メタアザ 帰還 300年ぶりに故郷の土を踏む……己の自由と引き換えに。
ここを出る前の俺では考えられないことだ。誰を犠牲にしても…例え目の前の人間を見殺しにしてでも帰りたくないと思っていた。あの日、力強く輝く赤に当てられて感情的になったのかもしれない。
「戻ってきてくれて嬉しいよ…無事で良かった」
そう言って俺の視界を塞ぐのは、つい数日前に別れた瞳とは違う赤。誰よりも追いかけ続けてきたその色に、俺は懐かしさを覚える。
頼むからこちらを見ないでほしい。眩し過ぎるんだ。今の俺には…
「……」
俺が何も言えないでいると、メタトロンについてくるよう促される。この道順だと…間違いない、向かっているのは俺の部屋だ。
中に通される。長年過ごした自室は当時と変わらないように見えた。掃除でもしておいてくれたんだろう。床には塵ひとつ見当たらない。てっきり司法区の最新部で鎖に繋がれるのだろうと思っていた俺は面食らった。
「部屋の場所でも間違えたんじゃねぇか?確認してこいよ。逃げないから」
久々に会えたというのに、最初に口をついて出るのがこんな言葉とは。つくづく自分が嫌になる。
「いや、ここで良いんだ。もちろん、無罪放免というわけにはいかないが…」
お前には元の生活に戻ってもらう…そう言われた。
意味がわからなかった。あれだけの事件を引き起こした割にはかなりの厚待遇だ。しかし今の俺にとっては、監獄の中で暮らすも当然…むしろそちらのほうがありがたかった。
「それはまた何とも寛大な処置だな。お優しいこった」
皮肉を込めて言ったつもりだったが、メタトロンは目を細めて微笑むだけだ。俺が何を考えているのかまで見透かすような視線を感じる。
昔からこうだった。こいつはいつもそうだ。人の心を読めてしまうのではないかと錯覚するほど、こちらの考えを全て見通しているように感じる時がある。それが少し不気味で苦手だった。
「それで?お前は何を要求するつもりなんだ?」
「……どういうことだ?」
「今まで通り過ごさせてやるなんて甘い考えならお門違いだって話だよ」
「そんなことは思っていない。お前は確かに罪を犯した。けれど今回の件に関しては不可抗力と言っても良いだろう。落ち度は無いに等しいはずだ」
「だから…そうじゃなくて…っ!」
あぁ駄目だ。苛々する。俺はどうしてこんなことをしているんだろうか。もう終わらせてしまいたい。こんな生ぬるくて穏やかな日常を過ごすことなど、自分には到底許されないのだ。
「何で…何でこうなるんだよ。もう終わりにしてくれると思って戻ってきたのに…!」
机を思い切り叩く。机上の物が全て倒れ、音を立てて散らばった。
「結局俺達は堕ちていくしかないのか!?世界は俺達みたいなクズには優しくなんかしてくれねぇんだよ!」
怒りに任せて叫ぶ。俺は今どんな顔をしているのだろうか。自分を抑えることができず、半ば泣きながら喚いていた。
「すまない…私は、お前のことをわかった気でいたんだな…」
違う、謝ってほしいわけじゃない。何か別の言葉を期待していたわけではないはずなのに、どうしても心が満たされることはなかった。
「俺は戻りたくなかったんだ!こんなところにいたら頭がおかしくなっちまう。だから出てったんだよ!誰も信じられなくなりそうだった…自分すらも…っ」
彼は目を丸くする。
「どうしたらいいのかわかんねぇんだよ…もう、何も……」
そう言って床に座り込む。自分の身を守るかのように頭を両腕で抱え込み、縮こまることしかできなかった。
「…気を遣ってくれたのには感謝するぜ。でも、俺はここにいちゃいけないんだ。わかるだろ…?」
しばらく沈黙が流れる。顔を上げることすら怖かった。拒絶されたのかもしれないと思うと。恐る恐る目線を上げれば、あいつは俺に近づいてくる所だった。
何をされるのかと身構えたが、ただ俺の目の前に立っただけだった。その表情は悲しげに見える。瞳は弱々しい炎のようだ。
何故そんな顔をするのだろうと思った時には遅かった。俺の肩に手が置かれる感触があったからだ。
「大丈夫だ……お前は一人じゃない。私がずっと側にいる」
思わず耳を疑ってしまった。あまりにも都合の良い言葉。俺の思い描いた、いやそれ以上の言葉で返され、困惑した。しかも彼の声が心地よく聞こえる。
「そうすれば少なくとも、お前は壊されたりしないから」
違う、違うんだ。俺が出ていったのも、今俺がこうなっているのも、全部…ぜんぶお前のせいじゃないか。
それなのに、なんでお前がそんなことを言うんだ。
「……俺は、お前のことが憎くて仕方なかった」
いつの間にか手に力が込められていた。拳を作る。
「俺は……お前が…………っ」
言葉が出てこない。俺の心の中に溜まった苦しみはどんどん膨れ上がっていく。
彼へ向ける感情が一体何なのか、もはやわからなくなってしまっていた。
視界が滲む。泣いているのだと気づくのに時間はかからなかった。いくら拭っても溢れ出してくる涙に、俺はとうとう嗚咽を漏らしてしまう。
「もう、全部終わりにしてくれよ…!頼むから……」
「アザゼル……」
ああ、今までどれほど彼の言葉に助けられてきただろう。だがそれも、今となっては胸が苦しくなるだけだ。その甘い低音を聞くだけで、体中が熱くなってしまう。
絶対に悟られるわけにはいかない。こいつにだけは…
彼を押し退け、その場から離れようとするも、右手を捕まれる。
「やめろ……もう……放っておいてくれ!」
力の差がありすぎる。振りほどけない。これ以上彼と話をしていると、壊れてしまう気がした。
「放っておけるか!目の前で一番大切な人が泣いているというのに…!」
どうしてそこまでしようとするのか理解できなかった。俺は慰めてほしいとでも願っているのか?
それとも、言ってほしいのか?あの言葉を…
「お前の苦しみを知っていながら、私は何もしてやることができなかった……自分が不甲斐なくて悔しい。お前にとっては、それがきっと一番良かったのかもしれない。だがこのままにしておけば、取り返しのつかないことになる」
だからなんだというのだ。それはあんたのエゴにすぎない。俺は……
「私は、お前を愛している」
呼吸をするのを忘れていた。心臓の動きさえも忘れてしまいそうになるくらいに。
グイ、と引き寄せられ、身体と身体が密着する。暖かい。服の上からでも、鍛え上げられた胸板が感じられる。
「初めて会った時から。気がついたら、こんなにも惹かれていて……私の心の中心には、ずっとお前がいたんだな」
俺は……夢を見ているのではないかと思った。
切なく震える声に、息が詰まる。
見上げれば、真っ直ぐに俺を見つめる双眼があった。
嘘は言っていない。そう思った。
ああ、綺麗だな…
顔に熱が上ってくるのを感じる。
彼は無情にも俺の様子の変化に気付いた。そりゃそうだ。こいつは昔から、俺のことなんて何でもお見通しだからな。
そっと頬に手が添えられる。触れられたところが火傷してしまいそうなほど熱を持つ。愛おしくて仕方がないというような目を向けられた。
こんな風に誰かから見つめられたのは一度や二度じゃない…地上に潜伏するには、魔法を使わないことが第一条件だ。
俺は帰りたくない一心で人々に媚を売り、愛想を振り撒き続けた。嫌な思い出が蘇り、思わず目をそらしてしまう。
「…どうしたんだ?」
「俺は、もうお前が知ってる俺じゃない。あの頃の、何も知らず無駄な希望に浮かされていた俺はいないんだ。もう、どこにも…」
ふわりと温かい手が背中に触れた。
「ここにいるだろう?それに、お前は何も変わっていない。誰よりも勇敢で、真っ直ぐで。だから…帰ってきたんだろう?」
こつんと額同士がくっつく。目の前に広がる赤い瞳からは慈しみが伝わってきた。
あぁ、どうして赤い瞳の持ち主は揃いも揃って俺を惹き付けるのだろう。羨ましかったのかもしれない。ヴァレスも、シュナイトも…
心ここにあらずといった様子の俺を見て、メタトロンの瞳には嫉妬の炎がちらつく。
長年一緒に過ごしていた仲だ。俺にだって、彼の変化ぐらいはわかる。その手つきは優しいのに、今すぐにでも食い殺さん勢いの目線で射抜かれる。
かつての模擬戦を思い出した。彼にしてみれば、俺を殺すことなど容易いのだ。
「そんなに大切に思っていたんだな……彼らを」
でなければ、俺は今ここにはいない。そう答える代わりに目を伏せる。
「……っ、そうか」
もはや感情を隠そうともしない。何故そんなに悔しそうなんだ?
何故…
俺を壁に押し付けているんだ?
顔の横にある腕からミシミシという音がする。痛くて身を捩るがびくりとも動かない。
「何を……ッ!?︎ぐっ」
痛みと恐怖で身体が震え出しそうになる。
「ずっと会いたかった。てっきり私のために帰ってきてくれたのかと思っていた…でも、お前は…」
腕の痛みが増す。小さく悲鳴が漏れた。
「…そんなに自信があったんだな。良い気分だろう?やっと俺を独り占めできてさ」
痛みに耐え、歯がガチガチ鳴りそうになるのを抑えて軽口を叩く。
そうでもしなければ、何かが崩れてしまうような気がしたからだ。
「…………っ!いい加減にしろ!お前が人間と契約したと聞いたとき、気が気じゃなかった。よりにもよってあんな男と…」
また腕に力が入る。息ができないほどの苦痛が全身を襲う。
「それもあいつに仕込まれたのか?オレがどんな気持ちだったかも知らないで…!」
口調を変えてまで感情を露にする彼。ここまで怒っているのは始めて見た。
「なんの、話だ……?」
苦しさに意識が遠のきかける中、彼が怒りをあらわにした理由を探す。
「……もういい。わからないなら、それで良い」
腕への圧迫感が減った、と思ったもつかの間、激しく燃え盛る赤色が眼前に迫る。俺は思わず目を瞑った。彼の吐息がかかる度に心臓が跳ね上がる。
唇に何かが触れた。彼がしようとしていることを理解するのに、時間はかからなかった。