ニア エンドロール「ルチル、教えてほしいことがあるんですけど」
そう賢者様が言ったのは、ちょうどお昼も過ぎて午後の授業が終わったあと。ゆっくり1人で木陰で本を読んでいるとき。
この世界のことのことを賢者様はよく知りたがった。自分の元いた世界に持ち帰ることは出来なことを知っているのに、この世界に少しでも馴染ませるようにと。それは願いにも似たものだった。
私たちと同じ世界で生きていたいという願い。
「はい、なんでも」
「手紙を書こうと思ったんです。それで、俺がわからない文字とか間違いがあれば教えてほしくて」
私が快く許したことに安心した顔で、隣へ座る。
「それはいいですね、誰かに出すんですか?」
手紙とは、誰かに渡すものだ。そうして心をどこかに置いておく。
「はい、ネロに渡そうと思って」
「そうですか。きっとネロさんも喜びますよ」
ネロさんと賢者様の仲を表現するのも適切な言葉をまだ私は見つけられていない。もしかすると恋人かもしれないし、それは友人という名前をつける方がしっくりくるかもしれない。それでも、そんな枠に収まらない関係だと思った。2人がこうしてゆっくりを自分たちの距離を近づいていくことを自分たちが許していることが、何よりの証拠だ。
「でも、どうして急に?」
「…なんだか予感がするんです」
「予感?」
「強い魔法使いが自分の死期がわかるように、僕も自分の残り時間がわかるみたいで」
もうすぐ、と言いかけてそれが本当になってしまうことを恐れているようだった。続きを聞かなくてもわかっている。誰もが知っているけど、目を瞑っていること。
「俺自身は、なんて言うか着の身着のままこっちに来たので、行く時も何も持てないと思うんです。みんなからもらった何もかもを。だけど、俺が渡したものはもしかしたら俺がいなくなった後でもそこにあるのかもしないと思って」
賢者様の気持ちは痛いほどわかった。大切な人を失うとわかっているのに、それを手放しで身を任せることはできない。もし自分に何かできることがあるなら、できうる限りのことをしたい。
自分がいなくなったことを想像する。何気ない生活の中で彼の姿を探すその人を、その大きな背中が彼の瞳にはどう映っているのだろうか。
「中身は決まっていますか?」
「はい。でも、まだどんな言葉で伝えるか決めていなくて」
賢者様の手元には何枚にも重なった紙が握られていた。どれもこれも彼の愛用のペンでよく書き込まれている。書き続けて、わからなくなって、何度もそれを繰り返したのだろう。
「そもそもネロは俺からどんな言葉を欲しいのかわからなくて」
「賢者様が伝えたいことを書けばいいんですよ。きっとネロさんもそれを望んでいるはずですから」
手紙になり損ねたそれをくしゃりとした彼のことを、愛おしく思えた。抱きしめて仕舞えば彼のことを子供扱いしていると思われるだろうか。
「賢者様がネロさんに伝えたい言葉はありますか?」
「…たくさん。本当は口で話した方は早いと思ったんです。だけど、俺はいつかこの世界からいなくなるから。そうしたら、俺のことを全部全部忘れてしまうから」
彼は笑った。「それはとても悲しいことでしょう」
「だから手紙を書くのですね」
「…いつか思い出してくれたらいいな、なんて。それはただの俺のエゴなんですけど」
それは紛れもない願いだった。叶うことがないと知っていても、願わずにはいられない。
彼の手をそっと私の手で包み込む。「馬鹿だと思います、できないことだと知っています」
「だけど願うことは自由でしょう」
「もちろんです。賢者様もネロさんも」
「手紙は残るといいなぁ」
中身はなんでもいいと思った。彼の想いはもう充分ネロさんに伝わっている。そうして、ネロさんの願いもきっと彼に伝わっている。
お別れは、近い。それでもまだ、まだ終わらないで欲しいと、そう願ってしまうことは何も間違いではない。私もきっと、同じように願ってしまうから。