幻覚の恋人 7月下旬。むし暑い都会から運ばれたのは、俺でも聞いたことのある有名な避暑地だった。
車はやや渋滞しながら坂を上へ上へ。渋滞もあまり苦じゃない。左右を森に囲まれた木漏れ日の中、深緑のカーテンを眺める。BGMは知らないクラシックだけど落ち着いて好ましい。
渋滞していた大通りから一本曲がる。私有地の看板が見えた。ぽつりぽつり別荘がある。車はさらに真っ直ぐ進む。しばらく別荘が途切れて森が続いたあと、行き止まりに目的地があった。
「これなら一人で帰れますね」
「帰りたいのなら送っていく……」
牽制のつもりで冗談めかして言ったのに、誠実さの塊みたいな顔をする。悪い冗談みたいなことをしているのはそっちだってのに。
それは夏休みの計画を練り始めた頃だった。計画と言ってもバイトのだ。俺にとって夏休みは稼ぎ時でしかない。お世辞にも裕福とは言えない家庭に生まれ、誰にも頼らず一人暮らし。貧乏極まった生活から抜け出すためだ。
下剋上の執念を燃やし、今年も下積みの夏になると思っていたとき。この男は突然訪ねてきては札束を三つ置いてこう言った。
「夏休みの間……私と過ごしてほしい」
いくら貧乏といえど身売りするほど困ってはいない。こちとら体力自慢の男子高校生。そこそこ稼げるし学費も免除されている。身長190の大男と一夏を過ごす趣味はない。
断る理由を並べるたび、札束が一つまた一つと増えていく。怖いからもうやめてくれと制止すると、男は手を重ねてうつむいた。
「今のお前に喜んでもらえるものを……私は他に持っていない」
デカい図体のくせに、その表情があまりにも悲哀に満ちていたもんだから、流されて流されて。一応条件付きで、要求を呑んだわけだ。
・許可なく身体を触らないこと
・撮影および録音はしないこと
・傷害監禁等の犯罪行為は一切禁止
そして今、キングサイズのベッドに二つ並んだ枕を見つけて、『寝室は別』が足りなかったと眉をしかめた。
ログハウス風の二階建て別荘。とりあえず荷物を置いて、吹き抜けの手すりに肘をついて眺める。壁一面に広がる窓からの眺望は余計な建物一つなく、木々が青々と茂るばかり。少し行けば小川があるらしい。手前にはBBQをしてもいいというウッドデッキ。
都心での苦しいほどの蒸し暑さはなく、清涼感のある夏の気候。何をするにもいいだろう。
これはもう楽しまなければ損なのでは?そんな気にさえなってくる。風呂は温泉だって言うし、サウナもあるって言うし。暖炉もあるので冬も良さそうだ。
一階からふわりと漂ったコーヒーの香り。向けられた視線に誘われて一階へ。大人しくソファに沈む。ブラックは嫌だなと思いつつ我慢できないほどではないので、受け取ったまま口に含むとほんのり甘い。
旅行の準備も全て相手がした。これで足りないものがあれば言ってほしいと届いたスーツケースには、サイズぴったりの衣服。
丁度いいぬるま湯に浸かった気分でここまで来てしまった。ソファに身を預けて天井のシーリングファンが回るのを見つめる。男も向かいのソファに座ったので例の件をさりげなく確認した。
「あの、ベッドは共用ですか……?」
「……いや、私の寝室は一階奥にある」
「ははは、ですよね!」
「寝ている内に触れてしまうからな……約束は守る。そのままでいいから今日の分を聞いてくれるか」
今日の分というのは、ここでの俺の仕事だ。この男からのお願いをきく。主に話を聞くだけ。やってほしいこともあるが強制はしない。そういう約束になっている。
男は前世で黒死牟という鬼で、人間だった俺を鬼にしたらしい。俺は獪岳という人間だった。鬼殺隊という組織で鬼を狩っていた。雷の呼吸という剣術を使う。勾玉を愛用していた。
出発前にも聞かされた内容を男はまた説明する。奇妙な作り話にしか思えないが、笑ってしまうにはあまりにも真剣そのもの。そうして最後にぽつりと呟く。瞳に光はない。
「その程度のことしか……知らなかった……」
「……深い関係じゃなかったんですか?」
「深い関係にはなった」
ぐむぅ。さっきの並んだ枕二つがよぎって心拍数が上がった。男は遠くを眺めながら少しほほえむ。
「あれは長い昼の頃……お前が私の寝所に忍びこむのを見かけて……後を追ってみると私の枕に鼻を擦りつけて、」
「ハ!?ちょ、え!?俺が!?いや、とにかく初日にする思い出話じゃないでしょう!?もっと優しめの、ほら、出会いとか!」
「出会いは……敵同士……あまり優しくできなかった……」
「あ……そうですか……」
ばくばくと心音が高鳴る。わざわざ探して会いに来て、こうして思い出してほしいと奔走しているのだから、最終的にはそういうことを求めているのだろうか。
よくよく見てみれば中々に端正な顔立ちだ。悪くない。そういう対象として誰かを見つめたことはないが、この男の物憂げな表情は大人びた魅惑がある。長身ながらひょろりとせず筋肉質でバランスがいい。ソファに腰かけた姿も絵になる。窓からさしこむ光、枝葉が風にそよぎ、後ろに結いあげた長髪をきらきらと照らしている。
「獪岳……」
「俺は獪岳じゃ……」
「ここで私に獪岳と呼ばれれば……はいと返事をしてくれ」
文句があるとすれば、唐突過ぎて心の準備が全く整っていないこと。そしてコイツが求めているのは俺じゃなく『獪岳』だってことだ。心の準備が整ったところで何を受け入れればいい。一夏限りの仕事と割り切ってしまったほうが楽じゃないか。
「獪岳……」
「はい……」
「獪岳……獪岳……」
「はいはい……なんですか、黒死牟様」
男は突然立ち上がった。あまりの勢いに重そうなソファからガタンとえらい音がした。俺も驚いて縮こまると、両者しばらく固まる。まん丸い目玉がこちらを見ている。
「なぜ……」
「ハイ」
「なぜ黒死牟様と呼んだ……記憶が戻ったのか……?」
「いや……話を聞くかぎり上司ですし、さん付けは仰々しい名前には違和感あるかと……」
男は静かにソファに座り直した。一瞬宿った瞳のギラつきは消え失せ、あからさまに残念そうだ。
心臓に悪い。木々のざわめきしか聞こえないような静寂のなか、自分の心音が苦しいほどうるさい。
「これからも黒死牟様と呼べ……」
「急に立ち上がらないなら……」
「すまない……」
やや裏返ってしまった声で条件を追加すると、短い謝罪が帰ってきた。悪い人ではなさそうなのだ。それが何より困ってしまう。変態クズ野郎なら上手いこと騙して逃げてやろうかとも思えるのに。
黒死牟様とやらに見つめられると、この人に尽くして褒められたい、求められたい気分になってくる。前世の因縁ゆえだろうか。
「獪岳……手に触れても良いか……?」
ほら、約束どおり許可はとる。手ぐらいなら困ることはないだろう。色気なくズイと拳を差し出す。
黒死牟様は一回り大きな両の手のひらでそれを包む。少し向こうのほうが手の温度が高い。剣道でもやっているのか皮膚が厚い。握力の強そうな手で優しく、指の根本をくりくりとなでている。
一つ一つ心地よい程度の力を入れてくりくりと。マッサージしているのかと油断したとき、拳の背をつぅーとなぞられた。ちょうど薬指と中指の間あたり。ぞわっとして手を開くと、滑り込むように人差し指と中指を握られた。手が閉じられない。
本気で振り払えばどうとでも逃げられる程度の力だ。抗議の意味で睨んだが、俺の手に御執心らしく黒死牟様はこちらを見ない。
声をかけるべきか。手はべつに性的なところではない。けれど相手にそういう気持ちがあるなら話は違う。
指二本とられて半開きになったところに、黒死牟様はまた指を滑り込ませる。俺のより硬く太い指が、手首から手のひらの真ん中へと、触れるか触れないかの強さで入ってくる。ずくりと身体の芯が熱くなった。
「っ……あの、」
「これは……剣道ではないな……」
「へ?」
黒死牟様が触れていたのは俺の手のたこだった。ああ、『獪岳』の痕跡を探していただけ。とたんに恥ずかしくなる。俺だけ変に意識して勃ってしまった。手を差し出した姿勢だから前のめりでバレることはないだろうけど。なるべく平静を装った。
「それは、バイトです。中華鍋で」
「これは……」
「ぐっ……なんだろ、ビールジョッキ持ちすぎたかで」
「未成年だろう……?」
「ははっ、夏のビアガーデンなんて夏休みの学生いなきゃ成立しませんよ……っ」
「ふむ……これはペンだこだな……」
すりすりと撫でられて、意識するなと自分に言い聞かせても無理ってもんだ。手のひらから感じる肉体の強さ、これに抱かれたらと想像してしまう。
「これから宜しく頼む……」
黒死牟様が顔を上げてこちらを見た。ハッと気付いたように手を離す。俺の顔が赤く染まり、目が潤んでいるのを見たのだ。なんていたたまれない。
「今日は終いにしよう……」
どっと疲れた初日。それからも夏休みの間中、記憶を呼び覚ませる試行錯誤を黒死牟様は続ける。ときには六目の似顔絵を見せられ、当時と同じだという服装になり、剣術の真似事をした。
――
この日は自然の木々を活かしたアスレチックで良い汗をかいた。皇室御用達だというチーズ専門店でピザとケーキを堪能して、帰ったら広い風呂を独り占め。身も心も満たされたらベッドに大の字になって昼寝だ。
ここに来て早くも15日目。夏休みの宿題はさっさと片付けるタイプなので、あとは遊び尽くすだけの状態だ。
黒死牟様は毎日の『お願い』以外は俺を色んなところへ遊びに連れ出してくれた。一日たりとも退屈はしない。至れり尽くせり。この後ものすごい不幸が訪れないと帳尻が合わなくなる気さえしてくる。
けれど『獪岳』の記憶はちっとも戻らない。待遇に対して何の成果もあげられていないのが若干申し訳ないが、俺がしてやれるのは身体に触れる許可を出すくらいだ。
手を握って良いか
肩に触れて良いか
頭を撫でて良いか
黒死牟様は全部許可を取る。謙虚な『お願い』ばかりで何も進展はない。抱きしめるくらいはしてくれてもいいのに。
大きな身体に包まれるのは安心しそうだ。ブランケットにくるまりイメージしてみる。布切れじゃ物足りないが、眠くなってきた。疲れた身体はベッドによく馴染んだ。
ぼんやりとした意識で、異変に気付いた。背中に圧を感じる。いつの間にか、誰かに後ろから抱きしめられた状態で寝ている。夢じゃない。厚い筋肉をまとった腕が現実的な重さを伝えていた。
「んん……!?」
背中の人物は、びくりと反応する。俺が振り向くより早く起きて部屋を出ていってしまった。
逃げられたが、この家にいるのは黒死牟様と俺の二人。仮に他の奴が不法侵入するなら呑気に寝ないだろう。
状況を確認しなくては。許可なく触るなんて約束を反故にする行為。指摘されて謝るならよし。誤魔化そうもんなら不誠実。この生活は終わりだ。
自分の頬を叩いた。終わりにしたくないと思ってしまったから、喝を入れたのだ。どうか裏切らないでくれと祈る気持ちで部屋を出た。
恐る恐る階段を降りる。リビングの窓際に立つ影。黒死牟は窓を背にこちらを見ていた。夕焼けに染まる森林は血のように赤く、気味悪さを感じた。
嫌な汗が頬を伝う。開かずの扉を開ける気分で、問いかけた。
「……俺のベッドで寝てませんでした?」
「許可なく触れてはいない」
「は?俺が許可したって言いたいんですか?」
「そうだ……」
「あー……寝ぼけてる奴に一緒に寝ていいか質問するなんて卑怯なことを?」
「そんなことはしない……」
「でも逃げた」
後ろ暗いところがないなら、あんなに驚く必要も逃げる必要もない。精一杯睨みつけると、黒死牟は黙りこくってしまった。『思わず抱きしめてしまった。もうしない』そう言ってくれれば許すのに。
よくよく見れば、身体にこそ違和感はないものの、インナーシャツがズボンからはみ出ている。それくらいは整えて寝たはずだ。まさか相当なことをした?
「俺が寝てる間に何を?」
「……抱き合い、少し触れて……一緒に寝てほしいと言うから横になっただけだ」
「どこに触れたんですか」
「……腹と胸に」
ぞわぞわと鳥肌が立つ。服をたくし上げ、腹を見てみたが特に痕跡はなかった。本当に触っただけなんだろう。それ以上のことをされれば流石に起きる自信はある。
黒死牟に向き直る。俺が望んでそうしたという苦しすぎる主張を変える気はないようだ。だから、深々と頭を下げて言い放った。
「誠実な人だと思っていました」
玄関に置いてあるバッグを持って逃げるんだ。ぐだぐだしている間に監禁されでもしたら堪らない。リビングから玄関フロアへと続くドアのノブを引いた。けれどドアは数センチ開いたところで、バンッと音を立てて閉まった。
「どこへ行く」
黒死牟の声が頭上近くから響いた。ドアは押さえられびくともしない。背面からの壁ドンみたいになっている。実力行使されたら負けるだろう。ドクドクと心音がうるさくて手が震えた。
「少し、風に当たってきます」
「私も行こう」
「一人になりたいです」
「逃げるつもりだろう」
あーあ。これはダメだ。逃げるのは悪手だろう。となれば良心に訴えかける作戦に変更だ。
ドアに額をつけてうなだれ、うーんと悲しそうな涙声を出してやる。
「どうして嘘をついたんですか……?俺、黒死牟様のこと信じてました。普通に『お願い』すればいいのに!どうしてこんな……っ!」
「獪岳……」
よしよし、効いている。良心は残されているらしいのは朗報だ。あとは隙あらば逃亡しよう。
「わかった……やむを得ん……説明する……」
黒死牟は向かいに座れとばかり、ソファに浅く腰かけ空虚と向かい合った。いま逃げても追いつかれるだろうから、仕方なく話だけ聞いてやることにした。
「お前はもう記憶を取り戻している」
「記憶って前世の?」
「そうだ……私とは去年から交際を続けている」
「前世のどころか去年の記憶がないことになるんですが」
「そうだ……」
黒死牟曰く、俺と再会したのは去年の春頃。再会してすぐ復縁することになったが、どうも俺の様子がおかしかったと。時折まるで赤の他人のように振る舞う。
「二重人格の者が別人格の記憶を引き継がないように……前世の記憶、そして私と交際している記憶を……お前は引き継がないようだ」
「鬼に、前世、次は二重人格…?設定がてんこもり過ぎて追いつけないんですが」
「去年の夏も共に過ごしたが……覚えていないだろう」
去年の夏はバイトざんまいだ。給料の振り込みだって行われているし、バイト先に知り合いもいる。何より手のひらにはビールジョッキで作ったマメがある。
黒死牟の視線はまっすぐ揺るぎない。嘘や冗談には見えなくて、忘れてしまう俺を憐んでいるようにさえ見える。
「去年もここに?」
「去年は違う……色々と観光した」
黒死牟がテーブルに写真を広げる。これが証拠とばかり。動物園、水族館、有名どころの遊園地もある。写真は全て個人撮影のやつじゃない。観光施設で職員が有料撮影してくれるあのサービスだ。
「思い出せとは言わない……気負わなくて良い……私がしっかりと覚えているから……記憶が消えようと積み上げた時間が消えるわけではない……」
「いや……これ……」
写真には、黒死牟しか写っていなかった。きっちり一人分、加工で消したかのように空いている。誰もいないその部分をなでて、このとき付けた耳が可愛かったなどと言う。そこにいるのは、付け耳をちょうど俺の頭の高さくらいに持って微笑んでる黒死牟だけだ。
これを撮らされた職員も可哀想だなーと現実逃避した。次々と写真が出てくる。ちょっと待て、USJなら普通に連れてけよ。幻覚と行ってんじゃねえ。
「色々と言いたいことはありますが……この写真、他の人に見せたことは?」
「ある」
「なんて言ってました!?」
「楽しそうだな、と」
一瞬期待したが、クソ無責任な奴がいるとわかっただけだった。写真のほとんどは俺が行ったこともない場所だ。平和的に諭したいけれど良い案が浮かばない。
「えっと……写真に……写ってませんよね……?俺……」
「視認できないのか……」
「いやいや、じゃあ他の奴に聞いてみましょう!」
黒死牟は自信があるようで承諾した。誰に送るか。万が一この状況がバレても縁を切ればいいだけの一番どうでもいい奴にしよう。写真と合わせてメッセージを送った。
『おい、これ何人に見える?』
『これは……三人の浮遊霊が彷徨っています。テーマパークでフラれた野郎どもの霊魂でしょう。同情して集まってきています』
『真面目に答えろ』
『可哀想だから晒すのやめなよ。本人が一番虚しくなってるはずだよ』
『お前みたいにエア彼女やってる独り身を晒してるわけじゃねえから早く答えろ』
『え、待ってこわい系!?やだやだやだやだ』
『死なすぞ』
『一人です!!』
当たり前だがやっぱり男一人に見えている。とは言え、証言として見せるには気が引けるやり取りになった。どうしたものかとため息をつき、ソファにもたれ天を仰ぐ。そこに黒死牟がいた。スマホの画面をバッチリ見ている。
「ほう……」
「いや、これは、その」
「随分と仲が良いな」
「は?幻覚見すぎでしょ」
「幻覚……?」
思わず口走ってしまった。言ってしまったものは仕方ない。なんとか冷静にご理解いただきたいところ。黒死牟は驚いて目を大きく開いている。
「あのですね……写真には全部、黒死牟様お一人しか写ってません……。俺の知り合いにもそう見えていますから、これは確実です」
「お前の友人は『二人』いると答えているではないか……」
「へ!?」
もう一度画面を見たが、やっぱり『一人』と答えている。これまで黒死牟には『二人』に見えてしまうのか。なら、もう手の打ちようがない。
「お前がなぜそう錯覚してしまうのか原因を探ろう……私との仲が精神的負担になっているというのなら……何かすれ違いがあるはずだ」
「錯覚してるのは黒死牟様のほうでしょ……鬼とか前世とか突拍子もない。明らかにおかしい」
お互い異常者を憐れむ目を向け合う。埒が明かない。黒死牟もそう判断したようで席を立つ。私室のほうへ消えた。奥からガタゴトと音をさせている。もし監禁用具を取り出していたらどうしよう。
「な、なにしてんすか……?」
「これを見ろ……」
黒死牟が抱えてきたのは刀だった。刀身に『惡鬼滅殺』と書かれている。そんな刀が何本も、折れたものもある。コレクションを収蔵しているというには雑だ。刀狩でもしたのかと疑うべきだろう。銃刀法違反って通報義務はあったっけ?
「……合法ですか」
「…………いや?」
「……夕飯なににしましょうね」
「これも見ないつもりか……?」
「……前世だけ信じます」
鬼が架空の存在だとしたら、刀に変な印字して折ったのを大量に隠していたということになる。そりゃもう手遅れだ。一応、下緒の古めかしさから見て百年以上経過してそうなものもあるし、前世だけは信じることにしよう。
「つまり、前世で恋仲だった相手が記憶なしで、ショックのあまり復縁したという幻覚を見てしまっていると……」
「なぜ全て信じん……そんなに私が嫌か」
「交際していいかと、勝手に交際してたことにしていいかは別問題です」
「では改めて交際を申し込む」
黒死牟は決闘でも申し込みそうな眼光のまま俺を見下ろした。恐ろしくて格好いい。相反する感想を抱いてしまう。
交際相手としては良い物件だと思う。しかし、幻覚付き。駅近格安マンションに幽霊が出るのと似た感じだ。
「まあ……いいか……?」
幽霊でも害がないなら別に。この人は、とっくに交際しているつもりでも俺の警戒心を尊重して今まで配慮してくれた。幻覚との仲がどうあれ俺に対する扱いは行き過ぎないだろう。
一番怖いのは、この人から目を離すことだ。知らぬ間に結婚して子供数人いることにされても不思議じゃない。さすがにそれは社会的に困る。それならば近くで幻覚を訂正していったほうが安全だ。
「よろしくお願いします……」
「抱きしめても……?」
「えっ」
「嫌なら……」
「い、いいですよ」
黒死牟様がゆっくりと手を伸ばす。踏みしめた床板がみしりと鳴った。ぎゅっと目を閉じると、そろりそろりと腕が包んでくる。苦しくはない。落ち着く匂いだ。厚い胸板に頬を寄せれば、頭頂部に顎を乗せられた。すっぽりハマってしっくり来る。
「やっぱり黒死牟様が幻覚見てるんですよ」
「なぜそう思う……」
「ちっとも嫌じゃないのに記憶をなくす意味がわかりません」
頭頂部に息がかかった。笑ったのかもしれない。無事復縁できたのだから、黒死牟様の幻覚もそのうち消えれば万事解決だ。
――
あれから数年。淡い期待はちっとも叶わなかった。黒死牟様は相変わらず幻覚を見ている。二人食後のコーヒーを飲みながらテレビを眺めていると、映画の広告が流れた。
「この映画は良かったな」
「……俺は観たことないですね」
まったりとしたムードが一瞬にして凍りついた。咳払いをしたってもう遅いのだ。小声で謝っているからいつも許してはやるが、ことが続くと良い気はしない。
「あんまり幻覚と浮気するようなら『さよなら』です」
俺も好きそうな映画を一人で勝手に観ているのも若干ムカつく。会えない期間があると、黒死牟様は隙あらば幻覚を見る。出張に行った福岡で幻覚とグルメ観光してたときは、地団駄踏んで抗議した。俺は試験期間だったのに。
黒死牟様は俺が咎めても反論はしない。けれど、また記憶をなくしてしまったのかと悲しく困った顔をする。今もこうして頭をなでて寄り添うだけだ。
「このままでも良いかと思っていたが……試してみよう」
「何を?」
「前世の記憶を戻す方法があるらしい」
ほら、あくまで俺のほうに原因があると考えている。でも、俺が前世を思い出したら、幻覚を見るのもやめてくれる可能性はある。認知矯正療法において、実際あったらしい前世を知らないことは障害になっている。
「害はない方法ですか?」
「……これを飲むだけだ」
用意よろしい黒死牟様は、見慣れない保冷バッグから採血管に入った赤い液体を取り出した。
「害は……!?」
「これ一本程度ではない……検査も済ませてある……」
嫌悪感はあるものの黒死牟様が言うなら害はないんだろう。そういうところは信用できる。わざわざワイングラスに注いで、俺に手渡した。ワインのように透き通ったりしない赤。匂いは鉄くさい血液そのもの。
「前世を思い出しても、今の俺は消えないんですよね?」
「私はそうだったが……多少人格に影響はある」
「しんどそうな過去ですもんね……」
グラスを回しつつため息を吐いた。黒死牟様が幻覚を見るのは結局、その過去を持つ獪岳に惹かれているのかも知れない。俺では物足りない何か。それがこの一杯で手に入るなら。過去の自分を丸呑みできるなら。
空になったグラスを静かに置く余裕はなかった。酷い味に襲われる。唾液が必死になって洗い流すのに、いつまでもいつまでも気持ち悪い。
一番最初に思い出したのは、手のひらの痛み。約束していたはずの指導は忘れられて、昨日と同じ自主練を繰り返した。善逸にかかりきりの先生。寂しかった。腹が立った。虚しかった。
そんな感情全てを薙ぎ払うような、恐怖の権化に出会った。アレが存在するだけで細胞に刻まれた死の予感が騒めく。ふらりと現れては、俺の眼球に上弦・陸の文字を彫って消えた。あのときは腰が抜けてしばらく立てなかった。
「獪岳……」
「ひぃっ」
「思い出したか……?」
「アレが黒死牟様……!?」
いつの間にか黒死牟様は俺を抱きしめていた。恐ろしくて近付くことさえ無理だったアレの腕の中にいる。目玉の数こそ違えど、確かに面影がある。身体が震えて汗が止まらない。
「い、今まで数々の無礼をっ申し訳ありませんでした!」
「そう畏まらずともよい……」
「……っでは僭越ながら一つだけ確認を……。俺は前世で黒死牟様の名前すら知らなかったのですが……交際していたんですか!?」
黒死牟様の眉が下がる。あの悲しくも困ったような顔だ。
「まだ思い出せぬか……」
「ぇ……」
抜けた記憶はないはず。短い人生。七、八歳の頃まで思い出せる。でも黒死牟様と付き合った記憶は全くない。まだ他の上弦のことのほうがよく覚えている。
関係性で言えば、圧迫面接してきた幹部その1が、後々事務手続してくれただけ。深い関係になりようがない。
黒死牟様は俺の頭頂部にすりすり頬寄せる。思い出せない俺を慰めるように。
最悪の出会いだった。この人は、それが恋心寄せる相手になったところで、どう挽回して良いかわからなかったのか。それで幻覚と戯れるように。
「獪岳……あまり気に病むな……」
「……思い出せない俺は嫌いですか?」
「そんなわけはない」
「なら平気です」
だって、黒死牟様が執着していた存在は、最初からいなかったんだから。幻覚のほうが好きだと言われたら困りものだけれど。
俺を包み交差する腕はキツく結ばれている。太く鍛えられて怖いものなどないような腕なのに、何を恐れキツくする必要があるのか。まさか今のこの関係さえも、俺が忘れてしまうことを?
「ふふっ」
急にかわいく思えて、広い背中をさすってやった。もしかしたら生意気な行為かもしれない。でも黒死牟様は大人しくなでられている。なでて大丈夫なんだ。恐ろしい記憶を上塗りするように、その感触を噛み締めた。