6.6.
アズールが厨房に入ると、様々なスパイスの香ばしい匂いが漂っていた。ターメリック、コリアンダー、クミン──恐らくカレーの匂いだ。だがモストロラウンジのメニューに、カレー料理はない。
訝しく思って奥へと足を進めれば、ウツボの兄弟がステンレス製の寸胴鍋を覗き込んでお喋り中であった。フロイドが鍋を掻き混ぜている横で、ジェイドはキノコを手にしている。
「ヤダ。キノコカレーとか絶対ヤダ!」
「そんなこと言わず。美味しそうですよ」
「ダメ」
どうやらカレーにキノコを入れるか否かで揉めているらしい。フロイドの顔は嫌悪に歪んでいるし、ジェイドは愉しげな笑みを浮かべている。なのに、何故か二人に纏う空気が甘く感じられる。
「……何してるんですか」
アズールが声を掛けると、二人は同時にこちらを振り返った。全く同じ顔で。
「オレが作ったカレー食いたいって言うから作ってやったのに、ジェイドがキノコを入れるって聞かねーの」
「キノコを入れた方が美味しいと思うのですが……」
「だから要らねーって」
くだらない言い争いだと思うが、アズールはフロイドの方の意見に賛成である。キノコが入ったカレーも確かにあるが、ジェイドが採ってきたキノコは遠慮したい。怪しいので。
結局ジェイドは片割れの言葉に負け、渋々とキノコを引っ込めた。そもそもカレーを作ったのはフロイドなのだから、ジェイドが具材を足すのは駄目に決まっている。
「アズールも食べるぅ?」
「食べません。今何時だと思ってるんだ」
時刻は夜の九時をとうに過ぎている。モストロラウンジも店を閉め、他の従業員達は後片付けをしているというのに。こんな時間に食べたら、確実に贅肉になってしまう。
「え~? 美味しいのにぃー」
「フロイドのカレーが食べられないなんて、不幸ですねえ」
鍋の火を止め、唇を尖らせるフロイドと、皿を取り出して、ご飯をよそうジェイド。勿論ジェイドの方の皿にはご飯が大盛りだ。アズールはそれを見ただけでカロリーを摂取した気分になり、うんざりとして目を逸らした。
「いただきまーす」
「いただきます」
厨房のステンレス製の作業台の前に椅子を並べ、二人は湯気が上がるカレーを揃って食べ始める。大きめに切った野菜と、四角い肉。食欲をそそるスパイスの香り。
「美味しいですね」
モグモグと口いっぱいにカレーライスを頬張りながら、ジェイドはうっとりと幸せそうな顔だ。その横でフロイドは無言で食べているが、その顔には美味しいと書いてある。アズールはごく、と唾を飲み込んだ。
「アズールも食べてみてはどうですか」
「そうだよぉ~、ご飯少なくすればいんじゃね?」
ニヤニヤとこちらを見る双子の態度が気に入らず、アズールはムッと口をへの字に曲げる。暫し視線を彷徨わせた後、結局は誘惑に負けて棚から小さな皿を取り出した。ほんの少しだけご飯をよそい、カレーの鍋の蓋を開ける。ふわ、と温かな湯気と共に、スパイスの香りが広がった。「味見をするだけならいいでしょう」と言い訳をして、アズールは皿の上に少しだけカレーを盛る。それを見て双子は顔を見合わせて笑ったが、何も言わなかった。
「これは……美味しいですね。何か隠し味でも入れましたか?」
一口食べて、アズールは眼鏡の奥の目を丸くする。ピリ、とした舌への刺激。だが激辛ではない。僅かな酸味はトマトだろうか。人参は柔らかく、じゃがいもは形が崩れるほど煮込まれ、玉ねぎは大きめに切られたものと、微塵切りの二種類が楽しめる。こんなに美味しいのならば、モストロラウンジでもカレー味の料理を出すのも良いかも知れない。
「プレーンヨーグルトをちょっと入れたかなぁ。ウミヘビくんは、チョコレートや味噌もいいって言ってたよぉ」
「ジャミルさんがそう仰るのなら、そちらも是非とも試してみたいですね……」
コクがあるカレーを食べながら、アズールはこの味を生かす料理を思案し始めた。焼きカレー、カレードリア、スープカレー。期間限定にするのも良いかも知れない。
そんな黙り込んでしまったアズールに構う事なく、双子はカレーを口にして会話を続けている。
「フロイドが居ないとベッドの中が冷たくて。昨日は足が冷えてなかなか眠れませんでした」
「オレは湯たんぽかよ。……そういえば昨日電話してる時に気付いたんだけど、オレの爪また伸びてない? こないだ切ったばっかだったよねぇ」
「切ったのはもう一週間以上前ですよ……あとでまた切りましょうか」
目の前で交わされる会話に、アズールの思考が止まった。
なんだ今の会話は。何やら知りたくなかった内容を聞いてしまったような気がするのだが。
「ジェイド、口にカレー付いてんよぉ〜」
呆れを滲ませて笑いながらも、フロイドは片割れの唇に手を伸ばした。親指でカレーが付いたジェイドの口端を拭ってやると、ぺろりとそれを自身の舌で舐め取る。
「すいません、恥ずかしいですね」
ジェイドの頬が赤く染まっている。二人は見つめ合い、お互い照れたように笑った。
「いやいやいやいやいやいや………ちょっと待って欲しいんだが」
小さな皿のカレーライスをすっかり平らげた後で、アズールは額に手を当てて天を仰ぐ。
「今の話は何なんですか」
「なんなんって?」
「何か問題が?」
フロイドとジェイドはきょとんとした顔をして、二人揃って同じ方向に首を傾げる。流石双子だけあって、その動きは見事なまでにシンクロしていた。
「お前たち、一緒に寝ているんですか」
「たまにねぇ」
「毎日じゃないですよ」
「ジェイドはフロイドの爪を切ってやってるんですか」
「たまにねぇ」
「毎回じゃないですよ」
あっさりと認める二人に、アズールはぐっと言葉を詰まらせた。前々から距離感がバグっている兄弟だと思っていたが、ここまでとは。以前フロイドに、ジェイドの事が好きなのかと聞いた時から、アズールは既に怪しんでいたのだが。
「お前たち、まさか付き合っ……」
と、言い掛けて、アズールは口を噤む。余計な事を言って藪蛇になるのだけは避けたかった。ひょっとしてまだ意識してないのではないか。なら、わざわざ自覚させる必要もない。このまま知らない振りをしているのが賢明だ。
「──いえ、何でもありません。すいませんが、この皿も片付けておいてくれますか」
「はぁい」
「はい」
二人の返事を合図に、アズールは厨房を出る。背後でまた仲睦まじい会話が交わされ、クスクスと愉しげな笑い声が聞こえた。
まあ、兄弟の仲が良いのはいい事だ──。いがみ合っているよりはずっといい。内心でどんな複雑な感情を抱いているとしても。それをまだ自覚をしていないとしても。
だがせめて、一緒に寝ている事は周囲に隠すように言い聞かせなくては──。
アズールは痛む頭でそんな事を考えながら、モストロラウンジを後にした。