群青の背に羽をその線は、柔らかい青を描いた。
青春はこういう人のためにある言葉なのだと、幾度となく思う。
彼がふとこちら側に視線を寄越せば、私の周りから黄色い歓声が沸く。
その居心地の悪さに身を縮こまらせながらも、目は決して彼を追うことをやめない。
風が光って、その姿を照らし出すように。
その手を離れたボールは、まるで生きているみたいにグローブに吸い込まれる。
また何度目かの歓声が上がる。
それでも、この一等席だけは譲れない。
フェンスに齧りつくようにして立っているこの時間が、私にとって今は生き甲斐とすら言えるから。
呆気ないと感じるほどの大差で、試合が終わる。
エースの彼は、今度こそこちらに一瞥もくれずグラウンドを去っていった。
きっと、あのこちらへの視線もたまたまだったのだと思う。
もうかれこれ半年ほど追いかけている彼は、有名な選手にしては珍しく、応援してくれる女の子たちと一切関わろうとしないのだ。
「ミスタくーん!!!」
数多の大きな高い声が、からっとした快晴によく響く。
見向きもしないしなやかな背中は、そのまま控室へと消えた。
スクールバッグをしっかりと持ち直し、残念そうな女の子たちを掻き分けて帰路へと軌道を合わせる。
今日の楽しみ、終わっちゃったな。
この後は塾で、夏期講習に向けてのテストだろう。
夏休み、試合のある日に塾入っちゃったら嫌だな。
そんな負に染まったある種高校生らしい考えを巡らせていた私の前に、突然予期せぬ人影が現れた。
「おっ、と。ごめん」
避けきれずに少しだけぶつかって、謝罪をするその人を視界に映した私はすぐに後退った。
それは、かつてないほどの至近距離で見た"彼"であったからだ。
声にならないまま必死に息を飲み込む。そうでもしなければ危うく倒れてしまうところだった。
どうしよう。明らかに先程までとは違う部類の汗が背中を伝っている。
彼は私をじっと見つめている。その視線に耐えきれず、そっと目を伏せた。
「…………君、よく見てくれてる子、だよね?」
途端に弾むように顔を上げ、彼の青緑の瞳をまじまじと見つめた。
見てくれていた。そして知ってくれている。
「はい。世界中の野球選手の中で、あなたが一番好きで」
「それは大げさだな、」
彼は照れたように、どこかぎこちなく笑っている。
彼とは一応同級生ではあるのだが、同じクラスになったことは一度もない。
そもそもが入学当初からずっと沢山の人の注目の的だった彼の挙動を、こんなにも間近に見たのは初めてのことだった。
初めて見た等身大の男の子である姿に、私の胸は軽率にも高鳴っていた。
あんなに常に騒がれているのに、たった一人の前でこんなにも照れちゃうんだ。
そう考えると、耐性がないから避けてる線が一番濃厚か。
「君、いつも面白い目してるよな」
そっちのけで思慮に耽っていた私を、彼が優しく世界に呼び戻した。
「面白い目、ですか」
ぴんとはこないが、友人からは変人扱いされることも多いのでその類いかと推測する。
彼は楽しそうに微笑んでいて、この時間がきっと不快ではないことに心のどこかが安心の音を立てた。
うまく言えないけどさ、と前置きしてその薄い桜色の唇が開かれる。
「君だけ、いつも他の子と違う目で見てるんだよ。俺の顔や体やプレーじゃなくて、その奥にあるもの、みたいな」
驚いた。確かにランキングにすれば片手の指に入るほど彼の試合をよく見に来ている方だとは思っていたが、ここまではっきりと認知を受けているとは。
目の前の、感慨にふけるように伏せられた睫毛から透けた瞳が確かに輝いている。
「…………見透かされる気分になるんだ。でも、嫌いじゃないよ」
身が引き締まるしね、と笑った彼の顔は純粋さで光っていて、それでいて穏やかに思えるほどの洗練された優しさを訴えかけていた。
どこか達観してしまっている私には、この人のありのままが少しだけ羨ましく思える。
「いつもありがとう。良かったら、これからも俺のこと見ててよ」
そう優しく言われて、何故だか一瞬視界がぼやけた。
ただ好きでやっていたことが、気付けば彼にとってのエネルギーの一部になっていたようで、その事実に驚きながらも差し出された右手は力強く握ってみる。
「世界一、応援してます」
真剣な私の顔と重い(と友人にも言われた)台詞が面白かったのか、彼はまた愉快そうに笑う。
今一度大きな手が、私の標準サイズの手を包むように握ってから、そっと離れていく。
失礼しますと一礼して、彼の時間を必要以上に奪ってはいけないと足早に立ち去ろうとしたその時。
沢山汗をかいただろうに不思議と花のような甘い香りのする彼は、どこで知ったのか私の名前を呼んだ。
「俺のことは、ミスタって呼んで!」
そう高らかに叫んでから、また風のように颯爽と消えていく。
消化しきれないほどのこの数分の出来事とその余韻に、膝が笑って座り込んだ。
恋にしては、いけない。
ただそれだけをずっと戒めのように呟きながら、その日の帰路を辿ったことも、これをきっかけに彼と友人になることも、このときの私はまだ知らないお話。