キスの日 手を繋ぐのすら、いっぱいいっぱいなのに。
目の前の相手は真剣だ。
俺はこれ以上後ずされないと観念し、壁に体重を預けながら、おそるおそる顔を上げる。
顔を真っ赤にしたアイツは、俺の頬に手を添えると、ゆっくりと顔を近付けてきた。
「キスの日?」
「ああ。キスシーンのある映画を日本で最初に上映した日らしい」
円城寺さんは、ぜったい面白がっている。
俺と、俺の隣に座るアイツがわたわたするのをカウンター越しに見るのが、近頃のこの人の趣味なのだ。
「なっ、……そーかよ」
わかりやすく動揺するアイツの横で、俺はなんとか態度に出さないよう、ラーメンを啜る。
キスなんて。
手を繋ぐのすら、いっぱいいっぱいなのに。
「オイ。……腕、当たってる」
「そっちが当ててんだろバーカ!」
アイツは両利きなんだから、反対の手で食えばいいのに。俺の左腕とアイツの右腕がカウンターの上で攻防戦を繰り広げる。
「ははは、今日もお熱いなあ」
「円城寺さん!!」
「やめろバーカ!!」
声のハモリに、顔が熱くなる。こんな関係になってから、円城寺さんには全てお見通しだ。
帰り道。アイツは当たり前のように俺の家に向かう。もう、これもお決まりだった。男道らーめんで昼飯を食った後は、俺の家に行く。だからと言って、何かするわけでもない。セリフを覚えたり昼寝したりゲームしたり、会話がないことだってある。それでもそのひとときは、俺たちにとって特別なものになっていた。
「……なあ」
「何だ」
「チビは、その……してーかよ」
「何をだ」
「言わなくたってわかってんだろ!」
ソワソワを肩を揺らしながら、手をポケットに入れたり出したりしている。わかりやすい緊張は、俺にまで伝わってきて、さっきから鼓動がうるさい。耳が爆発しそうだ。
「……キス、か」
「……らーめん屋があんなこと言うからだ」
「……何の映画か、聞いておけばよかったな」
「はぐらかすんじゃねー」
ドアを開けて、鍵を閉めて。逃げるように部屋の奥へ行けば、追いかけるように付いてくる。
アイツはそのまま俺にどんどん近づいて、ついには壁際まで追い詰められた。俺の動悸が壁にまで浸透してそうな錯覚に陥る。うるさい、うるさい、期待してるのがアイツにバレちまう。
手を繋ぐのすら、いっぱいいっぱいなのに。
おそるおそる顔を上げると、アイツの顔が真っ赤に染まっていた。きっと俺も真っ赤だろう。茹でダコが二人、無言で固まっている。アイツの微かな呼吸が少し荒かった。
「……チビ」
俺の頬に手を添え、長いまつ毛を羽ばたかせる。
こんなに真剣な顔、こんな距離で見たことない。
俺の鼓動はこれ以上ないほど高鳴って、彼の右手の上に添えた左手が少し震えていた。
アイツがごくりと喉を鳴らすのがわかった。釣られて俺も唾を飲む。そっと瞳を閉じた。キスってそうするものだと思ったから。
アイツの熱がゆっくり近づいてくる。沸騰しそうだった。そのまま、ふ、と唇が柔らかいものに触れた。あまりにも柔らかいのに驚いて目を開くと、目を細めたアイツと視線が交わる。
「……もう一回」
今度は、ちゅ、と音が鳴るほど、しっかり唇が合わさった。また離れて、瞳を合わせて、それからはもう、止められなかった。何度も、何度も唇を合わせた。今までできなかった分を取り戻すかのように。今日という日に免じてもらえるうちに。何度も、何度も口付けた。手も足も瞳も舌も交えて、互いに互いを欲した。
あたたかい。吸い取りたい。このまま彼を貪り尽くしたい。
「……これでチビは、オレ様のモンだからな」
「……とっくに、そうだっての」
そうしてそのまま、俺たちはキスをし続けた。
お互いが干からびるまでこうしてたいと思った。
あいにくと二人とも、ずっと潤ったままだった。