寒い季節は「そういえば、こたつを出したぞ」
何気なく、聞き逃しなそうなほど些細な世間話を装う。それがお決まりの誘い文句だった。
長年独居する自宅の玄関に肩に荷を下げた青年がのっそりとした動作で潜り入るのを土方は愉快な気持ちで迎えた。
「ふむ、来たな」
そう頷いた土方が上がれと促すと青年はむ、だかん、だか、あやふやな声を漏らした。そしてわずかに顎を引いて目を伏せる。吊り下げ照明の灯りがそれを照らし、白い頬に長い睫毛の影が落ちた。
「また、しばらく世話になる」
「ああ」
ささやかすぎる叩頭と裏腹な律儀な挨拶に土方は苦笑を噛み殺して再度頷いた。
それを認めた青年は、ほんの一瞬息を止めたように土方には見えた。それを照らしふうっと鋭く吐き出して、またのっそりした動作で靴を脱ぎ出した。框をふんでそこを上がるとそろりと身を屈め振り向き、脱いだばかりの靴を手早にそろえてまたこちらに向き直った。そうして肩の荷とは別に手に下げていた包みをのそりと掲げたかと思うと、土方の方にぐいと突き出してみせる
「これ。いつものだけど」
「おお、ありがたい」
青年の手の包みを土方は遠慮なく受け取った。開いた口から覗く中身はとある店の漬物で、土方の好物だ。これも毎度のやり取りで、青年はこうしていつも律儀に手土産を持ってやってくるのだった。
いつもすまんなと言う土方に別に、こっちの台詞だろと返す青年の声も口調もむすりとしている。むっと弾き結ばれた口に顎髭と両頬の傷までぎゅうと引っ張られているのは正に無愛想の極みというところだが、それが照れ隠しだというのはとっくにわかっている。その様子に土方は密かに口角を上げた。
「うん。飯の時にまた一緒に食おうじゃないか、なぁ。ああ、うむ。よく来たな、尾形。待っていたぞ」
「……ん」
目を逸らしたまま、青年はやはりむすりとした声で小さく頷いた。
通いの家政婦が晩の食事に用意しておいてくれたのは、こたつで囲むのにお誂え向けの鍋だった。この時期しか使わない大きな土鍋に琥珀色の出汁をぐつぐつに煮立て、そこに海老や鱈の切り身、そして季節の野菜をどしどし放りこんだ鍋をやってきたばかりの客の青年はー尾形は、もぐもぐぱくぱくとよく食べた。
彼が締めの雑炊を啜っている横で別に取り分けてよそっておいた白飯を薄く切った梔子色の沢庵を宛に喰んではうまいうまいと喜ぶ土方をふふんと笑ってみていた。
若者のわりに意外と古い感性で、家主より先に風呂には入れんなどと尾形がいうので風呂はいつも土方が先に入る。尻まで深々とこたつに潜り込む尾形にお前そのまま寝るなよと釘を刺した時は寝やしねぇよと鬱陶しげな声で返事をしたのに、濡れ髪の土方が居間に戻ってくると案の定うとうとと船を漕いでいる。土方は呆れ、伸ばした指でその頭頂をクンとつついてやった。
「こいつ、寝るなと言ったのに。起きないか、こら。これ、百之助」
「んー……」
聞こえているのかいないのか、はきとせぬ声が間延びして聞こえてくる。こいつめと尚更につついてやっても抵抗もせず、その太い眉をせつなげに下がるだけで土方の指にされるがまま尾形の首はぐらんぐらんと揺れ動く。んう、むうんとむずかるような声までして、全く罪がない。
「これ、百、百之助や。おぅい」
土方は飽きずにその項をつつきながら尚も呼びかける。
尾形が冬の季節を土方と共に過ごすようになってどのくらいになるだろうか。始まりはもう随分と前のことに思える。
今のわりない仲となるその直前の、二人が互いにふわふわと落ち着かぬ微妙な距離を保っていた頃のことだ。
炬燵を買ったから泊まりに来いと言った時。尾形はからだの動きを止め、探るような目で土方の顔をじっとみつめた。それに自分はにこりと笑んで返してみせたのを土方は覚えている。
初めはほんの数日。さらに誘って次は一週間、二週間。その次の年はひと月。そのまた次は三ヶ月と、尾形の滞在は季節がめぐるごと徐々に伸びていった。
最初はひと抱えもある大きなボストンバックいっぱいに詰め込まれていた荷物もその度に少しずつ減った。
今では土方への小さな手土産、そして部屋の隅に放りつけられた小ぶりのショルダーバッグがひとつきり。それが尾形の荷物の全てだった。
土方の指の先の尾形はなかなか起ききらず、ぐずるような声と顔でぐらんぐらんと揺れている。
それを見つめる土方の口元には、自分でそうと気付かぬうちに笑みが浮かんでいた。
この先のいつか。あの玄関の戸を潜る尾形の言うことが訪いの言葉から“ただいま”に変わるその瞬間を夢想して。土方はにんまりと笑む。
指先の恋人は、まだ起きない。