Mellow loneliness 6 ◇
「あははっ!ないよ、ないない〜っ!
ふふっ、ほんと、レイ君がそんな心配してたなんて……」
ははっ、ふふふっ……と、肩を揺らして楽しそうに笑うケンジの声が、お陽さまの光のようにあたたかく食卓を包む。
「うー……ケンさんはそう言うけど……なかなかキスされなかったら、『キス待ってる俺の顔がマズいから!?』とか、ヘンな心配もしちゃうダロ……」
零次はくぐもった低い声で、わざと不服そうに唇を尖らせた。
そして横目で、「レイ君てば考えすぎだよ〜」と笑うケンジの顔を、一瞬ずつ、ファインダーに切り取るように胸の内に収めていく。
先ほど「カンパイ!」とグラスを鳴らした二人は、ダイニングテーブルの角を挟んで隣りあう形で座っている。
テイクアウトの寿司折や肉料理の並ぶテーブルは、『せっかくだからちょびっと贅沢』をうたう今夜のディナーに最適だった。
二人で作ったサラダや簡単なつまみの類いも、こちらもちょっと奮発したスパークリングワインのフレッシュな喉越しにほどよく合う。
零次宅での二人きりの食事は初めてだったが、清潔で温かな居心地のよさもあってか、おいしそうに料理を頬張るケンジはとてもリラックスしているようだ。
まるで子供のようにもぐもぐと動くほっぺを見ていると、大切なひとと食卓を囲む幸せが込みあげて、零次の箸も進んだ。
「じゃあ、聞くけど……。なんでケンさんは……その、キスをためらったんだよ……?」
ひとまず箸を置き、零次はひと口グラスを呷ったケンジに訊いた。
左隣に座ったケンジは、彼の意志の強さを象徴する濃い眉をハの字に曲げて、もったいぶるように言い淀んだ。
「えー?言わなきゃダメ……?あらためて言うの、恥ずかしいなぁ……」
ゆっくりと回り始めたアルコールが、ケンジの表情を気持ちよさそうに弛緩させている。
けれど本当に恥ずかしいのか、ケンジは「ん〜……」と声をくゆらせ、伏し目がちに睫毛をまたたかせた。
「ほら、レイ君はキスが上手だから、……って、恥ずかしいから、そんなにマジメな顔で聞かないでよぉ……。
ただ僕は、どんなふうにきみの唇に触れればいいんだろうって、正解を探ってぐるぐるしてたんだよ……」
言い終えたあと、ケンジは涼しげに切り込んだ目尻や耳まで赤くした。
さっと朱を刷いた肌の美しさに見惚れる零次は、さっきのケンジを真似るように軽やかに笑った。
「あははっ、なんだ、ケンさんこそ、そんなこと気にしてたのかよ……ふふっ、あはは!
よかった〜、俺に引いたんじゃなかった〜!」
キスを待つ間にかなりの焦燥に駆られたせいで、思わぬ真意が聞き出せて心底安心してしまった。
ケンジは赤い顔のまま、サーモンのお寿司を一貫パクッと頬張った。もぐもぐ、ごくん……と静かに嚥下したあと、上半身を零次に向けて赤い顔でニコッと笑った。
「引かないよ〜。レイ君はね〜、キス待ち顔もセクシーだよ」
「ふふっ……ありがと。
ケンさんのキスも、満点だったよ」
もっともっと、恥ずかしがるケンジが見てみたくて、しれっと言って、ちょっとだけイジワルに笑ってみる。
案の定、ケンジはセーターの襟元から伸びる首までまっ赤に染めて、次のお寿司に伸びかけた箸を止めた。
「そっ、それに関しては……いつもレイ君が、丁寧にサポートしてくれてるからねっ……」
言葉を選びながらも一生懸命に切り返すケンジが軽快でいて愉快で、零次はまたふふふっと頬笑んだ。
そして、そういえば……と、ふと今日の午前中のできごとを思い出した。昼に紫も気にしていた例のことだ。
「なあ、ケンさん。もう一つ、訊いてもいい……?」
「ん?なぁに?」
ケンジは赤い顔のまま、とろけてしまいそうに優しい眼差しで零次を仰いだ。そうしながら、きれいに撫でつけたオールバックの生え際を指の背で拭い、「ちょっと汗かいちゃった」と言って笑っている。
零次はテーブルに身を乗り出して、真正面からケンジの瞳をじっと捕らえた。
「ケンさん、今日の午前中のこと……」
「ぁ……」
まるでバックネットに追い詰められたように、小さく肩を跳ねさせたケンジの動きが止まった。零次が何を訊きたがっているのか、とっさに悟った顔だと手に取るようにわかった。
きまりが悪そうに視線を泳がせるケンジを見つめ、零次は落ち着いた声音で言葉を続けた。
「俺と入った操縦室でのあれ……。ケンさんなら絶対にミスらないような操作、ミスってただろ……?
みんなもだけど、俺も心配したよ。何か心配ごとがあったんじゃないかって……」
「……それは、……」
彼らしからぬ歯切れの悪さで、ケンジが言葉を飲み込んでしまう。キュッと結ばれた唇は、それでも何か言いたげに小さく開いて、また閉じられた。
ケンジは言うか否か逡巡しているのか、零次の視線から逃れるように顔を深くうつむけた。
表情までは窺えないが、白い首筋もやわらかく照明をはじく耳も、今にも火が出そうなほどまっ赤に染まっている。
ただならぬケンジの様子に、内心で『コレはマズイことを訊いてしまったのか……!?』と零次が焦り始めたとき、蚊の鳴くような弱々しい声でケンジが呻いた。
「心配ごとじゃなくって……うぅ、あれは、レイ君のせいだよ……っ」
「えぇっ!?お、俺!?」
「そうだよぉ……」
まさか、自分のせいだとは露とも思わなかった零次は、思わずすっとんきょうな声をあげてしまった。
ケンジは顔の前で両手を大きく煽いで、顔面のほてりをなんとか鎮めようとしている。なかなか冷めない熱に途方に暮れたように、桜色がかったきれいな五指がなめらかな頬を覆い隠した。
指輪のきらめきに思わず目をやった零次の視線が気になったのか、ケンジがそっと、唇にあてた左手を右手で包む。
そのまま口許を指先で隠し、ケンジは艶っぽく潤んでしまった瞳を零次に向けた。
「レイ君……、軽蔑しないで聞いてくれる……?」
「聞くよ、なに!?」
ケンジにこんな顔をさせる落ち度があったなら早く知りたい……!そしてゴメンと謝りたい……!!
食い気味に詰め寄る圧から逃れるように、少し後ろへのけ反るケンジは、ぽしょぽしょと消え入りそうな声をつなげた。
「実はゆうべ……ェ……、ェ……ッチな夢を見ちゃったんだよ……。
レイ君と、その……ェ……ッチなこと、する夢……」
「……エッ……!!??」
エッ……チな夢!?
ケンジの口から耳を疑うワードが飛び出て、驚嘆する零次の心臓も口から飛び出そうになる。零次は慌てて口許を押さえ、意気消沈して力なく肩をすぼめるケンジを凝視した。
ケンジは秘めていた不安を吐露するように、丸い顎を上向けて浅い深呼吸をひとつした。
「僕の気のせいかもしれないんだけど……昨日のレイ君、なかなか目が合わなくて、なんとなくよそよそしかったから……。
ひょっとして、僕がなにかしたんじゃないかって、心配だったんだ……」
「昨日……」
ハッ、と瞳を瞠る零次は息をのんだ。
昨日といえば、明け方の夢でケンジとエッチに至ってしまい、罪悪感から終日ケンジの顔を直視できなかった日だ……。
ケンジにそんな心配をかけていたなんて……ごめん、ケンさん!と零次が口走るより前に、グラスの底でたゆたう気泡を見つめるケンジが、ぼんやりとつぶやいた。
「あんないけない夢見ちゃったの、レイ君のこと考えながら眠ったからなのかなぁ……」
ふうっと宙へ吐き出されたため息に、零次への想いの丈がやわらかく溶けている……。
ケンジはもう一度ため息をつくと、いくぶん赤みの引いた頬をかすかな頬笑みで緩めた。
「訓練のときはね、レイ君を意識しすぎて胸が苦しかったんだ……。
操縦席に隣りあって座ったときも、きみのおっきい手やいい匂いばかり気になって、ぜんぜん操作に集中できなかった……」
「だからさっき、俺のせいって言ったんだ……?」
「うん……。ほんとは、きみのことで頭がいっぱいの、僕のせいなのに」
ケンジは首をすくめ、ごめんねと笑った。
零次への愛情を包み隠さずに伝えるケンジの、その苦しそうな頬笑みに胸がかき乱されてひどく痛んだ。
もとを正せば、ケンジによそよそしい態度をとってしまった昨日のことが原因なのに、このまま黙っておくことはできなかった。
「……いや、やっぱり俺のせいだ、すまないケンさん……」
「えっ!?うそうそ、レイ君ほんとに違うよっ」
勢いよく頭を下げた零次の謝罪を、ケンジはすっかりうろたえながら否定した。
零次は静かに首を横に振り、実は……とゆうべ見た夢を正直にケンジに白状した。
「俺もさ、昨日見たんだよ、ケンさんと同じような夢……」
「……っ!」
「たぶん……俺のほうが、もっといけない内容だと思う……欲求不満だしな」
最後のセリフを口にして、零次は自嘲気味に短く吐息した。
真剣な眼差しでじっと零次を見つめていたケンジは、途端にほっと安堵の表情を浮かべ肩から力を抜いた。
「だからかぁ……よかったぁ……」
へにゃ〜と上半身をだらけさせ、空気が抜けていくようなユルい表情で天井を仰いでいる。
ケンジは小さな咳払いで姿勢を正すと、神妙な顔つきになって零次に訊いた。
「レイ君が昨日、よそよそしかった理由……。
レイ君も僕のこと、意識してたから……?」
「うん……」
「僕のことで、頭がいっぱいだったってこと……?」
「そうです……」
「夢の中の僕……エッチだった……?」
「そっ、それは……もう……すごく……」
「ふふっ」
嬉しそうに覗き込む瞳の奥にかわいい小悪魔がいるのが見えて、観念する零次は募りきった気持ちのすべてをさらけ出した。
「俺はもう、この一週間、ずっと、今夜が楽しみで仕方なかったんだ……。
ケンさんと二人きりで過ごせる今夜が、待ち遠しくて仕方なかった」
「うん……」
「ケンさんのことばかり考えて過ごして、挙げ句にエッチな夢まで見ちまって……。
昨日は心配かけて、ごめんな」
「ううん、僕こそ……」
そう首を振るケンジはさっぱりとした表情で、物思いに耽った昨夜を吹き飛ばすように朗らかに笑った。
「僕ら、ついに夢までシンクロしちゃったね。仲が良すぎて、なんかおかしいね」
「ほんとだよ」
ははっ、ふふっと笑いあって、改めてケンジは零次を見つめた。
その瞳にあるのはとても美しい光で、優しさの中に強さの宿る、零次の大好きな輝きだった。
「あとね、レイ君……。きみだけじゃないよ、僕も……。
僕も、今夜をすごく楽しみにしてた!」
快活に言うケンジの晴れやかな笑顔は、ご馳走の並ぶ賑やかな食卓を、一層明るくさせる魔法のようだった。
「ほら、レイ君。乾杯しなおそう」
まぶしい笑顔のきらめきに釘づけになる零次は、情の深い恋人がそっと差す出すボトルで我に返った。
「あっ、あぁ……、そうだな——。
ありがとう」
つられて傾けたグラスへ、淡黄色のワインが揺れながら半分ほど注がれる。
パチパチとはぜる気泡の音が、爽やかなそよ風が吹き抜けるように、熱を持った耳に心地よかった。