記憶喪失のかきかけ ***
——誕生日プレゼントは、もう貰った
俺も同じものでいいと思ったのは本当だった。それも、彼女らしいと思った。あの時には、もうただの『預かり物』ではなくなっていたのかもしれない。しかし、それを認めてしまえば側に置いておくことは出来ないと、この時の俺には覚悟がなかった。守り抜く事より、過去に縛られ失う恐怖に侵されたままだったのだから。
——あんたの誕生日は……
ハッとして目が覚めた。ブラインドは開いていて、登り始めた朝日が壁や天井を照らし始めていた。
「屋上……」
足音をたてずに、屋上への階段を目指す。まだ、アパートの廊下には至る所に香のトラップが仕掛けられたままだ。しかし、ちゃんと香がトラップを回避するルートを確保しているのだから、それを辿ればいいだけの話だ。造作もない。
やっと辿り着いた屋上の扉に手をかける。重厚な鉄の扉は錆び付いていて、静かに開けてもギィ、と小さく悲鳴をあげた。
高層ビルに囲まれたアパートの屋上から望む朝日は、ビルの裏に隠れて隙間から橙の光を細く伸ばしている。
ポケットからジッポとくしゃくしゃに潰れた煙草のソフトケースを取り出し、一本咥える。ジッポの火を付け、煙草の先を寄せ火を移した。紫煙が立ち昇る。咥えたフィルター越しに深く息を吸い込む。寝起きの肺に主流煙は少し刺激が強い。全身を冷たいものが流れて一気に目が覚めた。
ビルの隙間から、更に朝日が光を強く伸ばしていく。朝日に背を向け、手摺に寄りかかった。
「……眩しくて、見てらんねえ」
俺は、彼女のことを同じように思っていたのだろうか。俺は、あんなに眩しい彼女とどうやって生きてきたのだろうか。
夢の中で、屋上で俺にキスをしたのは彼女で間違いないはずなのに。この汚れた手と、後ろ暗い過去を持つ俺がそんな簡単に彼女と生きてきたとは俄かに信じがたい。
ビルの隙間を抜けて、徐々に陽は登り背中を照らし始めた。じんわりと背中が温かくなる。まるで、彼女の笑顔が俺の心ごと包み込み暖めてくれているように。俺の知らない俺をずっと側で彼女が暖めてくれていたのなら、俺は一体どんな気持ちになったのだろうか。
「……わっかんね」
考えた時間だけ、煙草の灰が長くなっていた。もう一度紫煙で肺を目一杯満たす。灰は、まだ火の残る先端からこぼれ落ちた。
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