海が見える駅で -昼の月-※場地さん38歳、千冬37歳
※付き合い長め、同棲中
四代目ゴキが動かなくなった。
今日は徹底的にメンテナンスしてやるぞ、と圭介さんが腕まくりをした日曜の朝のことだ。
最近の移動手段は、もっぱら車ばかりで、バイクを使う頻度は少なくなっていた。駐車場の奥でシートを被って留守番するゴキを、圭介さんはいつも気にしていた。
洗車から始まり、エンジンオイルやフィルターの交換、チェーンやブレーキまわり、バッテリーの点検……圭介さんはとても丁寧に、手際よくメンテナンスしていく。バイクに触ること自体が楽しいのだ。
終わったら、二人で軽くドライブしよう。そう言ってニッと笑うものだから、俺もうきうきして、車体の拭き上げを手伝った。
しかし、試運転の段階で、だ。
セルスイッチを押しても、エンジンがかからない。セルモーターは正常に稼働しているようだが、点火する気配がないのだ。
カチッ、カチッ……しん。
ゴキは黙ったまま。
圭介さんは難しい顔でゴキを見つめ、もう一度、一通り点検を始めた。だけど、結果は変わらず、ますます眉間にしわを寄せる。
やがて尻ポケットから携帯電話を取り出し、ドラケン君に電話する。手短に状況を説明し、疑わしい箇所を聞き出す。電話を繋いだまま、ああだこうだと話し合っているうちに、軽トラックが軒先に止まり、イヌピー君が降りてきた。D&D MOTORで預かり、調べてくれることになったらしい。
ラダーレールを伝って荷台に載せられるゴキは仔牛のようで、圭介さんは荷台の真横に立って、そのシートをポンポンと叩き、タンクを撫でた。ゴキを宥めるように、心細くないと伝えるように。
だけど、その時点で、圭介さんの覚悟は決まっていたのだろう。
唇を微かに動かして、とてもとても小さな声で囁いた。
「ありがとうな」
それに気づいた俺は、胸をぎゅっと掴まれる思いだった。
ゴキとともに、本日の予定を失った俺たちは、部屋に戻り、ぼんやりと午前中を過ごした。
昼近くになって、ドラケン君から連絡が入った。
「あー……、そうか。やっぱり。仕方がないよな」
会話を聞かなくても、内容は察せられた。
「……ああ、そうする。頼んでいいか?うん、また連絡する」
電話を切った後、圭介さんはソファの背にもたれて天を仰ぎ、細く長く息を吐き出した。
「千冬ぅ、四代目、もうダメだってよ」
「……そうですか」
「まだ乗れると思ったんだけどなぁ」
「エンジンですか?」
「ああ。修理は割に合わないから、廃車手続きすることにした。いいよな?」
「はい」
ゴキの所有者は圭介さんだ。圭介さんが決めたことに異論はない。
陸運局に行かねーとな……と圭介さんがぼやく。平静を装っているが、ものすごくがっかりしているのだ。俺も寂しい気持ちはあるけれど、圭介さんが落ち込んでいる事の方が辛い。
今日見送ったゴキは、中学の時に乗っていたゴキから数えて四台目だ。俺たちは、自分たちのルーツに則って「四代目」と呼んでいた。
バイクにだって寿命がある。
大型より中型、小型になるにつれ、否応なしに寿命は短くなる。エンジンの性能に起因するので、これは仕方がないことだ。どんなに丁寧にメンテナンスをしても、延命には限りがある。
東京卍會創設と共にあった初代ゴキは、解散後のドタバタで派手に逝った。
その後、きちんと普通二輪免許を取得してから迎えた二代目ゴキは、俺らの十代後半を、三代目は二十代前半を、走行距離の限界を超えて支えてくれた。勉強や仕事でクタクタの俺たちにとって、ゴキでの遠出は最適なストレス解消方法だった。
そして、四代目。
三十路手前にやってきたこの単車は、正直なところ、フルに乗ってやったとは言い難い。三十歳を過ぎて、弾丸旅行のようなツーリングをする機会が減り、自宅で過ごす時間が増えたからだ。歴代の単車たちに比べ、走行距離数は明らかに少ない。
それでも、圭介さんはたびたび気にかけていたし、とても大切にしていた。本職には選ばなかったものの、根っからバイクが好きなのだ。下手すると俺のことよりも大事にしているでは……なんて思って、ヤキモチを焼いた時期もあったっけ。
ちょうど昼になった。俺は昼食を作るために台所に立つ。
落ち込んでいても、悲しくても、体のエネルギーは枯渇する。そういう時ほどきちんと食事を取った方が良いと知ったのは、三十歳を過ぎてからだ。
冷蔵庫と冷凍庫を適当に漁って、簡単な肉うどんを作る。麺つゆの匂いを嗅ぎつけて、圭介さんが台所に入ってきた。鍋の中身を一瞥すると、テーブルに麺鉢と箸を並べてくれる。
「いただきます」と声を揃えて、二人で麺を啜る。「うん、うまい」「おいしい」。言葉は少ないけれど、一緒にご飯を食べると安心する。
食事の終わり頃になって、圭介さんが思いついたように言った。
「なあ、千冬。このあと、ちょっと出掛けねぇ?」
「いいですよ。車だします?」
「いや、電車で」
電車。それは珍しい。
ズズッと最後の麺を啜って、俺は首を傾げた。
ICカードがあれば、行き先は知らなくてもいい。
ちょっと、というくらいだから、そう遠くへは行かないだろう。
俺はショルダーバッグひとつの身軽な格好で、圭介さんに付いていった。圭介さんに至っては手ぶらだ。
最寄り駅から渋谷駅へ。
渋谷で買い物かな?
しかし、私鉄の改札を出ると、JRに乗り換える。
山手線内回りに乗り、品川駅で降車。ホームを移動して、今度は京浜東北・根岸線に。行き先を見ずに乗った電車が蒲田止まりだったのは失敗だったようで、蒲田駅からもう一度、大船行きに乗る。
横浜に行くのかな?
中華街でおいしいものを食べるのもいいかも。
さらに乗り換えて、鎌倉という可能性もある。いや、江ノ島の猫目当てかもしれないし、江ノ島水族館だってありうる。
隣に立つ圭介さんは、何も教えてくれない。
吊革に片手を掛けて、やや猫背になって、窓の外を眺めている。
「多摩川だ」
ボソッと呟く。
電車は、幅広い土手と河川を渡っていた。
「アザラシのタマちゃんが出没したのって、この辺でしたっけ?」
「俺も見に行ったけど、会えなかったんだよなぁ」
多摩川に沿って、延々とチャリを走らせたわ、と圭介さんが口を尖らせるので俺は笑ってしまった。タマちゃん騒動は俺らが小学生の頃だ。圭介さんは五年生くらいだろう。
川を渡れば神奈川県に入る。川崎駅を出発すると、あと数駅で横浜駅である。
「千冬、降りるぞ」
すっかり横浜だと思いこんでいた俺は、川崎駅の隣、鶴見駅で降車を促され、びっくりした。
ごく普通のシンプルなホームに降り立つ。大型ターミナル駅ほどではないが、それなりの乗降数である。地元住民が多いのだ。
改札階への階段を上りながら、俺は「あれ?」と思う。
この駅、既視感が。
「お?」
前を進む圭介さんが、階段を上りきった先で立ち止まった。
その背中越しに見えるのは、改札ではなく、またホーム。
JR鶴見線の発着ホームだ。
その手前で、圭介さんが首を捻っている。
「前はここにも改札があったよな?」
そう、俺たちはこの駅に来たことがある。
あの時は中学生だったから……えっと、二十四年前!?
ほぼ四半世紀じゃん。
俺が驚いている間に圭介さんは先へ進んでいく。
ホームの手前で、白色のタイルが黒色のアスファルトに切り替わる。以前はここに改札機が並んでいた……気がする。撤去されたのか。
ホームに立つと、頭上に横長の鉄骨アーチが連なり、かまぼこ型の空間が広がる。線路は二本。この駅が始点かつ終点なので、右手突き当たりには、列車止めが設置されている。
前回もこの景色を見たはずなのだが、一向に思い出せない。二十年以上経っているはずだが古びた感じはせず、だからといって、ピカピカに改修した形跡もない。
向かいのホームに目を向けると、開業八十年と書かれた年表が掲示されていた。八十年か……その歴史のなかでは、二十年なんてたかが知れているのかもしれない。例えば、ちょうど今、二十四年前にタイムスリップしたとしても、すんなり受け入れてしまいそうだ。
俺は呆けた顔で周りを見渡し、最後に隣に立つ圭介さんを見上げた。
「あの駅に行くんですか?」
「そう。懐かしいだろ」
圭介さんは悪戯っぽく微笑む。
その直後にアナウンスが流れ、電車が入線してきた。
都会では珍しい三両編成。鮮やかな青色で縁取られた先頭車両のデザインに見覚えはない。昔はもっと地味な電車だったはずだ。
三両目のロングシートに並んで腰掛けた。周りは数組。子連れのお母さんや若い男達のグループ、カメラバッグを下げた初老の男性など。休日の昼過ぎにも関わらず、乗客はそれなりに多い。運行本数が少ないこともあるだろう。
満席にならない程度の乗客を乗せて、電車は走り出した。
「緊張していたのかな」
「昔?」
「そう。覚えていないことだらけで」
「お前はすごく楽しそうだった」
「必死だったんですよ。場地さんを喜ばせなきゃって」
場地さん、と口に出して、俺はなんだか照れくさくなった。あの頃の、純度の高い未成熟な感情が、胸の奥にジワリと広がってソワソワする。
それは圭介さんにも伝わったようで、「お前の『場地さん』、久しぶりに聞いたわ」とはにかんだ。
すべてが場地圭介だった。
それは今も変わらないけれど、当時の俺はもっと妄信的かつ熱狂的で、客観的に見れば、相当ヤバいやつだったと思う。
だけど、主観的に思い返せば、なんと幸福な日々だったか。
『場地さん』と何度も呼んで、ただひたすら彼の背中に付いていった。この人を支えたい、役に立ちたいと、自分の持つものすべてを捧げる覚悟で隣に立ち続けた。それほどまでに打ち込める存在に、あの年齢で出会えることがあるだろうか?きっと奇跡に近い。
そこから様々な事情や出来事が重なって、俺と圭介さんの今の関係がある。俺たちの歴史は、線路のようにずっと延びていて、始点は中学一年の春、終点は未だ見えず。
ガタンゴトンと揺られながら、心に出会いの桜が舞う。
あの頃の憧れと、今、隣り合わせに座って電車に揺られている。
ふふ、なんて幸運なんだろう。
目を細めて、車窓から明るい街並みを眺める。
線路に沿って植栽が茂り、その隙間から工場の棟がいくつも見えた。歩行者の姿はなく、人のいない世界のようだ。
半ば夢の中にいるようなフワフワした心地で、終点までぼんやりと過ごす。
圭介さんもきっと同じように耽っていたのだろう。
「二十年か……」と小さく呟いた。
終点、海芝浦駅へは十五分も掛からない。
白昼の工場群を眺めているうちに、電車はホームに滑り込む。
ドアが開いた途端、潮の匂いが流れ込んできた。
一歩降りれば、真正面には海。
鉄柵の下で、ザザンザザンと波がコンクリートに打ち寄せている。
海芝浦駅は、法人の所有地の中にある駅で、その関係者しか改札の外にでることができない。観光目的の降車客は、駅構内を散策し、折り返しの電車で戻ることになる。(改札を通れない代わりに、出場と入場を記録するための専用装置がある)
通勤のために作られた駅なので、娯楽と呼べるものはない。海がすぐそばにある、ただそれだけだ。だが、その特異性を好む人間は少なくないようで、俺たちの他に、鉄道ファンと思しき男性や親子連れが数組、電車から降りて海を撮影したり、眺めていた。
駅は岸に沿って細長い形状で、ホームから屋根のみの駅舎へ続き、その先に、海芝公園というベンチや植栽が整えられた空間がある。所有者の善意で設置されたものだ。
圭介さんはまっすぐ公園へと進み、植栽の陰にある、海に面して置かれたベンチに腰掛けた。促されるまでもなく、俺もその隣に座る。
「あの時とおんなじだ」
二十四年前と同じ景色がある。
でも、あの時は夜景だったから、細かいところはわからない。
鶴見つばさ橋のシルエット、真向かいにある大きな工場の形……は変わっていない。たぶん。
「変わんねーもんだなぁ」
圭介さんがぐるりと辺りを見渡す。
「今、二十年前にタイムスリップしても気づかねぇだろうな」
「それ、俺もさっき、同じこと考えました」
「なんだよ、パクんなよ」
「圭介さんこそ」
二人でくっくっと笑う。
「でも、俺たちはこんなオジサンになっちゃいましたけどね」
十代前半に比べれば、体格も声も肌質も、なんなら髪質だって変わっている。
「そんなに変わったかぁ?」
圭介さんが俺の顔を覗き込む。
ちょ、やめてほしい。最近、目元のくぼみが気になっているんだから。
視線から逃れるように顔を反らしながら、横目で圭介さんを観察する。
精悍な顔つきは変わらない。あの頃より、頬骨が出て鼻の輪郭がくっきりしているが、圭介さんの魅力を減退する理由にはならず、むしろ、カッコいい。
「圭介さんはいいですよねっ。ちゃんとイケオジコースに乗って!」
「オッサンはオッサンだろ」
俺が拗ねたように言うものだから、圭介さんは呆れたように返す。『イケ』の部分は否定しないのだ。満更でもないから。
「千冬はあの頃のまんまだ」
「そんなはずないじゃないですか。煽てたって、今日の晩ご飯は銀だらのままですよ」
「唐揚げもつけてくれ。……そりゃあ、ちょっとは歳くったけどさ、同年代のやつらと比べたら全然だからな? アツシたちがお前を妖怪扱いしてたぞ」
「どーせ、一生童顔とかそういう話でしょ!?」
「ははっ、気にしてんの?」
若く見られるのと幼く見られるのは、話が違うのだ。
頬を膨らます俺の頭を圭介さんがクシャクシャと撫でる。もうフワフワじゃないんだから、その扱いもちょっと……と思うのだけど、撫でてもらえなくなるのも淋しいので黙っている。
圭介さんが視線を海に戻す。
右から左、全部海。
だけど、これは厳密には運河らしい。そんなことを圭介さんに自慢気に話したら、誰の入れ知恵だって怒られたっけ。
「あの時さ、お前、なに考えてた?」
潮風が強く吹いて、前髪が靡く。
「圭介さんが喜んでくれたら……って思ってましたよ」
二十年前は、俺が圭介さんを引っ張って、ここへ連れてきた。
不測のアクシデントでゴキを修理にだすことになり、抗争もお預けで、終始つまらなさそうな圭介さんを励ますために、クラスの鉄道オタクから、この駅を聞き出したのだ。湾岸線を流した時に見た夜景を思い出してくれたらいいなって。
あまりにいつもと勝手の違うことをしたから、圭介さんを苛つかせてしまった場面もあったけど。
「あんたの笑う顔が見たかったんです」
結局、笑ってくれたっけな。
正確に覚えていないのは、圭介さんの顔を見ることが出来なかったからだ。
二人で夜景を眺めていたら、なんだか恥ずかしくなってきて。
「ふふっ、おかしいですよね。学校帰りにこんなところまで連れてきて。しかも、夜景を眺めて帰っただけで」
だけど、俺にとってあの時間は宝物だった。
大好きな人とふたりきりで同じ景色を眺める。
そのことがとても嬉しくて。
「恋人同士だったら、手でも繋いでいたのかな」
そう呟いたとたん、二人の間に置いた俺の左手に温もりが被さった。
「え……」
重ねられた大きな手のひらに驚いて、俺は隣に座る圭介さんの横顔を凝視した。
圭介さんは素知らぬ顔で海を眺め続けている。
「あん時はガキだったから、どうしたらいいかわからなかった」
口調は静かなのに、熱がこもって聞こえるのは、圭介さんの手の平からじんわり伝わる体温のせい。
「こうやって並んで夜景を見てたら、カップルみてぇだなって。でも、ダチと肩を組んだり手を繋ぐわけにはいかねーから黙ってた」
ぎゅう。手に力が入る。
「俺は、千冬と手を繋ぎたかったんだな」
なんてことだろう。
二十年経って、こんな告白を聞けるだなんて。
圭介さんは気恥ずかしくなったのか空いてる片手で顔面を覆い、「こっち見んな、タコ」と悪態をついた。
だったら、あんまりびっくりさせないでよ。
真っ昼間のベンチで、手を繋いでくる大胆さとかさ。
あんたって、本当にずるい。
「……二十年前の俺だったら、気絶しちゃってたかも」
それか大声をだしちゃったかな。
だけど、三十代半ばを過ぎた俺は、こと圭介さんに関しては、百戦錬磨の猛者だから。
握られた手をごそごそと裏返して、手のひらを合わせる。指と指の間に指を差し入れて絡めて……
はい、恋人繋ぎの出来上がり。
「へへっ、願いが叶って良かったですね」
ついでに肩も寄せちゃおう。
「あの頃のピチピチな俺じゃなくてすみませんけど!」
あんまりイチャつくと、圭介さんが引くかなって思ったけど、今日はOKの日らしい。
幅広の肩に預けた俺の頭にコツンと圭介さんの頭が寄りかかってくる。
「まァ、オッサンじゃないと出せない図々しさってあるしな」
「あはは」
幸せだな。
今日、この人とここに来ることができて、幸せだ。
風が強く吹いて、波が立つ。
運河をゆっくりと航行する巨大なタンカーをぼんやりと目で追った。
「四代目、逝っちゃいましたね」
「ああ」
ひとしきり笑うと、突然、感情の落とし穴に嵌まったみたいで。
今朝見送った四代目ゴキの姿を不意に思い出した。
「もっと乗ってやりたかったな……」
圭介さんがポツリと漏らす。
どのゴキとお別れする時も、圭介さんはそう言った。後悔ではない、願わくば。一日でも長く手元に置いておきたかった、そういう気持ち。
「また……お迎えしますか?」
歴代ゴキたちは、中古車販売店やバイク仲間のツテを頼って、我が家にやってきた。それぞれのゴキに出会いに纏わる思い入れと物語がある。
圭介さんは少し間をおいた。
悩んでいるのではなく、言葉を選んでいるようだった。
「……いや、しばらくいい」
海に向かって答える。
「ひさしぶりにここに来てさ、電車も悪くねぇなって思ったから」
くっついたままの肩が温かい。
「電車の窓から外を眺めたり、並んで座って、話しながらどこかへ行くって、結構楽しいな」
「そうっすね。大した距離じゃなくても、こんなに楽しい」
二十年越しに明かされる衝撃の事実だってあるし。
今まで道路をベースに行動していた俺たちにとって、鉄路はとても新鮮だ。見たことのない景色が見られる気がした。
そんな大それた旅でなくていい。散歩がてら、せいぜい日帰り。少しの気分転換がしたいのだ。
「またバイクが恋しくなるまで、電車で出掛けましょうか」
「うん、いいな」
その時、茂みの向こうで発車メロディが鳴り、電車が動く音がした。
折り返しが発車したらしい。
「あ、いっちゃった……」
立ち上がって周りを見渡せば、同じ電車で降りたはずの乗客は誰ひとり残っていなかった。
スマートフォンで時刻表を確認する。
「げ、次の電車まで一時間以上ありますね……」
「まじか!」
「そういう駅ですもん」
二人揃って、またベンチに腰を下ろした。
白昼の空は、少しずつ夕暮れに向かってる。
東にうっすらと白い月が見えた。
「焦る必要は……ねぇか」
「そうですね」
だって、一緒に過ごしたい人は隣にいるから。
圭介さんは急にキョロキョロと周囲を確認し始めた。
「千冬ぅ、ここって監視カメラあると思う?」
「え?さあ……防犯カメラくらいはありそうですけど……」
立ちションでもするつもりなんだろうか。
そんなくだらないことを考えたのは束の間のことで、ベンチから背を離した圭介さんが、体の向きを変えて、俺の真正面に迫った。
眼前の日差しが遮られる。
前髪と前髪が触れて。
この距離って……。
ちゅ。
ひゃっ!?
ちゅ、ちゅっ。
ほゃぁぁぁっ!?
触れるだけのキスが、二度、三度……。
「ちょちょちょっ!だめっ!しつこい!」
圭介さんの片手が俺のうなじを探って、引き寄せられたところでギブアップ!
俺を見下ろす圭介さんは、心底から愉快そうに笑った。
「二十年前は我慢したんだから、これくらい良いだろ」
なんて、とんでもないことを言い出す始末で。
「オッサン、図々しいにも程があります~!!」
俺の叫びに呼応するように、上空でカモメが鳴いた。
【終】