幾千の青が初恋を謳う「今日は、どっち?」
君は困ったように笑った。
その言葉から、表情から、佇まいから透けた優しさが大好きだった。
それでも、必要とされていないから。
同じ顔で笑った。
その影が、雨の音に濡れていた。
*
「おはよ」
「お、おはようございます!」
「あは、今日は光ノだ」
にこやかに笑った彼は颯爽と駆けていった。
その柔らかくしなやかな背中に惚けていると、後ろから続々と登校してくるクラスメイトたちにどんと押され、慌てて端に避ける。
僕の名前は、光ノシュウ。
挨拶をくれた、僕の想い人である彼の名はミスタ。
そして、もうひとり。
『平気?』
心のどこかで、軽やかな笑い声とともに優しい心配が聴こえた。
「平気ですよ。ご心配ありがとうございます」
心做しか冷たい声が出てしまい、尚笑っている彼に心苦しさを覚えた。
彼の名は、闇ノシュウ。
僕と、身体を共有する人物だ。
彼とは生まれてこの方、中々うまくやってきたつもりだった。
それも、この高校に進学するまでは。
*
「何してんの?」
はっとして、震えながら後ろを振り向いた。
そこには、廊下に面する窓に腰掛けたひとりの影。
その口元には、形容し難い笑みが浮かんでいる。
けれどそれは、初対面でもひと目でわかるほど悪意のない笑顔だった。
昔から人一倍そういった機微に聡かった光ノは、それだけのことで幾分か気を許した。
「教室。いかねーの?」
ポケットに手を入れて、だらしなくシャツを出したまま近づいてくる。
闇ノが見たらきっと眉を顰めるだろうな、と思わず口角が上がってしまう。
「お。笑った」
慌てて口を押さえた。
彼はニッと笑って、体操座りをしていた僕の前にしゃがみ込んだ。
視線が合わさる。時間が無限に感じられるほどに、穏やかな空間。
「…………こ、こわくて」
小さな声。それでも、優しい彼の耳はきっと聞き逃さなかった。
「じゃあ、俺と来てよ」
頼もしい手が差し出される。
すらっとした背に似合わない、大きくて頑丈そうな手。
何故だか苦しくなった胸を片手で押さえて、もう片方の手でそっと、触れた。
ぐい、と引き上げられるようにして立つ。
倒れないよう、そっと背中に回された手が彼の配慮深さを物語っている。
「平気?」
にこやかな視線が、包み込むような温かさを持って僕の心を攫った。
「はい、」
この時の花が咲いたような嬉しそうな微笑みを、忘れたことはない。
この人とならどこへでも行こうとまっすぐな決意が生まれたところ、実際に連れて行かれたのは教室ではなく、近くの商店街だった。
平日のまだ昼にもなりきらない時間。
人はまばらで、それでも確かに生命力と活気を感じる佇まい。
段々とふわふわ浮いていた意識がゆっくり着地を始め、自ずとその矢印は繋がれたままの手に向かった。
指先と指先を握り合うような繋ぎ方。拙いようにも感じるそれが、温かくて擽ったい。
「…手、離さないんですか」
勇気を出してそう言えば、声が震えた。
彼はきっとその言葉も確かに聞いてくれたはずだが、その姿が振り向くことはなかった。
それでも、僅かにその手には力が籠もって。
ぐいぐいと引かれるままに歩く。
景色がとても楽しくて、こんな幸せは初めてだった。
するとその明るい髪が不規則にふわっと揺れて、こちらを指した橙に心を貫かれた。
「ここのじーちゃんが作ってるたいやき、めちゃくちゃうまいんだけど食べる?」
今までと全く変わらないまっすぐな笑みに安心して、こくり、と肯定の意を示す。
「こし餡と、カスタードね!」
「はいよ」
さらっと会計を済ませる彼からは、顔馴染みの事実が伺える。
慌ててポケットを探ったが、やはりそこには淡い緑色のハンカチが仕舞われているだけだった。
「あの、すみません…財布を持ってきていなくて…後で払いますね」
「そんなのいいよ。それより、出来立てが美味しいんだから早く食べよ」
浮足立っていて何も考えていなかったが、確か彼はそれぞれ違う味を買っていたはずだ。
どちらを渡されるのだろうと、よくわからない期待を胸に、促されるまま近くのベンチに腰掛けた。
「ん、」
彼が手渡したのは、手のひらほどの茶色い袋。
開くと、そこには溢れそうな量のカスタードが見えた。たいやきの下半分だ。
想像よりも遥かにおいしそうで見惚れていると、また紙に包まれた同じ大きさのものが渡された。
開いてみると、今度はこし餡。頭のある方。
なんとはなしにくっつけてみれば、どうやら大きい方をくれたのか歪な鯛が完成する。
「どーぞ」
盗み見ると隣に座らなかった彼はいつの間にか側に立っていて、既にたいやきを含んだ口が舌っ足らずにそう言った。とてもおいしそうに食べるものだ。
「……いただきます」
恐る恐るその柔らかい生地に歯を立てて噛めば、温かさが染みるように甘さが広がっていく。
「へへ。うまいだろ」
彼のどこまでも大きな優しさに今も確かに触れていて、必死で繋いでいた鎖がぱちんと切れた。
僕の両目からは、止めることのできない涙が溢れていた。
彼は、何も言わずに僕の前にしゃがみ込んだ。
その硬い肌をした指が、そっと涙を拭う。
ぼやけた視界が晴れると、彼は寂しそうな顔で微笑んだ。
それは、哀しみを知る人にしかできない、優しい顔。
指先が重なって、きゅ、と握られた。
「大丈夫」
掠れた声が、心を溶かしていく。
その瞳の色がはっきり見えるほどの距離に、心音が速くなる。
「いい、?」
迷うことなんて、できなかった。
「はい」
初めて明瞭に言えた二文字は、空気に消えるよりも早く彼の桜色が呑み込んだ。
一瞬止まった涙がまた溢れるようにして頬を伝う。
愛しさと寂しさが、交互に心を濡らしていた。
春が淡い色を湛えたあの日、僕は彼に恋をした。
*
一年間同じクラスで過ごしてわかったのは、彼は割と遊び人に分類されるタイプの人間であるということ。
その華やかな容姿とその立ち振る舞いから、常に多くの人に好意的な視線を向けられている。
興味はあれど経験はなく、恋愛ごとにはどうしても疎かった光ノは、高校に入学して一年経ってようやくその事実を飲み込むことができた。
四月の初めのあの日の彼から、どうしたってそんな姿が想像できなかったことも一因だろう。
あの時、彼は文字通りむき出しの心とまっすぐな優しい瞳でこの憂鬱を包み込んでくれたのだ。
それは、前述の通り経験の少ない光ノにとっては魔法のようなもので、その背中が弾けた光の粒で輝いて見えた。
段々とその粒は消えていき、最近ではある種幻想のようなそれを見る機会はぱたりとなくなった。
あれ以来一度も、あの日のように純粋な瞳の彼を見ることはなかったからだ。
彼はいつも大勢の真ん中にいて、よく響く明るい声で笑っている。
それでも光ノにはやっぱりどうしても、それが彼の"本当"だとは思えなかった。
呆れるほど長い日々にはただ、持て余すほどの憧れだけが心をころころと転がっていた。
『光ノ、最近よく表に出たがるね』
唐突なその発言にどきっと心臓が鳴る。
彼は──ミスタは、例えあの日と違う姿であったとしても、紛れもなく光ノの想い人だった。
彼の背が輝いて見えなくなっても、それは薄暗い学校生活に確かな温かさを灯してくれていたのだ。
もっとずっと、あの背を見つめていたい。
とうとう今の今まで黙って見守ってくれていた闇ノにこうして言われてしまったくらいには、毎日外に出て彼を見つめることを望んでいた。
「……闇ノも出たいでしょうに、たくさん譲らせてしまってすみません」
その事実に触れない限り口に出せない、とつっかえてしまっていた謝罪が口から溢れた。
闇ノの、とても良い意味で乾いた笑い声がする。
『気にしないでいいよ。こっちにいるほうが色々楽ではあるし』
闇ノはあまり嘘を吐かない。
それ故に、その言葉に対して心から安堵を示した。次の一言までの数秒だけ。
『それよりそろそろ聞いてもいいかな?君と、君の"想い人"について』
悠長に飲んでいたコーヒーを吹き出すところだった。
正確にはやや吹き出して、闇ノに眉を顰められた。
いや、今のはどう考えても貴方が悪いでしょう。
「な、なんのことです?」
『まだしらばっくれるつもりなら、ちょっと僕を舐め過ぎなんじゃないかな』
怖い。半分本気で怒っている。
存外に低く響いた音色が、抵抗しようという小さな灯火を消した。
「でも、……貴方は全部見ているでしょう」
意識の仕方で度合いこそ変わってくるものの、互いに身体を共有しているということはつまり、相手が経験しているものは全て五感を通して伝わってくるのだ。
『それはそうだけど、聞きたいのはヒカリの気持ちの話だよ。一年も黙って見ててあげたのに、行動する気がないんだもん』
彼が僕を"ヒカリ"と呼ぶのは、僕を甘やかしたいときだ。
僕はこの状態を、お兄ちゃんぶってる、とも言う。
「だって、彼は、そういうんじゃなくて」
うまく言語化ができない。
とにかく、あの日恋をした彼と、一年間見てきた彼は少し違うのだ。
『へぇ……』
途端に聞こえてきたその声は、先程とは明らかに色を変えていた。
「からかわないでください」
じとっとした目で睨めつけると、彼は鈴みたいに軽やかな音で楽しそうに笑った。
「貴方は、どうせ全部知っているでしょう。初恋なんです」
諦め半分に言えば、彼は予想外の反応を見せた。
『あれ、うそ。そうなの?』
「……知らなかったんですか?」
驚いた顔の闇ノに、気を許したことを後悔する。
『初恋、か』
絶対にまたからかわれるのだと塞ぎたくなった耳に届いたのは、存外まっすぐな声だった。
『……いいね』
微笑んだ闇ノがただ少し寂しそうで、僕は無性に抱きしめてやりたくなった。
かつて自分が、そうしてほしかったように。
「闇ノは、どうなんですか?」
その問いは僕らを繋ぐ橋から落っこちて、答えを持たないまま消えて無くなった。
*
二年生になった光ノは、ひとつの賭けに出た。
一年前と同じ日、同じ空き教室で、ただ静かに時が流れるのを待ったのだ。
あくまで待っているのは時間が過ぎることだけ、という体で。
とく、とく、とく、と心臓が穏やかに鳴っていた。
それは不思議と自分のものではないようで、光ノの心を大層落ち着かせた。
気付けばそのまま眠りに落ちていた僕は、目の前の自分でも闇ノでもない息遣いに気が付き、鈍い手を寄こして目を擦った。
その瞬間、鼻を鳴らす音が聴こえた。
「バーカ」
おでこを弾かれてあだ、という腑抜けた声が出る。
その間抜けな声にまた笑ったのは、あの日と同じ彼。
「みすた、」
「なに?」
デコピンだけ寄越して風のように去って行きそうだった彼に思わず、縋るようにして声を掛けた。
一年越しにやっと掴んだ糸を、もう離したくはなかった。
「また、僕を、連れ出してくれませんか」
やっぱり震えてしまった声に、成長しない自分を感じて悲しくなったが、心の中で闇ノがエールをくれたので何とか踏み留まる。
「ふぅーん」
ミスタはこちらへ戻ってきて、座り込んだままだった僕の前にしゃがんだ。
視線を合わせようとしてくれるこの人は、やっぱり誰が見ても優しいだろう。
「言えるようになったじゃん」
彼はにこっと笑って、更に褒め言葉を二言三言付け加えると、相変わらずがっしりとした手で僕の頭を優しく撫でた。
一年振りに触れた変わらない温かさが、擦り切れた心にじんわりと沁みていく。
「泣き虫は変わってないのな」
ははっと笑われて、そんな顔が見られるなら成長しないのもあながち悪くないな、なんて考えた。
握られた手は強く、優しく。
僕と彼を正しく繋いでいた。その事実に無性に泣きたくなった。
「どうしたい?」
「好きです、」
「ん?」
困ったな。思ったよりも、この感情は大きくなりすぎていたみたいだ。
行き場のない想いは心から零れて、最後には言葉となって溢れていた。
「好きです」
今までで一番明瞭な発音だった。
そんな自分を、少しだけ誇らしく思う。
彼は告白なんて慣れっこだろうに律儀にぴし、と固まって、その頬を真っ赤に染めた。
「ご、ごめん。俺、好きなやつがいるんだ」
その言葉は凪いでいた海に一滴の色を齎して、真っ黒に染め上げた。
知っていた。彼と僕が釣り合うはずがないと。
それでも、彼のあの優しい瞳の先に誰かがいることが、光ノの胸を強く締め付けた。
彼は逡巡して目の前をうろうろしている。
きっと何かしてやりたいけど触れることに躊躇っているのだろう。
こうなるなら、言わなければ良かったという後悔が喉元をきゅっと締める。
でも、もうどうしたって留めておくことはできなかった。
「一人に、してください」
思いの外きつくなってしまった言い方に動揺しながらも、顔を伏せて耐えた。
彼の未だ迷うような優しい足音は段々と遠ざかり、顔を上げたとき、そこに姿はなかった。
それに安心したのか、止まっていた涙がまた決壊したように溢れる。
初めての恋で、初めての失恋。
闇ノは消えてしまったように何も言わない。
苦しいほどの動悸に胸を押さえながらも、彼を想う気持ちだけが少しも消えてはくれなかった。
*
光ノが恋をした。その想い人の名前はミスタ。
彼は中学時代、僕だけが知っている同級生だった。
光ノが知らなかったのは、彼が一切学校には来ていなかったことと、初めて出会ったときを含めて会うのはいつも真夜中だったことが理由であった。
闇ノはあの頃、ほんの少しだけ嫌気が差していた。
誰もが憂いを内に隠し、確実に傾いている世界に見てみないふりをしている。
可愛い弟のような存在であるヒカリがいるからこそ、ようやく世界に生きる意味を見付けていた。
ちょっとした、反骨心だ。
それも反抗期なんて大したものではなく、世界全体に対する鬱屈とした感情を持て余しただけ。
夏のある日、僕はヒカリが寝たのを確認して歩いていけるほどの距離の公園に向かった。
少しだけ空でも見て帰ろうと思っていた。
そこには、先客がいた。
「なに」
月明かりに照らされた輪郭が美しくて、思わず眠気のまま食い入るように見つめてしまっていた。
「あ、いえ…すみません」
そんなことを初対面の人に言うわけにはいかず、黙り込んでしまう。
時刻は深夜二時半。こんな時間に人がいるとは。
誤算に、もう帰ろうかと微かな落胆が頭を掠めだしたとき。
「座れば?」
背中を向けてブランコに座っていた彼の方向からそう聴こえた。
一度迷い、そっと反対側に腰掛ける。
虚ろなようにも見える顔には、寂しい色が浮かんでいた。
「あんたも、何か悩みがあんのか?」
ゆったりとした時間の中で、そんな問いが聴こえてくる。
「明確にあるわけではないけど、そうといえばそう、かな」
適当に力を抜いた会話は、人生で今までにないほど居心地が良かった
「君こそ、」
「…………ミスタ」
「……ミスタこそ、悩みがあるの?」
彼は迷うように瞳を忙しなく動かした。
見ず知らずの人のほうが、話しやすいこともあるだろう。
きっと今しかない、彼のこの藍色を拭うチャンスを消してしまいたくはなかった。
彼は重たい口を、躊躇いながら開いた。
「……信じてもらえないかもしれないけど俺さ、自分の中にもうひとつ人格があるんだ」
耳を疑った。今彼は何と。
「もうひとつの、人格?」
「ああ、リアスっていうんだ。今は寝てるんだけど」
おうむ返しをした僕に対して、彼はすべてを教えてくれた。
「……俺は力が弱いからさ、こいつが眠ってるときくらいしか外に出てこられないんだ」
つまり、僕らとは違って、彼の体においてはリアスが主導権を握っているようだ。
「信じてもらえないかもしれないけど、」
不思議そうな瞳が、同じ語り始めで口を開いた僕を捉える。
先程より随分楽な表情に見えて、少しほっとした。
「僕の体にも、もうひとりいるんだ」
大きな目が更に見開かれる。
瞬く睫毛までもが、よく見るととても美しい。
「名前は?」
隠すことでもないので、ただまっすぐに答えた。
「僕が闇ノで、彼が光ノ」
彼は興味深そうに頷いて、少し嬉しそうな顔になった。
「えっと、闇ノ、もあんまり出てこられなかったりする?」
窺うような、期待するような視線に胸が痛くなったが、嘘を吐いても何もならないので正直に返答する。
「僕らは兄弟みたいに生きてきたからそうでもないかな。特に何もないときは、毎日交代で学校に行ったりしてる」
「そっか」
彼の表情変化はとても不思議で、たった数分で伝わるほど魅力的だった。
「いいなぁ……」
その瞳には、色々な感情が揺蕩っている。
「ミスタも、そうなれるといいね」
無責任だったかもしれないと一瞬で後悔した言葉に、彼は長い睫毛をまた幾度か瞬かせた。
「うん。もうちょっと、頑張ってみるよ」
それでも、一番最初とは比べものにならないほど明るく光った瞳に安堵する。
本来の目的でこそなかったが、今日ここに来てよかった。
「学校、この辺りなら同じじゃない?もし出てこられたなら、そのときはぜひ来てみて」
嬉しくてそう言うと、途端に瞳が青く濁った。
「……俺、学校って行ってみたいんだけどさ、リアスが行きたがらないんだ」
余計なことを言ったなと反省する。
「じゃあ、僕がここに来るよ」
気付けばそんな約束が口から転がり出ていて、自分でも驚いた。
「本当に?……でも、いいの?」
「勿論。一週間に一度くらいなら出てこられそう?」
「うん!頑張ってみる」
きらきらと光る純真な目に、何故だか自分までもが救われたような気がした。
こうして僕とミスタは、毎週金曜日の真夜中だけ、この公園で会うようになった。
「闇ノ」
「ミスタ」
こんばんは、というのも何だか変だし気恥ずかしくて、会うたび必ず互いの名前を呼んだ。
話題は他愛のないことが殆どで、それでも時々それぞれの心を締め付けている悩みを零すように話した。
聞いてもらえるだけで救われる悩みは共有すると、肩がすっと軽くなるのだ。
互いが、互いに救われていた。
「昨日深夜にやってた番組が面白くってさ」
「へぇ〜なんて番組?」
いつもと同じ日、ジャングルジムのてっぺんで月を見ながらどうでもいい会話をしていた。
ふと、手が触れた。
当たっただけ、といえばそうかもしれない。
それでも心に想いがあった僕は特別な視線を絡めてしまった。
彼も、同じ目をしていた。
段々と触れ合う面積が大きくなって、ほんの僅かな力で握られる。
それだけで初恋の心臓は爆発しそうに痛かった。
動揺を表に出さないよう、何気ない話だけが続く。
意識はずっと左手にあった。ミスタだって、きっとそう。
どちらともなくいたずらに小指を絡めたり。
そんな鈍い触れ合いが、その日から少しずつ増えていった。
「闇ノ」
ある金曜の別れ際、呼びかけられて振り向けば彼が駆け寄ってくる。
「ん?」
肩にぽす、と重みが乗ってそっと背に腕が回された。
突然のことにどうしたって体がこわばってしまう。
「ふは、緊張しすぎだってば」
彼は余裕のあるように見せて笑ったけれど、その顔は赤く上気していた。
愛しさが許容量を超えた僕はなりふり構わずぎゅっと抱き締め返す。
好き、その二文字が言えない。
それでも痛いほど伝わっていた。
「じゃ、あ、またね」
名残惜しくも収集がつかなくなってそう告げた。
彼は真っ直ぐな瞳を少しだけ左右に動かして、開きかけた口を閉じた。
「うん。またな」
その笑顔に、優しい藍色が透けていた。
何かがいつもと違っていた。
気が付いたのに、問い詰めなかった僕は大馬鹿者だ。
こちらが振り向くたび手を振る彼の姿を、名残惜しく見つめて。
そのまま、程なくしてやっと前を向いて家路に就いた。
ミスタと会ったのは、それが最後だった。
*
「よう」
「、ミスタ」
「じゃない。リアスだ」
わかっていた。こちらに歩いてくるその姿から。いや、実のところ先週から。
あの日のミスタはどこか様子がおかしかった。
まるでやってくると決まった断罪を堪えるような、罪悪感と怯えに濡れた表情をしていた。
わかっていてもどうすることもできず、警戒心だけ抱えて今日ここまでやってきたのだ。
ミスタと出会ってから季節も三つほど巡った頃、とうとう僕はリアスと対面した。
「ちょうどいい。僕もそろそろ話がしたかったんだ」
あくまでも、強気な姿勢を崩してはいけない。
全てはミスタを守るためだ。
今思えば、この時点で僕は少しおかしくなってしまっていた。
恋は盲目、そんな安直な言葉で言い表せるとも思わないが、詰まるところそうだったのだ。
「やめておけ」
「へ?」
「深入りするな」
つい彼への想いへ意識を飛ばしていた僕すら見透かしたような目が、まっすぐに射抜いた。
その温度の計れない眼差しに背筋が粟立った。
「俺たちのことに口を挟むな。俺はあいつと違って容赦はしない。噂くらい聞いてるだろ」
彼は──リアスは、非行少年で有名だった。
話に尾ひれがついただけなのか、それとも真実なのか、暴力とは無縁に生きてきた僕には判別できないような噂ばかりだ。
「ミスタを、開放しろ」
震える手をぎゅっと握って口にした。
もうこれ以上、優しい彼の哀しい笑顔を見たくなかった。
陽だまりのように温かい、そんな顔で笑ってほしい。
「嫌だよ」
目の前の、彼と同じ顔が醜く歪んだ。残虐な笑顔。
なのにどうしてか心が痛んだ。
「あいつは両親と同じ顔で笑うんだ。俺はそれが許せない」
その言葉を切りに、背中を向けられた。
呆然とした僕からどんどんと遠ざかっていく。
両親がいないと言っていた。詳細は知らない。
その話をしたとき、今までで一番苦しそうな顔を見たから。
憎むべきだと思った。僕の大切な人の笑顔を奪い続ける彼のことを。
それでも、泣きたくなるほど胸が痛かった。
あの瞳。真っ向から向き合わなくちゃわからない。
寂しそうだった。とても。
一体いくつ、黒に染まった夜を潜り抜けたのだろう。
それに気がついたとて何もできない無力な僕は、ただ拳を握ってしゃがみ込み、少しだけ泣いた。
次の週、彼は来なかった。
言葉通りミスタも、そしてリアスも。
代わりに、いつも座っていたベンチには薄いオレンジ色の封筒があった。
風で飛ばないよう、溝に挟んである。
ゆっくりと手にとって封を開けると、そこにはメッセージの刻まれた一枚の小さな紙があった。
「闇ノ。今まで話聞いてくれてありがとう。でももう、多分会えない。俺のことは忘れて。じゃあね。さよなら」
短い文章。何度か書き直した跡がある。
初めて見たのにそれは紛れもない彼の筆跡で、紙を濡らした水滴に焦って目元を拭った。
やがて嗚咽が漏れ始めた。まだ幼い僕にはもうよくわからなかった。
ただ、好きだったのだと思う。自覚もないほど。
確かに胸に空いた穴を抱えながら、蹲って泣いた。
どうやって帰ったのか、それからどうなったのかもあまり覚えていないが、真夜中の不審な泣き声に通報した近隣住民がいたらしく、両親にこっぴどく叱られた記憶だけが残っている。
もちろん真夜中の外出は固く禁止され、そもそもの目的を失った僕はあの公園に一切足を向けなくなった。
月日が経ち、段々と傷は癒えていった。
どこかで笑ってくれてたらいいなと、そんな一縷の望みだけが柔らかく、空いた穴をゆっくりと埋めていった。
僕と光ノは、高校生になった。
*
入学式は迷うように目を伏せた光ノにやんわりと、僕が行くと理を入れた。
いかにもほっとした表情を浮かべたので、決して間違った選択ではなかっただろう。
咲き誇る桜の木々が、地元でも有名なレンガ造りの校舎への路を淡い赤に染め上げていた。
ふと、何気なく視線を前に向けた。
その先に、躍るような茶色い髪を見る。
運命の再会と言ってもいい、映画の場面のような視界を前に僕はただ一人取り残されていた。
その姿はそんな僕の視線に気が付いたのかふと振り向いて、春満開の笑顔を寄越した。
胸がいっぱいになって、少し遅れて登校してきた中学時代の同級生に声を掛けられるまで、僕はずっとしゃがみ込んでいた。
笑ってた。"彼"が、笑ってた。
もう全部どうでもいいくらい嬉しくて、入学以上に晴れた気持ちが心を覆った。
その表情の精悍さたるや両親にこの高校に入れて本当によかったな、と涙ぐまれるほどだったらしい。
僕はとっくに満足した気になって、四月はもうひとつ、光ノの視野を広げるという目的を果たすことに尽力しようと考えたのだった。
翌日から、光ノを戦場へ見送るようにして学校へ向かわせた。
彼自身もひとつ殻を破りたい気持ちがあると知っていたので、僕にできるのはただ温かく見守ることだと思っていた。
そんな矢先、春の陽気に微睡んでいた僕を叩き起こしたのが、彼の声だ。
光ノはこの日、ミスタに恋をした。
何故わかるのか。それこそ、生まれたときから一緒にいて同じ体で生きてきたからに他ならないだろう。
それにその感覚は、あの頃の自分と全く同じだったから。
柔らかい愛が、そっと光ノの心に落ちてきたのを感じたのだ。
純粋に嬉しかった。幼い頃の小さな失敗経験が積み重なって人付き合いに消極的になってしまっていた光ノが、誰かを好きになったことが。
そしてその相手が、他でもない彼であったことが。
初恋の傷は癒えていた。嫉妬の心だってどこにもなかった。
その瞬間、唐突に頭をよぎった。
彼は、どうなったのだろう。
もっと黒い瞳をして、ミスタよりも哀しそうな顔で笑った彼は。
僕は五月の初めの日、久しぶりに外へ出た。
そして、彼に堂々と声を掛けたのだ。
思った通り、振り返ったのは暗い色に濁った瞳。
主にヒカリのおかげで品行方正で通っている僕と、小さい頃から不良で有名な彼の組み合わせにざわついた教室の喧騒を後にして、僕らは放課後の屋上へ向かった。
「で、お隣の優等生くんが何の用?」
随分とちゃらついた方向に成長したものだ。四月の光ノから得た情報では、遊び人と噂されているらしい。
節操がなく、男女ともに遊び回っている、と。
落ち込みを隠しきれない顔で教えてくれた光ノを思い出すと、燻っていた怒りが確かに顔を出した。
「僕のこと、覚えてる?」
まさかそう切り出されるとは思っていなかったのか、リアスは一瞬困ったように眉をハの字にした。
観念したのか、小さく頷く。
「……覚えてるよ」
一気にしおらしい態度になった彼に勝利を確信し、今度は純粋に気になっていたことを尋ねてみる。
「ミスタのこと、開放したんだ?」
彼はまた瞳の彩度を下げて、一度黙り込んだ。
僕の冷たい視線に耐えかねて、渋々生まれた唸るような声が空に響く。
「……元々、縛ってたわけじゃない。ただ、俺の心がどうしてもあいつの笑顔を見たくなくて、それに俺の半分も力を持ってないあいつが抗えなかっただけ」
少し驚いたが、それ以上に合点もいった。
それもその筈、あの日の去り際の苦しそうな笑みに悪意はちっとも感じられなかったのだ。
「ここ二年くらいでかなり成長したから、今は俺と同じくらいだよ。ただ、俺の作り上げた交友関係に馴染めなくてあんまり出てこないけど」
懇切丁寧に説明してから、リアスは苦虫を噛み潰したような顔をした。
先程からその表情や言葉には思っていたよりも人間味があって、そのまま口にしていいのなら少し、ほんのちょっとだけかわいらしい。
「悪いやつらじゃないんだけど……」
ぼそっとつぶやいたそれは親愛に満ちていて、彼だって成長したのだと悟った。ミスタとは違い、心の面で。
「噂では、遊んでるって聞いたけど」
その頃には怒りはすっかり蒸発していて、僕はただ興味混じりにそう口にした。
「誰に」
驚いたような美しい瞳が二、三度瞬く。
「光ノ」
「お前んとこのおとなしーやつか」
くしゃくしゃと徐ろに髪を混ぜた。屋根のない屋上には初夏の日が差して、とても綺麗だと思った。
「遊んでねーし」
少しだけ、ほんの少しだけ高く鳴った心臓には咄嗟に耳を塞ぎたくなった。
「今は、ミスタが笑ってても平気?」
答えをわかっていながら、その顔が見たくて聞いた。
絶え間なく質問することで、心の隙間を埋めていた。
それは危ない橋を渡っているようで、でももうとっくに落ちているのだとわかっていた気もする。
「まぁな」
穏やかな笑顔。抜けきれない黒すら幼気に輝いて。
その顔は、かつての初恋の人とよく似ていた。
正しいとは思えなくても、ようやくそこで自ら手を伸ばしたのだ。
思い出がフィルムのように舞い降りてきて。
颯爽と消えた背中に、僕は二度目の恋をした。
*
『なんですかそれ!どうして一番最初に言わないんです!?』
二年生になった夏休みのある日、僕はなんとはなしに彼らとの出会いの話をした。
五月のあの日以来リアスとは特に接点もなく、学校に出た日は時々姿が見られるだけで満足してしまい、完全に話すことを忘れていたのだ。
それに対して中々見ない憤慨した光ノに、所在なさげに頭を掻く。
本当は、不思議と話す気にはならなかったというのが一番正しい理由かもしれない。
そんな火に油を注ぐような真実はもっと口にできず、散々絞られてから解放される。
光ノは僕より多岐にわたって細かい。細かすぎるくらいだ。
『それくらいなら聞こえてますからね』
ジトっとした目で睨まれて肩をすくめる。
静かにも鋭いその視線に耐えながら惰性で漫画を捲っていると、光ノが健やかな眠りについた気配がした。
さて、これからどうアプローチしてやろうか。
そんな画策をしながら、怠惰な夏休みを謳歌する。
ソーダの棒アイスは、エアコンの効いた部屋にいても早々に溶けてしまうほどの暑さだ。
ちらりとカレンダーに目をやれば、今日は金曜日。
迷いを決意に変えて、僕の足は久々にあの場所へと向かった。
夏休みだというのに、示し合わせたかのように子どもの一人すらいない。
あるのは、大人と同じくらいの大きさの影がひとつ。
彼は気配に振り向いて僕の姿を認めると、うんざりしたようにまた視線を元の場所へ戻した。
その丸い頬は、暑さのせいか僅かに赤い色をしている。
年甲斐もなくジャングルジムのてっぺんに腰を据えたその背中は何だかやけに寂しそうで、素早く隣まで登った。
「何してるの?」
途端に唇を噛みしめた彼を、黙ってしぶとく見つめる。
最近のこの人は鋭く尖った目をしたあの日よりよっぽど幼く見えるので、不思議と怖くはなかった。
彼の心が純粋さを見せるようになったのか、もしくは僕の想いが勝手にフィルターを掛けているのか。
彼が口を開くまで、気ままにそんなことを考えていた。
「つるんでたやつらがさ、俺に隠れて勝手にシメてたんだ」
それだけで、彼の近辺についてよく観察していた僕には十二分に伝わった。
伝わりすぎて、彼と同じ温度で胸が痛くなるくらい。
「そういうのやめろって言ったら、愛想尽かされたわ」
彼はそう言って自嘲するように笑った。
なんと声を掛けようか迷ってそのまま、ただゆっくりと時が流れる。
静かな夏が地鳴りを起こすように響いていた。
「付き合い、長かったんでしょ?」
「ん。一番近くにいたやつで、十年くらい」
そんな関係がたったそれだけで切れてしまうなんて信じたくもなかったが、この世には僕なんかに到底理解できないものがたくさんある。
長く、黙って隣にいた。
それだけで、僕は勝手にあの頃と同じ居心地の良さを感じていた。
この人を笑顔にするにはどうすればいいだろう、なんて。
笑ってしまうほど同じ悩みが頭を占めていた。
「僕じゃ、だめ?」
「は?」
自分でも言うつもりのない言葉が出て、慌てる。
それでも本心だった。勝手に溢れてしまうほどには。
「自分で言って何焦ってんだ」
彼が吹き出した。
それだけで、数秒前の馬鹿な僕に感謝をした。
「友達でも、……パシリでも、何でもいいからさ」
本当は切なるものがひとつあったが、露骨すぎて却下した。
「セフレでも?」
瞬間跳ね返ってきた爆弾に目を丸くして、取り繕うことすら忘れて彼を真正面から見つめる。
案外真剣そうに目を光らせていたその顔が、耐えかねたように吹き出した。
「冗談。あんたみたいなお子ちゃま、食わねーから」
からかうような音色に顔を赤くしてムッとする。
完全に馬鹿にされた。おまけに対象外にまで放り出された。あんまりだ。
それでも、幾分か鬱屈が晴れたその様子に喜んでしまうのだから恋なんて世話がない。
「……舐めてると痛い目見るよ」
「ん、何?」
本当はとても優しい彼が、思った通り僕の言葉を聞き取ろうと顔を近づけてくる。
その薄い唇を、勢いのままに奪った。
「じゃあね!」
やってやったと思う気持ちに、後悔が追いつけないように。
もう顔なんて見られず全速力で走って帰った。
心のどこかでヒカリの動揺が聴こえた気がして、幻聴であることを心の底から祈っていた。
*
悶々とした気持ちは、夏の暑さでは霧散してくれない。
僕はまた、あの空き教室に来ていた。
体調が悪いと先生に伝えて授業を抜けてきたところ、一番近くにあった休めそうなところがここだったのだ。
保健室まで歩く気力はもう無いが、正直なところ無意識に惹かれていたのかもしれない。
ひょっとして、あの日ここへやってきたミスタも休息を求めていたのだろうか。
こんな時も彼のことを考える頭に少し笑えば、痛めつけるような音が鳴る。同時にして吐き気も襲ってきた。
もしかして、季節外れの熱中症だろうか。考えてみれば最後に水を飲んだのはいつだっただろう。
僕としたことが体調管理もできないとは。少し浮かれすぎたかもしれない。これでは闇ノに怒られてしまう。
乖離した呑気な思考ごと意識が朦朧として、全ての音が少しずつ遠ざかっていく。
随分と長い時間だった。微睡んでいるときのような心地良さすら感じて。
やがて彼の匂いがして、声が聴こえた。
「闇ノ!大丈夫か!?」
僕の意識はそこで途絶えた。
*
「これ!水!」
ずいと差し出されたミネラルウォーターを遠慮なく飲む。
勢いの良い僕を見て、目の前の人は幾分かほっとした様子を見せた。
「無理すんなって……心配したじゃん」
がくりと肩を落とした彼はそのまま床に胡座をかいた。ほこりが立って、僕は顔を顰めた。
「わ、その顔。やっぱり闇ノだ」
こんな顔で確信されるのは心外だったが、それよりも遥かに何年ぶりかの再会に躍る心が前にあった。
「久しぶり、ミスタ!」
「おー」
にこにこと微笑む彼はどうしようもなくあの頃を思い出してしまう表情をする。
お互いに同じことを考えているのか、段々と思い出が溢れるようにして空間を埋めた。
「……あの日急にいなくなっちゃったから、びっくりしたんだよ」
「ごめん。リアスにバレて、怒られたんだ」
彼はからっと乾いた日差しのように笑ってみせたが、その実隠しきれない悲しさが滲んでいた。
手紙や態度から伝わっていたように、彼だってやっぱりあの日々が続くことを望んでくれていたことをようやくこの目で見て勝手に嬉しくなる。
「そっか。それで次の日は彼が」
「闇ノ、あいつに会ったの!?」
「うん」
狼狽する彼に、知らなかったのかと少し驚く。
「何かされなかったか?」
心配そうに覗き込む瞳。相も変わらず優しい顔。
「はは。大丈夫だよ」
リアスが、というよりも寧ろ、あの黒歴史のような僕の態度こそあまり思い出したくないものだった。
初恋の、大切な人を守りたくて空回りしていた。
ぼんやりとしか覚えていないが、時が過ぎてしまえばどうしたって少し気恥ずかしい。
僕たちはそのまま、くだらない話と大事な話を交互にした。
それはあの頃の僕らと全く同じで、そのことに気付いた僕は密かに笑みを溢した。
「もうだいぶ、出てこられるようになった?」
目をぱちぱちと瞬かせてから彼が笑う。それはまるで花でも咲かせるみたいに。
「うん。闇ノがあの日、俺に勇気をくれたから」
まさかあのときの無遠慮な言葉が支えになっていたとは露知らず、安易にも視界が潤んだ。
「よかった……今日もミスタが笑ってくれてたらいいなって、ずっと思ってたんだ」
「っ、」
まっすぐ彼を見てそう言えば、彼は珍しく顔を赤くして黙り込んでしまった。
「あれ、照れてる?」
「……別に?」
「んへへ、かわいい」
少しからかっただけなのに、彼は耳まで真っ赤になってしまう。
「……あれ、君ってそんな感じだったっけ?」
「なんかそれ失礼じゃね……」
「いや、照れてるイメージなかったから」
「そりゃ、好きなやつが離れてる間にも自分のこと想ってくれてたら嬉しいし、照れるだろ」
「え」
思わずまっすぐに見つめれば、視線が交わる。
秒針が止まって聴こえた。
次の瞬間、ゆっくりと視界が回る。
彼の熱い視線に貫かれて、ようやく自分が押し倒されたことを理解した。
「やみの」
優しい声。近付くその唇との間に、そっと手を挟んだ。
彼はゆっくり離れて、苦しそうな顔をする。
「…………ごめん」
「やっぱり、今更遅いよな」
その言葉は正しいようで、どこか的外れだった。
「そういうわけじゃ、」
「でもあの頃は、俺のこと好きだったろ」
否定できなくて顔を伏せた。
ついさっきまで楽しく思い出と感慨に耽っていたというのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「……ごめん。困らせたかったわけじゃないんだ」
ミスタはずっと苦しそうに顔を歪めている。
今も昔も、たとえ恋愛じゃなくなっても笑顔でいてほしい人が、今度は僕のせいで笑えない。
その事実は他の何よりも重く落ちてきて、心臓をきつく縛った。
先程までとは打って変わってまだ仄かに熱の籠もった重たい空気が、じわじわと空間を蝕むように蠢いていた。
*
『ごめん。ミスタに、告白された』
頭が割れるように鳴って、砕けた心の破片が飛び散った。
僕が倒れたりしなければ、なんて考えてしまう浅い心にそっと蓋をする。
「闇ノが謝ることじゃありません。ミスタの心はミスタのものです。それに、薄々勘付いてはいましたから」
気丈にも最後のプライドにかけて微笑んで見せると、闇ノは複雑そうに口角を上げた。笑っているつもりだろうか。
「…………それより、あなたはどうなんです?」
『どうって、何が?』
きょとんとした闇ノにこちらが驚く番だ。
「リアスのことが好きなのでしょう?」
『へ!?』
手をぱたぱたさせて慌てている。
どちらかと言えば僕が弟のような関係で過ごしてきたが、こういう闇ノはとてもかわいらしいなと思う。
『もしかして、起きてたの……?』
掛けられた問いに迷いながら如何にも恐る恐るといった様子で頷けば、彼は顔を真っ赤にしてもううんともすんとも言わなくなってしまった。
「自覚は、あったんですよね?」
段々と不安になってきてそう聴くと、やっと伏せていた顔を上げて答えてくれる。
『まぁ、その、そうかな、とは思ってたけど、』
まるで沸騰したやかんのように音を立ててショートしてしまった彼には、少し驚いた。まさか、ここまでベタ惚れだったとは。
それならば尚更この問題は深刻だろう。
第一に彼だって、ミスタにはあの愛らしい笑顔でいてほしい筈だ。
同級生の中ではそこそこ優秀な頭を捻って、最善策を考えた。
「……じゃあ僕が、ミスタに好きになってもらえるよう頑張ります」
まっすぐな目で言ったはいいものの、とんでもない宣言に気が付いて顔が熱くなる。
闇ノはもう一度きょとんとして、それから眉尻を下げてにっこりと笑った。
『ありがとう。頑張って』
その音色は拳と拳を柔らかくぶつけるような、そんな響きをしていた。
「闇ノ!じゃないごめん光ノ」
廊下を激しい音を立てて駆けてきたかと思えば、開口一番に勢いよく間違えて申し訳無さそうな顔をするその人にくすくす笑った。
それにしても、両親ですら未だによく間違えるのに判別が付くなんて不思議だ。
「おはようございます」
「お、はよ」
慌てふためく様はとてもかわいらしいが、そんな姿にしているのは全て闇ノだと思うと、良くない感情が心の内で顔を出した。
「残念でしょうが、今日は僕ですので」
そんな気持ちを振り払うように言えば存外きつい言い方になってしまい、気分がまた一段と下がった。
何もかもが上手くいかず少し俯くと、やけに視線を感じる。
「な。この間のお願いは、まだ有効?」
「へ?」
真剣な瞳に見据えられ、とんと間抜けな声が出た。
「来て。嫌なら、逃げて」
その言葉の真意を理解するよりも早く、彼の大きな手が僕の手首を固く握った。
風を切るように走る。この人の背中は無敵だ。
先生たちの静止を振り切って、僕は手を引かれるままに精一杯走った。
心が確かに躍っていた。
やめたいなんて思えないほど、眩しく輝いて僕のもとに舞い降りてきたのだ。
辿り着いたのは、水平線の見える海。
幼い頃はよく闇ノと両親と来た場所だったが、今日は随分と印象が変わって見えた。
それは間違いなく、隣に彼がいるからで。
穏やかに流れる時間を味わっていた。
いつか途切れてしまうと、知っているから。
「あのさ。俺のこと、好きって言ってくれてありがとう」
途端に、初めて彼の言葉を聞きたくないと思ってしまった。
だってその先に紡がれるのはきっと。
「すごく嬉しかったよ」
「それなら、よかったです」
声が震えてやしないか、心配しながらも心は絶えず揺れていた。
「俺さ、闇ノが好きなんだ」
真っ赤な日に照らされた横顔は美しく輝いていた。
僕の恋はどん底に落ちて、それでも尚鈍く光っている。
「初恋、なんだ」
知っている。闇ノのさらっとした話し口調からだって、ふたりが互いをどれほど大切に想っていたかはよくわかった。
「僕も、初恋です」
渦巻く想いに喉が締まりそうになって、吹きこぼれた言葉が拙い告白をした。
「そっか、」
切ない顔で笑う彼は今、僕が闇ノだったらと考えただろうか。
痛いほどに理解できたそれが、心臓を鈍く貫いた。
「キスなんかしてごめんな」
一番、聴きたくなかった言葉。僕は耳を塞ぎたくなった。
この人はあまりにも不器用だ。
不器用で、優しくて、だから愛しい。
「中学の頃、光ノの話はよく聴いてたから勝手に弟みたいに思っちゃっててさ」
嘘だ。中途半端で、優しい嘘。
「しかし、慰めるったってキスはないよな」
ははっ、と茶化して自虐する彼は優しくて穏やかな顔をしていた。それでも、その繊細な美しさを保った瞳は藍色を湛えている。
「キス、してもいいですよ」
驚いたように瞬く目。
たった数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。
唇がそっと触れた。それだけで涙が零れた。
余計な期待をしてしまわないように、どうして泣いているんだろう、なんてわかりきった答えを探していた。
何度か重なって、そっと離れていく。
ふたりとも泣いていた。おかしくて笑った。
「僕を利用してください、ミスタ」
彼の優しさに漬け込んだ。僕は悪い子だった。
「光ノ、」
初めて名前を呼ばれて、耳元で囁かれた愛は自分のものではないとわかっていても、心を痛いほどに弾ませた。
重なる影が、水面にそっと光っていた。
*
それから彼と、時々キスをした。
示し合わせるわけでもなく、もし言葉にするのなら何となく、が一番適切だろう。
僕があまりにも毎回泣くので、彼はとうとう笑った。
でもそれは決して馬鹿にするような笑みではなく、それ以前に僕は彼が僅かでも幸せでいてくれるなら何だってよかったのだ。
ある日、彼が風邪で学校を休んだ。
心配で家を訪ねる理由を探していたところ、たまたまよく気の回る先生がプリントを届けるようにお願いしにやってきたのだ。
先生は特にそれ以外の言葉は発さなかったが、まず僕とミスタはクラスが違うので、仲良くしていることをきちんと把握してくれているのだろう。
丁重に礼を言って頭を下げれば、笑いながら同じ深さの礼が返ってくる。
光ノは、この先生のことが結構好きであった。
教えてもらった住所を地図アプリで登録し、ひたすら歩く。
そんなに遠くはないのに、着いた頃には息が上がっていた。
緊張が胸を塗って、チャイムを鳴らす指が震えた。
「はい」
機械を通してでもわかる彼の声に、今度は甘いときめきが心を鮮やかに塗り変える。
安直なそれには笑って、有り難いことに少し緊張も解れた。
「光ノです、プリントを届けに来ました」
カチャ、とロックが外れた音がした。
顔を出したのはやっぱりミスタで、それでも見たことのないほど酷い状態だった。
顔も首も朱に染まった白い肌。おでこには恐らくなんの効力も成していないだろう剥がれかけの冷えピタシート。
その姿に驚いていると、彼はそのままこちらへふらっと倒れてきた。
慌てて受け止めたが、自分より僅かに大きい身体はやっぱり重くて少しよろける。
「わりー、光ノ。プリント届けるだけなのにわざわざ」
耳元で、いつもより掠れた低い音色がその言葉を奏でる。
ぎゅっと熱くなった胸をこっそり押さえた。
「いえ。というか、心配だったので」
そのまま身体を支えて、彼の家にやむを得ず足を踏み入れた。
僕はただ前を見据え、平常心を保つことに集中する。
空気が全部彼の匂いで、意識するなというのが無理な話だ。
「光ノ。移したら悪いしもう帰りな」
今まさに倒れかけているというのにぶっきらぼうに優しさを透かしたいつもどおりの彼からは、伝わってくる体温だけが普通じゃない。
「帰るわけないでしょう」
つい怒ったような声色が出て、窺い見ると彼は肩を震わせて笑っていた。
「お前はやさしーな、」
そう言って頭をくしゃくしゃにされる。
そんな体力は回復に使ってくれという言葉は、どうしようもなく沸いてくる喜びに呆気なく握り潰された。
時々、この人に対する自分の弱さに呆れる。
「子ども扱いしないで。同い年ですよ」
「わかってるけどさ、何かな」
弟、とまた言いたいのだろうか。
闇ノに言われるのはむず痒くも嬉しい感覚があるのに、ミスタに言われると感情を持て余すほどに悲しい。
せっせとベッドに優しく寝かせて、洗面台を借りる。
あまり使われていないような新品のタオルたちに生活が心配になりながらも、今日限りは願ったりなので遠慮なく使わせて貰うことにした。
水を張った洗面器とタオルを持って彼の寝室まで戻り、よく絞ったそれをシートを外したおでこに乗せてやる。
彼は涼しそうに、気持ち良さそうに目を細めた。
「ヒカリ」
ときん、と微かな音が鳴った。
小さな金属が擦れたような、それでも決して心地悪くはない音。
「なんですか?」
闇ノと両親以外に初めて呼ばれた名前。
彼が呼ぶと何だかそれだけで、特別な色に輝いたようで。
「ん、」
熱が出て、甘えたなのだろうか。
口を少し尖らせて、目を閉じた顔。
安心しきった顔にはついいたずらがしたくなって、その整った顔の真ん中に位置する小さな鼻を抓む。
息が詰まって変な音を出した彼は、恨めしそうに目を開けた。
「なんですか?言わなきゃわかりませんよ」
「意地悪、」
それはどっちだ、と言いたくなる。
僕の気持ちを知りながら、まるで僕を恋人のように扱う、あなたこそ。
「キス、して」
少し潤んだ瞳に見つめられては、もうどうしようもない。
ベッドに横たわった彼に、横からそっと望むものをあげた。
離れれば、惜しむように頭を支えられる。
何度も何度も、唇がひとつに溶け合ってしまうくらい重ね合う。
幸せだと思う心を、優しくいなした。
微睡みのように生温い触れ合いに浸かっていると、突然ぬる、と熱い舌が割って入った。
今までにないことに驚いてばっと顔を離せば、そこにはにやりと笑った彼がいて。
「〜〜ミスタ!!」
「ごめん、ごめんって」
甚くご機嫌になった彼に、素直に喜ぶ心はやっぱり恨めしい。
「あの、さ」
今度はなんですか、とそんな目で見たそこには、不思議な顔があった。
見たことのない表情で、食い入るように見つめた。
すると彼は目を泳がせ、ふいっと反対側を向いてしまった。
「な、んでもない」
「絶対何でもなくないでしょう」
「なんでもないって」
そんな押収を繰り返し、最後はいやに強情なミスタに僕が折れた。
「じゃあ、これからお粥作ったら帰りますね」
「え、」
立ち上がってキッチンへ向かおうとしたら、右手を握られた。その顔にはいかないでと書いてある。
「そんな顔、しないで」
「へ?」
無意識か。だったら余計にたちが悪い。
何か言いたげなミスタを置いて、ため息をつきたくなる気持ちを抑えた僕はキッチンに向かった。
暫くしてから振り向いて、そこに姿がないことにほっと息を吐く。
ことことと鍋を煮込んでいると、後ろからふわりと抱き締められた。
柔らかいカーディガンの布地が心をまるごと包んで、優しく撫でられているみたいだった。
「み、すた」
「ひかりの」
舌っ足らずが、僕のお腹にひしと抱き着いている。
それは恋人に、というよりかはなにか大切なものに縋っている子どものようで。
「ふふっ。僕、お母さんじゃないんですけど」
「んー」
聞いているのかいないのか、頭をぐりぐり擦り付けられる。
笑いながら、ふいに泣きそうになった。
こんな時間が永遠だったらいいのに、なんて。
どうにもならない願いだけが大きくなっていた。
「ミスタ」
「ヒカリ」
「すきです」
「…………ん」
初めて、見返りを求めなかった。
ただ、この人が欲しい愛を全部あげたかった。
呼吸が震えたまま、何とか手を動かす。
出来上がったお粥を美味しそうに食べる彼を見て、安心した僕はその足で帰路を辿った。
彼の笑顔が、何度も何度も頭を掠めて。
くす、と笑って、頬を伝った。
僕はきっとこの人を愛している限り、ずっと泣き虫なんだろう。
風が背中を押すように吹いて、僕はまた涙を零しながら笑っていた。
*
「どう思う?」
「どうって……んなこと俺に聞くなよ…………」
げんなりした顔でこちらに辛うじて視線を寄越すリアスに、闇ノはしれっと強引に答えを促した。
「……まあ、脈はあるんじゃね?」
「やっぱり?」
嬉しくてどうしても上がってしまう口角に、呆れたようにこちらを向いているふたつの目。
「ていうか好きにさせろよ。お前だって自分の恋愛見られてたら嫌だろ」
尤もな意見にぐっと詰まるが、僕だって見ようとして見たわけではない。
「たまたま、めちゃくちゃ目が冴えてたんだって」
「へぇ〜」
絶対に信じてない。むすっと膨らませた頬に手を添えてそっぽを向いていると、肩に手が乗った。
驚いて振り向けば、スタンバイしていた指先がしっかりと膨らんだままの頬に刺さった。
くは、と笑う彼に呆れる。
「くだらない」
「そんなくだらないもんに引っ掛かってやんの」
この人と友人になって共に時間を過ごすうち、よくわかったのは意外にも子どもっぽいというところ。
それは悪い意味ではなく、純真であるという褒め言葉だ。
彼は素直な顔で、よく笑うようになった。
僕がほんの僅かでもその助けになれているなら嬉しいなと思う。
「闇ノは?」
彼はあまり人の名前を呼ばない。
数えているのも気持ち悪いが、呼ばれたのはこれで四回目だった。
不規則に鳴る心臓にしっかりしろと声掛けをしながら質問の意図を聞き返す。
「というと?」
「恋愛」
ストレートパンチにしっかり面食らう。
どんな角度の質問だ。そして少なからず興味があるのか。
「…………なにもないけど」
「絶対嘘だろ」
鋭い目で射抜かれれば、逃げようにも上手くいかない。
「まぁ、なにもないことはないけど」
素直に白状すれば、彼は頷いて続きを促すような視線を寄越した。
そう言われたって、どう話すべきなのか。
あの日のキスは、僕らの間でなかったことになっていた。
あの日以来初めて会うとき、僕は決意と10個の言い訳を用意して戦場と名を冠した彼の元へ向かったのだが、開口一番腑抜けた彼の挨拶に拍子抜けしたのだった。
彼にとっては特別なことではないのか、はたまたノリでされたと思っているのか、本当のことは闇に葬られたまま。
それでも、露骨なことを言えばきっと鋭いこの人にはバレてしまうだろう。
「……脈なしの、好きな人ならいるけど」
「へぇ……」
「だからそれ、何の間?」
睨みつければ、彼は肩をすくめた。
「いや、お前結構モテそうだから、意外」
言われたことのない評価に驚いてまじまじと見つめた。
彼はからかっている様子でもなく、ただ自然に目を瞬かせている。
「……そんなことないよ。告白もできないくらい臆病だしね」
「脈なしはビビって当たり前じゃね」
そんなフォローが返ってくるとは微塵も思わず、驚いてまたじっと見つめるも、目の前の人は至って真剣そうな顔をしている。
これはもしかして、相談に乗ろうとしてくれているのだろうか。
そう思うと急に一層可愛く見えてきて、つい吹き出してしまった。
「おい、笑うな」
「ふはっ、ごめん」
むすっとした表情すら、ちっとも怖さを感じない。
「リアスも、ビビったことあるの?」
笑ってしまったことを誤魔化しつつ、話の途中で気になったことを聞いてみた。
「まぁ、な」
その瞳が途端に虚ろになって、空を見つめる。
恐る恐るもう一度、勇気を出して尋ねた。
「それは、中学の時?」
「んー」
今のは肯定と取って良いのだろうか。
僕が迷っていると、彼は決心したように話し出した。
「……好きなやつがいたんだけど、そいつはミスタのことが好きだったんだ」
「…………え」
彼は見たことのない色の不思議な瞳をしてこちらを見つめる。
体温が二度も三度も上がった気がした。
「笑った顔が無性に可愛くて、ほんとに、それだけの初恋」
自分を嘲笑うように鼻を鳴らした目の前の人は、その表情に愛しさと甘さを透かしていた。
心臓が逸るように鳴った。自分の声さえ届かないくらい大きな音で。
「それ、って」
聞けなかった。だって、その先に映るのは他の誰かかもしれない。
でも願望ごと、傲慢にも想像通りだったらいいなと心が叫んでいた。
「それだけで惚れるとか、自分でも笑ったよな」
その瞳には、幾つもの複雑な感情の色が揺蕩っている。
「だけどそいつ、あいつと殆ど両想いみたいなもんだったからさ」
そう言って彼は、微かな悲しみを浮かべた目を伏せた。
「それで、俺が、離したんだ」
ぐっと唇を噛み締めて。表情の彩度がいくつも下がった。
僕はその瞬間に、彼が決意を固めてこの話をしだしたことが腑に落ちた。
ずっと、この苦しみを抱えていたのかもしれない。
そこに初めて、臆するような瞳を見たのだ。
僕は、震えていた彼の手を握った。
いつもなら秒速で振り払われるのに、彼は何も言わない。
ただ、伏せた睫毛が日に透けて、とても美しかった。
「僕は、リアスが好きだよ」
「……っ、は?」
ギロッと睨まれても、あの頃と違ってちっとも怖くはない。
この人は不器用で、優しい。
ミスタとは正反対なようで、本当に良く似ている。
そして彼のこの態度に、とっくに僕の好意は見透かされていたのだとようやく気が付いた。
「お前じゃ、ねーし」
少し前までの情報量ならば、その言葉を素直に信じただろう。
でも、優しいこの人は少し話しすぎで、僕はもう全部わかっていた。
「ミスタは、きっとヒカリが幸せにするよ」
彼は目を見張って、そっぽを向く。
「はっ、それは貴い信頼だな!」
「だから、」
まだ微かに震えているその大きな手を、ありったけの愛しさを込めて包んだ。
目と目が合って、こんな時間が永遠だったらいいのに、なんてくだらない願いを抱いた。
「だから、君は、僕が幸せにする」
決意をようやくはっきりと口にすれば、心の中の霧が晴れていくみたいだった。
彼はじっと僕の眼差しを確かめるように見つめた後、大きなため息を吐いた。
「…………俺は、やめとけ」
小さな声。どこまでもリアスはリアスだ。
「おい。何で笑う」
「いや、ふふ。かわいいなって」
盛大なため息を吐く頬は、幻想じゃなくて桜色に輝っている。
「ね、いいでしょ」
「お前、結構強引なのな」
観念したような三度目のため息のあと、彼は清らかな顔でそっと目を閉じた。
その美しい顔に息を吐きながら、そっと唇を重ねた。
これはもしかして、誓いのキスだろうか。
意外とロマンチックなところがあるんだなとまた微笑んでいると。
「ん、」
口付けが深くなった。
沢山経験してきた彼についていくことなんてできず、息ができなくなってその胸をどんどん叩く。
「……っいてぇって。手加減しろ」
「こっちのセリフだって」
小突き合いながら同時に吹き出せば、そこに見たこともないほど華やいだ彼の笑顔を見た。
「リアス、」
「何」
「愛してる」
告白なんて慣れっこの筈なのに、律儀に照れるのが愛おしい。
「…………俺も」
風のひとつにも満たない音量が、確かにこの耳まで届いた。
飛び付くように抱き締めれば、一緒に転がって押し倒される。
視線が絡まって、また唇が重なって。
早くに咲いた桜が風に乗ってきて、彼の優しい茶色の髪に色を散らした。
*
僕らは、三年生になった。
リアスと闇ノは付き合うことになったらしい。
レアだった筈なのに、リアスのお陰で見られる回数の増えた照れ顔で、そう報告を受けた。
いつも人を優先してしまう彼が、この上なく幸せそうで笑う。
それが堪らなく嬉しくて僕は世界中の誰よりも大袈裟に喜んだ。
「えっと、キスはしたんですよね?」
『そんなこと聞かないでよ……』
珍しく僕より弱い立場で視線をうろうろさせている彼に、更なる追い打ちをかける。
「大事なことでしょう!というかさてはその反応、もしかしてその先も……?」
にやにやと笑って口にした、文字通りからかいたいだけの発言だった。
にも関わらず彼はそれを聞いて真っ赤になり、声も上げずに俯いてしまったのだ。
「嘘、でしょう…?さてはあなたやっぱり遊ばれて」
『あ、遊ばれてないってば!……僕が初恋って言ってたし』
「ふぅーん」
すっかりいつもと立場の逆転した僕らは、この部屋に珍しい空気を形作っていた。
一通り気になることを聞いて、暖かい春に微睡んでいると、同じ温度の声がそっと言葉を紡いだ。
『ヒカリ、さ』
「はい」
『ミスタには、僕よりも君が似合ってるよ』
「……ありがとうございます」
自信なんて少しもなかった。闇ノの格好良いところは誰よりもたくさん知っている。
そんな僕の様子すら見透かして、彼は言う。
『本当だよ。僕が意味のない嘘を吐いたことがある?』
「でも、その、彼のは筋金入りの初恋ですし……」
『ヒカリには、黙ってたんだけどさ』
なんだろうと思って、身体には微かな力が込もる。
彼は微笑んで、いとも軽やかにその先の音を繋いだ。
『ある日ミスタが、僕のこと出会う前にも見かけたことがあったって言ったんだ。道草しながら帰ってる、純心で楽しそうな中学生がいつも気になってたんだって』
初めて聞いた話に、目を見開いた。
嫌だった学校に開放されて、踊り出したいような幸せに包まれていた中学生の僕の帰路が彼の瞳に映っていたなんて。
『一目惚れだったみたいだよ。今思うと、あんなに気になってたのは少なからずかわいいと感じてたからだって笑ってた』
闇ノは続けて、『どうしてもあの頃は、僕じゃないって言えなかったんだ。ごめん』と悔い恥じるような顔をしてそう謝った。この人は、良くも悪くもまっすぐだ。
「闇ノも、ミスタのことが大好きだったんですね」
気にしないで、の代わりにそう言えば彼が頬をかく。
『まぁ、ね』
照れながらもどこか誇らしげなその様子に、どうしようもなく羨ましい気持ちを抱えた。
「僕も、頑張ります」
『ヒカリは、ヒカリのままで魅力的だよ』
真面目な顔でこんなことを言ってのけてしまうこの人にもう何度救われたかわからない。
『大袈裟だな』と笑った彼に、淀みなく心の拳をぶつけた。
きちんと応えてくれる大切な存在に有り難さを覚えながら、僕は決意を固めた。
当たって砕けろだなんて、昔の僕なら考えすらしなかっただろう。
そのまま、彼のことを考えて眠りについた。
夢の中で僕らはちゃんと、気持ちを伝えて通じ合っていた。
不思議とこれが夢なのだとわかって、ただこうなればいいなと願ったその頬を、また温かい涙が伝った。
*
「ミスタ!」
「光ノ!」
廊下を駆けて飛び付くと、彼はしっかり抱き締めてくれた。
そのまま、そのスムーズな一連にふたりして笑う。
「どうしたんだよ〜急に」
「すみません何だか、気が逸ってしまって」
こくり、と唾を嚥下し、今日の本題に触れる。
「ミスタ。今日、お時間ありますか」
「何だよ、凄い勢いで。別にいつも空いてるけど」
軽く返す彼も表情は朗らかで、それにどうしようもなくほっとする。
初めて出会ったときミスタは本当に苦しそうな顔で笑っていたのだと、闇ノまで苦しそうにそう言うのをよく聞いていた。
幾分か、きっと闇ノから見れば遥かに、自然な笑顔を見せてくれるようになった。
その助けに、自分がほんの少しでもなれていたのなら嬉しい。
「放課後、屋上に来てください」
何度も口の中で反芻した言葉は、はっきりとした形を保って放たれた。
「……ん。わかった」
彼は頷き、親指を立てた拳を突き出した。
「待ってます」
無性に泣きたくなって、感傷的な笑顔をしてしまった。
彼は全部知っているみたいに、その顔には包み込むような優しさを浮かべたまま、そっと微笑んだ。
*
「ヒカリ」
「ミスタ」
街を見下ろしていた視線を声のした背後に寄越せば、いつにもない真剣な顔をした彼がいた。
「お話があります」
震える唇を噛み締めて、そう口にした。
身だしなみを整えるときに塗ったリップの味がする。
彼は僕の言葉を時間をかけて咀嚼してから、ゆっくりと顔を上げて言った。
「先に、俺から話してもいいかな」
隙を見せれば頭を占めようとする暗い想像を振り払い、こくりと単調に頷いた。
彼の吸った息は、それだけで空間を微かに揺らした。
「まず、ヒカリに対して今まで不誠実なことをしてごめん」
勢いよく頭を下げるその人に僕は首を振った。
「ミスタは悪くないです。僕こそ、変なことをお願いしてすみませんでした」
こちらをまた見据えた、光の満ちた宝石のような瞳にどんなときも安心する自分がいる。
「好き、」
「へ?」
自分の口から零れたのかと思った告白。
それを紡いだのは、紛れもなく彼の桜色の唇だった。
それは彼からしても予想外だったようで、口を慌てて塞いであたふたしている。
「えーっと、その……初めて会ったときからずっとかわいいなとは思ってて、実は中学の頃も闇ノより先に知ってたんだ」
僕だとちゃんとわかってくれていたことに、胸が苦しいほどに鳴った。
彼は照れ隠しなのか、綺麗な細い髪をがしがしと掻いている。
それでも不器用で優しい言葉たちは決して止まらず、彼の中の真実を寸分の狂いなく僕に届けてくれる。
「なんていうか多分、最初から惹かれてはいたんだけど、お前があんまり優しくするから呆気なく落ちちゃって。でも……こんなにすぐ言っても信じられないよなとか色々考えちゃってさ」
話せば話すほど口はよく回って、顔は真っ赤になっていく。
そのかわいすぎる想い人の姿に、ついには吹き出してしまった。
「もぉ、笑うなよ〜」
情けなく眉を下げて困っている彼に、僕は一歩歩み寄る。
迷わず、少し高いところにあるそれに自分の唇をくっつけた。
「ふふ。両想いのキス、です」
途端に、想い人は口を押さえてへにゃへにゃとしゃがみ込んでしまう。
「俺、一生お前に敵わない気がする」
「一生側にいてくれるんですか?」
からかうような弾んだ声色で問い掛ければ、すっくと立ち上がって頷かれてしまった。
「誓うよ」
「誓わなくて、いいですよ」
驚いた息を漏らして、こちらを見つめる彼。
「ミスタが笑っていられるなら、僕は何でも良いです」
心の底からそう思っていた。だから、笑ってそう言葉にできたのだ。
「嫌になったら、いつでも言ってください。すぐに別れますか…」
言い終わる前に強引に唇を奪われた。勢いそのまま、彼の胸に仕舞われる。
「みすた」
これまでもハグなんて何度かした筈なのに、どうしようもない感情が渦巻いて、心臓は壊れたように鳴る。
好き以外で言葉にできないくらいに、この人が。
「誓うよ。生涯ヒカリを守るし、側にいる。そしてそれよりもっと、愛してる」
ひょっとすればキザなほどストレートな告白に、とうとう堪えていた涙が溢れた。
「闇ノのこと、ずっと好きだったくせに」
言えなかった言葉さえ、もう堰き止めることはできない。
「うん。これから、信じてもらえるように頑張るよ」
彼は背筋を伸ばしている。格好良くて、世界で一番愛しい。
「ミスタ。僕はあなたの笑顔を守ります。側に置いていてくれる限り、ずっと」
彼は強情な僕に困ったような笑みを浮かべて、少ししてやっと小さく肯定の声を漏らした。
「ヒカリ」
「何でしょう」
やっぱり、この人が呼ぶ名前が大好きだ。
もう一生、このときめきを忘れることはないだろう。
「愛してるよ。何回伝えても足りないくらい」
指先が絡まるように触れて、熱量の籠もった視線までもが確かにそう告げる。
訪れた拙いままの口付けが、いつまでもあどけない僕らを表していた。
彼の隣にいられるこの瞬間が大切なのだと、体中の細胞がそう叫んでいた。
「デート、しよっか」
風がそよいで。
燦めいた約束を、抱いて笑った。
その風は巡り、僕らの心をさざめかせ、やがて包み込むように謳っていた。