英語のノート貸してくれるイチノ同じ部活同士で連んでいる者は珍しくない。しかし体育部寮生ともなれば、部活は違えど同じ釜の飯を食べる仲だ。
例に漏れず三分の一が寮生である深津のクラスでも、バスケ部以外が自分に絡んでくることは多い──だが、この男はそういう次元を超えているな、と深津は入り口近くの席を見遣った。
「ちょっとでいいから!お願い!」
「ダメ」
前から2列目の一之倉は机から1限の英語の教科書を取り出していた。その横にびったりくっつくようにしゃがみ込んでいる坊主の席は、深津の隣である。
しかし今は、まるでイヌがマズルを乗せるみたいにして、一之倉の机に顎を乗せていた。
「てゆーかこうしてる暇あったら進めればいいじゃん」
「えーだって聡くんと話してーし…」
「話してたら課題できないだろ」
「…わかんないとこだけでもぉ」
図体がでかいのにやたらとしおらしいのが腹が立つ。さながら自分のことを豆柴だと思っているシベリアンハスキーのようだ。
しかし、イチノよりひと回り以上も大きい体格だが、明らかに躾けられているのは男の方であった。今だって主人に叱られて垂れ下がる耳と尻尾が見えるようだ。
…なんだか小生意気な後輩を思い出しそうになって、深津は考えるのをやめた。
「お願い聡くん!」
課題をやってこなかったらしい男が食い下がっても、最初のうちは首を縦に振らなかったイチノであったが、でかい図体を小さくして何度も頼み込まれるうちに、ひくりと頬が動いた。
「……わかったよ。ちゃんと理解して写せよ」
我慢の男・一之倉聡が遂に折れた。
「サンキュー聡くん!今度なんか奢る!」
そのノートをぎゅうと抱きしめて笑う男の口元には犬歯が見えた。
深津は知っている。どんなに上目遣いをしていようが、その男の目付きは悪いことを。可哀想に可愛らしく見えるようならそれは目の錯覚か、脳の異常である。
「いらない。お前、意味わかんないタイミングでアイスとか買ってくるから」
男は野球部だった。寮もクラスも同じではあるが、深津が一之倉に話しかける回数の倍以上、男は一之倉に話しかけている。1年のときからそうだ。イチノはずっと、この野球部の坊主に絡まれている。
「じゃあ一緒にコンビニ行こ。今日の夜、何時にする?」
「まだ行くって言ってないんだけど」
「えっ行ってくんねーの」
…否、懐かれている。
早く席に戻って課題をやれよという深津の胸中など知る由もなく、男はイチノの隣を陣取っているし、通路にしゃがみ込んでいるせいで周りのやつが迷惑そうだ。早くなんとかしてやれ、イチノ。
しかし、先ほどの要求が通ったせいか、思い上がっているらしい駄犬が、また上目遣いで吠えている。…やはり小生意気な後輩を思い出しそうになって、深津はついに席を立った。
「夜練終わったらイチノをお前の部屋に向かわせてやるピョン。だから先生来る前にノート早く写せ」
そのままノートが戻らなければ、英語の時間に泣きを見るのは一之倉、ひいてはバスケ部なのだ。
深津はわざわざ向こうの席まで足を運んで、通路でかさばっている坊主頭をはたいてやった。
「ってえな深津。…えっいま聡くん俺にくれるっつった?」
「言ってねえピョン」
こちらを見上げる目付きは相変わらず悪い。可愛いもんか。こんな図体のでかい、怪獣みたいに迷惑なやつ。
「…しょうがないな」
ぼそりと低い声がした。部のために夜の時間を勝手に売られたにも関わらず、イチノは微かに頬が緩んでいる。つまりはそこそこ満更でもなさそうだった。そこが問題である。
「やった!じゃあ夜迎え行くわ!」
「話聞いてた?オレがお前の部屋行くっつってんの」
「あ、そっか」
さらには、男はイチノにデコピンされても痛がりもせず、不満も言わないのだ。この男たちはそういう次元を超えているな、と深津は溜め息を吐いた。