おかしい、どうしてこうなったんだ。そう自問したところで、握ったカードはこちらに微笑んではくれない。じわ、と嫌な汗がにじんで、知らずのうちに眉間の皺が深くなる。
「顔色が悪いね。どうしたんだい? ──ああ、もう降りるのかな」
「……フン、どうせハッタリだ」
カードを持つ手に力が入る。本当に、どうしてこうなったんだ。ぎり、と奥歯を噛み締めて、先ほどから目の合わないディーラーを睨みつける。男はごく小さなため息を吐いた。
◇
見ない男がいる、と思った。きざったらしいサングラスから覗く不思議な色の目が、やけに焼き付いて離れない、独特の気配を持つ男。会員制であるこのカジノでこういった客を見るのは珍しい。男はこっそりと口笛を鳴らす。知らない男だ、だが自分のカモにはちょうどいい。派手な金髪に、高級そうなスリーピース。そのみてくれは、世間知らずな金持ちの坊ちゃんそのものだ。馴染みのディーラーに目配せをして、さりげない仕草でチップを転がす。いつもの手口だった。
「君、そこの君。……はい、これ。さっきそこで落としただろ?」
かかった、と思った。
「いやはや、若いのにお優しい人だ。これも何かの縁だと思って、ひとつ俺と遊んでもらえませんか?」
「アッハハ! 下手なナンパみたいな誘い文句だね、でもいいよ。その勝負、乗ってあげよう」
わずかな緊張と高揚を以て吐き出されたその言葉は、軽薄な音にさらりと流される。いけ好かない、けれどそれはさしたる問題ではなかった。魚はかかった。あとは釣り上げるだけなのだから。
そう、思ったのに。
◇
「まだレイズするかい?」
勝負は第三ゲームに入ったというのに、性懲りもなく賭けを続けたというのに。男のプライドはすでにぐらつき始めていた。半ばカードを叩きつけるようにしてフォールドだ、と吐き捨てる。先ほどまでの余裕など欠片も持ち合わせていなかった。ポーカーでは自分を信じられなくなった方が負ける。そんなことは十も百も承知だった。絶対的な自信だってあった。負けるはずなどない。それなのに。
「……、クソッ」
この男の、この自信は何なんだ。どうしてそんな風に、汗一つかかず、不敵な笑みを浮かべたままでいられるんだ。化けの皮がはがれるの、ちょっと早すぎないかなあ。そう奴が呟くのが聞こえて、ぎりりと奥歯を食い締めた。
奴の術中に嵌ってしまったのはわかっている。けれど抜け出す方法が見当たらない。
「臆病なのは、ある種美徳かもしれないね」
その手から二枚のカードが落ちる。
「……ワンペア。だけど僕の勝ちだ」
「お、お前……!」
「自分可愛さに降りたのは君だろう? さあ、どうする? まだ続けるかい?」
当たり前だ、と目の前の男をぐっと睨む。もう、後には引けなかった。
◇
そうして第四ゲームに突入してもなお、男の自信は揺らぐばかりだった。嫌な汗で、カードが滑る。
「顔色が悪いね。どうしたんだい? ──ああ、もう降りるのかな」
「……フン、どうせハッタリだ」
今までの三ゲーム分、もうこの男の手口は見切っていた。自意識などとっくに崩れて、立て直すこともできない。目の前の憎たらしい男を疑い続けるのが精いっぱいだった。
「そうやってブラフで俺を降ろし、お前は弱い役で勝つ。──そうだろ」
何も考えていないとでも思っているのか、となけなしの虚栄心でそれを鼻で笑う。奴は何も言わぬまま、レイズだ、と返すだけであった。
最後のカードが捲られる。スペードのジャック。カードをつかむ手に、一層力が入るのがわかった。いける。今度こそ、成功(傍点あり)したのだ。これなら──
「オールインだ」
嘘だろ。まさか。いつの間にかできていた人だかりから、そんな声が漏れ聞こえる。手のひらの震えに気づかないふりをして、声を絞り出す。降りる選択肢はどこにもなかった。
「……オール、イン」
再びどよめく観衆に、奴は大胆不敵に笑って見せる。
「いいねえ、そうこなくっちゃ! それでこそギャンブラーだ」
そのきれいな顔に舌打ちを一つ。その鼻っ柱をへし折ってやりたくて、テーブルにカードを押し付けた。スペードのストレートフラッシュ。野次馬たちの歓声に紛れて、奴が軽快に口笛を吹く。
「ギャンブラーとして、君の度胸は認めてあげよう。うん、実に素晴らしい! でも──」
まるで手品でもするような仕草で、その男は華麗に手札を開いて見せる。それを目にする前からもう、なぜだか敗北を確信していたのに。その手から、その瞳から目が離せない。スペードのキング、それから。
「スペードの、エース……」
「──ロイヤルストレートフラッシュ。……僕の勝ちだよ」
また、どっと歓声が上がる。そこにそぐわぬ鈍い音を聞いて、次の瞬間に、ああ自分がテーブルを殴った音か、とどこか遠くで考えていた。
「ふッ、ふざけるな! この土壇場でロイヤルストレートフラッシュだと? こんなのおかしいだろうが! おい、誰か責任者を呼べ! こいつが、こいつがイカサマしたんだッ!」
しんと静まり返ったフロアすらも、この怒りを鎮めることはできなかった。恥をかかされた。侮辱された。大損だ。自分のことを棚に上げ、脳内にはそればかりが渦巻いている。大声を張り上げ、肩で息をしながら男を睨みつける。男は未だ、その余裕を崩さない。居心地が悪い。やめろ。その不気味な目で俺を見るな。そう叫びだしたい衝動に駆られる。その目が、まるで俺を糾弾し返すように、静かに眇められる。
「何を言っているかわからないけれど……イカサマしたのは君の方だろう? ああ、弁明ならいらないから。そこのディーラーは洗いざらい吐いてくれたし、ボーイたちからもちゃあんと話は聞いてある。今日だけじゃない、今までの分だって、証拠は全部上がっているけど──」
その言葉を最後まで聞かぬうちに、衝動のまま、その手は奴の襟首へと伸びていた。手を出すのが悪手なのは重々承知の上で、それでもその憎たらしい顔面に一発くらいお見舞いしてやらなければ、腹の虫がおさまらない。
しかし伸ばされた腕は、そのまま宙を掻く。気づけばフロアの床の冷たさを首に感じていた。蹴り飛ばされた? 誰に? あの男に決まっている。憤怒と混乱の中、何が起きたのか正確に把握できないままで、かつんかつんと軽い靴音が近づいてくるのを聞いていた。
「申し訳ないけど、生憎僕は育ちがよくなくてね」
ひ、と情けない声を上げて、慌てて体を起こして逃げようとする。けれど背後には壁しかない。立ち上がれないまま、その足音に追い詰められる。背中が壁の感触を伝えるのとほぼ同時に、がん、と大きな音を立てて、耳元に長い脚が突き立てられる。殺される。本能がそう警告していた。
「僕の管轄で随分好き勝手してくれたんだ、払うものはきっちり払ってもらうよ」
そう言って、その男は恐ろしいほど綺麗に笑っていた。
◇
スターピースカンパニーの護送船が来るまではここで待機していろ、とぶっきらぼうに言われ、通された部屋の中央に鎮座する椅子に腰かける。手錠はつけられたまま、監視役のカンパニー社員は三人。逃げられるはずもなければ、逃げようという気も起らなかった。このカジノがカンパニーのものだったなんてな、と零せば、先月からですよ、と同じく拘束されたままのディーラーが呟いた。
「それで、あの男は」
「……あの方はスターピースカンパニー戦略投資部高級幹部、P45級の『アベンチュリン』様だ。口の利き方に気をつけろ」
過剰にも見えるその武装の下からぎろりと睨まれ、おとなしく口をつぐんでおく。ただでさえ余罪が多いのに、これ以上罰を増やされてはたまったものではない。
「──にしても、お前、洗いざらい吐いちまうのはこの際いいとして、あいつ……いや、あの人のイカサマに加担すんのは、どうかと思うが」
「え? ……ああ、あんた、まだ気づいてなかったんですね。私はちゃんと仕事しましたよ」
「はあ? いや、まて、じゃあ」
こちらの制止も聞かぬまま、彼はため息とともに、吐き捨てるように言って寄越した。
「あんたは、イカサマして尚、あの人に勝てなかったってことですよ」
──ああ、きっとあの男は初めからわかっていた。俺がここでイカサマをしていることなんて、早々に気づいていたのだ。愚かな俺は、ただ魚のごとく泳がされていただけなのだ。バレていないなどと思いあがって過信して、そうして不正に得た大金は、結局丸々と膨れ上がった借金となって今この肩にのしかかっている。
俺はあのゲームにも、勝負にも、とっくの昔に負けていたのだ。