなんだ」
当然のように聞き返した常闇に、ホークスは口を一瞬噤んだ。
「俺は、まぁ違うんだけど」
既にデリカシーは欠いているが、何をどうと具体的に言葉にするのは流石に酷すぎるのはホークスも理解していたようだ。常闇もホークスの回答は想定通りだったのだろう。ふっと小さく笑い、そうだろうな、と呟いた。
「貴方は俺より七つも年上で、いや年齢は関係ないな。見目も良く、人間性も魅力的な人だし、実際に多くの人に慕われている。」
「…ずいぶん誉めてくれるじゃん」
ともすれば嫌味に聞こえる言葉だが、そういう感情は常闇には一切無い。
「だから、貴方が初めてじゃないのは当然のことと思っている」
真っすぐに目を見て常闇が告げる。実に彼らしい仕草だったが、不意にまた常闇の視線が落ちた。頭部が鳥であるからか、他人よりも表情が読みづらい。その分、彼の瞳は彼の気持ちを雄弁に語る。話を持ち掛けたのは自分なのに、勝手なことだと思いながらもホークスは彼の気持ちを取りこぼさないようにとじっと見つめていた。嫉妬心や悲しみと言った一般的に想像されるような空気はなかった。でも、何故か何かしら言い淀んでいる雰囲気があった。
「だが、真に失礼ではあるが…」
「いいよ、なんでも言って」
普段はハッキリと自分の意見を言う彼にしては珍しいことだ。何度か悩む仕草をする常闇の膝の上に置かれた手の指先を握った。柔く握ると、視線が僅かに持ち上がった。勝手な嫉妬でも罵声でも、軽蔑でもなんでも良かった。
「ん?」
促しに、ようやく口が開いた。
「その、初めての相手は、貴方が心から好いた人だったか?」
「え?」
予想外の言葉に目を丸くした。遠慮がち、だが力強く常闇が握られた指先を握り返した。
「初めての…キスは、好きな人が良いと言うだろう」
ホークスは、まるで物語の台詞だと思った。常闇は眩しいほどに純粋で真っすぐな性格だ。こんなセリフは通常なら陳腐に聞こえるが、常闇の高潔な精神から本心なのだろうと思わせる何かがある。だが、ふと、ホークスは彼の大切な友人たちの姿が思い浮かんできた。普段から仲の良さは会話の端々から感じ取っていた。誰もが志高く、頼もしい立派なヒーローだ。その反面、集まれば年相応の溌溂とした少年少女たちだった。特に女子たちは、ヒーローである時は勇ましいがスーツを脱げば話題や言動は高校生そのものだった。年齢的には、恋愛話だって興味津々だったことだろう。常闇が積極的に恋愛話の輪に入るとは思わないが、おせっかいで可愛らしい同級生たちに巻き込まれた日もあったのかもしれない。彼女たちの会話の中で、理想の恋の話題でもあったのかもしれない。それは全てただの想像だが、想像ですら彼らの眩しさに思わずホークスは目を細めた。そんな想像をするのはホークスの言葉を返しただけと思うが、古風な言い回しの多い彼からキスという単語が出てくるのが意外だったからだ。
「貴方が好いた人と、していたのならいいな、と、思っている」
常闇の言葉は丁寧だ。じわじわと心に染み入ってくる感覚がある。両手の親指で、ゆっくりと常闇の手の甲を撫でた。
「さっきからずっとデリカシーないから諦めて重ねちゃうけどさ、なんでそんなこと思うの?」
ともすれば追い込むような質問だが、単なる疑問だと常闇は分かっていた。
「説明は難しいが…初めてのキスが貴方にとって良き思い出であって欲しいと思っているからだろうか」
ついまじまじと目の前の常闇を見つめた。撫でていた指を止め、きゅっと握った。常闇は気まずいのか、ホークスを見ずに両手を見つめていた。感情こそは読み取れないが、指先の冷たさにホークスは小さく息を吐いた。
「俺ね、意味もなく常闇君に触れたくなるんだ。君にとっては迷惑な話だろうけど」
途端、触れていた指先が熱くなり、常闇が驚いて顔を上げた。思ってもいない言葉だったからだ。
そもそも、ホークスは人との距離感が近い。情熱を感じることはない。恋仲になったからと言って、何が変わったかわからない。それが常闇の考えるホークスだ。だが、そう思い込んでいるだけではなかったか。
こんな風に向かい合って、何が起きるでもなく二人過ごすことが、本当に何も変化がないと言い切れただろうか。その視線や手が、慈しむようなものであることに気づいていなかったわけではない。手も空気も視線も、全てが心地よかった。その心地良さを常闇は享受していたのだ。
右手が持ち上がり、ホークスの唇が常闇の爪をかすめた。握る力が緩まったので、常闇はいつも自分がされているように手のひらでホークスの頬に触れた。すると、すりとホークスが頬を寄せた。常闇の手に手が重なり、今度は手のひらに唇が触れた。
「酷い話だけど、昔のことは正直よく覚えてない。初めての相手なんて好きか嫌いかなら、嫌いじゃなかったけどって程度だったと思う」
ぴくりと常闇の肩が揺れた。
「そう、とても酷い話だけど嫌いじゃない、とか極論、別に嫌いでも出来るんだよね。なんだって出来ちゃうんだよ」
ホークスの空いている手が、また常闇の頬に触れた。
「好いた人と、っていうか」
うーん、と少しだけホークスが悩むような仕草をする。
「触れるのが気持ちいいだとか、そういうのって肉体的な快楽の話じゃないってさ、気づいたんだよね」
口を開く代わりに常闇は軽く首を傾げて、先を促した。たとえ先の言葉が予測ついたとしても口にして欲しかった。
「好いた人だと自然と触りたくなるんだなって、俺初めて知ったんだよ」
見目良く、声までも耳当たりが良い。そんな男が、たった一人を見つめてともすれば陳腐になってしまうような言葉を吐いている。つまりね、とその男は続けるのだ。
「常闇君に触れるのって、気持ちがいいんだなって」
もう一度、今度はリップ音と共に常闇の手のひらにホークスの形の良い唇が触れた。
「俺も、酷い話だが」
言い出すかどうか、常闇は逡巡する。良いように取り繕いたい気持ちがあるが、きっと上手くはいかない。ホークスは、きっと本音を離した。正直に話したホークスに対して、取り繕ってしまっては不誠実ではないかとも思いあたり、思うまま告げることにした。
「貴方の初めてが良い思い出ならいいと言ったが、貴方が初めて好いた人に触れていると聞いて喜んでしまった」
言い切ってから常闇は、眉を寄せ、ぎゅっと目を強く閉じた。言葉と似合わぬ苦悶の表情に、ついついホークスは噴き出してしまった。
「そんなん酷くないでしょ」
「心が広いふりをしてたみたいじゃないか」
「さっきのも君の本心でしょ。俺に良い思い出を持っていて欲しいっての」
だけどね、とホークスが常闇との距離をぐっと詰めた。正確には、そう感じただけだった。常闇はまだ目を開けられないからだ。しかし、視界がなくてもホークスの吐息が触れたことで距離の近さが分かった。ただ、近いと認識するよりも早く、すっと柔い何かが瞼に触れた。
「むしろ俺にとっても嬉しいことじゃない」
固く閉じられた黒い目元を、ホークスが親指の腹で優しく撫ぜた。つられてそろりと目を開けると、柔和に微笑む常闇の好いた人がいた。
「初めてに拘らないけど、君がなんもかんも初めてと聞いて俺も喜んじゃったよ」
嬉しさを隠さぬようにホークスが無邪気に笑う。元より笑顔が絶えない印象ではあるが、その笑顔とは全く違う。
「だけどね、不安だってある」
「不安…ですか?」
「うん、ねぇ、君の初めては好いた人とできるの?」
何も今更、意地の悪い質問だ、と常闇は心の中で文句を呟く。
またやわやわとホークスが常闇の頬を撫で、するりと後頭部に手が回した。ホークスの頬に添えられていた手は、肩に誘導をされた。そうして空いたホークスの手が、常闇の首元を撫ぜた。
「ねぇ常闇君」
ずいぶんと柔い声だと思った。いや、視線や撫でる手つきすら柔く甘やかだった。何も変わらない、とは言っていたが、恋人へ切り替わる瞬間、ホークスの雰囲気が変わると思ってはいた。外では姿勢よく笑顔でよく喋る彼が、穏やかな表情で話すよりも常闇の言葉に耳を傾け、肩肘を張らずにゆったりと過ごす。それがホークスの恋人へ見せる姿なのだと、常闇は認識していた。だが、それとはまるで違う。ああ、本当はこうなのか、と唐突に理解をした。常闇はホークスの肩に添えていた手を滑らせ、項に添えた。その分、ほんの数センチだけ前に出た。ふっとホークスが笑いを零した。
「君に、触れていい?」
常闇は、チカチカと眩暈がした。だから、常闇は項の添えた指先に軽く力を入れ、眩しさを避けるように瞼を下ろした。そして熱が近づくのを待った。