2人だけの秘密 深夜1時、俺は物音を立てないようにそっと鍵をあけて帰宅する。すっかりみんなは寝静まってる時間だ。
俺は母ちゃんには学校の近くにある飲食店の厨房バイトだって言っているし、特に怪しまれたことはない。本当はちょっと大人の店の黒服をして、厨房バイトの5倍は稼いでるんだ。周りがヤニーだらけだからタバコも吸うようになった。もちろん帰る前には着替えて首筋にコロンを振る。まあ帰っても誰にも会わないし、そのまま風呂に入ればヤニのこともばれない。
けどこの日は違った。独立して一人暮らしをしている兄ちゃんが戻ってきていたから。
兄ちゃんは感が鋭い。
「あの辺りの居酒屋でそんなに遅くまで開けて、儲かるのかねェ」
口を尖らせて兄ちゃんが言うから、俺は内心ビクビクした。
「俺の勘だが、居酒屋じゃねえよなァ」と兄ちゃんは貧乏揺すりをしながら缶ビールをプシュッと開ける。兄ちゃんはあまり酒は強くなかったけれど、最近仕事で飲む機会が増えて随分強くなったらしい。
でも、次に兄ちゃんから聞こえてきた言葉は予想外過ぎて理解に時間がかかった。
「兄ちゃんもなァ、転職したんだわァ」
「……えっ?まじ?母ちゃん知ってんの?」
いや、知らねえと思うと言い、兄ちゃんはビールを一気に飲み干してすぐさま冷蔵庫へ向かう。
「兄ちゃん、飲み過ぎじゃね?」
無言のまま冷蔵庫からビールを出してきた兄ちゃんの手元から俺はその缶を奪う。
「俺が飲むよ、勝負しようぜ」
「はァ?」
兄ちゃんの目が吊り上がる。
俺は兄ちゃんよりも酒に強い自信があった。兄ちゃんはちょっと顔が上気するけど俺は変わらない。バイト先の飲み会でもかなり強いほうだという自覚がある。
「勝負ってなんだよ?」
「そう、お互いにひと缶飲むごとに相手に質問していって、今の兄ちゃんの働いてる先と、俺のバイト先を当てるまでやる。潰れたら潰れたほうが白状する。これでどう?」
兄ちゃんがそんなことかよ、と呆れた顔をする。俺と兄ちゃんが飲み比べをしたことはないし、兄ちゃんは俺が強いなんて思ってないんだろう。余裕綽々という顔をした。
幸い、というか不幸にもというか、冷蔵庫にはビールとストロングゼロが大量に収納されていた。兄ちゃんがこれでもかって持ち込んだものだ。流しにある缶はいま2つ、だから俺はまずドライを2缶立て続けに飲み、そこから勝負を始めることにした。ダイニングテーブルを挟んで対峙する。
「玄弥から勝負を挑んでくるなんて、初めてだなァ!」
兄ちゃんはもう少し酔っぱらいの大声になりながらドライを開けて飲む。そして最初の質問だ。
「玄弥ァ、新しいところは食いもん屋か?」
食いもん屋、とは言えなくもない。まあ酒に合うチーズとかナッツとか野菜スティックとかぐらいだけど。
「食いもんは出してるよ。じゃあ、俺な」
ぐびっとドライ3缶目を飲み、俺は兄ちゃんを正面から見据えた。
兄ちゃんの肌は妙にツヤツヤしていて、手入れがされていた。それに、なんというか…色気がすごい。俺と同じ菫色の瞳で見つめられると、こっちが恥ずかしくなって赤くなってきた。
「もう酔ったのかァ?玄弥は」
いや、まだ大丈夫だよって俺は言い、率直に聞いた。
「兄ちゃんさ、もしかすると新しいところって夜の仕事じゃない?」
貧乏揺すりがひどくなり、やがて兄ちゃんの視線が宙を泳ぐ。
「当たり、だね」
俺は一発で勝ちを確信した。
けれど、兄ちゃんは更にストロングゼロのプルトップに手をかけて飲み始めた。
「兄ちゃん、無理すんなよ」
俺が言っても聞いてくれるはずもなく、兄ちゃんは飲み切ると大きく息を吐いた。
「ならなァ、玄弥。俺も聞くが、その香水はなんだァ!」
立ち上がり、テーブルごしに俺につかみかかってきた兄ちゃんは、そのままテーブルに倒れ込んだ。テーブル上のありとあらゆる缶がガランゴロンと床に転がっていく。それでも兄ちゃんは俺を離さなかった。俺がちょうどコロンを振り掛けたうなぎに顔を埋めるようにして、兄ちゃんはうなる。
「テメェこそ…黒服みてえなコロンつけやがって…」
その後の言葉は聞き取れなかった。ただズルズルと兄ちゃんが倒れ込むから、俺は慌ててテーブルから移動し、兄ちゃんを抱きかかえる。昔は俺よりずっと大きかった身体も、今はほぼ同じ。床に転がった缶を蹴り飛ばしながら俺は兄ちゃんを部屋へと運んだ。
「それでさ、兄ちゃんは夜の仕事ってなんなんだよ」
スウスウと眠ってしまった兄ちゃんの横で、そっと兄ちゃんの手を取る。ネイルの手入れもしてあった。
潰れたほうが明日白状する約束、だけどなんとなく俺も分かってしまっていた。たぶんヒントは着ていた上着の内ポケットにある。
すぐに答えは見つかった。でも名刺の文字を見て、俺の意識は完全に素面に戻る。血がどくどくとこめかみを打つのを感じた。
それは、まさしく俺が働き始めた店の系列店だった。
まさか、兄ちゃんが系列店でホストをやってるなんて俺はまったく想像もしてなかった。母ちゃんだってびっくりするだろう。いつの間にか兄弟そろって夜の街で稼いでるなんて。
「なんかすごい音がしたけど、実弥?それとも玄弥?」
最悪のタイミングで起きてきた母ちゃんに、俺は兄ちゃんが飲みすぎて寝入ってしまったと伝え、ダイニングに戻る。床に転がった缶を片付け、少し濡れてしまったところも拭いた。
でも、掃除している間にちょっと気分が変わってきた。きっと兄ちゃんは俺が同じ世界に入ったことを怒ってるけど、兄ちゃんのホスト姿って絶対にかっこいいよな。系列店だから見られるかもしれない。
俺はまた兄ちゃんの部屋をのぞき、ベッドまで近づいてみる。すると、兄ちゃんの腕が俺の背中に回ってきた。兄ちゃんは大きく息を吸う。
「でも玄弥のは、いい香りだなァ」
そう言われて、俺は真っ赤になった。兄ちゃんが一人暮らしを始めてから、兄ちゃんに抱きしめられたのは始めてだ。思わず身体が震える。
「もっと嗅いでいいよ」
うなじを差し出すと、兄ちゃんはそこにすかさず鼻を擦り寄せる。くすぐったくて、でも温かい吐息が気持ちよくて。思わず俺も兄ちゃんを抱きしめてみる。
兄ちゃんの鼓動は早くも落ち着いてきていた。酔いが一瞬でピークアウトするタイプなんだろう。
「俺、兄ちゃんの店の系列の黒服なんだ。だから今度見に行っていい?」
尋ねた途端、兄ちゃんがぐふっと吹き出した。
「テメェ、勝ったのに自分のバイト先を白状してんじゃねえよ」
あ……。
やっちまった俺は悔しくて、思わず兄ちゃんの背中をポカポカ叩いた。それを兄ちゃんは優しく受け止めてくれる。
「俺と玄弥だけの秘密ができちまったなァ」と言うだけで、俺にやめろとは言わなかった。
ただひとつ、やめろと言われたことはある。
「コロンとヤニはセットだからバレバレだァ」
兄ちゃんはそう言って俺のズボンのポケットを探り、ライターとメビウスワンを没収した。
2人だけの秘密はこのあとだんだん増えていくことになるんだけど、この時の俺はまだ知らない。