手を伸ばす帰路。傘の間から落ちた水滴が肩に跳ねた。
今日の天気は珍しく大雨だった。満開になったばかりの金木犀が濡れた地面に落ちて絨毯のようだ。沈んでいく夕日は見えない。
見慣れた戸を開けて湿った靴で玄関を跨いだ。
薄暗い廊下の床に黒猫が丸まっている。その黒の塊はまるで死んだように動かない。私は黒猫に話しかけた。
「太宰」
「……織田作おかえり」
折り曲げた膝から顔を上げた友人はゆっくりと立ち上がった。そして私の顔や身体をまじまじと見つめ、濡れた袖を控えめに引っ張り 手を握ったり指と指を絡ませたりする。
雨の日はいつもこうだ。隣に住んでいる太宰は必ずと言っていい程に私の帰りを一人で待っている。まるで死んだ黒猫のように。風邪を引くから自室に居ろと言ったが頑なに辞めないので、合鍵を渡したのはどれくらい前だったか。鍵屋に行った晩秋の休日を思い出す。
私は雨が嫌いなのだよ、と太宰は寂しそうな表情で言う。雨の日の太宰は何か思い出すような顔をする。何を思い出しているのか私にはさっぱり分からないが、繰り返し思い返す程大切な出来事ということだけは分かった。
「だって、君に手を伸ばしても」
言いかけて後の言葉を飲み込んだ。何でもないよ。と太宰は笑う。いつも太宰は、ここに居ない「君」について話す。
_君、とは誰のことだ。
ただの友人である私はそんな事は聞けなかった。彼の中に踏み込める程、私は太宰の事をよく知らない。
今日のように金木犀が咲く、十月の晴れた日だった。玄関扉の前で丸まった包帯まみれの見知らぬ青年を拾った、それが私達の出会いだ。死にたがりらしい彼は繰り返しの自傷行為で入院中であり、病室でただ寝転がっているのはつまらないから逃げ出してきたのだという。
何故私の家に来たのか?と私は聞いたが「君だからだよ」とだけ返す。私を知っているのか?と聞くと笑ってはぐらかされた。正直言って気味の悪い青年だったが、私と話すと子供のように笑い、嬉しそうな顔をした。最初は警戒したが私も太宰との話は何だか心地が良く、時を忘れて話し込んだ。
血の滲んだ包帯を取り替えてやった後、太宰は少し躊躇ってから口を開き「次はいつ会える?」と私に聞いた。死に間際の見た目のような青年から、「次」という言葉が出てきたので私はとても驚いた。それと私は普段、次を願うことがほとんど無い。酷く平凡でつまらない男に似合ったつまらない人生だ。現在、人を導く立場である教師を目指して勉学に励んでいるが、いまいち掴めたものが無いのが本音だ。しかし、太宰となら次を願っても良い様な気がした。その小さな約束が、私の意味を持たない日々を彩ってくれるような気がしたのだ。初対面にも関わらず変な話だが。
それから太宰は私の家を訪ねるようになり、数え切れないほどの他愛も無い話をした。太宰は別れる際に次はいつ集まるか尋ねた。理由は分からないが、死にたがりの彼が私に次を求めてくれることが嬉しかった。私も次に太宰と会う日を待ちながら日々を過ごした。そして彼は数ヶ月後に私の部屋の隣へ引っ越してきた。一応 学生らしい太宰は、私の実習先である高校の生徒として勉学に励んでいる。
私が太宰について知る事はそれだけだ。本当にただの友人、それだけだった。彼の目には誰が映っているのか私には見当も付かない。だから、何ヶ月、何年経とうが彼の孤独を私が埋めることは出来ないだろう。
「いつもいつもすまないね」
薄い壁からは未だ激しい雨音がする。太宰が靴を履いてドアノブに手を掛けた。いつの間にか太宰の手は私の元から離れている。
「おやすみ、織田作」
振り返った太宰の顔は泣き出しそうな子供の顔をしていた。初めて出会った時の、子供みたいに笑う太宰を思い出す。私は太宰に手を伸ばした。
「待て太宰」
私の手は太宰の手を掴んでいて、開きかけた玄関扉は閉まった。薄暗い玄関で太宰が再び振り返る。
「……なんだい織田作、君が引き止めてくれるなんて珍しいね」
孤独を埋めることが叶わなくても、私は太宰に笑っていて欲しい。幸せそうに笑う彼が、明日を私に望んでくれることを願いたい。だから、私が「君」の代わりになれなくても、どうか次を願わせてくれないだろうか。
「次いつ集まるのか決めていないだろう」
太宰は驚いた顔をする。そして私の不安とは裏腹に、嬉しそうな顔をした。子供みたいな笑顔だ。
「……うふふ…あはは!そうだけれど、でも私達もうお隣さん同士だよ?毎朝壁を突き合ってるでしょう?」
「モールス信号で話すのか?」
私は薄い壁をコツコツと突いた。突く音だけじゃ物足りなくて、織田作の声が恋しくなっちゃうだろうなあと太宰は笑う。私だってそうだ。
「それと、このまま帰してもお前は夕飯を食べない」
「あれ、君には何でもお見通しだ」
太宰が再び靴を脱いで部屋へ上がった。手はまだ繋いだままだ。太宰の手から少しだけ強く握られたような気がする。冷たくて華奢な手だ。
「君は変わらないね」
太宰は独り言のように呟いて、先程の泣き出しそうな子供はすっかりどこかへ消えていた。
今は彼の中に踏み込めなくても、いつか踏み込める日が来るだろうか。彼の孤独を知る日が来るのだろうか。
彼が____死にたい理由も分かるだろうか。
私はそんなことを願いながら、太宰を見つめた。
私達は話に夢中になった。外はすっかり晴れて、星の浮かぶ夜空へと変わっていた。