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    はるのぶ

    なにかをかきます

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    美大生パロ、かきかけ

    #晃薫

    ビー玉と真葛初めて彼をみた時、思わず涙がこぼれてしまったというくらいには彼の存在はあまりに衝撃的で、言葉に表せないほどだった。
     俺が美大に入って初めてのデッサン授業を受けた時のことである。
     それまで生身の人間を見ながら描くということをほとんどせず、というか興味もなく、ただペットボトルだの丸太だのを何時間もかけて描いていた俺は、最初の授業で人間を描くと聞き、心底落胆した。描けないというわけではない。だけど人間は動くし、話すのだ。以前、知人にモデルを頼んだことがあるが、1時間そこらで仕上げないと腕が痛いだ、喉が乾いただと喚き、モデルの仕事をしなくなる。本当に面倒で、以来必要な時以外には人間は描きたくないし描かない。それに俺が描きたい表現ができる人間なんてこの世に1人しかいないと思っていたから、その人以外をモデルに絵を描くなんて考えられなかったし、それを想像するだけで自分のプライドがぽっきり折られるようなショックを受けた。
     授業だから仕方のないことだったんだ。俺はまだ入学したての一年生で、右も左もわからずこの授業をサボってしまったら単位が出ないのかもしれない。お金もそんなにないのに無理にでも大学に通わせてくれている親に、学校の授業をサボり、はては留年なんて絶対にできない。
     しょうがない、しょうがないと嘆きながらいたところに、彼は教室へ入ってきた。
    「彫刻4年の羽風です、お願いします」
     瞳をゆっくり細めて笑うその顔が、そう、美しかったんだ。
     そして俺は、その教室で彼のデッサンをしながら号泣をしたわけだ。

    「大丈夫?」
     講義が終わり、放心状態でキャンバスの前に座っている俺に向かって、羽風と名乗ったその男は言った。手には綺麗に折り畳まれたハンカチを持っている。
    「涙止まんない?」
     小首を傾げながら、持っていたそれで俺の頬を拭う。後からあとから流れるそれを器用に吸い込ませていく。「急に泣き出したからびっくりしちゃった」
     その人のことを俺は見ることができないでいた。キャンバスに描いた歪な形のデッサンを眺めながら、自分の手からこんなものが生み出されるなんて、と肩を落としていた。だからこそ彼が座っていたところとキャンバスを交互に見合いながら、鉛筆を動かしている。
    「君、名前教えてよ。あと、こっちみて?」
    「…」
    「え、っと…おお、おおかみくん?おおかみ、おおがみくん?…こう、がくん」
     俺の手元にある出席票を見ながら、たどたどしくなぞる。
    「おおがみ、こうが」
     俺が手元から目を離さずにそう返事する。表情を見ることはできなかったがその後の声色が明るいものになったから、ああこの人は今笑っているのだと思った。
    「大神くんね、ねえこっち向いてよ。拭きづらい」
     教室には俺とこの人しかいない。しんと静まり返った場所に、声と鉛筆の音が反響する。「…ほっといてくれ」
    「いや俺だって男の世話はごめんだけど、なんていうかびっくりして…俺のこと見て泣く子がいるなんて、気になったんだ」
     それだけ、とハンカチを俺の指に握らせるとそのままその人は教室から出て行った。扉が閉まる音がしたあと、俺はやっぱり涙を止めることができなったし、キャンバスに走らせる鉛筆の手を止めることもできなかった。

     ちゃぷん、と小さな雫が天井から落ちた気がした。2人しかいない大きな浴槽がその小さな一粒を飲み込んだ音だ。
    「恋だね」
    「ちがう」
     普段は見せたがない真っ白な肌を赤く染めて、ふうと息を吐いた後、朔間凛月はそう言った。
    「コーギーが恋なんて、かわいい〜」
    「違ぇって」
    「照れなくていいのに」
     結局ぐちゃぐちゃのキャンバスと鉛筆の戦いに幕を下ろしたのは、凛月からの「早くお風呂行こ」というメッセージだった。
     大学に入ると同時に一人暮らしを始める決意をしたが、早い段階で近辺の安い賃貸は軒並み満室になっており、途方に暮れていたところで、大きな和室がある小さなアパートを見つけた。隣の家に高齢の大家が住んでいて、住人は近隣の大学で文学を学んでいる凛月だけだった。
     好きな食べ物や小説、歌が似ていたこともあってすぐに打ち解け、よく一緒にご飯を食べたり近くの銭湯へ行く仲になった。
    「どんなひとなの?」
    「…どんなって?」
    「たとえば、綺麗な人とか声が低くて素敵なとか、天使みたいな人とか、子供をあやすのが得意そうとか」
     凛月があげた言葉にあの人を当てはめてみたけれど、それはどれも居心地が悪そうにしている。「どれも違う」
    「じゃあどんなひと?」
    「…もう会いたくない」
     あの人を見たらすぐにわかる。まるで魔法のような引力の持った人。だけどすぐにほろほろと崩れて実態は掴めないような、風のようなひと。
    「会いたくないかぁ」
     凛月は真っ赤な顔で天井を見上げて、瞳を閉じる。うん、とひとつ頷く。
    「それはやっぱり恋だよ」
     ポタ、と天井からの雫を頬にうけて、つめたぁ、とにやけた。

     後に知ったことだが、羽風という男は、羽風薫という名前で、この学校なら知らない人はいないというほど有名人だった。
     容姿端麗、才色兼備、文武両道、例えばそんな四字熟語を当てはめても、結局彼を形容する言葉はどこにもないほどに、完璧な人間と言われていた。
     どこにでもいる大学生のようで、時々教授を唸らせるような作品を作る。ちゃっかり卒業に必要な単位を取り終えて、特有のどこか旅行に出かけたと思ったら、教室でひたすら彫刻刀をもち淡々と作品と格闘しているような男。そう言うどこも掴めないところで、あるいは自分のものになりそうなスリルを味わいたい人間、つまりこの学校にいる人間をほとんど虜にしてきたのである。自分が関わった関わらない関係なしに。
    「俺のこと、どう思っている?」
     ズカズカと俺の陣地を荒らしにくるくせに、羽風薫は全く自分のことを語ろうとはしなかった。
    「晃牙くんはどこに住んでるの?近く?」
     本当は来たくなかった。油画は周りの人間に興味がなくて、ただひたすら絵だけ書いてる人しかいないと聞いていたから、こうして学科の飲み会があるなんて知らなかったし来る気はなかった。
     羽風薫が来ると言われたところでその決意は揺るがないものだった。だって今日は凛月と一緒に近くの定食屋に行く日だと決めていたしその日を2人で楽しみにしていた。アルバイトの安給料が手に入って、中から肉汁が溢れる鳥唐揚げを食べながら、おかわり無料のご飯を腹一杯に食べる予定だった。
     凛月が熱を出した。身体が弱く、高校生に上がるまで友達という友達と外で遊んだこともないと言って、ずっと家で本や漫画を読んでいたらしい。大学でほとんど家出のようにここで暮らすようになってから、そこまで過保護にならなくても人間は丈夫であると知ったが、それでも風邪を引くときは引く。
    「行っておいでよ、羽風薫も来るんでしょ?」
     彼の一言で、渋々、本当に渋々、俺はその飲み会に参加することにした。
    「ねえこれあげる」
     そしてこのザマである。
     なぜ油画の一年の飲み会にこの男がいるのかは不思議で仕方ないが、俺の横にどかりと座った羽風薫は細くて長い指で器用に瓶をつまむとそれを俺の前に置いた。
    「なんだこれ」
    「お子ちゃまはお酒だめだから」
    「…ラムネ、好きじゃない」
    「このビー玉って取れないのかな〜」
     羽風薫は俺の話など無視して、瓶を開けると空になっているコップに注いだ。炭酸飲料のパチパチとした音がコップに跳ね返る。カラン、とビー玉が揺れた音がするが中からそれが出てくる気配はない。
    「う〜ん、エー玉だったね」
    「エー玉?」
    「そう、ラムネのね、この瓶にちゃんと入って抜けないのがA級品っていう意味で、エー玉って呼ばれてて、その規格外のものとか不良品とかがビー玉っていうんだよ」
     ビー玉探してるんだ、と羽風薫は悪戯っ子のように笑った。「晃牙くんも見つけたら俺にちょーだい」
    「貰ってどうすんの」
    「探すの、ビー玉でも光り輝く場所を」
    「なんだそれ」
    「俺、ビー玉なの」
     酒を飲んで顔が熱っているその瞳が、ゆらりと俺のまっすぐ見つめる。「意味わかる?」
     子供の時、誰かにわかって欲しい感情があった。言葉にできなくてもどかしくてそれでも認めてほしくて、一生懸命伝えたけどダメだった。諦めて、自分の中の深い深い海底へ沈めてしまったもの。それを引っ張り上げる体力も気力も今はなくなってしまった。
    「…知らねえ〜」
     俺がわざとらしく視線を逸らす。パチパチと弾けるサイダーを手に取って口にした。甘ったるくて、下に触れた瞬間にすぐコップをテーブルに戻してしまった。
    「そっか」
     返事はふわりと羽のように舞っていく。多分求めているものじゃなかった。
    「羽風先輩!こっちで飲みましょ〜!」
    「いいよ〜じゃあまたあとでね」
     あとで、と言ったけど羽風薫がそれから俺の隣に来ることはなかったし、俺はすぐに凛月の様子が心配になって飲み会をこっそり抜けた。居心地の悪いのみの席だと思ったのに、なんだか羽風薫の隣というのは悪い場所じゃなかった。
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