乖離する月と、微睡み「さにー!!!!」
仕事が終わり、玄関の扉をもうすっかり慣れた手付きで開けると、きっと今か今かと俺の帰りを待ちわびていた世界で一番愛しい恋人が飛び付いてきた。
「おかえり」
上目遣いのきゅるんとした瞳にそう言われれば、すばしっこい犯人を街中走り回って捕まえた疲労すら容易に吹き飛んでしまう。
「ただいま!」
我慢ができなくて抱き着き返し、目の前の白くて丸い頬に数回ほどキスを落とせば、彼は耳を赤くした。
もう出会って3年も経っているのに、いつまでも初心なこの人はこの上なく愛らしい。
「さにぃ」
甘えた声が、俺の胸に閉じこもって響いた。
頭をぐりぐり押し付けられる。猫みたいでかわいい。
「なぁに、あぅばーん?」
頭を撫でてやると、僅かに潤んだ視線がこちらに寄越された。
「今日、したい」
あざとすぎるお願いは、意図してやっているのか、天然なのか。
例えどちらだってサニーにとってはおいしくて、もう既に全てがどうでもよくなっていた。
「もちろん」
付き合いたての頃サニーは、アルバーンが望むならいつでもするという約束をしていた。
それからもう年単位の時が流れているが、その約束を破ったことは一度もなかった。
にも関わらず、彼は毎回ちゃんと手を変えてときめくお誘いをしてくるのだ。
それに俺は骨抜きで、今日だってまた同じことだった。
「とりあえず、お風呂にする?ご飯にする?」
今度は計画内の言動ではなく、純粋に聞いている様子だ。
この判別ができるようになったのも、著しい変化だった。
「……汗かいてるかもしれないけど、あるばーんがいいなら今すぐしたい」
抱きしめて、凭れ掛かるようにして彼の肩に顔を埋めた。
一応今日は中々忙しい日だったのだ。あちこちを走ったし、上長としての立ち回りを求められる場面も多々あった。
何よりそんな日が一週間続き、やっと休み前最後の今日の仕事が終わったところだった。
つまり端的に言えば、アルバーンが足りていない。
「僕はおにぃの汗の匂い、好きだから嬉しいけど」
アルバーンは白い肌を桜に染め、その双眸を情で微かに揺らしていた。
そのまま遠慮がちにもしっかり首筋の匂いを嗅がれて、おまけにちろ、と舐められた。
無邪気な様子のあどけない表情と、やっていることのアンバランスさに頭がくらくらする。
「ベッド、連れてくね」
もうこれ以上ここで何か言えばぼろがでる、と急いで彼をお姫様抱っこする。
彼は特別扱いされていると感じるこれがとても好きなようで、現に今この瞬間も恍惚とした表情で俺の横顔を見つめている。
色々考えて大きめにしようと選んだキングサイズのベッドにふたりしてなだれ込む。
アルバーンに覆い被さって、勢いのまま何度も何度もキスをした。
この時、彼の溶けるような表情は少しずつの変化を遂げていた。
スッと細められた瞳が出していた確かな合図は、1週間ぶりの恋人の香りに夢中だった俺には届かない。
「サニー、」
「ん?…………ふ…ぁ」
後ろの首筋をなぞるように撫でられる。
予期せぬ声を出した口を慌てて塞ぐと、アルバーンはにっこり笑った。怖い顔。
ここで愚かな俺は、ようやく気がついたのだ。
「んっ」
唇を深く、呼吸ごと絡め取るように奪われる。これは、かなりまずい。
そのまま気付かないほどゆっくりと、体勢が反転する。
それでも余りあるほどの大きなベッドに、こんな時ばかりは少しばかり後悔をした。
両手の指を絡め取られ、もう今更抵抗することもできない。
「あぅ、ばーん」
「さにー」
腰を優しく撫でられて、体が簡単に飛び跳ねる。
「かわいい」
その言葉はいつだって胸を高鳴らせるように甘い響きを湛えている。
「今日はゆっくり、たくさんしようね」
耳元で掠れた声が甘く囁いた。
俺は観念しながら、意識を正しく彼に向ける。
正直とっても不本意だが、この状態でひとつ好ましいことがあるとするならば。
「さにー、君のこと、僕が世界で一番愛してるよ」
蛇のようにきゅっと細められた瞳孔。
それが吸い込まれるように光って、笑う。
普段からは考えられないほど妖艶で、麗しい色が漂っている。
独立した生き物のように体を這う手に、全身の力を抜いて抗うことを辞めた。
柔らかい糸が、凪いだ夜を紡いでいく。
静かに囁き始めた音だけが、窓を擦り抜けてそっと濁った。