この世の春はすぐそこ 桜桜桜桜花見花見花見花見。
ここ数週間の主人のスケジュールである。桃色の嵐がそれはもうぎっしりと。
「……何が楽しいんだ」
運転席のシート下部に重苦しい溜息がかかった。主人は先程から頑なに顔をあげない。停車位置の上、空に向け花開く巨大な桜を絶対に目にしない固い意思を感じる。
確かに自分も花を見てああきれいだなと思うことはあれどそれをメインに据える会というのはどうにも違和感が拭えないし、この時期車のガラスに貼り付く花びらなどは取り除かずにいられない。例えば昨日のようににわか雨など降れば掃除だけで大幅なタイムロスになる、迷惑この上ない。
だが、だからといって「わかります」と気軽に言えるはずもなかった。自分はあくまで「興味がない」だが、彼は花見が「嫌い」なのだから。
「明日の予定……」
「はい。花見です」
シートを殴らないでほしい。
主人の花見嫌いは根深い。毎年行きたがっていた親族の花見会にようやく連れていってもらえると目を輝かせていた小さな彼を待っていたのは、積もる花びらに紛れ蹴り合うような熾烈な序列争い。利発な子供だった――だから気づかれてしまったのだろう、そこで見定められる物の中に自分も含まれていると。帰宅した主人は「疲れた」と言うきり二度と花見の話を出さなくなった。だが気持ちは変われども一度生まれた慣習は消えず、主人は毎年春になると数日から数週間駆り出されるようになり、お役目から解放されるころにはすっかり桜嫌いの花見嫌いが一人見事にできあがってしまったのである。
彼にとって花見とは戦いであり、やあやあ花を愛でつつ酒でも一杯……のようなお決まりの誘い文句さえ宣戦布告に等しい。気を張り臨む分周囲の浮かれぶりへの苛立ちは倍増しになり、こうして呪詛を吐きシートを壊しかけることで毎年どうにか怒涛の春を乗り越えている。
それにしてもなんて勿体ないことだろうか。爛漫と咲く薄紅が風に巻かれうみだす鮮烈な美とその裏にある散りゆく生の物悲しさ、どちらも常人の数倍は楽しめるだろう素養を主人は間違いなく持っているのに、彼にとって花見が厄介事の象徴だから素直に楽しめないなんて。
心休まらぬ主人を毎年見続けるのも苦しいものだ。何か切っ掛けがあるとよいのだが。彼が桜を美しいと、花見もいいものだと思える、そんなきっかけが――。
軽快な足音が近づいてくる。サイドミラーに映る主人がおもむろに姿勢を正し始めた。何も言われずともドアのロックを解除して二人少年を待つ。
音はすぐそばでピタリと止まった。ドアが開く。あたたかな日光が背中に当たると同時に、目の前を白い何かが勢いよく通りすぎた。
――雪? 思わずはしと掴む。やわらかく脆い指触りは自然のものだが冷たさはない。よく見ずとも解る、桜の花びらだ。雨に濡れ色褪せたそれが風に巻かれ、次から次へと車内へ飛び込んでくる。ああもう、掃除が。
「うわ、ごめん……っ、い、今閉める!」
予想できない突風とはいえ、この事態を招き入れてしまった少年が大わらわで乗り込もうとするのを「いい」と主人が制した。
「どうか、そのまま」
「……」
ちらりと投げられた視線に頷く。不可解な顔をしながらも少年はその場で留まった。彼の背後、逆光の白からぶわりと広がる桜の群れは横殴りの雨のように、もしくはこの地では目にすることもない吹雪のように目の前の人間へと見境なく襲いかかる。が、花びらが衣服どころか顔に貼り付こうとも主人はまばたきもせずに少年を見ていた。
この光景にはどこか覚えがある。白に包まれた少年とそれに心を全て奪われれる主人――ああなるほど。あれだ。何度も傍で見てきたシーン。白い光、舞う雪。モニターに幾度となく映し出されたそれと今の少年はシチュエーションだけなら似ていなくもない。動くこともなく見つめ続ける主人の、彼には似つかわしくない表情の抜けた切なげな横顔も。
しかしひとつ、あの部屋とこの車内には大きな違いがある。
くるおしげに伸ばされた手がぺとりと少年に触れた。
目を見開いて主人が呟く。
「……さわれる」
ぺたぺたと遠慮もせず少年の手に、上腕に、肩に触れていく。少年がもう一度こちらを確認した。首を振る。今度は横に――諦めろと意味を込めて。
這い上がる手をそのままじっと観察していた少年は、やがて彼の頬に恐る恐るという感じで触れかけていた手をパッと捕まえると、ギュッと音がしそうなほど強く頬へめり込ませるように押し込んだ。これを何も考えずにできるのだから、子供とは恐ろしい。
そのまま首を斜めに倒し更に手と密着させたうえで、少年が言う。
「触れるよ」
「……」
「ほら。俺からも」
自分にされたことをそのまま真似て主人の腕にぺたりと手を押し付けた。
そう、触れるのだ。二人を隔てるあの膨大な液晶はここには存在しない。
それをようやく理解した主人の目が、数度またたき細められた。
「ああそうか、そうだった。……っふ、ふふ、あはは!」
「わっ……!」
みるみる全ての感情を取り戻した主人が少年の腕を力任せに引き自らの胸へと強制的に飛び込ませた。
勢いのまま後部座席に二人が寝転がる。ぎゅうぎゅうと少年を腕の中に閉じ込めて主人は足をばたつかせた。手のひらや指先に頬を弄ばれるまま、少年が車内の惨状を後ろめたそうに眺める。
「あー……ひどいことになってる……」
「いいんだそんなこと! いや桜も悪くない、そう思わせるとびきり素敵なサプライズだったよ――それにしても……ああ! 何かに残しておくべきだった、僕としたことが! ――もう一度見たい。やれるな?」
「用意しておきます」
咄嗟に言ったはいいが、あれの再現とはどうすればいいのだろう。まさか桜の花びらを集めるところからなのか。
重労働の予感に頭を抱えているうちにいつのまにか後部座席の二人は奇妙な体勢をとっていた。座り直した主人はおそらく愛情表現として少年の頭を抱きしめたつもりだろうが、完全にヘッドロックが決まっている。
「そうだ、触れるんだ……」
うっとりと遠くへ向けられた眼差しは繰り返されるタップにも気づかない。
「……愛之介様。彼が気絶間際かと」
「おや大変だ」
離された少年が力尽きた。くったりと主人の膝に身を預ける横たわる姿はまさに。
「膝枕?」
「……ちがう……」
「ふふ、いいなあ。僕もいつか君にしてもらおうかな……」
少年の髪を指に絡ませて、主人はまだ見ぬ幸福に犬歯をみせて笑った。
「本物の君にしたいことがたくさんあるんだ。とりあえず今日これから寝るまで、いくつできるか楽しみだね。ランガくん」
ドアが閉まれば即座に発進できるよう準備を進める。少年に考える時間を与える必要はない。
しかしよくやってくれた、彼には後日功労賞を贈るとしよう。
例えば花見団子はどうだろうか。それにたっぷりの弁当、温かいお茶。うまく運べば今度こそ完璧に主人の花見嫌いは解消されるはずだ。