& 月島基に不動産管理部門への異動を命ずる。
そう、社内イントラに掲示されたのは未だ寒い時季だった。不動産管理部門と言えば聞こえはいいが、うちの会社のそれは、いずれ昔に社長が余暇を過ごすために買ったというだだっ広い山と、其処にある山小屋の管理をいう。
同僚たちには左遷ではないかと気の毒がられたが、出世にも興味は無く、PCと書類に囲まれた仕事にうんざりしていた俺には、此方の方が余程良いように思えた。
管理人として週の大半を山小屋で過ごし、週末になるとアパートに戻る。山を散策し、手入れの要るところは無いか、危険な箇所は無いか。気にするのはそんな事ばかりだ。数字に追われることも、取引先との交渉に頭を悩ませることも無い。いっそこのまま、定年まで此処に居たっていい。
そう思い始めた時だった。そのいきものを見掛けたのは。
好天のその日。俺は山小屋のウッドデッキで自分の拵えた昼飯を食べていた。その時だ。その『いきもの』がひょっこりと庭先に現れたのは。
飯の匂いにつられて此処まで来たのだろうそいつは、ふらふらとデッキの近くまで来ると、俺の姿を見付けてびくりと固まった。
焦げ茶色のみっしりとした毛並みに覆われたずんぐりとしたそいつは、大きな丸い目をしてじっと此方を見つめてきた。何かの動物に似ているようで、何処かが少しずつ違っているようで。一体、何のいきものだろうか。
興味深く観察していると、此方に敵意が無いのを察したのか、そいつはじわりと動いてデッキの端に前足を掛けた。
ひくひくと、小さな黒い鼻が動いて、牙の覗く口からは赤い舌が出てぺろりと口なめずりをした。
どうやら、こいつは腹が減っているらしい。そうと気付いて自分の皿に目を遣ると、目の端に茶色い毛玉がそう長くは無い首を伸ばして此方の様子を伺っているのが映った。
「餌を探して此処まで来たのか?」
声を掛けると、そいつはぱたぱたと耳を動かして、小首を傾げるような仕草をしてみせた。言葉は通じてはいないのだろうが、此方が何かを問い掛けたことは解るらしい。
なんだか解らないようないきものに人の食べ物を与えても大丈夫だろうかと気にかかったが、野菜や肉なら、食べさせても問題ないだろうか。
「…食べてみるか?」
皿の中から肉をひとかけ摘み上げ、掲げてみせると、前足を掛けていたそいつは勢いをつけてデッキに上がってきた。
身体はそう大きくは無い。未だ子供だろうか。これで成人なのか。見当もつかない。
そっと肉を差出してやると、恐る恐る近付いてきては後退りを繰返す。食べたくはあるが、手ずから食べるのは怖いのだろうか。怖いのは、此方もそうなのだが。
摘まんでいた肉を小皿に移し、床に置いてやると、そいつは肉と俺の顔を交互に見るのを三度繰返し、漸く肉にかじり付くと、あっという間に呑み込んでしまった。
味がお気に召したのか、出されたモノと俺が安全だと考えたのか、そいつは皿をきれいに舐めると、空の皿を咥えて俺の足元に戻しに来た。
「なんだ?おかわりか?」
野生にしては随分と人懐こいような気がするが、こんないきものを飼っている人の話を聞いたことも無ければ、ペットショップで売られているのを見たことも無い。何かの新種だろうか。後で調べてみなければ。
そう思いながら追加で幾つか肉を置いてやると、そいつはガツガツと其れに喰らい付いた。
出してやったものは全部食べてしまいそうな勢いに見えたが、どういうわけか、そいつは半分ほどを食べ終わると、残りを口に咥えていそいそと山の中へ帰っていった。
ほんの十分足らずの出来事だ。
今のは一体何だったんだと呆然としながら、空の皿を片付けた。
その晩、昼間デッキで見掛けたいきものの手掛かりはないかと検索してみると、近頃発見されたらしい動物の変異体に関する記事が出てきた。変異した動物は犬、猫、タヌキ、クズリなど多種に渡る。記事には何らかの事由で動物本来の姿から変異したと思われる新種が発見されたと記されていた。昼間見掛けたのは、クズリの変異体だろうか。
「こんな山の中に居るとはなぁ」
ぼそりと呟いても、其れに応える声は無い。独りきりで過ごす山小屋は、酷く静かだった。
クズリは、翌日から毎日デッキに顔を見せるようになった。
遠慮がちにデッキの端に居たのは最初のうちだけで、やけに人懐こいクズリは直ぐに俺の足元まで来るようになった。
クズリは本来凶暴な生き物だというが、この人懐こさは変異故だろうか。凶暴さの欠片も無い。
特徴的なのはその鳴き声で、キェキェと随分と変わった鳴き声を上げる。滅多に鳴くことは無いが、餌をねだる時にはその声が聞こえるのだ。
独りきりで居た山小屋に、自分以外の声が響くのは新鮮で、なんだか心強いような気さえした。
クズリは何を与えてもよく食べたが、気になることがひとつだけあった。クズリは、いつも決まって出してやった半分は咥えて山へ帰るのだ。振返ってみれば最初からそうだった。
自分の寝床に餌を蓄えているのかと考えたが、だとすれば、毎日腹を空かせてやってきて、がつがつと与えたモノを食っているのが不自然だ。
そうと気付いたある日、俺は思いついてクズリの後を追ってみた。単純に興味からだったのだが、結果として、追ってみて正解だった。というのは、クズリが餌を運んでいた先に、手負いの犬が居たからだ。
犬と言っても、極一般的な犬ではない。体格は、クズリとさほど変わらないか、少し大きいくらいだろうか。真白な毛並みの豊かな尻尾を持つ犬は、野生の猪やタヌキの為に仕掛けられていたのだろう罠に掛かってしまったようで、前足に大きな傷を作って満足に立てなくなっていた。
クズリはそいつの為に餌を運んでやっていたのだ。
「仲間の為だったのか。」
ポツリとそう零したら、声に気付いたクズリは途端に背を低くして此方に牙を剥き威嚇してきた。犬を守ろうとしてのことだ。けれども、クズリが守ろうとした犬は、よろける足で立ち上がるとクズリの前に出て俺に牙を剥いた。
どちらも、外敵から相手を守ろうとしているのだ。そしてその敵は、哀しいかな、他でもない俺である。
攻撃の意思が無い事を示すために掌を差出し、ゆっくりと瞬きをして「大丈夫だ。俺はお前たちに危害を加える気はない。」そう告げてはみたが、言葉など通じる筈はなかった。二匹は一向に警戒の姿勢を解かなかったが、暫く動かずにいると、大丈夫そうだと思ったのか、脚が限界だったのか、先ず犬がその場にへたりと座り込んだ。すると、クズリが慌てたように犬の傍に寄り添い、賢明に犬の傷を舐め始めた。犬の怪我は手当てが必要な傷であることは明らかだった。
山小屋へ帰れば、消毒はしてやれる。少し車を走らせれば、下の街には医者も居た筈だ。
ただの野生のいきものに、そんな事をしてやる義理があるだろうか。逡巡して、俺は二匹を纏めて抱え上げた。
義理ならある。独りきりで過ごす山小屋にクズリが訪ねて来るのを俺はいつの間にか楽しみにしていた。単調な暮らしの中で、クズリだけが変化をもたらしてくれていたのだ。
義理も恩も十分にある。ならば、その恩は返せる時に返してやるべきだろう。
そう思って二匹を抱えたまでは良かったが、案の定。というよりは、予想以上に、抱えた二匹は大暴れした。
それはそうだろう。恐らく野生で、二匹で山の中で生きていたのが、いきなり人間の俺に抱え上げられては、何処に連れて行く気かと暴れるのが尤もだ。
山小屋に帰り付く頃には、いっそ笑えるくらい俺はボロボロになっていた。シャツの一部は破れ、腕には噛み傷、頬や首には引っ掻き傷だらけだ。
山小屋に着いても犬は大層興奮した様子だったが、クズリは連れて来られたのが山小屋だと解ると落ち着きを見せて、キェキェと件の鳴き声で以て、某か犬に伝えているようだった。
犬が落ち着いた頃合いを見計らって先ずは犬の傷を確かめた。当たり前だが、素人では傷の具合などさっぱり解らない。やはり医者に診せてやるべきだとは思うが、果たして車に乗せて医者までなど連れて行けるだろうか。
一先ず消毒をして、様子を見ながら、山小屋から一番近くにある病院に事情を話して往診を頼んだ。変異種だと伝えたら、医者は面白がって直ぐに飛んできた。
家永という医者はものの三十分で到着すると、うちに居る犬とクズリを見て酷くがっかりした。
「なんだ。人間じゃないんですか。」
変異種をなんだと思っていたのか聞きたい所だが、聞かない方が良いのだろう。少しばかり変わった所のある医者だったが、腕は確かなようで、家永はがっかりしながらも手際よく犬の傷の手当てをして、一週間たったらまた見に来ると言い置いて帰っていった。
「ついでにあなたの怪我も診て帰りましょうか?」
帰りがけにそんな提案を受けたが、自分で手当てできるので。と丁重に断った。来た時以上にがっかりされた。
犬は、順調に回復していった。
傷が治るまでは、と部屋の隅に二匹の為のスペースを設けてやって、朝に晩にと餌を与えた。
犬には、医者に出された薬もきちんと飲ませた。
満足に立つことも怪しかった犬は、四日目には前足を着いて立つような真似をしたりするようになった。野生のいきものというのは強いモノだと感心する。
クズリは、犬が寝ている間、片時も犬の傍を離れようとしなかった。犬が起きれば起き、眠ると隣に横になった。
二匹は、いつも一緒だった。きっと、山の中でもずっとそうして生きてきたのだろう。
だからこそ、クズリは、動けなくなった犬の為に餌を探して俺の所まで来たのだ。
「仲がいいんだな、お前たち。」
クズリにそう話し掛けたら、何かが通じたのか、クズリは俺を見上げてキエェと啼き声を上げた。
約束の一週間後、訊ねて来た家永は犬の怪我の具合を見て、これならもう大丈夫だろうと包帯を外した。
山へ帰すのは、しばらく様子を見て。と言われてから、そうか、こいつらは、山へ帰してやらなければいけないのか、と、当然の事を、今更のように思い出した。
三日経ち、四日経ち、十日経ち。包帯のとれた犬の前足もすっかりよくなっていたが、俺は、二匹を山へ帰してやる決心をつけられずに居た。
犬とクズリは、山小屋に居る事に慣れていた。昼間、姿の見えない時は山にも入っているようだが、夕方になると山小屋に帰ってくる。俺の手から餌を食べるようにもなった。このまま、二匹を飼うことは出来ないだろうか。そんな事を考えていた矢先だった。
その日、夕方になっても、二匹は帰ってこなかった。
暮れ往く山を見詰めながら、こんなにも唐突に、こんなにもあっさりと別れは訪れるものだろうかと一人黄昏ていると、聞き慣れたキェキェという鳴き声が聞こえてきた。
戻ってきたのはクズリだけだ。何かを必死に訴えるように鳴くモノだから、また犬が罠にでもかかったかと俺は小屋を飛び出した。
先を示すように前を行くクズリを追って走ったのはどれくらいだったろうか。走りながら、俺は二匹を飼うことを決めていた。犬をちゃんと見付けて、クズリと一緒に家に置いてやろう。そうすれば、罠に掛からずに済む。怪我は酷いのか。無事だろうか。案じながら走り付いた先には確かに犬が居た。俺の姿を認めて「わん」と、吠えたのだろうが、声が低い所為か「むん」と聞こえるような吠え方をした犬の傍らには、青年の姿が在った。
青年は暗くなり掛かる山道に膝を抱えて座っていた。
「どう、されました?」
声を掛けると、その人は弾かれたように顔を上げ、俺の姿を認めると「道に、迷ってしまって」と呟いて、ホッとしたように笑みを零した。
キレイに笑う人だ。そう思った。
それが、俺と鯉登さんとの出会いだった。