毒は熱食み 驚いたな。それが現状抱くのに不適切な感想であると理解したうえでランガはそう思うことを特に止めなかった。
目の前の、ランガの手をきつく握る今日はじめて言葉を交わした名前も知らない誰かが言うにはランガは騙されていて一刻も早く助け出してもらう必要があるらしい。ランガ自身は騙されている気はなく当然助けも欲していないがこうも熱心に言ってくるのだ。淀んだ目には何かしらの根拠が見えているのだろう。誤解と伝えたところで理解してくれそうもない。しかたなしに口を開く。できることなら『これ』は選びたくなかったけど。
「俺はまだそんなふうには思えない」
真っ直ぐ目を合わせることで相手を止めながら慎重に手を動かし、
「でももし、あなたが言うように俺が騙されていて誰かに助け出してもらわなきゃいけないなら……」
握られたままだった手をそっと握り返して小さな声で問いかけた。
「助けてくれる?」
しきりに頷き必ず助けると一方的に誓ってまでみせる相手にランガは微笑みかけるともう一度手を強く握ったのち離す。するとそれを合図のように相手の手も離れ相手そのものもたちまち何処かへ去って行った。
軽く赤くなった甲を揺らしながらため息をはく。魔法のようだ。一人では今の数倍時間をかけてもどうにもできなかっただろう他者と実にすんなり別れられてしまった。ランガがしたことといえば事前に言われていた通り動き話した、それだけだというのに。こわくないと言えば嘘になる。けど助けられたのは紛れもない事実だから。
「ありがとう。愛抱夢」
死角から伸びた影を踏みつけ現れた愛抱夢は「どういたしまして」とランガへ向けささやかに笑った。
「なんてね。気にしないで。『やりかた』を教えたのは君のためではないし、それにどちらかといえば今礼を言うべきは僕の方だろう」
「ってことはあれで良かったの?」
「良いなんてものじゃない。完璧だよ」
簡単に振りほどける力加減で取られた手の甲に愛抱夢の唇が触れる。
「僕のスノー、君に感謝を。これでより一層楽しいビーフが出来そうだ」
先程ランガに接触してきた相手。彼は近く愛抱夢とのビーフを控えたプレーヤーだった。自他に左右されない対応力とそつのない滑りが評判だが、おそらく愛抱夢とのビーフにおいてそれらが十全に発揮されることはないだろうと、愛抱夢について語る彼の表情を思い出しながらランガは確信していた。
「でも意外。あの人はそんな感じに見えなかったのに」
「遠くから眺めただけではわからないものもあるさ。人の本質とかね」
「愛抱夢はわかってたんだろ?どうして?」
「それはほら、僕って特別だから」
指で作られた円の中から赤い瞳がぎょろりと覗く。
「見えちゃうんだよ。隠したいものも、僕以外には見えないものも……」
その内こんなことを言われるからそしたら君はこうするようにと聞かされたのはほんの数日前のことだ。場面が場面だったのでひどく困惑したし今すぐその体を押し除けてベッドから下りてもいいかと尋ねかけたが結局ランガは大人しく愛抱夢の発言を頭に入れた。
S前に指示されることは珍しくない。それをせざるを得ない状況に追い込まれることも。
ある時は愛抱夢に寄り添ってみせ、ある時はただじっと目を見つめ続けた。一言教えられた通り何でもない言葉を告げたこともある。どれも効果は信じられないほど出た。
「愛抱夢」
「なんだい」
「あの人、どれくらい変わるかな」
問いに愛抱夢がにんまりと笑う。
「そっか」
己が何に加担しているか気付けないほどランガは子供ではない。しかしその鼓動は罪の意識に冷えることなく待ち受ける未来に高鳴っていた。早く見たい。愛抱夢と、変わったあの人のビーフ。何が起きようとそれは必ず、今まであの人のスケートを見たどの時よりも遥かに高い温度でランガの心を熱くしてくれる。
もし愛抱夢の目的が対戦相手の弱体化にあれば、あるいは二人の行いが原因で対戦相手が敗北したならばランガは己を決して許さず何があろうと二度と愛抱夢に協力もしないだろう。彼らが新たな狂気を坂の上でさらけ出さないなら、ランガがそうすることに意味はないのだから。
みにくい理由とそれを手放せないみにくい己をランガは知っている。愛抱夢もその目でみにくいランガのことを見ているに違いない。だからこそ二人の共犯関係は成り立っているのだ。
「よかったね。愛抱夢」
「君もね」
「わかる?」
片目を閉じてみせる愛抱夢にランガはくすりと笑って小さくこぼした。
「楽しみ」
頬に触れた手は冷たい。委ねるように顔を上げれば見える、赤い瞳の奥ちりちりと燃える炎。自分でさせておいてそんな顔をするなんてわがままな人だと思いながらランガはひそかに背筋を震わせた。さてこの熱をどう来たるべき日まで持たせようか。こればかりは愛抱夢に教わるわけにもいかない。