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    yowailobster

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    yowailobster

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    20210729 全部欲しい そういう話です
    軽暴力 軽い接触 性欲の匂わせ
    あたたかふわふわな関係と相手にだけ長い棒が来る地獄テトリスみたいなのを交互に書いても映えるので二人は実質アップルパイアイス添え

    ##暗い
    ##全年齢

    美味しくできたらいただきます 彼の姿を自分が見間違うはずはない。自分だけではなく、Sに来る誰もが、だけど。 
     周囲に集まる客から一段抜けた長身は遠くからでもよく分かる。 
     炎のように上を向く髪。そしてまさに燃え盛る色を纏った背中が翻り、片側の布が大きく揺らめいた。目の前に散る赤は火花。いや。いつもの彼なら─。
    「──愛抱夢」
    「……スノー!」
     その名を口に出すとほぼ同時に、彼もこちらの名を呼んだ。客の山を無視した速さで残りの距離を詰め、軽く上半身を倒してくる。彼に合わせて逸らした身に腕が回った。あ、と思う暇もなく更に体勢は下がり、これではまるで。
     若干雪崩れた客達が立て直し、気づいたのだろう。賑やかに声が飛ぶ。その騒がしさを自分はともかく彼は楽しんでいるようで、近づいた顔、唇がにっと吊り上がった。
    「ビーフ中じゃないのにこういうことするんだ」
    「ないからこそ見せつけているのさ。どんなシーンだろうと皆に分かってもらわなくちゃ。僕らが……」
     言葉を切り、嬉しすぎて耐えられないとばかりに熱い溜息をこぼす。それ自体は真実なので構わないが心配なことが一つ。
    「戻して」
    「……いやかい?」
    「いやじゃない。でもほら、それ」
    「ああ。美しいだろう?」
    「うん。でもこのままだと潰しそう」
     立たせてくれたらちゃんと受け取るからと頼むなり身体がぐんと起こされた。 
     後ろへ一歩下がった愛抱夢がふわりと差し出す花束を両手で受け取る。
    「ありがとう」
     何か動作を取る度わっと聞こえる歓声はどうにも落ち着かないが感謝に笑みを返す男にとっては慣れたものなのだろう。さらりと受け流しつつ時にこちらの肩など抱く。
    「祝福されるというのは気分が良い……いつまでもこの時が続けばいいのに……」
     うっとりと己の頬を撫でていた愛抱夢がふいに言葉を止めた。
    「……いや。それは無理か」
    「どうして?」
    「君と僕が共に在り続けると気に食わない奴らがいるからさ。最近では君が見当たらないと即探しに来る奴らにもなった、今日だってそろそろ総出で邪魔しにくるに違いない。名残惜しいが……はぁ……」
     アレやアレと鉢合わせる前にと去りかけた手を取り、引き留める。
    「それは大丈夫」
    「……何故?」
    「言ってから来た」
     会いに行く、来ないでいい─そう言ってからここに来た。仲間たちはそれぞれ似たような奇妙な表情をしていたが何か言われるより自分がこっちに来てしまったのでどう思っていたかは知らない。
    「ということは許可も監視も無し?いいの?」
    「うん」
     ならおいでと誘われ歩きながら思う。そもそも今までそれが普通にあった事がおかしかったのではないだろうか。
    「いらなくないか」
     こぼした疑問は愛抱夢に掬われた。
    「君には必要無く思えるかもね。あれらは彼らの不安をほぐすための手段だから」
    「不安?」
    「僕が君に何かするんじゃないかってこと」
    「しないだろ」
    「どうかな」
     黒に包まれた手が口元を覆い隠す。隙間からくつくつと漏れる声。
    「してしまうかもしれないよ、言えないくらい酷いことを」
    「しない」
     愛抱夢は何もしてこない。わざとらしいのは言動だけだ。体は距離こそ近いがギリギリで密着は避ける。しっかりと付くのなんて腕くらい、触れるのも手袋越し。 
     変な話だ。仲間の反応もだが、彼の態度はそれより何倍、何十倍も。
    「……あのさ」
    「何かな」
    「俺達って付き合ってるんだよね?」
     笑いごとではないのだが。 
     
     始まりはほとんど偶然のようなものだった。仲間からはもっぱらこう呼ばれている。騙し討ち。 
     あえて互いにハンデをかけたうえで臨んだ変則ビーフ。当然遥かに危険度は高かったが、それさえ二人を異次元の興奮に導く材料にしかならないと愛抱夢は喜んでいたし、自分も普通に楽しめていた。 
     競り合いながらちょうど中間。もっといけるだろうと彼が先を行き後を追う。
     襲い掛かる逆風を避けることなく受け入れながら、唐突に思った。 
     こんな風にもできる。
     愛抱夢のこと、そして彼と自分のことだ。あの真っ暗でカラフルな空間に行かずとも自分達は知らない瞬間を、越えた先を共有できる。そしてある面では、二人でないと見られない景色も確かに存在するのだと─ふと実感した。
     それ自体は悪いことではないと思う。だがビーフの最中に考え事なんてすべきではなく、気づくと身体はショートカットどころか魅せ技でもないトリックを無意味に決めてしまっていた。 
     あっと息をのんだがもう遅い。
     集まりに少しずつ顔を出し時にはアドバイスもするようになった愛抱夢だが、自由なスケートをと言いつつその根幹にあるのは勝利への圧倒的な執着と闘争心、それらを昇華させるための徹底的な努力だった。要するに遊ぶのは頑張ってからという事だよと言う男に何度きついダメだしを食らったことか。滑り出したら一秒たりとも油断するなと暦なんか散々尻を蹴られていた。今の自分のように全力の勝負中気を逸らすなど彼の最も嫌う振る舞いだろう。 
     横を愛抱夢が、何故かスピードを落とし後方へ。嫌な予感に急いで突き放そうとしたが間に合いそうになかった。近づく気配に血の気が引く。 
     蹴られる。 
     覚悟を決めた瞬間彼はただこちらを抜き、そして通りざまに数分前こちらが決めたトリックを同じように、つまりあれほど嫌っていた意味のない動作を。 
     驚きに息すら止めた自分を置いて首振り汗を払い、喉を震わす。
    「……ふ、は……はあ、はは。楽しいね、ランガくん」
    「なんで」
    「ああ、この前のかい?アレは淵で遊べない彼等の話だから僕には関係ない……と、言うのはまあ今適当に作った道理だけど」
     作ったのか、普通に納得しかけた。言えば君はそうだろうねと彼は手を目元へ。
    「大丈夫。この辺りは死角なんだ」
     こちらの制止を軽くかわし、呆気なく仮面を外した。 
     あらわになる額から眉、目。
    「本当はね」
     濃いまつげの下で輝く瞳は、他の色の立ち入るすきもなく真っ赤だ。
    「君と同じことがしたかった。無駄で無意味なら、なおさら」
    「……それだけ?」
    「それだけ。おかげで今夜は記録更新を逃してしまいそうだけど……うん。いいや。構わない」
     胸を押さえくすりと笑う。その姿も発言も何もかも愛抱夢らしくないような気がした。
    「僕でないみたい?」
    「あ、えっと……うん」
    「僕もそう思う。不思議な気分だ─けれど悪くないね。なるほど。これが恋か」
    「こい」
     突拍子のない言葉がリズムを外してくる。ずるりと落ちかけた身体を立て直し前方へ再び視線を。
    「誰になんて聞かないでくれよ。悲しくてどうにかなってしまう……その感じなら大丈夫かな良かった」
    「……」
    「……へえ。僕も君にそんな顔させられるのか……駄目だたまらない、ふふっ、ふはは!」
     仮面に隠されていく瞳は眩しいほどにバチバチと光を弾けさせ、そしてその瞬間だけは間違いなく感情の全てをもってこちらを見つめていた。
    「君が、好きだなあ」
     言うだけ言って爆走した愛抱夢はこちらを突き放すどころか彼の所持する記録をその一度だけで数個塗り替えたらしいが詳しくは知らない。皆がそれで盛り上がれていた頃、自分は改めてゴール後にされた告白について考えるので手一杯だったから。 
     もちろん最初は断ろうとした。彼へのそれだけでなく誰かへの感情をそういった形か判別することは自分にとっては難しく付き合うなんて遠い話だ。
     なので、嫌いじゃないけれど、と言い出したところ。
    「嫌いじゃないんだね?」
     都合の良い部分だけ切り抜いた男は最後まで聞かず早々に去って行った後、ちょくちょく日常に顔を出すようになった。瞬時に現れては自分と恋人になればどれほどのメリットがあるかを長々話し返事を迫る。そして自分から断りの空気を感じ取るとすぐさま消えるのだ。何度もそんなことが続けば流石にもう受けた方が早いかなと自分が判断しかけていた事を愛抱夢も分かっていたのだろう。三日連続で畳みかけられたのが決め手となり、その日自分達は付き合うこととなった。 
     これに釣られたわけじゃないよなと信用できない口にケーキをひたすら詰めたのを覚えている。美味しい物に弱い舌はとろける甘さに即夢中になっていた。それに少々呆れながら、
    「……いいの?愛抱夢」
     問いかければ、香りを楽しむようにカップを揺らしていた手が止まった。
    「何が?」
    「俺、あなたのこと」
     嫌いじゃないけど、好きでもないんだよ。 
     言わずとも愛抱夢には聞こえたようで被せるように告げられた。
    「いいんだ」
    「でも……」
    「なら、いつか」
     夢見るようにうたう声は、快晴の空より明るく、喉を落ちるケーキより余程甘く。
    「いつか好きになって」
     耳から入ったそれが心に届く前に何もかも紅茶で流し込んだ。確証のない約束はできない。あんな顔をされてしまっては、なお。 
     
     肩を抱くのにいちいち許可をとる必要はない。
    「いいや、大事だよ。君に嫌われたくない」
    「嫌わないし」
    「どうだろうか。今の君がそうでも次の君は?ほら分からない。多少手間でも逐一確認はとるべきだ」
     言い切ると愛抱夢は手袋を脱いだ指先をこちらへ近づけ、
    「折角あるんだ、使わなきゃ……」
     唇に触れかけたと思えば突然退けた。心なし体の距離も遠のいているような。
    「すまない」
     別にいいと言えばまた何か始まる可能性が高い。 
     黙って頷けば、彼は触れてきた手をゆっくりとシートの、こちらの見える位置に置いた。
     安心してくれ、もう触らない。 
     そう示すかのような動きには少々引っかかる。わざわざ車まで用意して運転手の彼をも追い出しS内に無理やり二人だけの空間を作っておきながらどうしてここまで気遣うのだろう。何もしないと言われ、されたいとも思わないが、交際について何も知らないほど自分は子供ではない。おかしさは感じていた。
    「触りたくない?」
     つい尋ねれば、ついに腕さえ離れて行った。 
     狭い車内の端までずりずりと移動すると愛抱夢は深く頭を抱えだす。見えない顔から吐き出される声は、低い。
    「……二度と聞かないで」
    「ごめ──」
    「違う、謝らなくていい。これは僕の問題でしかなく…………」
    「愛抱夢?」
     更に深く丸まった身体が、留めきれなかった感情を零すかのように小さく呟いた。
    「触りたい。とても」
    「あ、やっぱそれはそうなんだ」
     少し安心した。人慣れしていない自分の目以外から見ても充分変わっているらしい男だが恋愛感情はその見た目ほど独特でもないようだ。自分からすると分かりやすいのはありがたいが、しかし、
    「だが一度解き放たれた欲望は、二度と……二度と……」
     彼自身としては受け入れがたいらしく、自らを抱きしめ身を捩らせている。 
     伝わる苦悩に思わず口を開き、
    「いいのに」
     呟いたのは、ほとんど無意識だった。 
     だがその後ガラリと変わった車内の空気に遅れてやってきた意識が汗を流す。これは良くない選択だったのかもしれない。取り繕おうとすれば彼はいつの間に顔をあげ、笑いもせずただこちらを見続けていた。ぼうっとしているのか観察しているのか分からないがその読めない表情は何故かひどく不安を誘う。
     二人の目が合っていたのはごくごく僅かな時間だったはずだ。自分がすぐ視線を外し、話を逸らしたので。
    「ほ、ほら。手とか」
    「……手は駄目だ。色々と思い出してしまう」
    「えっと、じゃあ腕」
    「更によろしくないね。身体に近づいてしまった」
    「難しいな」
    「境界を探るものじゃあ無いんだよ、こんなの。とにかく素肌どうしでは触れない。危ないから」
     会話を切り上げ窓へ向く愛抱夢に少しずつ近づいていく。拳二つ分ほどに縮まった時、声が。
    「何を?」
    「触ってない」
     他人の感情に疎い自覚はあるが、とても触れたいのに触れられないという事の辛さは分かる。せめて傍くらいはよくないだろうか。触れるのも一瞬考えたが先程の会話以降どうにも不安がぬぐえず断念した。
    「近いのは大丈夫なんだろ」
     拒否は来ず、代わりに距離は拳一つ分へ。 
     顔をこちらに向けないまま、君も悪い子供だなと愛抱夢がぼやく。その視線は外ではなく、窓ガラスに映った自分を。 
     
     軽く走るだけで風に打たれた頬がじんわり痛む。空気は冷たく、適当に選んだ長袖一枚では足りなかった。真夜中といえここまでとなると流石に冬が近づいていることを実感する。 
     眠れる程度に疲れるまで、適当に流すと決めていた。 
     暦と行く通学路、練習場所までの近道、稀に猫と猫に似た少年に会える裏路地の横を通りアーケードも抜ければ大体いつものルートは回れたが、身体はまだまだ元気だ。
    「……」
     少し考え、地面を蹴った。気分のまま角を回り行きたい方向へ自由に駆け抜ければ、
    「あれ」
     当然すぐ迷ったが、気にせず進む。 
     いざとなればGPSもあるし。焦ったってどうにもならない、のんびり行こう──下手な言い訳からして、自分は誰も居ない夜に多少浮かれているのかもしれない。
     ふらふら歩き勘で選んだ道の先、目を見開く。 
     ある意味正解を当てたらしい。広く人気のない道、その先は──急坂。
    「……い、一回だけ……」
     いそいそと今何となく決めたスタート地点に進む身体を、
    「!?」
     突風が襲った。 
     この感覚を知っている。自然の風ではない、これは。 
     横をすり抜けた影を咄嗟に捉えた目が瞬きを止める。
    「キャップマン……!?」
     Sで働き、時には滑る男達が何故ここに居るのか。分からない──だが。
     キャップマンは不思議と自分が先程定めたスタートで停止するとこちらへ向き、
    「……」
     ぎこちなく腕を上げ、くいと手首を動かした。 
     そこにある明確な挑発を無視できず近づきながら頭で予想を立てる。滑るキャップマンなら一人あのトーナメントで見た。というかそれしか見ていない。
     確信すらあった予想はしかし、隣に立ち間近で確認したところあっさりと否定された。 
     キャップと上着は近いもののあのキャップマンはもう少し全身それらしかったというか、前に出ない雰囲気がまさに裏方という感じだったはずだ。おそらく。対して目の前の男にはそういったものは感じない。むしろ何かしらの主張さえ感じる。 
     顔が見えればまだどうにかなったかもしれないが上は深く被ったキャップに守られ下はマスクだ。諦め、何者か尋ねようとした瞬間。キャップマンが片手を開いた。一定のリズムで折られる指の意図に気づき慌てて体勢を整える。 
     三、二、いち。 
     跳び出したのは同時だった。偶然二人決めていたらしいゴールを抜けたのもほぼ同時。 
     ──だが僅かにキャップマンの方が先を行っていたことを、見ないふりはできない。 
     素直に悔しい、そしてそれ以上に。
    「すごい」
     称賛を送り、身を寄せる。興味が止まらない。
    「その恰好キャップマン、ですよね。じゃあやっぱり……ええと、スネーク?印象違うけど」
    「……」
     キャップマンは首を横に振りスネークではないと示すものの、名前を尋ねてもSの話を振っても声を発することはなかった。数分粘ってみたがそもそも自分は無言の人間から何か引き出せる程会話が得意ではない。
    「……そ、それじゃ」
     気まずい空気に背を向け歩き出すと。
    「──────」
    「……!」
     振り返ればもうキャップマンは居なかったが、冬を告げる風の運んだかすれきった声を確かに耳は覚えていた。忘れる前に急ぎメモを開き打ち込むのは数字。日付と時刻、抱いた確信は今度こそ間違っていないはずだった。 
     
     夜が迫るのを待ち遠しく思うとき、もう自分はあの純白の景色からかけ離れたところで生きているのだと実感する。 
     道を見失うことも、寒さが命の危機に直結することも無い、ここは一枚だけ足した上着が風に広がりうっとおしかったなら脱ぐかどうか考えてもいい場所だ。ジッパーにかけた手は体を冷やさないでねと告げた声を思い出し結局止まってしまったが、自分だけ楽な服装というのもあの窮屈そうな背中にハンデを貰っているようだし、仕方ない。 
     迷わずとも辿り着けた大通り、名も知らない後ろ姿は今夜も確かに自分を待っていた。 
     言葉を交わすことなく合図と共に駆け降りる。いつからか当たり前になったゴールを抜けると同時に声をかけた。
    「もう一回」
     キャップマンは頷き坂を戻り、その横を自分も行く。そしてまた二人滑り落ちる。 
     男と出会ってから数度、自分達はこの急坂周辺でひたすらこんな事を繰り返していた。短距離ビーフと言えば聞こえがいいが実際は一番爽快な部分だけを楽しむ、ただの遊びだ。本音を言うと満足には遠い。コミュニケーションの問題もあり望めないことは分かっていても、やはり本格的に一戦交えてみたいと思わずにはいられないほど目の前のキャップマンの技量は高かった。
    「もう一回」
     上って行く背中をまじまじと見る。 
     本来オーバーサイズ気味になるはずの上着はぴたりと、ともすればみっともなく感じそうなものだが姿勢良く歩く姿がそうと思わせない。衣装の違和感を佇まいで緩和する様は他の誰かでも見たことがある気がする。誰だっただろうか。 
     この滑るときの感覚も体は知っているようなのだが──分からない。 
     もう一回、と言いかけたとき。唇に、
    「ん」
     何かが触れた。夜の空気に晒され乾燥した指先は言うなと頼むように軽く押してくる。思わずキャップマンを見上げたが隠された表情からは何も読み取れない。 
     押されたままの唇をもぞもぞと動かし隙間から分かったと言えば指が離れた。
     触れる空気は先程よりじんと冷たく、マスク越しのくぐもった声が告げる数字はどこかぼんやりと聞こえていた。
     
     カタログの中では煌びやかな菓子たちがその存在を主張している。ぱっぱとページを捲るスネークが
    「なんだったら二つ以上でも構わない。選べ」
     と続けるのに首を捻った。
    「いや、どうして?」
    「遠慮するな」
    「遠慮じゃ」
    「ないだろうね。……おい、何をしていたのか言ってから消えろ」
     車内に戻ってきた愛抱夢が入れ替わりに立ち去ろうとしていた背中へ促す。スネークは何故か珍しく言葉に困っていたようだったがやがて言いにくそうに。
    「今度持たせる土産を……」
    「みやげ?」
     不思議なワードを自分は繰り返し、愛抱夢はなんとも言えない表情を。
    「本人に聞くな……」
    「はい……」
     肩を落とすスネークが何処かへ行くのを見届けあれはおおかた利口だが必死になると周囲が見えなくなるきらいがあると零す横顔に、とりあえず尋ねた。
    「土産って?」
    「……」
    「必死にって何の話?愛抱夢?」
     触れないギリギリまで迫り、仮面の中を覗き込むように顔を近づければ降参の手が挙がる。
    「もう少し準備が整ってから誘おうと思っていたんだが」
    「誘う?」
    「ああ。……遊びに来てくれない?」
    「いいよ。どこへ?」
    「僕の家」
    「……わ、わかった」
     二度目の返答には多少時間が必要だった。この生活感のない男と生活に欠かせない存在が脳内でうまく繋がらなかったのだ。家あるんだ、という感想はよく考えたうえで胸の内に留めておく。
    「受け入れてくれて嬉しいよ。君は本当に怖いもの知らずだね」
     言葉に含みを持たせつつ、愛抱夢はいそいそとスケジュールを表示させ。
    「候補はここと、ここ……」
     指が示す日付は。
    「あ」
    「どうしたの?君の予定には重ならないようにしたつもりだけど」
    「ううん……あの、愛抱夢の家って遠い?」
    「いや。君が望むなら遠くしようか?」
     伸縮性のある家なのだろうか。
    「いい。日付はその中ならどれでも大丈夫。……帰りが夜中にならなければ」
    「まさか!そんな遅くまでなんて考えていないさ」
     明るく笑う愛抱夢は、もしかすれば自分が冗談を言ったのだと思っているかもしれない。その誤解を正さないまま流した。それだけの事がやけに後ろめたいのは、自分と彼の間にある名前のせいだろうか。
    「夕食までには送り届けて……ああしかし、二人きりのディナー……アフタヌーンティーくらいで我慢するつもりだったが……んん……」
     何か食べさせるのは確定らしい。以前彼に連れて行かれた店の雰囲気を思い出す、次いで味すら分からなくさせるとてつもない緊張感を。家での彼は知らないが普段からああいったものを好み、振舞おうとしているのなら。
    「おや。浮かない顔だね」
    「……なんか、悪い」
     主に費用と手間を考えると。 
     持ち寄りなら作り置きでも持っていくところだが自分が作った物を食べる愛抱夢というのもまた想像しにくい。買うにしたって、あのカタログのような物に慣れている人間へ何を渡せばいいやら。何も出せそうにないと嘆くこちらに
    「楽しみにしてくれていればそれで良いから」
     愛抱夢は言うが、それこそ難しく思えた。家に行って何をするのかいまいちイメージがわいてこない。何かあるのだろうか。自分が興味を持つようなものが、彼の家に。 
     もしかすると物ではなく。
    「わかった──楽しみにしてる」
     浮かべた想像を感じ取ったわけでもないだろうに、彼が笑みを深めた。
     
    「どう?楽しい?」
    「……」
    「ランガくーん」
     目の前でひらひらと揺れる手のひら。
    「楽しい……」
     こういう方向の楽しさだとは思わなかった。サプライズがあるからと目を塞がれ手足にそれぞれ何か着けられた時は終わりを感じたが、本当にただサプライズが用意されていただけだった。テーブルの半分ほどを占める色とりどりの菓子と懐かしい伝統食に思わずあげた声は自分のものと思えないほど大きく、そのうえ始まった上映会でどこの誰が撮ったのか分からないそれに映る親友達に熱中すればあっという間に心身はぐったりと。
     さらりと運ばれたソファは雲で出来ているのではと思う程ふかふかだ。目の前で繰り広げられる男の一人舞台も合わさって何だか王様気分になってしまう。
    「良い答えだ……君の気持ち、確かに届いたよ。僕の胸に……!」
    「……楽しいけど」
    「何?」
     くるくると回っていた愛抱夢が停止する。それでもしかとポーズは決めているところがこの男の凄さだ。
    「まさか不満が?BGMは確かに僕もだね……」
    「そうじゃなくて……愛抱夢はこれ、楽しいの?」
    「楽しい。君が楽しそうだから」
    「ふーん……」
     行儀悪くソファの背に身を預ける。僕も、と声がして対面に愛抱夢が沈んだ。
    「ふふ」
     半分顔を埋めながら笑う仕草は無邪気さすら感じるが仮面に隠れていない目はいくら柔らかく下がろうとも本来の鋭さを残したまま。そのギャップが
    「なに?見惚れている?」
    「うん。面白い」
     素直に言うと愛抱夢が完全に沈んだ。ごめんと手を伸ばしかけ、ぶわりと刺々しくなった気配に引っ込める。起こされた顔は苦々しい。
    「俺からも駄目?」
    「覚悟ができていない」
    「……確認だけど」
    「触りたいよ」
    「なら触れば。色々準備してくれたんだろ、おれい」
    「近頃の子供は自分の肉体が代価になると思っているのかい?由々しきことだ」
    「他の人は知らない。俺はあなただけ」
     ただでさえ近い身体を無理に寄せる。息がかかってしまいそうだ。
    「愛抱夢」
    「……ああ」
    「ここ、触ってみないか」
     とん、と叩いたそこに視線こそ感じたものの、
    「だめ」
    「……そう」
     背もたれに埋める顔は互いに半分。見えている方は楽しんでいるような悲しんでいるような不思議な表情、だがもう半分は見えないし、今何を感じているか教えてくれない。
    「僕だろうと簡単に誘ってはいけないよ。君に触れるというのは、特別なんだ」
     そんな風に決めつけて我慢する必要があるだろうか。自分の身体など触れたって何も起きないのに。少なくとも愛抱夢以外の手ではそうだった。 
     言えるわけない言葉達もまた、胸の内を落ちていく。 
     
     食べすぎたかと思ったが全くそんな事はなかった。 
     もういいと目隠しをとられた先は家の近く。見慣れた風景はぼんやりと薄暗いだけだった。 
     そういう約束ではあったが、それにしたって早い。
    「信用を失いたくない」
     丁寧にこちらの手首から金属を外しつつ、愛抱夢が言った。
    「また遊びに来てほしいから……どうかな」
     受け入れるついでに条件を一つ付けさせてもらった。そんなにもてなさなくて良いよ、と。
    「行く度あんなにしてたら大変だろ」
     ホッとしたように微笑む顔は、少しだけ──。
    「……少し、なんだろう」
     面白いとは違うが何と表せばいいか分からない。考えに夢中になるあまりつい上を向き、眩しさにギュッと目を閉じる。今夜はやけに明るいと感じていたが、そうか。満月か。 
     真っ直ぐに立つ後ろ姿もいつもより鮮明だ。
    「お待たせ」
     ボードを停めパッと両手を開けばキャップマンにも意図が通じたらしい。少々長いカウントだろうと彼とは不思議と合う。跳び出せば、今夜の彼は随分大胆に滑った。荒々しく奔放な動きはSの誰かに似ているような気がするもののやはりハッキリとは分からない。 
     数度いつものように滑り降り上ったところでキャップマンがくいと手を動かした、見ていろと言われているようだ。 
     頷くと彼は一人坂を下り──そして。
    「!」
     思わず唾を飲み込む。 
     こんな事を思い付き実践しようとする人間があの男以外に居るとは思ってもいなかった。 
     小さくなった人影がもう一度手を動かす。その意味が分からないはずもなく、危険であることを当然理解しながら身体は動き出していた。見様見真似で跳ぼうとする姿をもし友人が見たなら待てと走ってきただろう。だがそれでも止められたかどうか。 
     知らない景色は、最高だった。
    「は……」
     一度足を下ろし息を吐いていれば、音の立たない指先だけの拍手が足早に近づいて来た。
    「……あ、ありがと、…………?」
     感謝にキャップマンは手を止め、自由になった両手で突然こちらの頭に触れる。手は頭頂から髪を撫でるように落ち自然と顎に添い、そしてあの夜のように、指先で唇を──。
    「やめて」
     相変わらず熱い手は、こちらの手に抵抗せず顔から剥がされていった。何か言ってくることもない。今まで疑問にも感じていなかったそれが、今だけは少し恐ろしい。
    「……付き合ってる人が居るんだけど」
     うまく伝えられるだろうか。こんなおかしな話。
    「俺に触れないんだ。特別なんだって。……でも、付き合ってるんだよ。俺達」
     あの手の温度がどれほどか自分は知らない。知りたいと思ったことすら無かった。それでも。
    「あの人が駄目なら、あなたにもさせたら駄目だ……と思う。たぶん……なんとなく……」
    「…………」
    「……いやだから、その、あなたが悪いわけじゃなくて」
    「…………」
    「べ、別に嫌じゃない、あなたの事も嫌いじゃないし」
    「──けど、好きでもないんだろう?」
    「え──?」
     キャップマンがトレードマークを外す。 
     広がりはしないものの、隠されていた髪は月明かりと同じ青。そして瞳は。
    「え、ええ……??」
     マスクを下げ、キャップマンでなくなった男が──誰かとよく似た男が──リズミカルに踵を鳴らした。確定だ。
    「バレたか♡」
     
     呆然とするこちらを他所に、愛抱夢は風のように走り去って行った。高らかに叫ばれた次の予定にあのかすれ声さえ演技だったと知りその入念さに力の抜けきった身体で帰るのはそれはもう大変だった。 
     それなのに今夜、自分はまたここに居る。
    「良かった。いつもより遅いから心配していたんだ。これはもう迎えに行くべきかなと」
    「いい」
    「冗談さ。それくらい怯えていたってこと」
     止まった途端、即座に手を取られた。
    「冷たいね」
     素手なのは二人とも同じだが彼のそれは温かい。生まれた場所が違えば代謝も違うのだろうか。
    「……来てくれないかと思った」
    「来るよ」
     今夜ここに来ないという選択肢は自分の中に存在しなかった。何故なら。
    「あなた、来なかったろ」
     あの日からすぐのSもその次も、この男が姿を見せなかったからだ。
    「少し忙しくてね。会いたかった?」
    「会いたかった」
     言葉の中にどんな感情がどれくらい含まれていたかは吐いた自分でも把握できない。ただ一つ、最も多くを占めるものだけは分かっていた。今日来たのもそのためだ。
    「説明して」
     じっと見つめれば男はすんなり頷いた。
    「勝負はまた今度にしよう。ついておいで」
     翻った背中が風に大きく膨らむ。
    「サイズ変えた?」
    「君が見分けを付けられるように耐えていたが、もう平気だろう?」
     便利だから変装は続けるけど、とつばを傾け軽く片目を瞑る。演技がかった仕草はまさに。
    「確かに愛抱夢だって──」
    「ああ、そうそう。お願いがあるんだけど」
    「なに?」
    「僕をその名で呼ばないで」
     向いた顔を直視した瞬間、喉が。 
     月の光もチカチカ目に痛い信号機の青も遮るキャップの中、影が落ち真っ黒な顔は目だけを赤く光らせていた。
    「……な、んで」
     だがこちらがたどたどしく尋ねると瞬時に光は消え、ガラリと雰囲気を一変させた男は小さいながらも快活な声を飛ばす。
    「いやだな、ただ誰が聞いているか分からないから用心したいだけだよ。そもそもSネームを外で呼ばないのは当たり前だろう?」
    「あ、そっか。そうだね……」
    「そう。理解できた?」
    「うん」
    「よろしい」
     パーキングに停まっていた車がいつものと違う理由を何かしら言われたが流してしまった。違うことに気づいていなかったし、運転席に静かに座る影が居るならそれはどんな見た目だろうと自分にとっては彼等の車だ。
    「でもそれなら、なんて呼べばいい?」
     当然の顔で肩を抱く男に尋ねると、
    「耳を」
     囁かれたのは、
    「名前?」
     男は頷き、彼にしては控えめな笑みを浮かべた。
    「あいって、やっぱりあの?こう書く……」
     取られた指先が空中をなぞる。漢字、ひらがな、カタカナ。似ているようで、違う名前。
    「覚えた?」
     だがこの探り見透かすような目つきと期待に輝く瞳は確かに彼と同じ男のものだった。
    「覚えられたら呼んでみて」
    「……愛之介?」
    「……そう……そうだよ、ランガくん!」
    「────」
    「僕が君の……ん?どうしたの?」
     全力で押し返そうとしているはずの腕はものともされない。こちらを抱きしめたまま困惑している愛之介に、必死で訴えた。
    「なんで、からだ。触らないんじゃ」
    「嫌ではないんだろ?」
    「ないけど、愛抱夢はずっと──」
     息が詰まる。背中に一瞬走った激痛に身体も頭も自然と止まってしまった。
    「言ったよね」
     なすすべない力の抜けた身体を引き寄せられ、無理やりに顔が近づく。何度だって体験した距離だ。それなのにどうしてか逃げたくて仕方ない
    「……もう一度覚えて。僕の姿を。名前を」
    「あ、あいのすけ……」
    「そうだ。愛抱夢じゃない。だから君に触れられる」
    「は?それって」
     納得のいかない理屈を追おうとしたが彼の胸に押しつぶされるようにまたも言葉は中断させられてしまった。 
     抱擁と、声音はとてもよく似ていた。優しいが解ける気がしない。
    「ようやくだ。ようやく君が僕を、見つけてくれた……」
     すり、と頬が触れ合う。
    「僕も君を喜ばせてあげたい」
     断片的に聞こえた声を再度求めることもできない呆けた顔が瞳の中にぐにゃりと映っている。それを封じ込めるように愛之介は瞼を三日月型に歪めた。
    「叶えてあげる」
     ようやく吐いた息。心臓は強く震え、窓越しの常夜灯がいやに眩しい。全身が怯えているからか逆に静かな頭が遠い、遠い現実に冷えた眼差しを向け呟いた。 
     
    「……なに、いってるんだ……」
    「何も?」
    「…………ん、ん?」
    「だが心配ない。言葉にせずとも僕の心は常に愛を叫び続けている。会えない時も運命的な出会いを果たす以前も絶えず君を思い続けていたその一端を聞かせよう。まずは第一章──」
     止まらない声を手繰っていけば、どこからか流れ込んだ光が視界を照らした。浮かび上がる姿は。
    「……愛抱夢?」
    「ああ、おはよう眠り姫くん。ようやくお目覚めかい?」
    「めざ……あ」
     一つ息をするごとにじわじわと記憶が戻ってくる。起き上がるため手で突いた背後は相変わらず包み込まれそうに柔らかかった。
    「ごめん。寝た」
     招かれて即愛抱夢がどこかに行ったところまでしか思い出せないので、その後すぐ眠ってしまったのだろう。カーテンの隙間から見える空は暮れかけていた。結構な時間寝ていたらしい。
    「退屈していたようだったから仕方ない。本音を言えば君に可愛く出迎えてもらいたかったけれど……」
    「かわいく」
    「もっと可愛いものが見られたから良いとしよう」
     ふふ、と頬を緩ませる姿は彼の言う通り、間違いなくいつもの愛抱夢だった。名前を呼んでも抱き潰されないのが何よりの証拠だ。 
     夢で見た──いや、夢の中で再現されたあの夜。
    「考え事?」
    「あ、ううん」
    「当ててあげよう──夢についてだね?」
     あっさり言い当てられた衝撃に身体が比喩ではなく跳び上がった。大きく音を立てる心臓を必死で落ち着かせながら、正解したと得意げな男に理由を問えば。
    「あの寝顔を見ていれば当然わかるさ」
     あのとは、と続けて尋ねたがすごいやラブリーなどよく分からない表現でしか返してくれない。それどころか、油断していたこちらをすかさず回答側へ回してくる。
    「どんな夢が君にそうさせているのか、とても興味があるなあ。ね、教えて?」
    「……あなた」
     隠し事は苦手だ。素直に話したが愛抱夢は眉を動かすだけ。伝わっていないらしい、ならはっきりともう一度。
    「だから、あなたの夢」
    「……僕の夢を見て、あんな顔を?」
    「それは知らないけど。うん、あなたが出てきて、俺に触って」
     触る、と言葉を出した途端、みるみる表情が歪んだかと思うとせわしなく変化し続け最終的に驚くほどの真顔に辿り着いた。どういう感情の表れなのか。
    「ランガくん」
    「はい」
    「こんな説がある。夢は、人の隠し持った願望を映すのだと。……どう思う?君の、それは」
     探るように鋭い瞳が更に細まった。 
     なんとなく愛抱夢の言いたいことは分かったが、もちろんそういう事では全くない。本当にあった事をただ思い出しただけだ。自分だってまだかすかに記憶している背の、頬の感覚を覚えていないわけがないだろうに何をとぼけているのだろう。 
     ただ彼に触れられたいかといえばそんなような気もする、のでそのまま答えた。
    「そうって言ったら」
     真顔が崩れる。
    「聞いてしまうかも」
    「聞いてよ」
    「……いいかな」
    「いい」
     尋ねる声はいつもの彼らしい自身にあふれ説得力のような物すら纏っていたがどことなく硬く、肯定すれば分かりやすくいかっていた肩から力が抜けた。なにをそんなに緊張を演出しているのか。
    「どこ?」
    「なるべくその先の事を考えない部位がいい。僕が平常心を保ち続けられるような」
     演技だと分かっていても悩む姿は真剣に見える。
    「シミュレーションはしてきたがやはり本物を知らないと厳しいな……どうしようか……」
    「えっ?」
     知ってるだろと言えば一度愛抱夢は口を閉じ、
    「確かにね。だがあの懐かしいトーナメントとは何もかも違う。僕の認識も、僕らの関係も」
     大きく頷いたのち思考に没入していく。置いて行かれた自分としてはひたすら困惑するばかりだ。 
     そんな過去の話はしていなかった。例えば先々週であったり、数日前であったり。気まぐれに容易く触れてきた彼自身の話をしているつもりだったのだが、言葉が足りなかっただろうか。付け加えるべきかこちらも悩んでしまう。 
     解決は、彼の方が早かった。
    「決めた。手を出して」
     握りやすいようにと手のひらを上に向け差し出せば違うと、返すよう指示が飛んだ。甲が好みなのかと思ったが、手袋を外し近づく素肌の様子からするにそういうわけでも無いらしい。選ばれたのは手であって手でなかった。一部とは言える。 
     長く関節の際立つ指一本、なぞる物もまた。 
     静かな、押さえつけられた呼吸が聞こえてくる。視界にはゆっくりと肌と爪の間を這う彼の指先。付け根までくまなく触れたそれは絡まり、きゅうと。
    「……」
     またあの、不思議な感覚が上ってくる。面白いともドキドキとも少し違うそれの表し方は分からないまま、離れて行こうとした指に自分のものを絡め、引き留めていた。
    「……他の、も」
    「……そうだね」
     それだけ言ったが最後二人とも黙り込んだままだ。ただ一本、もう一本──深く差し込むように、受け入れるように、前のを離さないまま互いに次々五指を絡めていけば、当然。 
     二つの手のひらが擦り合いじんわりと放つ熱を交換していく。彼の手が温かいことを既に知っていたはずなのに落ち着かずそわりと背中が揺れた。 
     聞こえる、無理に正された呼吸はいつからもう一つ増えていたのだろう。
     目が合い、気づく。近づいていたのは手だけではなかったと。視界一杯に自分を映す見たことのない量の熱を帯びた赤色がすぐそこで揺らめいていた。
    「……いい?」
     溢れ出た感情に飲み込まれるように、首を縦に振った。 
     柔らかく微笑む顔を見ていられず目を閉じる。どう待てば良いのか考える時間も与えられないまま、その瞬間はすぐに。 
     知らない体温が離れると同時に目を開き、いつの間にか止めていた息をゆるゆると吐きだした。触れた長さも、面積も手の方が圧倒的に上だ。不思議な感覚だってどこかへ行ってしまった。それなのにじわじわと、代わりに心を占めていく何かが。
    「……は」
     溜息は自分の物だと思っていた。だがみるみる目の前の頭が伏せ、身体まで丸まりかけたのをこちらの両腕を握りしめ止めたことからもしかすると彼の物だったのかもしれない。
     支えを求めるように背中へ回る腕のために、ほんの少し背を反らした。全て回りきれば体はすっぽりと内に、普段意識しない対格差をこんなところで思い知る。 
     小さな声を愛抱夢が漏らす。
    「良くないな……」
     流石に何の事か分かった。呟きに込められた滴るほどの深い後悔を聞けば。
    「こうなると分かっていたから耐えていたのに……」
    「落ち込むくらいなら」
    「仕方なかった。どうしても勝てなかった」
     似合わない言葉を使う。彼らしくないのは、やはり
    「俺のせい?」
     あの夜のように自分に恋をしたからだと、そう言ってくれても構わなかったのだが、肩の向こうで頭が横方向に動いた気配を感じた。
    「君が関わっていたとしても悪いわけじゃない。僕がおそらく誤解して──いや」
     強く否定しているようで髪が首筋を跳ね回る。
    「それが誤解だと分かって敢えて目を逸らした。だってそうだろう、君が」
    「俺が?」
    「少しは意識しているのかもしれないと、そう思ったら……」
    「……」
     勘違いだと言い切るには、この感覚はくすぐったい。
     
     息を強く吸いすぎたらしい。喉の奥薄く棘のような痛みが走り、けほ、と体を曲げる。
    「おや可哀そうに」
     背中を撫でる手の主はその言葉と裏腹の彼らしい跳ねる声音でからかうように続けた。
    「それにしても今夜の君の滑りは浮かれ切って実に良いね。やはりあれかい?嬉しかった?」
     自分自身の放った言葉に軽く笑い爪先で地面を叩く。そちらの方がよほど嬉しそうに思えるが。
    「予想外で不本意だったとしても耐えられやしない。君の誘惑は実に……罪深かった」
    「罪って」
    「罪だよ。ずる賢い罠さ。……ね、ランガくん」
     ふいに声が近づいた。視界に映っていたはずの自分の影が、包むように被さってきた男のそれに混じり、吸い込まれていく。
    「僕を堕としてどうするつもり?」
    「……何の話?」
    「さて、何の話だろうね」
     奇妙な問いかけなど無かったかのような顔をした愛之介がかくりと首を倒した。
    「まだ答えを貰ってない。嬉しかった?」
     嬉しくない──とすぐ返せずやや考えてしまうのは、あながち言葉が間違っていないような気もするからだ。少なくとも自分は今。
    「良かったな、とは思ってる」
     元々しなくていい我慢だった。始めがどうだったとしても付き合う以上これくらいの事は覚悟の上だ。だからこそ愛抱夢の苦悩する姿は不可解で無性にこちらが急いてしまったが。
    「良かった、ねえ……」
     するりと撫でてくる手からは躊躇も何も感じられない。 
     もう触って良いかすらこの時間の男は聞かなくなった。触れ方だって全く違う、これと比べるとあの手は随分優しかった。
    「わざとらしかったな。さっきのあなた」
    「そんな事言ってやらないで。僕なりに一生懸命やっているんだ」
    「……変な言い方」
    「そう?」
     大きく開いた口が笑い、ランガくんとこちらを呼んだ。
    「質問をしてもいいかな、簡単なのをひとつ」
    「どうぞ」
    「君が触れることを許したのは誰?」
    「愛抱夢」
    「なら、ほら」
     見てと促されるまま下に目を向ける。遠慮を知らない手がますます勝手に動き回っていた。これがどうかしただろうか。
    「拒否しなくていいの?君の愛抱夢がどう思うかな」
    「……どういう意味?」
    「そのまま。許されたのは愛抱夢だ、僕ではなく。分からない?」
    「分からない。どっちも同じだ」
    「いいや、違う」
    「違わない」
     平行線だ。けれど言葉の意味が理解できない以上引くつもりはなかった。
    「あなたは愛之介で、でもあなただ」
    「僕は愛之介であって愛抱夢ではないよ。どうか理解してほしい。いや──」
     手は顎へと辿り着き、こちらが逸らせないよう固定する。真っ直ぐ貫いてくるのは、思考を止める対の赤。
    「君はそれを理解しなければならない、絶対に」
    「────」
    「納得できない?ならばこれは提案だが……どうだろう、君自身で試してみては」
    「え──」
    「比べてみようよ」
     彼の指先が数回、唇を叩いた。
    「してきたばかりで丁度いいじゃないか。さあ、確かめて?」
    「それは……」
    「できない?どうして、同じなんだろう?」
     言葉に迷うこちらに次から次へ言葉を投げかけてくる。そうされては混乱するばかりだ。
    「それとも認めてくれる気になった?自分が間違っていると。僕は──」
    「わかった……!する、から」
     だからこれ以上、と訴えた願いはあっさりと了承された。 
     追い詰めるのをやめ、少し顔を傾けた男が見せつけるようにゆっくりと目を閉じる。昼間と何も変わらない、そうする時のための表情に身構える必要はない。分かっている。 
     手をどう顎に添えるかで迷い、そういえば自分からするのは初めてだと気付いた。 
     いいのだろうか。 
     いや、何も気にする事は無い。愛之介の顔を見る、唇がうっすら笑っている。うん、きっと揶揄われているだけだ。ただこうするための理由を適当に、いつもの彼が言葉一つで遊ぶように作り自分の反応を見ているだけ。そういう人だ。これは何もおかしくない普通の彼、普通の愛抱夢。 
     だから、大丈夫なはず。
     ──唇を伝った感触は、似ているようにも思えた。全く似ていないようにも。
     
     冷たい風は思考を奪うが、そうだとしても心配は要らなかった。
     もう何も考えずとも足が自然とそちらの方向へ地面を蹴る。いつもの道、の次か次くらいには当たり前になったコースの先、静かな道に佇む男が浮かべている表情だって難なく当てられるだろう。 
     近づくこちらの腕を掴み周囲を一周させたうえで止めた愛之介の顔にはきれいに整った微笑。予想通り、と言うよりもそうでない時のほうが珍しい。 
     言葉を交わすことなく彼と共に坂を落ちゴールラインを越え──そしてそのまま止まることなく、少し先を行く背中に着いていく。 
     毎回新しく探させているのだろうか、前回とも前々回とも違うパーキングまでの案内を終えたボード片手にどれだと思うと尋ねる愛之介に対し、指さしたのは奥の方にぽつんと停まる一台だ。
    「あれ」
    「正解。決め手は……聞くまでもないな。これじゃクイズになりやしない」
     パーキング内で唯一黒いそれへと二人歩く。 
     車の見分けが付かないという事が愛之介には何故か面白いらしく度々いつものと違う物を用意してはどれでしょうとやってくるが当てられたのは今のやり取りが初めてだ。それも偶然が味方しただけ。
    「色以外にもそれなりに共通点があるんだが」
    「さあ……」
    「だろうね。まあ一つ一つ覚えていこう、僕が迎えに来た時すぐ気づけるように」
     屋根をくぐりながらそんな時は来ないと言いかけたが先に乗り込んだ男の言えるものなら言えばいいと言うようなにこやかな笑みに気圧された。 
     無言で座ったこちらに向け、愛之介はとんと自身の腿を叩く。仕草の意味は知っていた。
    「付いて来たという事はするんだろう?ほら、早く」
     急かす声に流されるように愛之介の傍らへ寄る。運転席に、そして目の前の彼にあまり見ないで欲しいと無意味に願いつつ向きを変え、ゆったりと待つ膝に身体を下ろした。
    「目を閉じようか」
    「……いい」
    「見られていたい?」
    「それも違う」
     軽く持ち上げた顎は抵抗こそないものの、協力する様子もない。
    「俺が閉じるから、いい」
     だが力の抜けた唇は自分のそれよりよほどこの状況に即していた。離し、目を開くとすぐに彼の目と合う。最中ずっと見ているのだろうか。瞬きもせず。
    「一度で満足なわけがないよね。何て言うの?」
    「……もう一回」
    「いいとも」
     既視感のある言葉はねだられる感じがお気に入りだそうだが自分は違うどころかこの時間を思い出すせいでスケート中使いにくくなってしまったので複雑だ。 
     好きなようにすればいいと受け身な彼に何度もキスする自分という図は、まるであべこべだと思う。別にしたくてしているわけでも彼の事を好きになったわけでもない。ただ何度もしなければ覚えられないから、忘れないためにしているだけだ。
     苦しい。中断して深く呼吸していると髪をすくように手が差し込まれた。
    「律儀に息を止めなくともできるんだよ」
    「分かってるけど、難しい」
    「緊張し通しだものね。まあその方がアレは喜ぶだろうが」
    「アレ?」
    「アレと言ったらアレしかいないだろう。君と付き合っていて、君を愛していて、」
     手が首筋へと下がり、指先が。
    「まだここに一度しか触れられていない男の事」
    「……だから、それもあなただろ」
    「名前が違うよ?」
    「そっちで呼んでって言われてるから」
    「ふふ。強情」
     唇をなぞっていた指がふいに顎を、固定するようにとらえた。あ、と思う暇もなく奪われた唇。彼からのキスは長く、それはもう長く──。
    「……!……、……!」
     ようやく離された頭がふらりと後ろへ、助手席のシートにぶつかり止まる。窓ガラスに映る顔は赤いがその理由は甘くない、決して、全く。
    「……おこった……?」
    「まさか。子供はそうでなきゃ。君くらい悪い子なら当然」
     涼しい顔で答えながら、愛之介が再び髪を取る。
    「愛しいくらい強情な君にひとつサプライズ。来週愛抱夢がSに来るよ」
    「!」
    「あれ以来だろう?良かったね」
     そう、あの日以来彼は、愛抱夢は自分に会いに来るどころかSにすら姿を見せなかった。だから自分は──。
    「これで君は僕等が同じであるかどうか確かめられる。そして自分の間違いに気づいてくれるわけだ。楽しみだな」
     そんな事にはならない。確かめ、ああやっぱり同じだったと、自分を揶揄っていただけだったねと安心するだけだ。
    「目一杯誘惑してやるといい、あの禁欲ぶった態度がめちゃくちゃに壊れるくらい」
    「他人事みたい」
     このおかしな物言いとも今夜でお別れだ。
    「愛之介」
     慣れてしまった。この名を唇に乗せることにも、もう一つの男の顔にも。
    「あなたは、あ……その、あの人だと俺は思ってるし」
    「おや賢い」
    「スルーして。で、来週それを確かめてくるけど……それでも、あなたがそっちで呼ばれたいなら呼ぶ。だから大丈夫だよ」
     愛之介の鋭い目に一瞬似合わないやわらかな光が灯る。と同時にゆるく眉が持ち上がり、暗い車内にとても幼い表情が浮かび上がったが、
    「……それじゃあ駄目なんだ」
    「え──?」
     意味の掴めない呟きを含めたそれら全てを消し、彼はこちらの腕を引いた。手際よく座り直させると。
    「確かめるならよく覚えておかないとね。もう一回、さあどうぞ?」
     この乗せられる感じも来週で終わりますように。
      
     歓声を越える。先程から度々野次られている気がするがその内容は分からない、皆がこちらにスピードを合わせてくれないから。
     跳べるなと思ったから跳び、行けると思うから行く。できた。楽しい、楽しいが。
    「……」
     前方は、沿道にギャラリーが居るのみ。曲がるついでに後ろを確認する。そちらにも誰も見当たらず、つい零した溜息を聞かれることもない。こういう態度はだらしなくて君に相応しくないと後々たしなめられることもまれにあるが、おそらく今夜はその可能性も低かった。 
     来週来る──そう言った男の姿はいまだ見えない。 
     見えないと言えば対戦相手もそうだ。挑んできた時は自信満々といった様子でこれは楽しいビーフができるとワクワクしていたのだが実際は違ったらしい。 
     途中で消えたことから考えられるのはコースアウトまたはゆっくりとしか滑らない信条、もしくは──自分と滑りたくなくなってしまったか。 
     最後のだったらすごくいやだな。そんな怯えを誤魔化すように目を向けた空。 
     星のない空に一人、白く光る三日月が、その半分ほどを──食われた。
    「──」
    「────待たせたね!」
     声は何もかもを変えてしまうくらい高らかに世界へと響く。 
     すぐ後方に降り立った男は片手で抱いていたこちらの対戦相手をぽいと手放すと身を屈め、加速した。慌てて気合を入れるこちらに並びやはり油断するなと背に触る。
    「来れたんだ」
    「来るさ。君に会いに。ついでに彼も拾ってきた、賑やかな方が楽しいだろう?」
    「うん」
    「ふふっ、それじゃあ行こうか!」
    「愛抱夢」
     返却された三日月が眩しすぎるせいだろうか。仮面越しの顔すら、うまく見れない。
    「ありがとう」
     言いたい事は言えたのでこちらも加速する。何故か一拍遅れた愛抱夢が後ろから、うん、と気の抜けた返事をしたのが聞こえた。続けて放られた言葉も。
    「僕も愛している」
     ──も、とは何なのかビーフ後に尋ねるつもりだったが、客に囲まれ皆を愛しているよと叫ぶ姿を眺めるうちに何だかどうでも良くなったので忘れることした。ようやくファンサービスが終わったらしく悠々とこちらへ近付いてくる彼には、たった今浮上した別の質問を投げようと決める。
    「待たせてばかりですまないね」
    「いいよ。愛抱夢ってさ」
    「何だい」
    「皆愛してるのに、どうして俺と付き合ってるの?」
    「……」
     愛抱夢が口を閉じる。そのまま固まったかと思えばボードに乗っている時並みの速度でこちらの手を取り、何故か誰にも声を掛けられる事無く相変わらず隠された車の中へと飛び込んだ。その後も背を丸め無言を貫いている。そこまで難解な質問をしてしまっただろうか。
    「ごめん。もう聞かない」
     謝罪に小さく首を振り否定を示すと応答があった。顔は伏せられたままだが、小さな声は間違いなくこちらに向けられている。
    「……確認したいんだが」
    「う、うん」
    「君のそれはただの疑問?それとも、嫉妬?」
    「しっ」
     あまりに馴染みの無い言葉すぎて今度はこちらが固まってしまった。
    「……分かっている。疑問だろう?」
     一方的に話を進めながら声はどこまでも穏やかだった。優しい力加減で手が、膝の上に静止していた拳に被せられる。
    「意地悪を言ったね。すまない。どうか、忘れて」
     態度にどこか感じる諦めにちりちりと抱くものがあるのに言葉に出来ない、どうしてそう思うのか分からない分も含めて無性に悔しい。思わずギュッと唇を噛んだ。
    「ああ、そんな……」
     やるせなさを逃がすための動作だったのだが何故か愛抱夢が力尽きた。身をシートに預ける姿からは何かが抜けている。
    「僕のスノー、どうかこの、君に恋するあまり愚かになってしまった男を許してくれないだろうか……」
    「いや別に」
    「悲しみを癒せるならどんな事でもしよう。荒唐無稽な夢を、幾千の願いを叶えてみせる」
     ──君の望みを叶えてあげる。
    「叶え……」
     言葉に感じる面影への反応は、興味だと思われたらしい。そう、と目を輝かせ彼が頷く。
    「何かあるんだね?さあ言って、さあ!」
    「えっ、ええ……?」
     そんな物は無いのだが言えばおそらくこの少し回復した男が再び暗く沈むのだろう。それは何だか嫌な気がするし運転席の彼も無言で圧をかけてきて痛いのでなんとかしたい。
     適当に働かせていた脳がふいに探り当てた。 
     そういえば肝心な事を忘れていた。これで良い。
    「なんでもいい?」
    「もちろん」
    「じゃあキスして」
     軽い気持ちで投げた言葉に愛抱夢が再び固まった。
     何故だろう、大きな感情を堪えるように引きつっている彼のそれと自分のを触れ合わせたいと言っただけなのだが。
    「忠!」
    「私に意見はありません!」
    「使えん……!」
    「愛抱夢。しないのか」
    「……するかどうかはこれから決めるとして、聞いておこうか。どういう風の吹き回し?」
    「確認する」
     とぼける彼に真っ直ぐ突きつければ、一拍間を置き
    「確認」
     ただ繰り返された言葉は奇妙だった。まるで知らない話を初めて聞かされたかのような反応だ、そんな筈はないのに。
    「あなたが言ったんだろ」
    「……何の話?」
    「え……」
     口元に指先を当て悩む様は演技には見えない。足元を漂う空気が急に冷えた気がしてこっそり足の位置を変えた。
    「まあ、そういうことなら──駄目。キスはしない」
    「……なんでもって言った」
    「君が望めば、なんでもだ」
    「望んでる。あなたとキスしたい」
    「確認のために、だろう?そんな理由でねだるものじゃないよ」
     溜息を吐き、愛抱夢は手袋を外す。そうして伸ばした指先でそこをなぞり、
    「本当はこうするのだっていけないんだ」
     もう一度深く息を吐いた。
    「そもそもは僕の忍耐が足りていなかったのが悪いんだがそれにしたって気安すぎる。ランガくん、キスはね。君くらいの子供なら好きな人とするものだよ」
    「好き……」
    「そう。僕の事が好き?」
    「……」
    「嫌いじゃない、ね。いいよ」
     何か返さなくてはならない事は分かっていたが何も言えなかった。頭の中を占めていたのは目の前の話ではなく、夜中何度もした記憶。必死で唇に残した感触がこんな時に限ってうるさく主張する。愛抱夢が後ろを向く前に慌てて手を掴んだ。
    「して」
    「……君ねえ」
    「だって前にもしたじゃん」
    「あれはすまなかった。君が僕に好意を抱いていないと知りながら──」
    「そんなのいい。したかったんだろ?俺もあの時そうだった」
    「────」
     今日の彼は隙だらけで、こんなことだって簡単にできてしまう。
     やっと目が合った。勝手にほどけた緊張が口までゆるませてしまったらしい、思いついた端から言葉達が落ちていく。
    「あなたのこと、恋愛みたいな意味で好きかって言われたら確かに分かんない。あなただけじゃなくて、全部」
     言いながら、心のどこかでずっと驚いていた。自分がこんな事を思っていたなんて。好きではなく嫌いでもない気持ちは、ずっとそのまま心に居続けていたのではなかったのか。
    「嫌いじゃなくて、それで……今はもっと、嫌いじゃないよ。それじゃ駄目?」
     分からない。どうしてもしてほしくて無意識に自分は嘘を吐いているのかもしれない。そうだとしたら、とても狡い。 
     それでも──こんな気持ちのまま、あの場所に行くのだけは嫌だった。
    「キスして。してくれなきゃ、俺は帰れない」
     素のままの指先が近づいてくる。安心させてほしい。声は自分でも呆れてしまうほど余裕がなかった。
     
    「やあ、ランガくん。今夜も会えたね?」
    「こんばんは……愛之介」
     名を呼べば男は嬉しそうに眉を上げた。クッと詰まらせるように笑う真似をする。
    「その声音!酷く警戒しているのが伝わってくるよ。無事気づけたようで何よりだ」
     言い方を変えたつもりはないが男の耳はおそらく正しい。自分は今、目の前に悠然と立つ影に対し半意識的に距離を保っていた。これ以上、例えば腕を呆気なく取られる程まで近づくことを身体が拒否している。
    「けれどこれでは今夜は簡単に抱きしめさせてくれそうにないな、キスだって」
    「……しない。もう、しない」
    「へえ……?」
     落下音が聞こえるより早く足は地面を蹴っていた。
     だが。
    「ッ!?」
     背中に何かが覆いかぶさる。軽いそれは振り払おうとした腕を広げた身体で絡み取り、暴れる獲物を背後に迫っていた男へと引き渡した。
    「しないと言うわりには無防備で困る」
     彼が投げたに違いない上着ごと身体を抱きこまれれば腕さえも動かせない。
     強引に止められたボードの叫びが、今夜も不自然な程誰も居ない、来もしない通りに反響する。
    「……愛抱夢が」
    「ん?」
    「知らないって……」
     二人きりの夜の事も、何も。そういう夢でも見たのかと微笑む顔は彼のそれとは思えない程
    「嘘じゃないみたいに」
    「嘘じゃないみたい、ではない。嘘ではないんだよ」
    「そんなの、……ッ!」
     顔を必死で背ければ、男がわざとらしい程悲しげな声を出す。
    「嫌そうな顔……あんなに僕を求めていたのに」
     それは忘れないためだ。確認するため。それにあの頃は、何も疑っていなかったから。
    「僕とできなくなったという事は、そういう事でいいんだよね」
    「……」
    「それほどに差があるとは思っていなかったな……ねえ」
     耳元で囁かれた言葉は。
    「どちらが良かった……?」
     ぞわりと首から背筋に走る寒気に似た何か。それをなぞるように男の手が服の上を這う。
    「分からない」
    「ならもう一度」
    「いい、今はやだ、離して……」
     確かめようとしたのが間違いだった。そんな事をしたところではっきりするわけもなく、むしろ悩むばかりで。
    「なんだ。僕とはしないというから向こうのがよっぽど気に入ったのかと」
    「……だから、分かんないんだって……!」
     似ていたようにも思う。似ていないようにも。どうにもぼやけた答えは、いくら考えたところで分かるわけもなかった。あんなに短く触れられただけでは。
    「おかしいよ。あなたは同じ人なのに違う事ばかり言って、キスだって」
    「全然違って?」
    「……そう、あなたが、わざとそうするから」
    「していないよ。分かってるくせに」
    「うそ」
    「全部本当」
    「……なんなんだ」
    「聞いてみれば?君が答えを教えて欲しい方に」
    「……そういう言い方、もうやめてよ」
     揶揄うにしても限度がある。
     本当に分からない、彼の思考も、それを自分がどう受け止めているのかも。
     彼は彼だと思う。同時に、今の彼には触れられたくない。良いとか悪いとかそういう話は関係ない。
    「もういいだろ、愛抱夢」
     ただ疲れていた。あの日のように痛い目を見てもいいと投げやりになるくらいには。
     呼ばれた筈の男が口をわずかに開き見えた犬歯、その鋭さを恐れるより早く唇に痛みが走る。広がる痺れのような感覚に、噛まれたのだと遅れて理解した。
    「忘れるなと言ったのに」
     男が僅かに赤い唇の端を吊り上げ、続けた提案にめまいを覚えた。
    「同じでない方が理解できるかもしれないね」
     口づけはやはり一瞬では離れず、よく確かめろと言わんばかりに角度を変え、長く──。
     準備していなかった身体は早くも息苦しさを訴えていた。逃げようと必死に考えていた自分をさらにかき乱すように、じわりと生温い舌が唇を這う。無意識に悶えた身体を気にも留めず男は悠々と流れた血をおそらく、あまさず拭い取った。じんじんと感じるものを動かない頭は痛みでしかないと切り捨てる。そうだろうか。考えるには酸素が足りない。耐えきれず口を──。
    「────っ!?あ、や──」
     気付くのが遅かった。入り込んでくる。
    「んん!っん、ん──!」
     押し返そうとすればするほど舌は強引に進む。
     理解できない恐怖と生理的な嫌悪感で、抵抗したい筈の身体が動いてくれない。内側を蹂躙される度何か大切な物を奪われていく気がする。空っぽになった頭の中はひたすら一つの言葉を馬鹿みたいに繰り返していた。
     いやだ。いやだ。いや── 
     ──離され、地面に崩れる。力のない手が地面を擦った。痛い筈、なのに感じない。もっと痛いところがある気がする。どこだろう。分からない。
    「……」
     上を見る。濡れた唇を背後の月と同じ形に歪めた影。その名前を知っていた。今はもう分からない。この男は、あれは、彼は──。 
     
     足音を立てないように洗面所へ向かう。捻れば冷水が、ふらふらと差し出した両手に注がれた。ひたすら流れ続けるそれを無心で見る。勿体ないし手も真っ赤になってしまったがそれでもずっとそうしていたかった。いっそ頭まで全て突っ込んで洗い流してしまうべきだろうか。冷たくなるまで。感覚がなくなるまで。
    「……そうだ……」
     外から帰ってきたのだからうがいもしなくては。水を注ぎ、
    「……」
     口元にコップを持って行ったところで手が止まった。いいのか。どこかで声がする。何がだろう。風邪は怖いと母さんも言っていた。うまく思い出せないが、確か外で付いた悪いものを放っておくといつの間にか身体がひどいことになっているのだそうだ。それは嫌だと思う。 
     だからゆすいで、きれいにして。そうして、なかったことに──。
    「……あ」
     力の抜けた指から滑り落ちたコップは洗面台を転がっていく。焦って何も考えず手を出せば流れを邪魔された水が怒り狂い辺り一面にその身を撒き散らした。望み通りずぶ濡れになった頭はついに思考を放棄しかけている。寝る前に片づけなくてはいけない事柄を一つ増やしてしまった。ただでさえもうこんなに眠くて限界なのに。
     鏡にぼやけた人影が映っている。自分自身だと、今はどうしても思えない。
      
     目隠しが外れる。顔色が悪いと言われ、それが自分を指した言葉だと気付くのに数秒かかった。なんとか適当に首を振ったが遅すぎたらしく愛抱夢の顔は完全に指導時のそれになっている。
    「酔ってしまった?」
    「ううん」
    「睡眠は取れている?」
    「うん」
    「夜間にまとまった十分な時間を取れているかと眠り自体が浅くないかを足してもう一度。睡眠は?」
    「……」
     何も言えず目を逸らしていれば、
    「はい決定」
    「う、わ」
     愛抱夢が軽くこちらの腰を引いた。それだけでふらついた身体を、簡単に抱き上げ歩き出す。
    「君のお気に入りまで案内しよう。軽く休んでいくと良い」
    「すぐそこだろ。下ろして。歩くくらいできる」
    「これは僕の趣味だから駄目……」
     背を支える腕がぴくりと動いたかと不思議そうな目がこちらを見つめた。
    「緊張しているね」
     もっと身を委ねていいと言う男に返す上手い言葉も思いつかないまま体は無事にソファへ着陸した。安心感にほっと息を吐く。一つ瞬きするたびに重くなる瞼、すぐにでも眠ってしまいそうだ。見透かしたように温かい手が額を撫でた。
    「おやすみ」
     目を閉じる。どこかで助かったと思っていた。眠っている間は顔を合わせなくて済む。 
     
     こんな季節にも咲くのかと素直な感想を呟けば、むしろ今が時期なのだと目の前の椅子に座る仮面の男が言った。
    「……なんで居るの?」
    「ひどいな。一緒に来ただろう?」
    「あ、そっか。そうだった」
     思い出した。来たと言うより一方的に連れてこられたはずだがまあいい。ケーキは美味しいので。
    「……それで、どうかな。そろそろ考えてくれる気になった?」
     何を。聞けば、僕の告白を、と返される。
     そうそう、そうだった。男が突然現れる理由なんて今はこれひとつだけだ。断っても取り分け皿に乗っている分くらいは食べきらせてもらえるだろうか。
    「おかわりもかまわないよ。そのあと付き合うと言ってくれるなら、もう好きなだけ」
    「……んん」
     悩みに悩んで首を横に振った。仮にこれで受け入れたとして良い選択だとは思えない。自分にとっても、彼にとっても。
     経験のない自分でもそれが好きどうしの二人で行う物だとは知っている。だから自分と彼ではお付き合いはできないのに、何故こんなにも諦めないのだろう。
    「君の言うそれも素晴らしい在り方ではあるよ。けれど全ての人間が正しい手順を踏んだうえで他人を愛せるわけではないように、好きでなくとも付き合うことは可能だ」
    「でもそれって、気持ちは?」
     一人分の一方的な気持ちしかない関係をそうと呼ぶのは、たぶんとても寂しいことだ。
    「確かに他人から見たら哀れかもしれない、他ならない君に抱く必要のない罪悪感を覚えさせてしまうかも……けれどそうだとしても。君を僕の隣に置きたいんだ」
     ほんの少し冷えた空気に何度も聞いた言葉が広がった。好きだ。短いそれは快晴の空へあがり、バラの香りに染まっていく。
    「君としか味わえない感情を知ってしまった────共に行くのなら、僕は君とが良い」
     知らない世界を見に行こう。 
     そう言い、彼はこちらへ手を差し伸べる。だから断ったのに──思いながら、心臓が痛い程高鳴った。気が付くと置いていたフォーク。風に揺れ視界を乱すバラ。紅茶の湯気を潜り抜け、手を──。
    「つかまえた」
    「!」
     無理に立たされた勢いで椅子が倒れ、続けて蹴られたテーブルも。何もかもが砕け飛び散る嫌な音が耳を刺す。
     いつの間に男は仮面を外していた。いや。それだけではない。分かってしまう、彼は。
    「あい────」
    「ねえランガくん、今どんな気持ち?」
     繋がれた手が強引に振り回してくるまま、バラの中心で踊る。
    「楽しい?ドキドキしている?けれど面白いとは違う。頬が熱くなるような。息にも困るような。不思議だね、何て表せばいいんだろう?……教えてあげる」
     要らないと叫んだのは届かなかったのだろうか。耳元に近づいた気配が心底楽しそうに囁いた。
    「好奇心、だよ」
     背筋を抜ける冷たい何かに、頭の中が、白く。
    「……可愛い顔。もしかして信じていたのかい?君が僕に、本当に──」
    「ちがう」
    「何も違わないさ」
     どうにかこの腕から抜け出したい。それなのにもがけばもがくほど、身体は彼から離れなくなっていくようだ。
    「ただの興味だったんだよ。知らない世界、なんて夢見がちな言葉に釣られただけ」
     ちがう。
    「色々と停滞気味でつまらなかったものね。新しい刺激が欲しかった。手の掛からない、勝手に動いてくれる人間であれば──なるほど、うってつけだ」
     ちがう。
    「だからこそ僕から贈られる愛がひどく退屈なものだったことに無意識に君は不満を抱いた。満たされたいあまり自分まで容易く差し出し、いたずらに誘惑し、反応を楽しんで」
     ちがう、ちがうちがう──。
    「悪い子だね、馳河ランガくん?」
    「ちが、ぅあ、離して……!」
    「僕を好きになる気なんてさらさら無かったんだろう?この時も、今だって!」
     確かにこのバラ園でいつかと言われた時、絶対に約束してはいけないと思った。彼に同じ感情を返せるわけがないと、受け入れながらも諦めていた。けれど誰にでも送れたはずの嫌いではないは、彼だけの嫌いではないになり。そして、このまま『いつか』──。 
     ぐちゃぐちゃの声で訴えれば、
    「へえ」
     男は冷ややかに笑った。
    「それなのに、僕とあんな事をしたの?」
    「…………ぁ」
     音が消えていく。バラが、めちゃくちゃになったテーブル達が、明るい空が消える。 
     真っ暗になった世界は再び青白い光に照らされ、誰も居ないあの場所へ。犬歯の覗く口が何か形をとった。聞こえない言葉を悟ってしまう。手が近づいてくる。いやだ、たすけて、────。
    「……ここに居るよ。大丈夫かい」
    「っ!?」
     咄嗟に手を払ってから、しばらく息を整えたところでようやく気付いた。違う。
    「ごめん……」
    「僕の方こそ。うなされる君を見ていられず、つい無理に起こしてしまった」
    「いや、それは……ありがとう」
     起こされて良かった。この部屋で見る夢としては最低レベルの悪夢だったから。
    「また夢を?」
    「……うん……見た……」
    「楽しいものでは無さそうだね。何か飲む?」
    「いい……俺、どんな顔してる?」
    「ひどいとだけ。……話してごらん。そうする事で楽になる苦しみもある」
    「話す……」
     言っていいのだろうか。あなたと顔も声も何もかも同じ人間とあんな事を自分はしたのだと──彼に言って、楽になっても。
     救いのような声に導かれるまま愛抱夢の方を向き──直視した瞬間、喉が震えた。
    「……ランガくん?」
     顔を覆う。何かあったのかと近づく彼を見ないために。滲み分からなくなっていたとしても、その心配そうな表情を見たくない──見てはいけない。 
     言えるものか。
    「なんでも、ない────」
     おかしな夢を見ていた。 
     それだけだ。 
     
     街頭掲示板が表示した数字に、分かっていてもどきりとした。日付と時刻。それ自体には特別意味はない。ただ、過ぎている。あの男が平気で告げた次のそれを大幅に。
    「……」
     一方的な約束を破るのはそれでもかなりの勇気が必要だったが、自分に嘘を吐くこともできなかった。向こうはどうしていたのだろう。まさか来ると思われている筈はないだろうが何も言わなかったことには少し怒っているかもしれない。知りたくはないし、スネークを経由しての連絡もあれからなくなったので確かめる術はないが。
     そういえば愛抱夢ともしばらく顔を合わせていない。あれから何度か誘われたが断った、どんな顔で会えばいいかまだ分からなかった。Sならいいかと思ったらそちらは愛抱夢の方が、都合が付かないらしい。
     退屈かい──問いかける声に首を振る。 
     そういうわけではない場面まで邪魔しに来るこの声は最近の悩みの種だ。刺激が欲しいか、満たされたいか。迎えに行こう──幻聴と呼ぶには声の主も記憶もはっきりとし過ぎていた。
     ついこうして、エンジン音にも敏感になる。 
     通る車の見た目をいちいち確認しては似ていない事に安堵していた、だから思いつかなかった。
    「────」
     引かれた腕。連れられる先は、見たこともない──。
    「──ひ」
     恐れに一瞬動きを止めてしまったのは致命的な失敗だった。逃げ出す隙を与える男ではないと自分は知っていたのに。車内に放り出された身がシートに跳ねる、固くなくてよかったと思う暇はない。
     重い音と共にドアが閉まった。
    「来ないなんて酷いじゃないか」
     エンジンが鳴り世界が過ぎ始める。取れる距離など当然なく、機嫌の良さそうな声はすぐ傍に迫っていた。
    「顔色が良くないね。もしかして来られなかったのは体調のせい?ならやっぱり迎えに来て良かった」
    「……降ろして。今あなたとは──」
     話したくないと言いかけた身体が、強く。
    「────ッ、……!」
    「ほんとうに、ひどい……」
     打ちつけられ衝撃を逃がそうと勝手に転がる、それすら許されなかった。腹に跨った男の手足が動けばあらゆる箇所から抵抗の意思が奪われる。苦しみに喘ぐこちらを視界にいれたうえでそれら全てを無視した男は、それでも柔らかな微笑みを絶やさない。
    「僕は会いたかったし話したかったよ。あれからずっと君を健気に思い続けていた。早く帰りたくて、たまらなくて……ね、帰ろう」
    「かえる……って、どこへ」
    「決まっている。僕らの家だ」
     ごそごそと傍らを漁る。取り出すのは。
    「その前にいつもの準備をしなくちゃ。先にこちらからにしようか」
    「や──」
    「良い子だから目を閉じて。さもないと、うっかり手を滑らせてしまうかもしれない。大切な身体だ。傷つけたくないだろう?」
     拘束具は間違いなく本物だったらしく暴れるどころかいくら力を込めようと手足はろくに動かなかった。体力ばかり無駄に持って行かれるだけだ。ただ当たり前に着けられていた物の恐ろしさをどうして今まで認識できていなかったのか分からない。
    「そんなに怯えなくて大丈夫。僕はどこにも行かないから」
     金属の擦れる音に混じりくすくすと笑う声が聞こえる。このうえなく優しく甘い響きに、こんな状況にありながら僅かでも縋ろうとする心に腹の底から寒気がした。いつからこれに慣らされていたのだろう。 
     
     浮いていた体が丁寧に下ろされる。背中に伝わる柔らかさを知っていた。
    「おかえり」
     あの時も彼はこんな顔をしていたと思う。目隠し用の布を片手に君がここに来てくれて嬉しいとはにかむ表情は何も変わらない。なんておかしな話だろうか。
    「ただいまは?」
    「帰して」
    「帰ってきたじゃないか」
     両手足はそのままに起こされた身体は男の几帳面な手によって更に姿勢を整えられ、何の変哲もない座り姿勢を取らされる。
    「ここで僕達が何をしたか覚えている?君はそんな風に、もう少し緊張していたかな、まあ多少粗くともいいさ。君が思い出せれば」
     手をそっと取られ息を飲んだ。何故か顔を逸らせない、目が合ってしまう。
    「上書きしようね」
    「待って、や、────」
     有無を言わせない口づけは当たり前に深い。何もかも違った、あの時とは。 
     うまくできなかったことすら愛おしかったと今更気づく。胸がぎゅっと詰まり、ただただ苦しい。思い出すべきではなかった。あんなにきれいだったそれが、覚えている景色が全て塗り替わっていく。見たくない、こんな────。 
     ふいに男が笑った。そして唇を離し。
    「そうだ、目を閉じていたんだった」
     違う。そんなつもりじゃない────否定は許されず、与えられる熱に頭が蝕まれる。
     気持ち悪い。舌が熱いから、変な音が耳にまとわりつくから。触られる度体が冷たくなり感覚が鈍っていくから。それら全てがたまらなく嫌なことさえぼやけていく、その恐ろしさにひたすら身悶えうめいた。 
     これは違う。ここはこんな事をする場所ではない。例えいつかする事になっても、その相手は目の前の男ではないはずだ。愛抱夢以外では──。
    「……ん、ぅ、ゔー……っ!」
    「ふふ、可愛くない……」
     人の唇を適当に指で弄びながら、男が言う。
    「おかしいな。どうして喜ばないんだろう」
    「よろこぶわけ」
    「刺激を求めていたのでは?」
    「────」
     喉の奥が引きつる。夢の話だったはずのそれを何故。
    「物足りないと──そう感じていたのだろう。だから叶えた」
     そんなことない、思うのに声が出ない。
    「いいや。君が望んだんだ」
     するりと温かい手が顎にふわりと回された。 
     またひどいことをされる予感で震える唇にやはり近づくと──口づけを、ひとつ。
     それだけであっさり離れた男は次に突如手足の拘束を解き、もうそんな物がなくともどうとでもできると確信した目でこちらを見る。
    「ランガくん。馳河ランガくん。幼い君、何も知らない純真無垢な、可哀そうな僕の恋人」
     瞳に映る自分は何もかも赤く、彼の色に染められていた。
    「どうだろう。初めての非日常は君の心を満たしたかい?」
     一瞬の。記憶もできない──けれど優しく幸せなキスは。
    「──あなたは、だれ」
    「どちらに見える?答えは相応しい舞台で聞かせてもらおうかな。さあ」
     力の入らない体では抵抗もできず、いつかと同じようにこちらを抱きあげた男は奥へ。今まで一度も立ち入らせなかった方へ足を進める。
    「まだ君が見たことのない部屋がある」
    「離して、はなし──」
    「この前連れて来れば良かったね。その方がもっと楽しめた」
    「────」
     扉の先、暗い部屋はリビングに比べがらんとしていたが何のためにあるかはすぐ分かった。
    「分かる?僕と君の部屋だよ。これから少しずつ一緒に作っていこう、二人で」
     唯一主張の激しいベッドに自分を下ろし後々これだって君好みにしても構わないと男は縁を叩く。先が当然あるような言い方を、あまりにも普通の顔で。
    「さて、それじゃあ呼んでもらうとしよう。……ああ、その前にルールを説明しなきゃ」
     ランガくん、と男が名を呼ぶ。声は愛抱夢のそれでも、愛之介のそれのようにも思え──。
     いや。どちらかではないのか。
     声は彼らのものだ。
    「君の願いを叶えてあげたんだ。今度は僕のを、君が叶えてくれないか」
    「ねがい……」
    「君が僕を使いしようとしたのと同じこと。……僕も君で、満たされたい」
     堪えきれないように胸元を握り、はあ、と熱い息を吐く男の口元は、大げさな程笑みの形を。
    「今から君を抱く」
     宣告は、ひどく遠く感じた。
    「怯えているね。嬉しいよ、君のはじめてをまたもらえるみたいだ」
    「…………や、やめよう、ねえ」
    「残念だが決めてしまったんだ。……そんな顔をしないで。君が嫌なことはしないさ。そのために」
     選択肢を用意したんだ。 
     言葉は聞こえても脳を動かせず、せんたくしと繰り返すことしかできないこちらの顔に男が手を伸ばす。
    「呼んで」
    「……どっちを」
    「どちらだろうと。愛されたい方でも適当でも……だが分かるだろう?ベッドで呼ぶ名前なんて、ひとつ」
     自分でさえ分かるほど手つきは明らかにそういった意味を含んでいた。本当に男は自分にそういう事をする気らしい。これが現実とはとても思えない。
    「選ぶと良い。君を抱く男の名前を」
     改めて言葉にされたそれに頭が、熱でもあるかのようにぐらぐらと揺れる。
    「愛之介、とそう呼べば優しくしてあげる。子供みたいに甘やかされてとろとろに溶かされて、極上の快楽を味わえるよ。素敵だと思わない?」
     首筋を感じるかどうかの弱弱しさで触れた指先は、
    「だがもし、もう一つを呼んだなら──その逆」
     じわじわと沈み込むように範囲を広げ、やがて手のひらを首全体に絡みつかせた。
    「君を壊す。僕でなければ嫌だと泣き喚くまで」
     詰まる息。指先に込められた力は、彼の発言が嘘ではない事を嫌になるほど理解させてくる。
    「いやだ。選びたくない」
    「それならそれで構わない。帰してあげられなくなるけれど、君がそう望むなら」
    「…………っ、う」
     視界の下側が僅かににじみ、鼻をつく熱。
    「泣いて良いよ」
     言う通りにしたつもりはない。だが気付けば頬は濡れていた。
    「そんなに構えないで大丈夫、呼ぶだけじゃないか」
    「……」
    「本心でなくてもいい。辛いのは嫌だろう?」
    「やだ……」
    「決まりだね。さあ呼んで。……二人、知らない世界に行こう」
    「…………!」
     それは、その言葉は。 
     恐る恐る開いた口は短い呼吸を繰り返す。うるさすぎる心臓。これより大きい声が出せるかどうか。 
     瞬きさえできない目の中で男は絶えず笑っている。名前を呼ぶのを待っている。
     この選択をきっと後悔するだろう。それでもその言葉は彼の物だ。自分が取った手は。自分は。
    「愛抱夢──!」
    「…………は、はは。はははは!」
    「……づっ、ぐ、……」
     両手首が男に掴まれベッドに押さえ付けられた。
     折れそうなほどの衝撃と痛みを、歯を食いしばり耐える。これから間違いなくこれ以上が待っている。
     だが負けるものか──覚悟を決めた心へふいに音が。 
     散々笑った男が零したそれはぞっとするような艶をまとい、
    「完璧だ」
     こちらの心を一瞬で、理解できない恐怖と困惑の底に突き落とした。 
     何の話だろう。目的は、呼ばせることは出来なかったのに、何故そんな顔をしているのだろう。
     服の内に手が入りわずかに動く。それだけで全身がぞくりと、感じたことのない何かに支配される。今まで加減されていたのだろうか、まさかそんな。 
     急速に何もかもが分からなくなり、覚悟も消えた。心はただこわいと泣く。どうして、何で。
    「君にして良かったな……愛してるよ僕の」
    「やめて、愛抱夢、たすけて」
    「助けてあげよう。君の欲しい物も望むことも全部あげる、だから」
     じりじりと近づく予感。 
     今から自分はこれに全て奪われるのかもしれない。
    「僕のせいだけで、幸せになったり──絶望したりしてくれよ」
     口が開いた。ああ、食われる。 
     
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