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    KiyoNago32

    @KiyoNago32

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    KiyoNago32

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    今日一日かけて半分以上書き直したものをちょっと投下してみます。

    butterfly effect4(書きかけ)butterfly effect 4

    チャタールームの煌びやかな照明が落ちる。既にパーティー参加者は全員帰途に付き、ルームにはそれを見送った藍曦臣だけが残っていた。薄暗い部屋の中、シャンパングラスを片手に窓際に立って、ビクトリアハーバーの夜景を眺めている。こんな時でもなければ、「絵になるな」とでも言って揶揄っただだろう。二人で過ごした日々が、もう遠い過去のように思えてならなかった。
    藍忘機がボーイに確認したところ、夜八時になるまで、このチャタールームには誰も入らないようにと言われているらしい。あと三十分、それが偶然にも江澄に残された時間だった。
    「行くのか?」
    魏無羨の問いに、江澄は静かに頷いた。ネクタイを締め、スリーピースのスーツを正す。
    まるで勇気付けられるようにその背中をポンと叩れた。江澄は背筋を伸ばして、一歩を踏み出した。

    足音は殆ど立てなかったが、藍曦臣は気配を察したのか、静かに江澄の方を振り向いた。
    「驚きました。まさかここで会えるとは」
    そう言いながらも藍曦臣は驚いてはいなかった。どこか、こうなることを予想していたのかのような態度だったが、江澄との再会を喜ぶ様子もなかった。
    「話をしにきた」
    「あなたとの面会は断り続けてたはずですが?」
    「だからこんな手段に出ているんだ」
    「協力者は忘機と魏無羨、後は阿瑤ですかね」
    あまりにも的確な指摘に江澄は言葉を飲み込んだ。藍曦臣が続ける。
    「…いいでしょう、上に立つ者として、部下の進言にも耳を傾けなければ。それに、これが最後ですから」
    「最後に、するつもりなのか?」
    「そうしなければいけないのです」
    藍曦臣の答えには迷いがない。江澄は苦しくなった。まるで胃の中に鉛でも詰め込まれたかのような閉塞感だ。話をしなければいけないと思うのに、聞きたいことも言いたいこともたくさんあったはずなのに、どの言葉も藍曦臣の意思を翻意させる力を持っているとは思えなくて、続く言葉が出てこない。しばらくお互いに黙ったままだったが、その均衡を破ったのは藍曦臣だった。
    「私は一つ、あなたに謝らなければいけません」
    「…何を?」
    藍曦臣はそう言うと、シャンパンの入ったグラスを机に置き、江澄に向かって頭を下げる。江澄は困惑していた。
    「あなたをずっと、騙していたこと、危険な目に合わせたこと、怪我を負わせてしまったこと…全てです」
    「そんなの…仕方ないことじゃないのか。記憶を無くしたのは俺の方だ。むしろ謝らなきゃいけないのは俺の方で、貴方は何も悪く」
    「出来ることなら、ずっと忘れたままでいて欲しかった」
    江澄の言葉を遮るように藍曦臣が言う。その声色に威圧があるわけではなかったが、どこか諦めたような雰囲気が漂っていた。それもまた、江澄の心を苛んだ。
    「……忘れたままなら、離れずに済むのか?」
    藍曦臣は答えない。
    もし藍曦臣がそうだと答えたなら、江澄は「なら忘れる」と言いたかった。
    それが出来るかどうかは別として、自分にはもう何もない。思い出したからといって、家族が帰ってくるわけでもない。
    でもきっと、それは違う。そんなことはわかっている。記憶の有無なんて関係ない。いつかこの出自と因果が自分に降りかかる。どれだけ藍曦臣が遠ざけようと思っても、自分が、ディーラーという職を選んだ時に、そして澳門金庭園で働くようになった時に、もう運命の歯車は動き出してしまった。
    「あの金庭園カジノの廊下で…会った時、あなたはとても驚いていた。あの時俺たちは、ミッドレベルの事件後初めて出会った。避けようと思えば避けれたはずだ。俺の存在など無視することなど容易かっただろう。でもあなたはカジノに来た。俺と一緒に、何度もポーカーをした。それはどうしてだ」
    責めているつもりはなかった。ただ、病室で「君を守るよ」と言ったまだ幼い藍曦臣の姿が脳裏を離れないのだ。あの頃から特別な感情が彼にあったかどうかわからない。でも、守るだけの目的なら、藍曦臣は自分とのコンタクトを取るべきではなかったはずだ。それでも接触を続けた藍曦臣の想いに訴えかけたかった。これからも変わらないと、そう言いたかった。
    「あの日は本当に偶然でした。病室で別れて以降、二度と会わないと思って生きていたのに、いきなり目の前に現れるんですから。正直、幻覚を見たのかと思いましたよ。でも会ってしまったら、止められなかった」
    藍曦臣は静かに話し始めた。江澄と話すことやめられず、客とディーラーの関係を維持したまま、何年も何年も逢瀬を重ねたことを。それが唯一の、自分にとっての表の世界とのつながりだったと。
    出資者という立場であればカジノに出向くことは不思議ではない。それにハイクラス専用フロアであれば人目を避けられる。そう自分に言い訳していたけれど、偽札事件でそれは一変した。思えばあの時に会うのをやめていればよかったのだ。でもあと少し、まだ大丈夫、そんなふうにずるずると引き伸ばした。
    「偽札事件の犯人が温門会の構成員であるとわかった時、嫌な予感はしていました。あの温晁が再び勢力を取り戻そうとしていることもそうですが、あなたの存在が露見するのではないかと、それが不安でした。でもあなたと会うことを止められず、あなたを解雇することもできなかった。私は何より、ディーラーとして働く江澄が好きでした。優れたポーカー技術、美しい所作、江澄に、あの場所で輝いて欲しかった。私が作った、この澳門一のカジノで。あなたの天職を、奪いたくはなかった。その思いは今も変わりません」
    「変わらないなら、今まで通りでいいだろう…?」
    藍曦臣は首を振った。
    「これは最後のチャンスです。温門会の人間は今度こそ一人残らず全員殺しました。三聖会で事情を知る者には全員に箝口令を敷いています。あなたが、このまま黒社会と関わりなく暮らしていく為にはここで縁を切らなければなりません。カモッラのボスは、幸いあなたのことを私の愛人としか聞いていませんし、阿瑤の協力者を経て、江晩吟は巻き込まれて死んだと伝えられています。今ならまだ逃げられますが、私のそばにいれば、いずれ必ずカモッラの目に入る。できればこの香港澳門から出て、アメリカにでも行ってください。魏無羨と一緒に。ベガスのカジノでも、あなたはきっと輝ける。それにあなたには資産がある。セキュリティのしっかりとした場所をご紹介しますよ」
    最後の一言はどこか他人行儀だった。腹立たしさが込み上げてくる一方で、一言でも皮肉を言ってやりたくてたまらなくなる。
    「こんな時に営業か?」
    「我が社は海外にも物件を保有していますからね」
    馬鹿にするような口調になったが、藍曦臣は意にも介さない。
    彼が言葉とともに浮かべた営業スマイルは、けれど江澄にある事実を痛感させた。藍曦臣の目はどこも笑っていなかった。少なくとも江澄にはそう見えた。硬い殻の中に、自分自信を押し込んでいる。江澄がこれまで、見たことのない表情。
    「そんな事、俺は望んでない」
    「ええ、知っています。だからこれは私の願いです」
    「願い…?貴方が願えば、俺が大人しく言うことを聞くとでも?いいなりになるとでも?」
    「…江澄」
    まるで聞き分けのない子供を嗜めるような、ため息を伴った一言に余計に腹が立った。
    「記憶を無くしただけで、黒社会の重責から逃れて代わりに貴方を生贄に捧げて、挙句魏無羨の人生までも犠牲にしたのに、自分一人だけアメリカでのうのうと暮らすなんて出来るわけないだろう?!」
    「私の意思でしたことです。魏無羨も同じでしょう。それに何より、私の手は汚れている」
    「ふざけるな!」
    藍曦臣は視線を下げ、自分の掌を見つめた。
    「ふざけてませんよ。もう、何人も殺しました。比喩ではなく、本当に殺したんです。自分で手を下した者もいれば、そうするように仕向けたこともあります。言ったでしょう、温門会の人間は全て殺したと。それに…貴方が親しくなったあの青蝶の恋人を射殺したのも私ですよ」
    再び顔を上げた藍曦臣は、真っ直ぐに江澄を見た。その目は何処か苦痛に歪んでいた。そして言葉は嫌悪に溢れていた。彼が、彼自身を忌み嫌っているのだと、江澄は今更ながらに感じた。そんな人生を、どうして神様は藍曦臣に用意してしまったのだろう。
    藍曦臣と過ごした日々が何もかもが嘘だったとは思わない。彼は常に江澄の前で誠実だった。でもだからこそ今この瞬間が辛かった。藍曦臣の一番は、江澄と生きていくことではない。江澄が幸せに生きることなのだと、そこに自分自身はいないのだと痛感させられるようで。
    藍曦臣の幸せはどこにあるのだろう。
    「どうしてそんな辛そうな顔をするんだ。俺を死んだことにできるなら、貴方だってそうすればいい。何もかも捨てたってかまわないだろう?!生まれが全てを決めるだなんて不公平だ!」
    「…昔は嫌だと、白龍という立場など欲しくないと、子供ながらに思った事もありました。でも黒社会という場所は、誰かが道を指し示す必要があるのです。そうでなければこの世界は秩序を保てない。そうでなければ…あなたを守れないかもしれないと。そう思ったら、こんなところまで来てしまいました」
    「…………そんなの、俺は…」
    望んでないと、言いたかった。でも言えなかった。いくらなんでも、そこまで恥知らずにはなれない。彼の気持ちも、彼に守られていた事実も、全て望んでない、頼んでいないと、そんなふうに断罪して藍曦臣を傷つけたくはなかった。
    銃を持ち、人を殺す。それだけじゃない。密航、人身売買、知識の乏しい江澄だってわかる。この世界に綺麗事は通じない。カジノだって、黒社会の資金源の一つに過ぎない。そこに正義はない。そんな世界に身を置き続けること。藍曦臣が、藍曦臣としての心を、この先どれほど保てるというのか。
    「貴方に会えてよかった。どうぞ末長く幸せに。さようなら、江澄」
    真正面から見据えられる。その瞳に捉えられることを、何よりの喜びだと思ったのに、今はこんなに苦しい。江澄の目尻から涙が溢れた。藍曦臣は、一瞬腕を伸ばしかけて、けれどすぐにそれを戻した。抱きしめたかったのだろうか。むしろ抱きしめて欲しかった。そうしたら自分はもっと、何かを言えたかもしれない。藍曦臣はそのまま、静かにチャタールームから出ていった。


    江澄は藍曦臣を救いたいと思った。その気持ちに嘘はない。ただそれが、傲慢な願いだったということは認めざるを得ない事実だ。
    藍曦臣がチャタールームから出ていったあと、しばらくして部屋の照明が入り、ホテルの従業員達が入ってきた。いつの間にか八時を過ぎたのだと江澄は気づいた。
    どこかぼんやりとした心地のまま、江澄は魏無羨と藍忘機に連れられ、再びヘリで澳門の病院に戻った。そこで二人とは別れ、一週間は静かに入院生活を送った。魏無羨は仕事の合間を見て何度か見舞いにきたが、藍忘機は来なかった。やはり藍清会の内紛がいい方向に進んではいないらしい。魏無羨は見舞いに来るたびに何度も江澄を慰めた。藍曦臣の言葉も、江澄の言葉も全て聞いていた魏無羨だったが、藍曦臣の決意の固さを知っているからか、はたまた江澄の置かれた立場の危うさを痛感しているからか、江澄を慰めはするものの、いつかお義兄さんに会えるよ、などとその場限りの嘘はついたりしなかった。
    毎朝の診察もこなし、記憶の混乱も見られないため退院が決まった。打撲の跡も目立たなくなり、藍曦臣がつけたキスマークは綺麗に消えた。火傷の傷はもう少し治るのに時間がかかりそうだったが、それだけといえばそれだけだった。


    時の流れは何もかもを中和していく。同僚のロッカーにかけられていた花輪はすでになく、先日採用されたという新人がそのロッカーを使っていた。彼の不在を、皆はもう終わったこととして受け止めていた。それを責める権利は江澄にはない。人はそうやって不具合を均し、悲しみを癒していく生き物で、それが当たり前なのだ。こうやっていつまでも罪悪感に囚われている自分の方が特殊なのだと、江澄にはわかりきっていた。
    自身のロッカーの前で、聶懐桑に渡された勤務予定表に目を落とす。
    もちろん藍曦臣の予約はない。
    それどころか午前中は誰の予約もなくて、暇になるのがわかりきっていたので江澄は備品庫へ向かった。でもいざ備品チェックを始めてみると、あの日のことを思い出してため息が出た。
    一般フロアに出ても、あの瞬間の熱狂を思い出してしまう。どうにも嫌になって、江澄はまだ早いがエグゼクティブフロアに上がった。午後の予約客に備え、準備をしようと思ったのだ。
    けれど藍曦臣とよく使っていた部屋に入った瞬間、江澄は足を止めた。こんなにも寂しい空間だったかと、そう思わずにはいられなかった。言い様のない寂寥感に胸が痛む。煌びやかな内装、天井から下がるシャンデリア。磨き抜かれた大理石のバーカウンター、そしてポーカーテーブル。目を閉じれば、何度でもこの場所に座っていた藍曦臣の姿を思い出せるのに藍曦臣はもういない。もう会えない。そう思ったら怖くなった。仮に藍曦臣の願い通りアメリカに渡ったとして、ディーラーとして生きていくなら、自分は何度この瞬間を繰り返すのだろう。トランプをシャッフルするたびに、チップを渡すたびに、誰かの手元に、誰かの姿に、藍曦臣を重ねるのだろうか。
    幸せなキスも、あたたかな腕ももうないのに、ここにいれば嫌でも思い出す。藍曦臣の残滓を感じて振り向いても誰もいない。カジノも、ペニンシュラも、孤児院も、赤柱のバーだって、藍曦臣と行った場所にはどこにも行けない。この澳門、香港で暮らし続ければ自分はきっと面影を探す。髪の長いスーツ姿の男性を、そして不動産関連のニュースを調べるだろう。そしてその度にそばにいないことに落胆し、自嘲する。自分はその惨めさと向き合っていけるのだろうか。彼との日々が、本当にただの思い出になるまでに一体どれぐらいの年月が必要なのだろう。

    幸福な思い出は本当に僅かな期間しかなく、恐ろしいのは、それを過去にできないかもしれないという予感があることだった。そしてそれを痛感する日々から逃げ出すことを自分が選んでしまいそうで、それがただ、怖かった。

    江澄が静かな絶望を感じながら立ち竦んでいると、「大丈夫?」と声をかけられた。
    緩慢な動作で振り返ると、入口に聶懐桑がいた。
    「…大丈夫だ」
    なんとかそう答える。
    「とても大丈夫そうには見えないけれど…とりあえず、社長から呼び出し」
    「社長から?」
    「うん。今日午前予約ないでしょ?話したいことがあるそうですよ」
    一体何の用だろうかと江澄は思った。
    最後に会ったのは精密検査を受けた後、病室で話を聞いたあの時だ。あれ以降会ってはいないが、藍忘機が連絡をとっていた相手が社長なのは間違いない。だから自分と藍曦臣が話した内容も全て筒抜けのはずだ。社長は自分が藍曦臣と共にいることを良く思ってはいなかった。それなのに藍忘機に頼まれたからとはいえ、マンダリンまでの手筈を整えてくれた。要件が何かはわからないが、お礼は言っておくべきだろう。
    「わかった、今からいく」
    「よろしくね」
    踵を返した聶懐桑の背中を見送りながら、彼もまた、黒社会の一員なんだよな、と江澄は思う。
    「どうかした?」
    視線に気づいた聶懐桑が振り向いたが、江澄は「何でもない」と言って社長室に向かった。


    社長室に来るのは、謹慎を言い渡された時以来だ。
    中に入ると金光瑤は「待っていましたよ」と言った。
    「あなたにスカウトが来ています」
    「…スカウト?」
    江澄は怪訝そうに返事をした。
    「正確にはあなたと魏無羨の二人にですが…ラスベガスでも最大規模を誇るあのベラージオカジノからのスカウトですよ」
    ラスベガスと聞いて江澄は目を瞠った。
    「社長は…知っているはずです。マンダリンホテルで藍曦臣が俺に何を言ったのか。それでスカウトだなんて!」
    「さぁ、どうでしょうね?」
    「恍けないでください!あの日藍忘機が連絡を取った相手はあなたのはずだ!藍曦臣の居場所を教えてくれたのも、ヘリを手配したのも社長のはずだ!知らないわけがない!」
    江澄の言葉などまるで聞えていないかのように金光瑤は続けた。
    「ベラージオは移籍が叶った際には十万ドルを払うと言っています。もちろんUSドルですよ。悪い話ではないでしょう」
    「そこまで俺をアメリカに行かせたいんですか!」
    「それにあそこはワールドポーカーツアーの会場でもありますからね。あなたにも魏無羨にも戦いがいがある場所ですよ」
    「社長!」
    江澄は思わずデスクをバンと叩いた。そのまま金光瑤を睨みつけると、金光瑤はふうとため息をついた。
    「移住は早い方がいい。カモッラは待ってくれません。貴方は黒社会の実情を何も知らないから悠長に構えていられるのかも知れませんが、ルチアーノを甘く見ない方がいい。彼はハイエナです。貴方が生きているとわかれば地の果てまで追いかけるかも知れません」
    やっぱりスカウトなんか来ていない。それは藍曦臣が用意した逃亡の道筋だ。
    「ルチアーノってカモッラのボスですか?俺は死んだことにされてるんですよね。社長が手を回したって聞きましたけど」
    「ええそうです。ルチアーノとは御歳七十五歳になるカモッラの大ボスですよ。腎不全と心臓病を患っているのであまり外には出てきませんが、その影響力は絶大です。カモッラも色々複雑で、ちょっとつつけば色々出てくる面白い組織で…とまぁそれは置いといて、貴方…というより、『白龍の愛人である江義社の唯一の生き残りの江晩吟』は、あの銃撃戦で死亡したことにしてあります」
    七十五歳の男色家の老人のもとに行くことにならなくてよかったと江澄はゾッとしながらも安堵する。
    「けどそれに何の意味が?働く場所を変えたって、アメリカに行ったところでそれがどんな時間稼ぎになるって言うんだ?社長が言ったんでしょう。俺は母に似ているって、だから気付く者が現れたって」
    「まぁ、時間稼ぎにはなるんじゃないですか?貴方自身はルチアーノに顔を見られてませんし」
    「社長は知らないかも知れませんが現代にはカメラ機能付きスマートフォンってものがあるんですよ」
    精一杯の嫌味を込めた江澄だったが金光瑤は歯牙にも掛けない。ただその言葉に「そうなんですよねぇ」と間延びした声で同意してきた。金光瑤はため息をついていた。
    「まぁ、その点は私も同意です」
    「同意って…ならなんでスカウトの話を持ってくるんです?意味がないって社長にもわかっているなら…」
    「私は白龍の意志を尊重するのでね。無意味であろうと馬鹿らしくても、一先ずは従いますよ」
    つまりその言葉は、金光瑤自身は藍曦臣がでっち上げたスカウト話を無意味で馬鹿らしいと判断しているということだ。
    「大体魏無羨もだなんて、藍忘機はどうなる?」
    「忘機はもちろんこの香港、澳門に残ってもらいますよ。大体彼は白龍の影なのですから、ここにいなければ意味がない。それにいなくなったら黒龍派も黙ってはいないでしょう。個人的にはいない方が有難いのですがね」
    「…有難い?」
    「白龍派と黒龍派の対立について何か魏無羨から聞きましたか?」
    「何かと言われても…藍曦臣と藍忘機の部下がそれぞれの派閥に分かれて代理戦争をしているってことぐらいしか」
    「あの二人は同母兄弟です。本来争う立場にありませんし、本人たちにもそのつもりはありません。黒龍派のトップは表向き忘機という事になっていますが、実際は藍清会No.3の姚という男です。藍曦臣より二十も歳上の、先代の部下だった男です。黒社会の内乱で先代が命を落とした時、一部では彼が次代の白龍とも言われていました」
    「それが…対立の原因なのか?その姚という男は藍曦臣に白龍の座を奪われたと思っているのか?」
    「本人はそう思っているでしょうね」
    「代わりがいるならやらせればいい。藍曦臣は嫌がってたんだろう?」
    そうは言っても、それが簡単にできれば、あるいは藍曦臣がマフィアのボスに向いていなければ、当然そのようにされただろう。何せ先代である藍曦臣の父が亡くなった時、彼は十二歳だったのだから。その時姚という男は三十二歳。先代の部下で、一部では時代の白龍と目された男。わずか十二歳の子供に継がせるよりはと選ばれてもおかしくない。
    江澄の脳裏に、金光瑤の言葉が浮かぶ。
    ーーー類まれなるカリスマ性がなせる技でした
    藍曦臣は、一体十二歳で何を成し遂げたというんだ?
    「そう簡単なことでもないのですよ。何せ彼には才能があった」
    「その姚という男よりも、十二歳の藍曦臣に…?」
    「ええ、人を統べる才能です。持たずに生まれた者には、一生手にすることが出来ない天賦。本人の望む望まないに関わらず与えられてしまった、残酷なまでの輝き…」
    でもその輝きが、ただそこにいるだけで目に見えるわけじゃない。
    金光瑤は続けた。
    「前にも言いましたが、五聖会の内紛には、本国と香港の情勢が密接に関わっています。貴方のお父上が目指した独立は叶いませんでしたが、香港は高度な自治権を手に入れた。この時各方面に指示を出し、政府との会談をこなし、江義社壊滅後の要人暗殺を請負い、手早く手掛けたのが藍曦臣です」
    「………十二歳だぞ」
    「ずっとそう言ってるでしょう」
    「…でも、そんな」
    俄には信じられなかった。どれほど大人びていようと、十二歳は子供だ。でも今の自分と同じように、藍清会の構成員も子供に従おうとは思っていなかったはずだ。
    「彼がまだ若いという理由で、成人までの数年間だけでも姚を当主にするべきなのではないかという案もあったそうですが、結局それは無くなりました。年齢など関係なく、ただ藍曦臣の方が有能で、才能があった。それに藍曦臣の中には懸念もありました。自分の父を間接的に殺したのは姚ではないのかという懸念です」
    「…それは、事実なのか…?」
    「証拠はありません。ただ藍曦臣の中に、先代が亡くなる寸前に電話していた相手が姚じゃないか、という憶測があるだけです。ですが可能性は大いにあると私は考えています。当時姚は、温門会のスパイをしていた。向こうに情報を流すこともできたでしょう。自分が当主になりたいという願望を叶える為に先代の暗殺を手引きする、なんてのは、三文小説でもよくある話です。ただ姚は、先代を相当心酔していた。それを多くの者が知っているので、現在まで疑いの目は向けられていません。藍曦臣も証拠のないことを話して波風立てるようなことはしませんし」
    「……」
    「姚は先代を心酔するあまり現白龍をよく思ってはいない。そのこともあり常に否定的だ。というのは、藍清会での共通の認識です。この前の温門会粛清の件も、藍曦臣がカモッラとの対話を選んだのはそのあたりの事情を鑑みてのことです。姚は、こと選択に迷うような局面に置いては、藍曦臣の逆張りをしますからね。藍曦臣がもしカモッラとの前面抗争を打ち出せば、おそらく姚はカモッラとの対話を進めたでしょう。しかし彼が裏切り者だと仮定した場合、それは非常に危険です」
    「姚がカモッラと繋がって、暗殺を仕掛けてくるかもしれないと藍曦臣は考えてるってことなのか?」
    金光瑤は頷いた。
    「それを抜きにしても、全面抗争は非現実的ですし藍曦臣が選ぶわけもありません。だが今回藍曦臣がカモッラとの対話を選んだことで、姚はその逆張り、つまり全面抗争をするべきだと主張し始めました。そしてその主張を正当化するだけの理由をひっ提げてきたわけですが、それが、あの時澳門高口岸で貴方が海に投げ捨てた新型覚醒剤ですよ」
    「…あの注射器の…、藍忘機が言っていた。急性症状と依存性が強いのに、作れるのはカモッラだけだって」
    「そうです。その覚醒剤が、今じわじわと、藍清会の中に広まっています。本当に末端の末端ではありますが由々しき事態です。これは早急に対処せねばならない。大体こんなタイミングでどうして広まる?白龍があれだけ厳しく規制を引いたのに、裏切り者がいるに違いない!」
    言葉の後半は徐々に芝居がかった大仰な声になった。江澄は金光瑤が誰を真似ているのかすぐにわかった。彼は姚の言動を真似ているのだ。そしておそらく、姚が主張する裏切り者こそが…
    「そして槍玉に挙げられたのがこの私です」
    ーーーやっぱりな
    「…社長以外に、藍曦臣の考えに賛同するものはいないんですか」
    「もちろんいますよ。しかし私が金城の当主の異母弟というのは藍清会でも知られた事実です。いくらこれまで白龍に尽くしてきたとは言っても、先代の頃より藍清会に忠誠を誓ったように見える姚の発言は私以上に重い。構成員が何万といる以上、全員の考えを統制することは不可能です。姚が裏で何をしていようと証拠は何もない。証拠がなければ何を言っても意味がない。姚は狡猾です。もしかしたら私以上に」
    つまり、社長が二人いるようなものだ(考えたくはないが)。
    口がよく回り、人心掌握に長けた姚という男は、周りからの信頼を得つつ、真っ当な理由で藍曦臣の主張の逆張りをしている。だがその理由さえも、姚本人によって手引きされていると金光瑤は疑っている。
    「社長が、藍忘機に対していない方が都合がいいと考えているのは、姚が藍忘機を隠れ蓑にしているからですね?仮に証拠を捕まえて姚をどうにか出来ても、実情はどうであれ藍忘機が黒龍はの筆頭となっているなら、その責を免れないから」
    金光瑤の仮定する通り、新型覚醒剤を手引きしたのが姚であればそれは立派な反逆と取られるだろう。黒社会においては命を持って償わなければならなくなる。黒龍派全体の粛清も必定だ。そうなれば藍曦臣がどれだけ弟の無実を訴えようとも、累が及ぶのを避けられない可能性がある。
    「そうです」
    「そして姚は、藍曦臣が迂闊に手を出せないことも計算済みなんですね」
    「ええ」
    金光瑤はもう一度頷いた。
    ことはそう簡単な話ではないのだろう。藍忘機自身の問題ではなく藍忘機の存在そのものを危険視する人間がいてもおかしくはない。仮に姚を葬ることが出来ても、彼を担ぎあげて第二、第三の姚が出ては意味がない。白龍が藍清会で磐石な地位を築く為に、藍忘機には消えてもらった方がいいと、この目の前の男は考えているはずだ。だがそれをはっきりと言えないでいるのは、多少なりとも白龍ではなく、藍曦臣に気を遣っているからかも知れない。

    江澄は考えた。藍曦臣の要望通りにアメリカに行くのは嫌だったし、それに魏無羨を連れていくことなどあり得ない。現状、江澄がアメリカに渡ってもいいことなど何もない。多少時間が稼げるだけで、根本的な解決にはなっていない。けど藍曦臣は諦めないだろう。自分を、黒社会から遠ざけるためにやれることはやるはずだ。
    この先の言葉を言えば、自分は本当に後戻りができなくなるだろう。でも…と江澄は思う。誰かの犠牲の上で生きるのは、もう嫌だった。
    「俺は、魏無羨と藍忘機をアメリカに行ってほしいと思っています。黒社会と関わり合いのない場所で生きてほしい」
    「藍忘機の不在を、黒龍派は許しませんよ」
    「でもいない方が都合がいいのも事実でしょう。社長の中にはすでにあるはずだ。藍忘機を排除しつつ、黒龍派を一掃する計画が。白龍派の重鎮すら宥める口実も考えている。そしてそれには、カモッラも深い関わりがある。違いますか?」
    金光瑤は椅子に座ったまま笑みを深くした。江澄は目の前の男の底知れなさを感じていた。
    「貴方の方からそう言って頂けるとはね。計画はもちろんあります。やられっぱなしの私ではありませんから」
    「その計画の内容は?」
    「カモッラの中でも、ルチアーノの男色をよく思わない人物が多くいます。その者が新しくカモッラのボスになれば、私としても大変助かるんですよ」
    「ルチアーノって人は隠居でもしてくれるんですか?」
    七十五歳ならありえるだろうかと江澄は考えたが、金光瑤は「あり得ません」と言った。
    「奴が隠居?絶対にないでしょうね」
    「……なら、新しいボスっていうのは」
    「彼が死ねば、誰かがそうなります」
    「寿命が尽きるのを待つのか?」
    「ルチアーノの寿命と、貴方の身柄が危うくなるのはどちらが先でしょうね?」
    ここまで言われて察せないほど江澄も馬鹿ではない。そもそも、無関係の人間にここまでベラベラ喋るつもりも金光瑤にはないのだろう。江澄が、こちら側に来ると踏んでいるのだ。
    江澄の葛藤を、何もかも知った上で賭けに出ている。
    「………」
    「それはつまり、カモッラもボスを暗殺したいって意味ですか」
    「ええ、そしてそれは貴方にしか出来ないことです」
    「………」
    金光瑤のその言葉は、江澄に覚悟を問いかけているようだった。藍曦臣は貴方のために手を汚しているのに、あるいは今この瞬間も汚し続けているのに、貴方は藍曦臣のために手を汚さないのかと。まるでそう言っているようだった。
    「俺は、やりません」
    「…ほぅ?でもあなた、スカウトを受ける気もないのでしょう?」
    「受けません。でも俺は、黒社会に戻るつもりもありません」
    「………」
    金光瑤はそのまま無言で、江澄をただ見つめていた。その指先が、トン、トン、とゆっくりとしたリズムで机を叩いている。ただそれだけなのに胃を締め付けられそうな不穏さを感じる。心臓がバクバクと鼓動を鳴らしていた。澳門口岸に向かうリムジンの中で感じた底知れない金光瑤のマフィアとしての本質。その視線から、態度から、ひしひしと感じる。見つめるだけで人をここまで威圧できるのも恐ろしい。でも江澄は絶対に視線を外さなかった。どれだけ恐ろしくても強く見つめ返した。無意識に手を握りしめる。
    「…理由を聞いても?」
    永遠とも思えるような長い沈黙の後金光瑤はそう言った。江澄は静かに息を吸い込んで、吐き出す。
    「藍曦臣は俺に言いました。俺との繋がりが、表の世界との繋がりだったって。俺がディーラーとして生きるのを見るのが好きだったって。俺はそれを、無くすつもりはありません」
    「己の命が危うくとも?」
    江澄は頷いた。
    「藍曦臣を救いたいと思ってました。でも何をすればあの人を救えるのか、正直まだよくわからない。彼を黒社会から解放出来れば一番いいんでしょうけど、それはあまり現実的じゃない。俺は、ただあの人のそばにいたい。藍曦臣のためにだなんて綺麗事をいうつもりはない。俺がそうしたいからするんだ。できるなら藍曦臣のそばで、藍曦臣を照らす光になりたい。それが無理でも、俺はずっとここであの人を待ちたい。もし俺が黒社会の一員として暗殺稼業に手を貸せば、あの人は一生自分を責めるだろう。その責苦の果てに、それこそ本当に、ただの「白龍」になってしまう気がする。俺は…藍曦臣が好きだと言ったディーラーとしての自分の矜持を汚すつもりはない。あの人が守りたかったものを、自ら壊すことはしない」
    「藍曦臣はもう二度とあなたに会うつもりがないというのに、その矜持に何の意味があるというのです?」
    「意味があるとかないとか、そんなのは考えていません。これは俺の意思で、俺がしたいからするだけのことです」
    「ここで、可能性もないのにずっとあの人を待つと?」
    「まだ若いですから、後五十年は余裕で待てますよ。五十年後も、この澳門金庭園が残っていればの話ですけど」
    金光瑤はふっと笑った。その眼光から威圧感が薄れると彼は力を抜くように椅子にもたれた。
    「確かにそうかも知れない。私は「白龍」ではなく「藍曦臣」に惹かれたのかも知れない…」
    「…社長?」
    その声は囁くようで、江澄には聞き取れなかった。金光瑤は続ける。
    「なんでもありません。いいでしょう、私はあなたに賭けますよ。吉と出るか凶とでるか…あなたのその矜持とやらが藍曦臣の何を動かすのか、見届けましょう」
    そう言って僅かに笑った金光瑤の表情は、江澄が見たこともないものだった。藍曦臣を白龍として心酔する金光瑤とはまた違う、どこか寂しそうな笑顔だった。



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    takami180

    PROGRESS続長編曦澄1
    あなたの名を呼びたい
     山門の手前に白い校服を見つけて、江澄は眉をひそめた。それまでよりも大股でずんずんと進み、笑顔で拱手する藍曦臣の前に立つ。
    「何故、ここにあなたがいる!」
    「あなたに会えるのが楽しみで」
    「俺はあなたの見舞いに来たんだ。その本人が出迎えちゃだめだろう!」
     猾猿の封じ込めに成功して十日、江澄ははるばる蓮花塢から雲深不知処に出向いていた。
     幸い雲夢は遠く、猾猿の災禍は及んでいない。一方、姑蘇の地は大荒れで、例年並みに戻った気候が、さらに作物の育成に悪影響を与えている。
     江澄は江宗主として、藍宗主に見舞いを出した。小麦や稗も大量に送ってある。
     その礼状とともに、藍曦臣から江澄宛の文が届いた。怪我の様子をうかがい、健康を祈る文面には一言も会いたいとは書いていなかった。同様に、藍曦臣自身の怪我についても触れていない。
     江澄は即座に返事をしたためた。
     三日後に見舞いに行く、と。
    「もう痛みはありません。ご心配をおかけしました」
     寒室に通されると、藍曦臣はてきぱきと茶を用意した。「いらないから大人しくしていろ」という江澄の苛立ちには、笑顔で「まあまあ」と返されただけだ。
    「それよりも、 1880