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    いさな🌱

    主に犬辻
    🔞はこそフォロ限、ちょっとあれだなという話はフォロワー限で公開にしてます!すみません🙏

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    いさな🌱

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    既刊「彼女と彼の大団円」の設定をベースに、告白できなかった場合の軸のお話。冒頭に「彼女と彼の大団円」と同じ展開があります。
    ボーダーを辞めたひゃみさんと忘れられない辻󠄀ちゃんの大人になった頃のお話。

    ※捏造、年齢操作があります。
    ※モブがたくさんしゃべります。(名前ありモブもいます)

    #辻ひゃみ
    prostitute

    🎪うそつきたちの約束は学校帰り、ボーダーへと向かう道。
    「三十歳になった時にさ……お互い彼氏彼女がいなかったら、結婚しちゃおうか?」
    ひょんな話の流れから、ひゃみさんは俺にそう言った。それに思わず固まる。
    「……お、俺はまぁ分かるけど……ひゃみさんは大丈夫でしょ?」
    真に受けて照れてしまった俺とは対照的に、ひゃみさんはいつもと変わらない顔で「分かんないよ」と言ってくる。照れた自分を恥じて少しムッとした俺に、ひゃみさんは「どうしたの?」と聞いてくるものだから、頬をさすりながら「なんでもない」と答える。少しだけ笑った彼女は、それを深追いすることなく「そう」と返し、前を向いた。
    「……あ、ねぇ辻くん」
    クンクンと、制服の裾を軽く掴まれる。俺は素直に、彼女が指差す方向へと視線を向けた。そこには、店の前に置かれたガチャガチャが数台並んでいる。
    「? あれがどうしたの?」
    俺が話しかける頃には、ひゃみさんは小走りでそこに駆け寄り、一つのガチャガチャの前にしゃがんでいた。俺も並んで同じように見れば、目の前ガチャガチャを指差して、笑う。
    「ほら、見て。こんにゃく指輪」
    「本当だ……こんにゃく指輪……」
    こんにゃくと婚約を掛けている……なんて、なんという駄洒落。俺がこんなの回す人いるのかな? と思っていると、横でひゃみさんがとんでもないことを言った。
    「……ねぇさっきの約束の証拠にさ、これちょうだいよ」
    「………………えぇっ?」
    ちょうどこんなの誰がと思ったタイミングでそんなことを言われ、俺は心底驚いた。その顔を見て、ひゃみさんが楽しそうに笑う。あぁやっぱり、揶揄ってるな。俺は少し目を細めて、またガチャガチャに視線を戻した。
    「どうせ、回すなら…………これが良い」
    「え、これ……?」
    「うん」
    そう言って隣にあるのを指差せば、今度はひゃみさんが少し驚いた顔をした。隣にあったのは、そんな冗談みたいな指輪じゃなくて、キラキラしたいかにもな指輪だった。どうせ贈るなら……冗談だと分かっていても。俺はちゃんと、ひゃみさんに似合うものを贈りたい。
    「……まー……辻くんが良いなら良いけど」
    「うん」
    なんだか渋っているひゃみさんを放っておいて、俺は財布を取り出し小銭を探す。ひゃみさんは隣でしゃがんだまま、ガチャガチャをじっと見ていた。
    「そっちのほうが安いもんね」
    「違うよ、そういうことじゃない」
    確かに、三百円と二百円のガチャガチャで、こんにゃく指輪の方が高いけど。そんな会話をしながら、百円玉を入れて取手を回す。
    ガチャン、ガチャン。
    金属音がして、中から丸いケースが落ちてくる。俺はそれを取り出し、その中にある六角形のキラキラしたケースをひゃみさんに渡した。
    「はい」
    「…………どーも」
    受け取ったひゃみさんは少し恥ずかしそうにして、少し前の俺みたいな顔をしていた。それに思わず笑う。
    「どういたしまして」
    ひゃみさんは照れたまま、なんだかブスッとした顔になっている。それだけでしてやったりだけど、受け取ったまま開けないでそのままカバンにしまおうとしたことに、思わずツッコむ。
    「開けないの?」
    キラキラのケースは少し透けているから、なんとなく中身は分かるけど。ひゃみさんは俺に言われて、渋々ケースを開けて中身を見た。そこには四角い大きなダイヤもどきがついている指輪があって、俺は「いいね」と笑う。
    「せっかくだしつけないの?」
    「いやだよ、恥ずかしい」
    「こんにゃくが指についてる方が恥ずかしいと思うけど……」
    「だってそれは……すぐ冗談だって分かるでしょ。こんなの……」
    そこまで言って、ひゃみさんは口を噤んだ。俺は少し、その言葉の続きが聞きたかった。

    ――俺が「本気だよ」って、言えてしまえば良いのに。

    言えるわけもなく、ひゃみさんがパタリとケースを閉じるの見て、俺もゆっくりと口を閉じた。
    カバンにケースをしまえば、指輪を渡してから初めて俺に視線を向ける。けれど、照れくさそうにして、ひゃみさんはまたすぐふいと目を逸らした。そんなところを、可愛いなと思う。
    「……まぁ、ありがとう辻くん」
    「……………どういたしまして」
    ひゃみさんの上を向いた睫毛が、少し下を向いている。上からその瞼を見つめて、赤くなっている頬に気付いた。俺はまた少し口を開く。

    ……ねぇひゃみさん。そんな約束をするのなら、冗談なんかじゃなくって、本当なら良いのにね。

    喉まで出かかって、その言葉は結局声にはならない。その夏の日のことを、俺はよく思い出す。




    そしてそれから数年後。
    ひゃみさんは同じ口で、残酷なことを言った。




    「…………私、ボーダー辞めようかな」

    それは小さな声で、気付かないふりをしたら、きっとなかったことに出来るような、そんな声。
    俺と二人きりの、作戦室での出来事だった。

    その時はもう、俺たちは鳩原先輩は取り返していて、二宮さんは現場から退いていた。
    二宮隊はそのまま解散となり、俺たちは暫定的に犬飼隊としてやっていっていた。三人でも、なんとかやっていける。きっとそう思っていたのは俺だけじゃないはずなのに、ひゃみさんは疲れた声で、ポツリとそうこぼしたのだ。
    俯いて、こっちを見ようともしない。その声は少し苦笑いのようにも聞こえて、冗談として流してしまっても良かった。「何言ってるの、そんなの俺たち困るよ」って、笑い飛ばすか、少し怒るか。そんなことを考える。開いた口を震わせて、俺はぎこちなく喋るために動かそうとする。――けれど、本当にそれで良いのだろうか?
    ひゃみさんに辞めてほしくないのは俺の意思で、ただのわがままで、それで彼女を縛る権利は、俺には何にもないんだって、その時初めて気付いてしまった。俺が嫌だと言ったからといって、彼女にとってそれが、一体なんだと言うんだろう。

    あぁ……………だから。

    「そう……だね」

    俺は長い沈黙の後、ようやくその言葉を絞り出す。
    ひゃみさんはそれに勢いよく顔を上げ、目を見開いていた。目が合えば、今度は俺が顔を伏せてしまう。ひゃみさんの視線を強く感じながら、ゆっくりと口を動かす。
    「ひゃみさんが、そう思ったんなら……それがいいよ。……その方が、絶対……ひゃみさんのためだと思う」
    ゆっくりと、力強く。俺ははっきりとそう言い切った。
    だって、ここは危険だ。ここにいる限り、いつでも戦いに駆り出されるし、オペレーターだって危険はゼロじゃない。それに今なら、就職活動にも間に合う。ひゃみさんなら、きっとボーダーじゃなくても、いや三門じゃないどこかでだって、立派にやっていけるはずだ。

    「ねぇ、ひゃみさん……」

    ――それなら、俺と付き合ってくれませんか。

    数年間、密かに想い続けていたその気持ちが、ついに表に出そうになる。ずっと気付いていたのに、見ないフリをしていた、俺の本当の気持ち。
    ――好きです。
    その四文字が言えなくて、言いたくなくて、俺はここまできてしまった。だって怖かった。この関係が、変わってしまうことが。俺とひゃみさんが、今までの俺とひゃみさんでなくなってしまうことが。

    「……………………いや、なんでもない。…………ひゃみさんが辞めたら……寂しく、なるな……」

    結局俺が言えたのは、それが精一杯。ひゃみさんは俺の声を聞いて、少し泣きそうな声で「私もだよ」と、またこぼすように言った。

    ――それは大学三年生の時。あの日と同じ、暑い暑い夏の日だった。


    □■□■


    それから三ヶ月後。彼女は本当に、あっという間にボーダーを辞めてしまった。

    辞める際、重要事項を知っている隊員には記憶隠蔽措置が行われるらしい。ひゃみさんもそれに該当して、彼女は記憶の一部を失った。
    記憶隠蔽措置には、いくつか種類があるという。トラウマを持った隊員のために、ボーダー時代そのものを『なかったことにできる』ものもあるそうだ。ボーダーには所属していたものの、『C級隊員のまま正隊員にはなれなかった』という記憶に差し変わるというものだった。噂によれば、彼女はそれを選んだらしい。どうしてそんなものを選んだのか、そんなにあの日々が嫌だったのか。憤りにも近い気持ちになったけれど、やっぱり俺がそんなこと聞けるわけもなく、ただ一人で悶々とするだけだった。
    だから俺たちの最後は、エンジニアエリアの前で迎えることになった。お互い「元気でね」って言いながら別れて、ひゃみさんは最後、涙を流しながらそれでも笑って「またね」と言っていた。
    処置に向かうためのしっかりとしたドアが閉まって、俺はその場にしゃがむようにして一人で泣き崩れる。その背中を、犬飼先輩が優しく撫でてくれた。
    その「またね」が叶うことはないと俺は知っていて、俺より賢いひゃみさんも絶対知っていたはずなのに、どうして最後まで優しい言葉をかけてくれるのか、不思議でしょうがなかった。

    初恋。きっとそうなんだろう。だからこんなにも未練があって、忘れられない。

    その後、俺とひゃみさんは、ただの大学の同級生になった。けれど学部が違う彼女を見かけることはあまりなくて、たまに遠くで談笑する彼女を、ただそっと見守った。結局俺たちはそのまま、一言も会話をすることもなく、無事大学を卒業した。
    そして人伝に、彼女が県外に就職したことを聞いたのだ。それを聞いた時、寂しさよりも心底嬉しかった。ただの三門市民になった彼女を守りきれる保証もないし、どうせなら手に届かないところで、安全に幸せになって欲しいと思っていたから。ひゃみさんが遠くに行けば、少しは忘れられるかもしれない。……なんてことを、思っていた。

    結局それから。
    俺にはひゃみさんより大切な人に出会えるわけもなく。手の届かない彼女の幸せを、ただ一人静かに祈り続けるだけだ。


    □■□■


    「え、ちょっと待ってください。……その人と辻さん、結局付き合ってない……ってことですか?」
    「え……? うん」
    「ねぇ〜〜、やばいでしょぉ?」
    「メンバーが変わるたびにこの話するんですか? 犬飼さん……。辻さんが可哀想ですよ」
    「いやぁ、チームの歴史は正しく知っておいた方が良いでしょ〜?」

    あれから、もう数年経つ。大学を卒業した俺は、結局ボーダーに就職した。それは犬飼先輩も同じで、俺たちはまだ『犬飼隊』をやっている。
    けれど、昔と今は少し違う。組織が大きくなった現在、基本的に組織の仕事に従事している俺たちは、普通の戦闘員とは違い、月三の防衛任務と、OJTとしてB級になった正隊員と一年間隊を組むことが決められている。今日はちょうどその新しいB級隊員の歓迎会を、居酒屋でしているところだ。そして何故か、犬飼先輩に唆されて、思い出になったひゃみさんの話をしてしまった。

    「いや〜、でも犬飼さんも辻さんも山之内さんも、優しい人で良かったですよ。オレ配属『犬飼隊』って聞いた時、すげービビってましたもん」
    元気な新人くんが、ウーロン茶を一気飲みした後にそう言った。少し酔っている犬飼先輩が、机に項垂れながら「えー? なんで〜?」と笑っている。
    「だって黒スーツだし……みんなイケメンだし……ほら犬飼さんは仕事ができるチャラ男、辻さんはクールで無口な侍、山之内さんはめっちゃレアな優等生男子オペレーター……キャラ付けだけでも濃いのに、それに黒スーツって…………C級隊員の間じゃ『幻のホスト集団』として有名ですからね」
    「……君がうちにきた理由が分かったよ。それだけ物怖じしないなら、ちょうど良いね……」
    「顔が怖い!? めっちゃ褒めてますよ!!」
    犬飼先輩はケラケラと笑い、山之内くんがあからさまな苦笑いを浮かべている。
    山之内くんは、ひゃみさんが抜けてしばらく、主に俺のせいで安定しなかったオペレーター枠に収まってくれた、世にも珍しい男性オペレーターで、かなり優秀な子だ。俺が今も犬飼隊としてやっていけているのも、間違いなくこの子のおかげだと思う。
    「……うん、山之内くんはすごいよね」
    「辻さん、話ちゃんと聞いてました?」
    このクールなツッコミも、なんだか落ち着く。俺が楽しくなってふふふと笑うと、隣の犬飼先輩もえへへとだらしなく笑っていた。
    「あぁそうだ、夜間勤務許可書……あれ出さないと」
    犬飼先輩の言葉に、俺は少し驚く。新人くんは確かに若い感じだけど、体格も良いからてっきり十八以上なんだと思っていた。
    「え、何歳だっけ?」
    「オレっすか? この前十七になったばっかっす!」
    「っ」
    「若いよね〜」
    犬飼先輩の発言に、山之内くんが「……犬飼さん、そういうのが年寄り臭いですよ」と呆れたように目を細めていた。
    「だっておれもう二十九だよ!? 干支回っちゃったよ〜」
    残酷な会話を耳にしながら、俺は新人くんに聞いてみる。
    「高校は?」
    「あ、言ってなかったですっけ? 六頴館ですよ。先輩達の後輩です」
    「へぇ……」
    じゃあまた、あの制服を見ることになるんだ。懐かしくて、何だかむず痒い。そんなことを思っていると、むくりと身体を起こした犬飼先輩が俺に言う。
    「そうだ辻ちゃん。今度の書類提出、辻ちゃんが行ってしてくれない?」
    「え? 俺ですか?」
    配属された新人が未成年であれば、役所での許可申請が必要になる。何せこの日本では、原則十八歳以下の子どもの夜勤は認められていないのだ。ボーダー、三門市、政府が提携して、ボーダー隊員は特例として夜勤が認められる形になっている。そのためには、役所への許可申請が必要なのだ。
    申請書類自体は総務が用意してくれるし、大した労力ではないけど、新人正隊員はこれからお世話になる役所の方へのご挨拶も兼ねて、書類は直接役所に提出するように言われている。
    「うん。……おれしばらく本業が忙しそうだからさぁ。昼間動くのが難しそうなんだよね」
    「……まぁ、それなら……良いですけど」
    「よろしく〜。ありがとね」
    「え、なんすかなんすか?」
    俺と犬飼先輩が話を進めている間に、山之内くんが新人くんに説明してあげていた。理解した新人くんが、「なるほどー!」と言っているけれど、「絶対説明あったから」と山之内くんが冷静にツッコむ。
    「……まぁ新人くんの書類も大体揃ったし、後は役所に提出すれば防衛任務にも入れるだろうから、それまでに連携訓練しないとね〜」
    片手を置いてうんの伸びをして見せた先輩が、そう呟く。新人くんは、すかさず両手でガッツポーズを見せた。
    「あざっす! オレ頑張ります!」
    「うん、頑張ろう」
    「頑張ろ〜!」
    カンパーイ! とまたグラスを合わせる横で、山之内くんが「しかし……」と言って息を吐いた。
    「君がスナイパーとか、意外だな。目立ちたがりそうなのに」
    「え!? スナイパーカッコいいじゃないっすか〜! オレの憧れはケンく……佐鳥さんなんですよ!」
    「「「あ〜〜……」」」
    なるほど、と皆心の中で思って、深く頷く。「ツインスナイプは諦めなよ」という山之内くんに、「あんなの無理っすよ!」と首を横に振っていた。案外、現実派なのかもしれない。
    スナイパーと一緒にやるのは、かなり久々だ。それこそ鳩原先輩以来になる。その頃のことを思い出せば、自然とひゃみさんの顔がよぎって、俺は思わず少し笑いながら、ゆっくりと目を伏せた。


    □■□■


    三門市役所 防災危機管理部 ボーダー提携課。第一次大規模侵攻後、ボーダーと公的機関を繋ぐために設置され、現在も大切な窓口を担ってくれている。ボーダーとしては、最重要取引先だ。
    「やぁ、辻くん。久しぶり」
    「林さん」
    ボーダー内部の情報を知っている人材が比較的優遇されていて、元ボーダー関係者も多い。課長の林さんもその一人で、昔はボーダー本部にいてお世話になっていた人だ。
    「今日は夜間勤務許可書……の提出だったっけ? お待たせしてごめんね」
    「いえ、もう書類は提出したので……あとは林さんにご挨拶しようと」
    「おぉ、それこそお待たせして申し訳ない」
    さすがに緊張しているようで、新人くんはカチコチと固まっていた。そのまましばらく世間話をして、新人くんを紹介する。和やかに挨拶を済ませ、そろそろ退席しようとした頃、部屋のノックが鳴った。
    「どうぞ」
    「お話し中に失礼します。すみません、先程提出いただいた書類に記載漏れがありまして……」
    そう言って入って来たのは、金髪の小さな女性だった。その姿に、俺は思わず息を飲み、大きく目を見開く。
    「……………ひゃ…………………………………………………………」
    「あの……?」
    「? っ! あっ、はい……! どこが間違ってましたかね!?」
    女性な苦手なことを知っていた新人くんが、俺が完全に固まっているのを理解して、ハキハキと対応してくれた。普段なら脳内でお礼を言うところだけど、今はそれもままならない。
    「いえ、間違いではなくて、ここの箇所なんですけど……」
    「はいっ」
    俺は二人のやり取りを見るふりをして、じっとその人の姿を見た。細い毛質の真っ直ぐな金髪に、真っ白な肌。そしてアイスブルーの瞳。落ち着いた、けれど少し可愛い声。……見間違えるわけもない人物が確かに目の前にいて、俺はただ茫然としてしまう。
    二人のやり取りが終わる頃、林さんが「そうだ」と俺に話しかける。
    「もしかして初めて会うかな? 氷見さんだよ。今年度から、Uターンでうちに来てくれたんだ。氷見さんも、元ボーダー隊員なんだ」
    林さんに挨拶するよう促されて、その女性……氷見、さんは、書類をまとめて立ち上がり、ペコリと綺麗なお辞儀をする。
    「氷見です。……これからどうぞ、よろしくお願いいたします」
    「ぇ、あ………………………」

    そこから頭が真っ白になり、俺は何も覚えていない。

    □■

    「いや、辻さん女の人苦手って聞いてましたけど、あんな感じになるんですね……」
    「いや、なんというか……多分ちょっとあれは違う。レアケース……というか……」
    「そうなんですか? ……まぁ何とか終わって良かったです……」
    俺の記憶にあるよりかなり疲れた顔をして、新人くんは大きな溜息を吐いた。なんだか大変迷惑をかけてしまったみたいで、本当に申し訳ない。
    新人くん曰く、固まって言葉を発しなくなった俺を無理やり引っ張って、ここまで帰って来てくれたらしい。俺は気が付いたら、市役所近くの公園のベンチに座らされていた。手にはもらった覚えの無い名刺が握られており、そこにははっきりと『氷見亜季』と書いてある。
    「あ、あぁぁ…………」
    これで完全に、奇跡的に苗字が一緒の他人の空似……ではなくなった。俺は名刺を持ったまま頭を抱えるしか出来なくて、新人くんが気を遣って飲み物まで買って来てくれた。……本当に申し訳ない。
    そのまま俺が項垂れていたら、新人くんが少し恐る恐るといった感じで、俺の顔を覗くように見てくる。
    「……もしかして…………知り合いだった、とかですか……?」
    その言葉に俺は大袈裟に反応して、新人くんは慌てて「あっ! 嫌だったら答えなくても……」と首と手を横に振っていた。もう一回り近く年上なのに、本当に申し訳ない……。俺は何度も小さな声で「ごめんね……」と呟いた。

    目を瞑ったまま、頭の中で今日見たひゃみさんのことを思い出す。
    あの様子だと、本当に……本当に忘れているんだと思い知らされて、それがだいぶキツい。知っているけど、まるで知らない人になったようだった。
    「あーー…………もう…………」
    分かっていたのに。突き付けられた事実をうまく受け止めることが出来ず、俺は長い間、ベンチから立ち上ることができなかった。
    結局俺は、新人くんにひゃみさんとのことをうまく説明できないまま、その日を終えることとなった。


    □■□■


    けれど後日。
    俺の様子を聞いた同輩が、即座に「それ……氷見じゃ……」となったらしい。
    それから『氷見亜季が市役所にいるらしい』というニュースは、同輩を中心に一気にボーダー内に広がった。
    それを知ったメンバーから、何故か口々に「良かったな」と声を掛けられるけれど、俺としては何も良くなくて、それに対してうまく返すことが出来なかった。
    ひゃみさん……否、氷見さんが市役所にいると分かったところで、俺には特にどうすることもできない。
    ただ何かと理由をつけて市役所に立ち寄り、働いている彼女を遠目に見つめるだけだ。

    同輩との飲み会で氷見さんとのことを突かれ、そんな話をすれば、みんな目を細めて渋い顔をされてしまった。
    「……何、その感じ……?」
    「いや、だって辻ちゃん……それ……」
    「ほぼストーカーじゃん」
    「「陽介!」」
    言い渋った出水の代わりと言いたげに、米屋はあはは〜と笑いながらそんなことを言った。三輪と奈良坂が、厳しめにツッコんでくれる。俺は思ってもみないことを言われて、顔を顰めた。
    「ストーカーって……いや、別にそんなんじゃ……」
    首を横に振る俺に、さっきまでは言い淀んでいた出水が、「いや!」と勢いよく俺に対して少し身を乗り出す。
    「気になって見に行くって、そーとーやばいだろ!」
    「やばい……かな?」
    「やばい! 普通なら警備員呼ばれてもおかしくないって」
    「え、いや、そんなに……」
    出水の言葉を素直に受け取れず、俺は三輪と奈良坂に視線を向けるけれど、三輪は目を逸らし、奈良坂は溜息と共に首を左右に振った。
    「えぇ……そんな、奈良坂まで……」
    「俺も辻の肩を持ってやりたいが……冷静に考えて、ちょっと」
    テンション高めにツッコまれるより、淡々と言われる方が堪えるものがある。俺はまた「えぇ……」と情けなく嘆いたが、誰も何も言ってくれなかった。

    「結局さあ……辻ちゃんは、氷見とどうなりたいわけ?」
    「ど……?」
    しばらく経った頃、米屋にそう切り出され、俺は軽く首を傾げる。俺の返答に注文が集まり、周りからじぃ〜と嫌な視線が注がれた。
    「どう……とかは。ただ……」
    そこまで口にして、俺は黙り込んでしまう。

    ――ただ、話したい。

    それが一番、求めていることだ。

    ――ボーダーを辞めてから何をしていたのか、どうして帰ってきたのか。どうして辞める時に、俺たちのことをなかったことにしてしまったのか。どうして、どうして……。

    彼女に聞きたいことは尽きない。だけど、俺はそれができない。

    連絡先だって知っている。本当は、勇気を出せば。いつだって、その手段はあるのに、ずっと踏み出せずにいるのは、自分が臆病なせいだということを、俺はよく知っている。彼女の中の俺と、俺の中の彼女とでは、今大きな認識の差があって、それをわざわざ理解することが、どうしようもなく怖いのだ。
    結局何も言わない俺に、周りははぁーっと深い溜息を吐いた。そんな中、米屋が手元にあったグラスを一気に煽り、レモン酎ハイを空にする。
    「わかった、合コンだ」
    「え……?」
    カランと、空のグラスの中で氷が音を立てた。目の据わった米屋と視線が合えば、俺を見てニヤリと悪戯な顔で笑う。
    「もう合コンしかないだろ」
    「っ」
    俺の抗議の声をかき消すように、ドン! と米屋はグラスを置いた。俺は思わず変な声を出す。
    「っ、いや! 待って米屋……俺、ごっ……合コン、なんて……」
    「もうそんな合コンで照れる歳じゃないだろ〜」
    「いっ、いや、でも……第一、なんでそんな話に……」
    「このまま辻ちゃんを、犯罪者予備軍にするわけにもいかねーし? ……オレ市役所に女友達いるんだわ。だからどうにか頼んで、氷見を呼んでもらう」
    そう言った米屋は、忙しそうにスマホを触り出す。俺も含め事情を飲み込めた面子が、それぞれ好き勝手に喋り出した。
    「よーしいけ槍バカ」
    「お〜。ちなみにおまえも頭数入ってるからな、弾バカ」
    「え? おれ?」
    「残念だったな、出水」
    「何他人事みたいに言ってんだ。この計画は奈良坂あってこそだろ」
    「俺も……?」
    「そう。おまえでその場の女子全員引きつけて、辻ちゃんと氷見をフリーにするって作戦だから」
    「おまえ……たまに賢いな」
    「まぁ〜な」
    「なるほど……なら、隠岐とかの方が良くないか?」
    「あー、確かに! ……よし、弾バカ、おまえ来なくていいぞ」
    「なんかこの流れでのそれは不本意なんだけど!?」
    俺があわあわしている間に、勝手に話が進められていく。
    「いいよな!? 辻󠄀ちゃん!」
    もう話がほぼまとまってきた頃、そう声を掛けられた。今更、俺の了承をとろうとしてくるなんて。断ったところで、どうせこのままごり押しされる展開が目に見えている。
    「…………ありがとう……みんな」
    それが本当に、みんなの優しさだと分かるから、俺は素直にそうお礼を言った。

    「あ、でも……それってひゃみさんも、合コン行くタイプの女子だ……ってこと?」
    「えー? 合コンに行く氷見は解釈違いってやつ? ……めんどくせー! 今は諦めろ!」


    □■□■


    それから二週間後、本当に市役所勤めの女子との合コンが開かれた。
    約束通り、メンバーは米屋と奈良坂と出水と俺。三輪は当日会った時に、きっと励ましの意味であろうクッキーをそっとくれた。

    時間通りに店に着くと、女子チームが先に着いており、一番手前にひゃみさん、否、氷見さんが座っていた。
    それを見た米屋達はアイコンタクトをして、何も言わず俺を最後尾に移動させ、俺を氷見さんの目の前に座らせるようにする。
    「待たせたなー、ごめん」
    「ホントだよ~。……なんてウソウソ。時間通りだし大丈夫よ。お疲れ様」
    「サンキュ~……とりあえずカンパイ用の飲み物を……」
    「はいドリンクメニュー」
    一番奥に座っていた人が女子側の幹事で、米屋の友達。テキパキとその場を回し、俺たちもあっという間に注文を済ませた。ドリンクと料理が一気に運ばれてくる中、高らかに米屋が乾杯の音頭を取る。
    「はーい、じゃあカンパーイ!」
    「「「「カンパーイ!」」」」
    ビール、酎ハイ、カクテル、果実酒……色んなお酒が入ったグラスが、音を立てて揺れる。
    外が暑かったから、俺は来たばかりのカシスオレンジを一気に半分近く飲む。ふぅと息を吐けば、目の前の彼女と目が合った。
    「あっ…………」
    「…………どうも」
    彼女はホワイトサワーを一口飲んで、そう言った。俺はそれにうまく答えられず、ぺこりと頭を下げる。
    その後は普通の合コンのように、お互い軽く自己紹介をして、フリーの時間になる。
    俺の自己紹介はやっぱりボロボロで、うまく話せない俺を見て、女子達が「かわいー!」と言っていた。俺はそれにまた半泣きになる。自己紹介で逆に面白がられてしまったせいで、氷見さんの隣の女子が俺に話しかけようとしたけれど、米屋と出水の見事な連係プレーで奈良坂へと引き込んでいった。そこからは完全に三対三と一対一の形になり、何気に盛り上がるメンバーの横で、俺と氷見さんは黙々と料理と飲み物を消費していく。
    偶然にも、その店は氷見さんが好きなはずの中華で、少し遠くにあった酢豚のお皿をこっちに寄せてあげた。
    「あ……ありがとうございます」
    「いえ……」
    少しだけ嬉しそうにお礼を言う姿に、思わず頬が緩む。酢豚、好きだったもんね。そう思うけれど、それを口に出すことはない。目の前の人はもう二十八歳……いや、誕生日からすれば、二十七歳の大人の女性で、俺が知っている頃の彼女ではない。俺は氷見さんに気付かれないように、そっとその様子を窺った。……これじゃあ、結局今までと一緒だ。
    しばらく無言でお互い料理を食べ進め、俺は緊張のせいかいつもよりお酒のペースが早くなっていた。
    「すみません、ちょっと……」
    トイレに立ち上がれば、少しフラッとしていることに驚いて、俺は壁に手を付きながらトイレまで向かう。そしてトイレから出れば、見覚えのある姿がそこにはあって、俺は「え」と思わず声を漏らした。
    「ひゃ……ひゃみ……っ、氷見、さん……?」
    「大丈夫ですか?」
    壁にもたれかかりながら、胸の前で腕を組んで俺を見上げる。昔はよく、俺の心配をしたひゃみさんが、そうやってトイレの前まで迎えに来てくれたっけ。その姿は昔と変わっていなくて、なんだか無性に泣きたくなった。
    「あ、あぁ…………大丈夫、です……」
    顔を隠して歩きだせば、少し足がもつれてしまって、こけそうになる。そんな俺の身体を、氷見さんがすかさず支えた。
    「……あ……」
    「っと……本当に……大丈夫?」
    その言い方も、眉を下げる厳しい顔も、力が弱い小さな体で、一生懸命俺を支えてくれるところも。何も変わっていなくて、酔いのせいかじわりと視界が滲んでしまった。このままきつく、今目の前にいる彼女を抱きしめてしまいたい。そんな妄想が頭を過ったけれど、そんなことが出来る俺なら、きっとここにはいないのだ。
    俺はぎゅっときつく目をつぶり、首を左右に振る。それから壁にゆっくりと手を付いて、態勢を立て直した。
    「は、い……すみません。足がもつれちゃって…………」
    ゆっくり彼女から離れ、出来るだけ平気そうに言う。彼女は淡々と「そうですか」と返してくれた。
    「も、戻りますか……」
    そう言って先を歩き始めた俺の服の裾を、氷見さんはクンと引っ張った。それに驚いて、俺は勢いよく振り向く。
    視線がかち合った氷見さんが、じっとこちらを見上げていた。お酒を飲むとすぐ赤くなる彼女の頬が、確かに朱に染まっていて、俺はそれに見惚れてしまう。
    「……ちょっと、二人で外に出ませんか?」
    じっと、見上げるアイスブルーの視線は、相変わらず真っ直ぐで、意志の強さを感じる素敵な目だ。
    「はい……」
    考えるよりも先に、俺の口からはそう言葉が滑り落ちていた。

    □■

    夏だけど、来た時よりだいぶ日は落ち、夜風のおかげで幾分かマシだ。それでもクーラーの聞いた店内よりは暑くて、俺は氷見さんをちらりと見た。
    「あの……暑さは大丈夫、ですか……?」
    「え? あ、はい。これくらいなら……」
    ひゃみさんは、暑いのが苦手だった。俺のせいで倒れられたら大変だと思って見ていれば、「あ、辻󠄀さんもいります?」と、いつの間にか持っていた小型扇風機を俺に向けてきて、涼しい風を送られる。
    「おぉ……気持ちぃ……」
    「ですよね」
    少し笑いながら、氷見さんはその風を自分へと向けた。涼しそうに目を細めて、少し笑っている。それをぼんやりと見ている。と、油断していた俺へと、氷見さんはバッと勢いよく顔を上げた。俺は思わず一歩身を引く。
    「あの」
    「はっ……はい……」
    俺が一歩引いた分、氷見さんがにじり寄ってくる。この時間商店街は賑やかで、俺たちが無言で牽制しあっている中でも、周りは依然として騒がしい。氷見さんがそれにはぁと溜息を吐いて、ようやく俺から一度視線を逸らした。
    「少し、場所を変えましょうか」
    「はい……」
    そのまま店の通りから一本奥に入った路地は、少し暗く人通りも少なかった。氷見さんが小銭を取り出し、自動販売機でお茶を買っている。それも二本。
    「はい、これどうぞ」
    「あ……すみません……ありがとうございます……」
    俺はお金を返そうとポケットを探ったけれど、今の俺はスマホとハンカチしか持っておらず、肩を落として「後で返します……」と告げる。
    「いえいえ……辻󠄀さん結構飲んでたから、遠慮なく飲んでください。それに……ここに連れ出したの、私ですし」
    澄ました顔で氷見さんは買ったばかりのペットボトルの蓋をあけようとする……けれど、まさかの開けられない。数度繰り返して困った顔を見せた彼女に、気付かれないように小さく笑う。お酒を飲むと、普段から弱い力がもっと弱くなるのだ。俺は氷見さんの手からペットボトルを取って、蓋を開けて返してあげる。
    「ありがとう……」
    「ううん」
    昔もこういうのあったな。そんなことを思っていたら、自然と敬語も抜けてしまった。それにハッとして、氷見さんにバレないように小さく首を振る。
    「あー……それで、えぇっと…………」
    俺がこの場をどうしたら良いか考えて歯切れが悪くなると、氷見さんがじっと俺を見つめてきた。
    「辻󠄀さん…………ううん、辻くん、さ」
    「っ……」
    その響きが懐かしくて、俺は思わず目を開く。ワンテンポ遅れて、ようやく「はい」と返事をした。
    「その…………何か私に話したこととか、あるんですか……?」
    「え……?」
    氷見さんからの問いに、思わず声が裏返る。氷見さんは少し言いづらそうに、一瞬目を伏せた。
    「初めて……会った時から、なんというか、視線を感じる……というか……」
    「あ……」
    この時ようやく、出水達に言われた『ストーカー』の意味を理解して、俺はさぁっと血の気が引くのが分かった。俺がこっそり見ていたつもりでも、氷見さんにはバレていて、実はずっと怪しまれていたのだ。……控えめに言って吐きそう。
    「あ、や…………す、すみません……」
    「あぁいや、別に責めているとかじゃなくて」
    青くなっている俺に、氷見さんは慌てて首を振った。それから項垂れる俺をじっと見て、続ける。
    「…………ずっと、不思議で……」
    ぽつりと呟いたその言葉に吸い込まれるように、俺は自然と視線を氷見さんに向けた。氷見さんは顎に手を当てて、考え事をしていた。あぁその癖も、変わってない。
    「不思議なんです、辻くん見てると……。放っておけないというか、私が見ておいてあげないとというか……」
    少し首を傾げるところとか、腕を組むところとか。気になるものを、じっと見るところとか。
    「……私達、もしかして…………知り合い、ですか?」
    変わっていない氷見さんを見て、俺はなんだか脱力してしまって、はーーと大きく息を吐きながらしゃがみこんだ。それを氷見さんが、不思議そうに見ているのが分かる。
    氷見さんが自力でたどり着いた結論に、俺は答えるためにゆっくり深呼吸をした。
    吸って、吐いて。心を落ち着かせて、彼女に言うべきことを考える。
    「氷見……ううん、ひゃみさん」
    昔のように名前を呼んで、今度は俺が下からひゃみさんを見上げる。暗闇でも綺麗なアイスブルーの瞳は、やっぱり不思議そうにこちらを見ていた。
    「ごめんね、急に意味分からないと思うけどさ…………」
    俺は目を閉じて、またすぅっと深く深呼吸をする。考えたところで、答えは変わらなくて。結局余計なことを考えるのはやめて、俺が持っている答えをそのままひゃみさんに返してあげる。
    「俺とひゃみさんは、昔……ずぅっと一緒にいたんだよ」
    「ずっと……一緒…………」
    「うん」と頷いて、俺はゆっくりひゃみさんの足元に視線を移す。相変わらず、小さい足だ。変わらないな。そう思うと、なんだかもうどうでも良くなってきた。目の前のこの人が、もう俺の知っているひゃみさんじゃなくなっていたとしても、この人の中の、ひゃみさんであった部分が消えてなくなったわけじゃない。俺は何を怖がっていたんだろう。きっとひゃみさんが俺のことを忘れていたって、俺は多分何度でも……何度でも、ひゃみさんのことを好きになるのに。
    「…………俺はひゃみさんがいなくなってからも、ひゃみさんのことが忘れられなくて…………でもひゃみさんは、忘れて遠くに行っちゃって……」
    「……うん」
    「それでも……良かったんだ、俺は。…………ひゃみさんが、遠いどこかで幸せでいてくれれば……」
    ひゃみさんがボーダーを辞めるとなった時、三門を離れてほしいと願ったのは紛れもない俺だ。だってここは危険だから。ひゃみさんには、幸せに過ごしてほしいから。紛争なんかに無関係な街で、ひゃみさんらしく暮らしていってくれればそれで良いって。――紛れもなく、それが俺の願いで。
    でも。
    「でも、ひゃみさんが…………帰ってきちゃったんだもん…………」
    我ながら、女々しい声だなと思った。けどそれを堪えることも出来なくて、俺はそのままゆっくり顔を上げる。
    「ねぇひゃみさん…………なんで、帰ってきたの……?」
    結局。俺が一番聞きたかったのは、これだった。全部を捨てて出て行ったはずの君が、ここに戻ってきた理由。それが知りたかった。
    「私は…………」
    見上げた俺と目が合って、ひゃみさんは数度瞬きをしてから、俺に手を差し伸べる。俺は素直にそれを掴めば、ひゃみさんが引っ張り上げようとしてくれるけれど、その力が全然弱くて笑ってしまった。そして俺はひゃみさんに手を掴まれたまま、自分の力で立ち上がる。立った俺を、今度はひゃみさんが見上げて、続ける。
    「私は、約束があったから…………帰って、きたんだよ……」
    「約束……?」
    「うん」
    そう言ったひゃみさんが、少し恥ずかしそうに顔を伏せた。それからゆっくり顔を上げる。
    「…………ねぇ辻くん。私達、今何歳?」
    「え? 二十八……あ、ひゃみさんは二十七だと思うけど…………」
    「うん。そうだね…………」
    離すタイミングを逃していた手を、お互い握り合ったまま向かい合う。繋いだ手は、じんわりと熱い。見つめ合うのが恥ずかしくなって、お互い自然と二人とも、その繋いだ手を見ていた。

    「……私ね…………三十歳で、結婚するんだ」

    そう呟いたひゃみさんの声が、あまりに穏やかで、優しくて……俺の心の柔らかい部分が、ぐちゃぐちゃになる感覚がした。俺が咄嗟に手を引こうとしたら、しっかりひゃみさんの手に掴まれていて、離すことが出来ない。
    「…………ひゃみさん?」
    そんな人がいるなら、早くこの手を離さないと。そう焦る俺を無視して、ひゃみさんは少しだけ笑う。
    「……確かに、そう約束したの。それなのに…………誰とその約束をしたか、思い出せなくて…………」
    顔を少し曇らせて、ひゃみさんはやっぱり首を傾げた。
    その言葉に、俺は瞬きをする。そんな話をしたことを、俺だけはずっと、覚えている。
    「もうあっという間に三十歳になっちゃうでしょ? だから、早く探さないとって…………思って…………」
    ぎゅうっと、指先が少し白くなるほど掴まれる。俺は少し呆然としながら、その話の続きを待った。もしかして、と、淡い期待をしてしまう。
    「…………私はその人を探すために、帰ってきたんだよ…………辻くん」
    そう言ったひゃみさんが、今度こそ俺の手を離す。代わりのポケットから、どこか見覚えのあるものを出してきて――俺を見て、笑う。
    「それ……」
    「うん。……全部忘れて、辻くんなんていなかったことにして、生きていこうと思ったのにね。…………どうしてかな? ……ごめんね、辻くん」
    そう言った彼女の目からは、涙が溢れていて、俺は今度こそ彼女をぎゅうっと力強く抱き寄せた。
    「ひゃみさん……」
    「…………おぼろげ、だけど………………思い出したてきたよ、辻くん」
    彼女が俺の腕の中で、ゆっくりと顔を上げる。目が合って、二人で笑い合う。
    その指輪は、あの日俺がひゃみさんに渡したもので。もしかしたら、本当の約束になれば良いと願って渡したものだ。
    「あんなの……冗談だと思ってたのに」
    「私だって、冗談のつもりだったのに……辻くんが、こんなのくれるから」
    そう言って、ひゃみさんが手の中にある指輪をもう一度見せてくれる。今見たら、安っぽくて子どもっぽくて、とてもひゃみさんに似合うものなんかじゃない。でも、それは俺の、子どもの頃の俺の、精一杯の見栄のように見えた。
    「全部忘れても、ぼんやりと覚えてて、忘れられない何かがあって……この指輪とその約束だけを頼りに、私はまたここに帰って来ちゃったんだよ…………」
    ひゃみさんは少し自嘲するように呟いて、俺はそれに左右に首を振る。
    「上手く手放せなくて……ごめんね、辻くん……」
    「そんな……!」
    その言葉に、俺はひゃみさんの両肩を掴んで、顔を見合わせるように覗き込んだ。
    「それは、俺の方で……! 俺が……ずっと…………」
    見つめ合って、お互い目が潤んでて、しっかりと向き合ってしまえば、ついに決壊したように涙が溢れ出てしまう。
    言いたいことも、聞きたいこともたくさんあって。でも今は、そんなのもうどうだって良い気がしてくる。今はただ、一言だけで良い。

    「…………おかえり、ひゃみさん」
    「ただいま、辻くん……」

    結局、忘れたいのも、忘れたくないのも、どちらも同じくらいの気持ちで。俺たちは嘘つきで、下手くそで。こんなところばかり似てしまう俺たちは、その偽物の指輪に縋って、これからも生きていくんだと思う。

    「ねぇひゃみさん……」
    「うん……?」
    「今更……かもしれないけど……」
    俺はそこまで言って、大きく息を吸った。ずっと言えなくて、言いたくて、言いたくなくて、胸の中にしまっていた言葉。

    「…………好きです」

    ようやく彼女に言えた、本当の気持ち。
    か細い声でそう呟けばひゃみさんも同じくらい小さかな声で、「私も」と、優しく言った。

    泣きながら笑い合って、彼女はおもちゃの指輪を、左手の薬指にはめた。送ってから十年は経つけれど、その姿は初めて見てなんだか胸がくすぐったい。
    今度は同じ指に、本物のダイヤを送るのだ。俺はそう誓って、あの約束を取り付け直す。

    「ねぇひゃみさん……三十歳まで待たなくても、俺と結婚してくれませんか……?」

    俺の言葉に驚いたひゃみさんは、目を大きく見開いて、それから笑って「気ぃ早すぎだよ」と言う。けれどそれから、彼女は真っ直ぐ俺を見ながら、確かに「はい」と言ってくれたのだ。






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    いさな🌱

    DONE既刊「彼女と彼の大団円」の設定をベースに、告白できなかった場合の軸のお話。冒頭に「彼女と彼の大団円」と同じ展開があります。
    ボーダーを辞めたひゃみさんと忘れられない辻󠄀ちゃんの大人になった頃のお話。

    ※捏造、年齢操作があります。
    ※モブがたくさんしゃべります。(名前ありモブもいます)
    🎪うそつきたちの約束は学校帰り、ボーダーへと向かう道。
    「三十歳になった時にさ……お互い彼氏彼女がいなかったら、結婚しちゃおうか?」
    ひょんな話の流れから、ひゃみさんは俺にそう言った。それに思わず固まる。
    「……お、俺はまぁ分かるけど……ひゃみさんは大丈夫でしょ?」
    真に受けて照れてしまった俺とは対照的に、ひゃみさんはいつもと変わらない顔で「分かんないよ」と言ってくる。照れた自分を恥じて少しムッとした俺に、ひゃみさんは「どうしたの?」と聞いてくるものだから、頬をさすりながら「なんでもない」と答える。少しだけ笑った彼女は、それを深追いすることなく「そう」と返し、前を向いた。
    「……あ、ねぇ辻くん」
    クンクンと、制服の裾を軽く掴まれる。俺は素直に、彼女が指差す方向へと視線を向けた。そこには、店の前に置かれたガチャガチャが数台並んでいる。
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    「……お、俺はまぁ分かるけど……ひゃみさんは大丈夫でしょ?」
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    「……あ、ねぇ辻くん」
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