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    こはく

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    こはく

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    シンガーソングライター🔮と、テレビ局で働く🐑の長い恋のお話。

    #PsyBorg

    「Until Death Do Us Part」浮奇ヴィオレタは、彼氏の絶えない男であった。
    その理由には、元来ノリの良い性格であることに加え、人からの好意に聡いことが挙げられる。
    夜の街に繰り出しては、寄って来た男の手を取り、その誘い文句に甘えるようにして体を預けた。
    しかし、相手からの熱烈なアプローチを受けて始まった交際関係はいつも長くは続かない。
    相手の気持ちが重くなるにつれて浮奇の情は薄れていき、次の相手をキープしてから別れるというのが常だった。
    そんな浮奇の交際癖に終止符が打たれたのは、五年前の出来事。
    元カレであるファルガー・オーヴィドとの出会いがきっかけだった。
    ファルガーの恋人として過ごした僅か三年間で、浮奇の恋愛観はがらりと変わった。
    別れてから二年経った今でも、もう昔のように恋人を取っ替え引っ替えするようなことはない。
    それほどまでに浮奇にとってファルガーの存在は大きいものだったのだ。

    日課であるコーヒーを淹れながら、ふと昔のことに想いを馳せる。
    ブラック一杯を飲み干しても今日はちっとも頭が冴えない。きっと懐かしい夢を見たせいだろう。
    付き合っていた時の記憶の中で、目覚めにファルガーが頭を撫でながら品よく微笑むのが好きだった。
    今でもこうしてはっきり覚えているが故に、別れたばかりの頃はよくその夢を見ていたのだ。
    ひとつ伸びをして、小さく息を吐く。
    しっかりしなくては。今日は大事な仕事がある。
    浮奇は頬を薄く叩いて気合を入れ直し、支度を終えて家を出た。
    「おはようございます!」
    最近付けられた、新卒のやたら元気だけはいいマネージャーが連絡通り外で待機していた。
    今のところ仕事はなんだかんだきちんとこなしているので、不要に咎めることもないだろう。
    「おはよう」とその挨拶は三分の一以下の声量で返し、後部座席にさっと乗り込んだ。
    現在、自身で曲を制作する歌手として小さな事務所に所属する浮奇は、数年の下積み期を経て最近ようやく若い層を中心にじわじわと人気を集め始めている。
    今日は、先日事務所全体を大きく揺らした、月九ドラマ主題歌のオファーに関しての打ち合わせがあった。
    あの日、普段から穏やかに笑っている社長の機嫌がいつにもましてよかったのが記憶に新しい。
    「今日は黒じゃないんですね」
    「え?」
    ぼぅっと外の景色を眺めつつ、出発した車内で色々なところへ飛ぶ思考を追い掛けていると、理解が遅れて聞き返してしまった。まあ、よく考えてもなんのことかわからなかったので良いだろう。
    このマネージャーは言葉足らずなところがあり、とても若さを感じるので時々腹が立つ。
    「服ですよ。打ち合わせの時はいつも黒のイメージがありますから」
    「……ああ」
    運転席のマネージャーにそう言われて、僕はその事実にようやく気がついたのだった。
    視線を僅かに落とせば、着ていたのは昔ファルガーからもらった紫のタートルネック。最後に着たのは一体いつだっただろうか。
    誰から貰ったものかなんて知る者は周りにいないからいいものの、本当に今日は頭が働かない日らしい。

    と、そんなことを考えていた数十分前の自分を早々に殴りたくなった。
    今すぐ着替えて出直してこい。最悪、コンビニでダサいTシャツでも買え。
    「〇〇局のファルガー・オーヴィドと申します」
    でないと、元カレから貰った服を着て元カレの作った資料を読む羽目になるから。
    今更そう後悔したってあとの祭り。気まずいままそっと顔を伏せて手元の資料に目を通す。
    「今回ヴィオレタさんにはこちらのドラマ主題歌を担当していただきたいのですが、いかがでしょうか。ジャンルが恋愛ドラマですので楽曲の方もその方向で制作していただきたいです」
    制作陣のお偉いさんのような人がそう口にすれば、新人マネージャーが意気揚々と立ち上がった。
    「喜んでお受けいたします!実は、うちの浮奇もお電話いただいた段階からうきうきで。……浮奇だけに、なんちゃって。へへ」
    へへ、じゃない空気を読め新人マネージャー。
    元気が良いのは何よりだが、取引先相手にうちの優しい社長すら苦笑する駄洒落をかますんじゃない。
    そしてファルガーもちょっとツボっている場合じゃない。そういうところはちっとも変わっていないんだな、じゃなくて。
    浮奇は自分だけがひとり居た堪れない気持ちでいることにやるせなさを感じながらも、主題歌を担当したいという自分の意思は手短にはっきりと伝えた。
    「では、改めてよろしくお願いいたします」
    事前に頂いていたドラマの脚本の説明を簡単に受け、肝心な曲のイメージについての練り合わせを少し行った後、この日のミーティングは思いの外早く終わっていた。
    彼の手腕だろうか、と弾き出されてしまった思考を、隣で帰り支度をしていたマネージャーに驚かれるほど頭を振って飛ばした。
    この数十分間だけで二倍に増えた書類をまとめながら、この仕事が終わるまでは会うことになるんだろうな、とまた懲りずに考える。
    重い気持ちの片隅で、久しぶりの彼の姿に一人じたばたとときめく自分を見ないふりした。
    本当に今日は、どうかしている。



    その日、事務所のひとつしかない防音室を稼ぎ頭だからと有難く独占した僕は、曲作りに缶詰めになっていた。
    様子を見るがてらお茶を持って訪ねてきたマネージャーにきちんとお礼を言った後、扉が閉まる音を聞いた瞬間ついに叫び声を上げた。
    むしゃくしゃそのままに、乱雑に頭を掻く。
    習慣で朝から綺麗にセットしてきたのに台無しだ。
    浮奇は人生で初めて、曲作りに難儀していた。
    初めての大役とは言え、こんなにも苦しむことになるとは正直思ってもみなかった。
    今回のドラマは恋に纏わる繊細な哀しさに重きをおいている。彼の深い響きを持った声が確かにそう説明していたのでよく覚えていた。
    ところがどう捻っても、春の陽だまりのような柔らかいメロディと、蜂蜜のような甘い詩しかこの手からは生み出させなくなってしまったのだ。
    原因は解りきっていた。心の深いところに刻み込まれた彼との日々だ。
    とはいえたった一瞬の再会で、短くとも年単位の時が簡単に引き戻されてしまうとは流石に思慮不足であった。
    ふーとひとつ息を吐き、お茶を手に取る。
    気に入っていた茶葉を使ってくれているのが香りで分かり、下がりきっていた気分が微かに上がった。後でしっかり褒めてやらねば。
    そう考えたところで、またそのドアは突然開かれた。
    「浮奇さんすみません!この間のミーティングでお会いした○○局のファルガーさんが何やら直接伝えたいことがあるそうで、電話を代わってほしいと……」
    走ってきたのであろう凄い勢いでそう口にした彼には危うく紅茶を吹き掛けるところだった。
    どういうことだ。からかっているのか。いや、彼のことだから真面目に仕事の話がしたいだけかもしれない。
    巡る思考に頭を悩まされながら、差し出された携帯を恐る恐る受け取った。
    逡巡してまた去っていったマネージャーにはまた密かに感謝をした。今から何が起こるかわからない。おおよそ半分以上の確率で聞かれたら困る会話だ。
    「……お電話代わりました。浮奇ヴィオレタと申します」
    『あ、どうもお疲れ様です!先日ミーティングにてお話させていただいた、ファルガー・オーヴィドと申します。突然無理を言って代わっていただいてすみません。どうしても齟齬なく直接お伝えしたい点がひとつありまして……』
    吹っ飛びそうな意識を留めつつ、必死で伝えられる言葉たちをメモに取った。
    ただでさえ上手くいっていない曲作りに関することを、私情にかまけて聞き逃すわけにはいかなかったからだ。
    結局そこまでのヒントにはならなかった事務的な情報を頭に入れながら、僕は徐々に冷静さを取り戻すことにも成功していた。
    『あと、ミーティングの際に曲の方向性は細かくお伝えしたと思うのですが、浮奇さんの今まで曲の雰囲気としては珍しいジャンルだと思うので、難しければ脚本のイメージから自由に制作していただいて大丈夫です、というのをお伝えしそびれていて』
    その言葉に僕は内心とても驚いていた。少しずつ人気が出ているとはいえまだまだの知名度の自分の曲を、ここまで聴き込んで分析してくれているだなんて露ほども思っていなかったからだ。
    テレビというのはどうしても最初のインパクトを大切にする世界で、ある種そういうものだと割り切って諦めていたところがあった。
    そこに響いたその事実は、その日少しだけ僕の中の認識を変えた。
    「お言葉は有難いのですが、その、かなり方向性が違うので……本当に大丈夫ですか?」
    行き詰まっている製作から生まれた不安が篭った言葉を口にすれば、電話口からはからっとした笑い声が聴こえた。
    それは紛れもなく、彼の優しい笑い方で。
    『ご心配なさらなくて大丈夫です。元々制作陣が浮奇さんの曲のファンで今回ご依頼させていただくに至ったので。寧ろ定石通り作られたものより、型破りな方が面白いでしょう?』
    くす、と笑った声が身体中を血液と共に駆け巡った。
    ときめきが心臓を貫いて、耳元で高らかに鳴った。
    「わ、かりました。わざわざお電話ありがとうございます。誠心誠意努めさせていただきますので」
    『はい。期待していますね』
    そう言ってその電話はあっさりと切れてしまった。
    おそらくマネージャーの仕事用のものであろう黒基調で合成皮革のカバーに包まれたスマートフォンを手に呆然とする。
    まるで穏やかなやり取りだった筈なのに、僕の心は春の嵐が通ったかのように荒れていた。
    胸を抑える。あれは疑いようのない彼の声だった。
    この期に及んで知らないふりをしたいのか、ただひたすらに仕事モードなのか。
    その二択なら後者がいいな、だなんてまた性懲りもなく考えてしまう自分を脳内で密かに嗤った。
    今度はやっとノックの音がして、ひょっこりと顔を出したマネージャーと目があった。
    「だ、大丈夫……でした?」
    怯える小動物のような表情から窺うには、僕のただならぬ様子が伝わったのだろう。
    「うん。まあ。仕事のほうは、ね」
    ため息を吐きながらがっくりと肩を落とせば、きょとんとした顔で素早くスマホを回収された。
    もうちょっと気にしてくれてもいいんじゃないか、なんて口を尖らせながらも、足早に去っていった影を追い掛けていてもなんの意味もないので、改めて追加された情報を考慮に入れながら作業に戻ることにした。
    彼の穏やかな熱を灯した声がいつまでも消えてくれずに、この日の製作ではドラマの雰囲気に合うものどころか自分の作風ですらないチープな恋の歌しか書けなかったのはここだけの話だ。



    「まじで、何考えてるかわかんない」
    音を立ててグラスを机に叩きつけ、浮奇はそう愚痴を零した。
    苦笑するのは、これまで何人もの彼氏との出会いを提供してくれた所謂そういう系のバーの店主である。
    「よく連れてきてた、あの子でしょ。ほら、珍しくあんたのほうがベタ惚れだった」
    「黙って」
    ぎろりと睨みつけるも、付き合いの長い彼は肩をすくめるだけだ。
    付き合いが長いのは良いことだが、もう少し客として待遇してくれてもいいだろう。
    このバーはそういった場とはいえこの彼の采配で強引なお誘いなどは禁止されており、ぱっと見誰もそうは思わないほどに小洒落たバーとなっている。
    その気がないときは彼に愚痴をこぼしながら、ただただ美味しいカクテルを嗜めるのが癖になり、気付けばもう何年も利用しているのだった。
    「それより、新曲凄く良かったわよ」
    氷が泡と混ざり合うように溶けていくのをぼぅっと眺めていると、目の前のよく見れば整った顔がそんな褒め言葉を放ったので瞳を輝かせた。
    「聴いてくれたの?ありがとう」
    素直に嬉しくてそう微笑むと、彼は視線を逸らしてため息を吐く。
    「あんたほんと笑顔だけは国宝級ね……じゃなくて、今までの曲の中では個人的に一番好みだった。アルバムは出さないの?」
    浮奇は今までデジタルリリースの形式でしか曲を出したことがない。
    時代の流れに合わせて、と社長は良いように言って誤魔化しているが、つまるところ予算がないのだ。
    それでも月九ドラマの主題歌ともなればチャンスが巡ってくるのは明白だろう。
    「近く、もしかすると、ね」
    酒が回ってきてにやにやを抑えきれずにテーブルに勢いよく伏せれば、頭上にいる彼は歓喜の声を上げた。
    「おめでとう。絶対に買うわ」
    「ん。楽しみにしてて」
    心からそう思っていったものの、現状は何もかもが上手くいっていない。
    その愚痴をこぼしにきたのに、堂々とそう言い放った手前まさにその曲の製作に行き詰まっているのだとはとても言えなくなってしまった。
    「それで?さっきからため息ばかりなのは例の元カレのせいなの?」
    「まぁねぇ…………」
    「言っとくけど私、あれから何回か会ってるわよ」
    反射でばっと立ち上がり、息を荒くして問い詰める。
    「いつ。どこで。なんで」
    「一番近くだと……半年前にここで。あんたと何度か来たときに居心地が良かったんだと」
    たったその一言で感情がおもちゃ箱をひっくり返したようにぐちゃぐちゃになり、また上半身から崩れ落ちるようにして椅子に座った。呆れた息をついた目の前の人が悟ったように語り始める。
    「……あんまり人様の心に土足で踏み込むようなことはしたくないけど、あんたさてはまだ忘れられないのね」
    「うるさい」
    正直なところ、否定をしなかったのがどうしようもない答えだった。
    彼と別れてからも何人かと付き合ったが、もう二度と人を好きにはなれないのではないかと絶望するほど、その誰にも僕の心は頑なに動かなかったのだ。
    「…………もう恋人できないかも。気付けば一年もフリーだし」
    プライドも寂しさと夜にすっかり溶けてしまって、また大きなため息と共にそう零せば不意に彼の温かい手が頭に乗った。
    「大丈夫よ。あんたはかわいいから」
    あの人の手は冷たかったな、なんて考えてしまうのはもう末期症状だろう。



    「浮奇さん!進捗はどうかってファルガーさんが!」
    「ファルガーさんがデモの期限についてお話があると……」
    「えーっと……特に重要な連絡はないけど進行具合をお聞きしたいらしく……」
    「うるさーーーーい!!!!!!」
    僕はこの二週間で実家のソファーのように感じてきた手触りを手元に、電話口でついに叫んだ。
    はっと口を塞ぐも、時既に遅しだ。
    静かな空間に響くノイズが喉を締めるようだった。
    いたたまれない気持ちでいっぱいになったその時、耳元からは釣られるくらいの大笑いが聴こえた。
    『流石にちょっとからかいすぎたな。悪かったよ、浮奇』
    「ふ、ふーふーちゃん……?」
    『何だその反応は。まさか本当に気づいていなかったのか?』
    「違うよ!ただ、今まであまりにも他人行儀だったからちょっと混乱しちゃってて……」
    『すまない、どう接しようか迷ってるうちにこんなことになってしまってな』
    ははっと笑う彼に笑いごとじゃないと頭をはたきたくなった。隣にいたら容赦なくそうしていただろう。
    「大体、電話するならいちいちマネージャーの番号じゃなくてもいいじゃんか……おかげで今ふーふーちゃんうちの小さな事務所内ではちょっとした有名人だよ」
    『ごめんって。半分ぐらいはほんとに用のある電話だったから』
    「半分の用のない電話やめて」
    他愛のない会話に、あの頃まで簡単に引き戻されるようだ。
    真っ暗なPCの画面を見るまで、自分がこんなにも幸せそうな顔をしているだなんて、知らないままだったのに。
    『浮奇。相談なんだが』
    改まった声が聴こえて、肌にぴりっと弱酸性の緊張が走った。
    「はい。なに」
    息を吸う音が、静かな室内には大きく響いたように聞こえた。
    『俺の家にこないか?』
    は、という音は飲み込んで消して、その糸を必死に掴んだ。
    見つけた一筋の光をみすみす見逃すなんて、僕にはとうにできなかったのだから。



    「ここが、防音室」
    あの誘いから僅か二週間。僕は最低限の荷物、といってもかなりの量になってしまったものを迎えに来てくれた彼の車に乗せて、軽い引っ越しのような作業をした。
    この間の言葉に込められた意味はこうだ。
    事務所のひとつしかない防音室をずっと一人占めにするわけにはいかないし、かといって自宅の設備では限界がある。
    曲作りがスムーズに進まない上、初めての長期間での作業に多くの問題が生じていた。
    彼はそれを何度かの電話で律儀に感じ取ったらしい。
    自宅に丁度防音室が一室だけ備わっているため、住み込みで作業に使ってはどうかとの提案をしてくれたのだ。
    その申し出に僕は有難く甘えることにした。断言しておくが、決してそれ以外の意図などない。
    「考えたんだが、防音室と近いほうがいいかと思ってな」
    まっさらで機能性にも大変優れていそうな防音室を一通り感心しながら観察した後、そう言って案内されたのはすぐ隣の部屋で、自宅の寝室の二倍近くは広いそれに少し怯んだ。
    「えーっと、これもしや、ふーふーちゃんの寝室より広いんじゃない……?」
    「気にするな」
    彼は呑気とも取れる表情でにこにこ笑っている。何を考えているのやら。
    交際していた頃こそ読めない人だなと思ってはいたが、再会してからは彼のことが更によくわからなくなってしまった。
    「じゃあ、遠慮なくお借りしておく。ありがとう」
    またふんわりと笑う彼からは、昔僕があげた香水の香りがした気がして、いつまでもそんなことを考える心臓あたりを手のひらでぴしゃりといなす。
    「大体は運び込んだし、昼でも食べるか?浮奇さえ嫌じゃなきゃ俺が作るよ」
    「いいの!?」
    脊髄で食いついてとても後悔した。
    仕方がないだろう。彼の料理は贔屓目なしで最高に美味しいのだ。
    「ああ、もちろん」
    一層空気が上機嫌になったのを感じて、ならいいかと考えを改める。
    短い間とはいえ住まわせてまでくれるのだから喜んでもらっておいて損はない。
    ずる賢い頭に呆れながらも、確かに高鳴る鼓動を聴いた。
    彼が作ってくれた料理は瑞々しい檸檬の香りがして、初恋みたいだ、だなんて幼い思考を擽ったく思う。
    その夜は微睡みながら更けてゆき、早朝から始めた作業はたった数小節分でも遥かに進んだ気がしていた。



    「てことでさ、今ふーふーちゃん家で寝泊まりしてるんだけど」
    「馬鹿なの?」
    間髪入れずに言葉の鈍器で殴られ、頬を膨らませる。
    今日もまたいつものバーに来ていた。
    最近は来店する回数が一段と増えた気がする。
    「馬鹿じゃない。少なくとも曲作りには真摯に取り組んでる」
    それなのに、どうしても上手くいかない。
    僕の不自然な様子を窺い見ていた彼はピンときたように言った。
    「……もしかして、曲作り上手くいってないの?そんなの初めてじゃない?学生の頃さえ一日あれば作れたとか言ってたのに」
    「うるさい」
    こう暴言を吐くだけでは肯定したことになってしまうのだと、いつになれば僕は学んでくれるのだろう。
    不貞腐れて、木でできた机の肌に吸い寄せられるようにして頬を寄せていると、頭上から新たなため息がひとつ。
    「具体的に聞いてもいいかしら。どんなふうに上手くいかないの?」
    カウンターに肘をのせて優しい顔つきで問うその人は、きっと浮奇が本気で苦しんでいることに薄々勘付いてくれていたのだろう。
    そう出られると赤裸々に話す他なくて、抱えていた言葉たちが口を滑り落ちるように出ていく。
    来店時の鈴の音と共にやってきた冷たい温度の風は、暖房が裂いてぬるく濁した。
    「再会しちゃったから、だと思うんだけど。曲作ってると嫌でも彼のこと考えちゃって。その、なんていうか、変な感じになるんだ」
    「変?」
    「歌詞とか曲調とか、聴いたことのないくらい甘い音が出たり、優しい色に染まってたり」
    観念して口にすれば、その事実は現実味を帯びてお腹の深いところにすとんと落ちた。
    本当に厄介な元カレだ。
    この数日で確信した。僕はもう一生恋愛なんてできない。
    「いいんじゃないの?」
    「へ?」
    思ってもみない角度から飛んできた言葉に驚いて目をぱちぱちさせた。
    「いいんじゃない、って言ったの。だって、それもまっすぐなあなたの音楽でしょ?」
    優しい眼差しの輪郭が、僕を惑わせている彼と微かに重なって。
    ひとつ声を出せば泣いてしまいそうで、全て流し込むようにグラスを呷った。
    「ん。頑張るわ」
    会計を済ませ、健気に手を振って見送ってくれるその姿を背に、夜風にあたりながらやや不安定な足取りで店を後にした。
    随分前に少しだけ、彼とは恋仲のようになったことがある。
    多分彼は、今もきっと。
    その思考にもう何度目か至った僕は考えるのを辞めた。
    その狡い心をからかうように、冷たさを抱えた空気が頬を擽っていた。


    大切な友人からの貴い助言を受けた次の朝、僕は感じるそのままに書いてみることにした。
    そうするとすらすらとサビまで完成してしまい、その呆気なさに放心する。
    気分転換にとカーテンを開ければ、外はもうすっかり暗くなってしまっていた。
    部屋を出て向かったリビングルームには、お風呂からあがったばかりのふーふーちゃんがいた。
    ソファに寛いでテレビを見ていた彼が、気配に気づいたのか笑顔を咲かせて振り返る。
    「浮奇!」
    歳月の経過というものの定義を、彼の周りの空気だけ間違えてるに違いない。だってもう二年が経ったのに、別れたあの日より幼く感じるのだ。
    「髪乾かさなきゃ、風邪ひいちゃうよ」
    滴る水滴にそっと息を漏らし、曲作りの進展にふわふわとした意識のまま、ドライヤーと新品のタオルを両手にして駆け寄った。
    その足元では僕にと用意してくれていた紫色のスリッパがぱたぱたと鳴る。
    細くて柔らかい銀に光る髪にそっと触れ、優しく拭きながら冷風で乾かしてやると猫みたいに目を細める彼が視界にフレームインした。
    「ありがとう」
    「………………別に」
    しまった。つい付き合っていた頃の習慣で行き過ぎたことを。恐らく曲作りで不規則になった睡眠も一助となっている。
    もう始めてしまった以上はどうしようもないので、ただ事務的に目の前の髪を乾かすことだけに集中する。
    夜のバラエティ番組の笑い声だけが、小さな音量で響いていた。
    「そういえば浮奇、今付き合っている人はいないのか?」
    唐突に切り込まれて軽く心臓が爆発する。
    少しして、もう考えれば二年の時が経っているので、彼にとっては所詮過去のことなのかと思い至れば今度は吐き気がした。
    「いないよ。いたらこんなこと許してくれないでしょ」
    「それは確かに」
    ははっと笑う彼に力が抜けていく。
    何を考えているかはちっともわからなくとも、彼とふたりきりの空間はどんなときも世界で一番居心地が良い。
    「まあ、許してくれる珍しいやつも知ってるが」
    にこっと微笑んだ彼に確信した。こいつ、多分今恋人がいる。
    「幸せそうで、何よりだね」
    厭味ったらしくそう口にすれば、ぱちぱちと瞬きする彼。
    胸がぐぅっと圧迫されて鳴いた。冷ややかな自分の視線とは正反対に心は複数の傷が付いていた。
    この優しい籠に囲われた日々に、いつの間にか微かにだって期待していたのだろう。
    「なんで、」
    「ん?」
    「……なんでもない」
    臆病な言葉は心が握り潰してしまった。
    ちっともその人の真意が図れないままに、時間だけが過ぎていく。
    まるで穏やかな夜を秒針だけが揺らしていた。





    彼と出会ったのは五年前で、ちょうど輪郭もぼやけた春の真ん中だった。
    青々しい空からは細やかな雨粒が溢れるようにして降ってきて、戒めるように頭を叩いていた。
    そんな日に、僕は路地裏でひとりしゃがみ込んでいた。
    「どうしたんですか?」
    ぐずぐずと鼻を鳴らし、感傷と憤りに浸っていると。
    ふと周りから静かな雨音が消えて、あたりには丸い影が差した。
    ゆっくりと顔を上げれば、そこには傘を僕の方に差しながら心配そうな顔で見つめる男の人がいた。
    銀色の髪が動きに合わせてさらさらと揺れ、春の空気には輝きの粒が混ざっていた。
    「……あ、えっと」
    ぼぅっと数秒食い入るように見つめてしまってから、自分の置かれた状況にやっと気がついた僕は慌てて目元を拭った。
    「大丈夫です!それより、お兄さんが濡れてしまうのでお気になさらず!」
    そう言って傘の布地部分を押し付けるように彼の方へ戻せば、その強引さに彼が少し笑った。
    「じゃあ、」
    見たこともないほど優しい顔で微笑む目の前の人は、右手の手のひらをこちらへ差し出していた。
    その意味に気がついた僕は、今しがたの出来事を忘れ、恐る恐る右手を合わせる。
    軽々と引き上げられて、また篭った雨音が聴こえる。
    「一緒に入るのは、どう?」
    多分、この瞬間。
    今だからわかる。僕は呆気なく恋に落ちてしまった。
    「ありがとう」
    ときめきに染まりそうな頬を精一杯影に隠していた。
    「目的地まで送るよ。知られるのが怖ければ途中まででも」
    既に僕は心の中で、この細い糸のような雨が止まないようにと縋り付くような祈りを捧げていた。
    「じゃあ、お言葉に甘えて。十分くらいでつくと思うから」
    「ん」
    もっと遠ければよかった、なんて思ってしまう浅はかな心に笑った。
    静かな雨音に揺られながら、穏やかな色の付いた空気が肌に吸い付いては離れたり。
    ふたりの間で揺れていた手の甲が優しく触れ合い、やがてそっと握られた。
    「君の名前は?」
    「浮奇ヴィオレタ、です」
    「うき、か。素敵な響きだな」
    「お兄さんは…?」
    「ファルガー・オーヴィドだ」
    ファルガー、ファルガー、ファルガー…………
    「ふーふーちゃんだね」
    「今の五秒間でなにがどうなったんだ」
    つっこみながらも彼の顔は依然として笑顔のままで、それを微かに窺っていた僕は安心する。
    雨音は果たして願いが届いたのか、一定の同じリズムを刻んで、空気を程良く流してくれていた。
    「あ、ここ。僕の家」
    「へえ。凄く素敵な外装だ」
    こだわって選んだ我が家を褒められて浮かれた僕に、じゃあ気を付けてな、とどんな人類も落ちてしまいそうな微笑みを浮かべてからすぐに立ち去ろうとした彼の手首を慌てて掴んだ。
    勢いのままに引っ張ってから、きょとんとした顔にやってしまったという焦りが募る。
    「あ、えっと、その……雨まだ降ってるし、良ければお茶でもどうかなって」
    強引に引き付けておいて急にあたふたし出した僕に吹き出した彼は二つ返事で頷いてくれた。
    「君さえいいなら、ぜひ」
    あとから聞いたところこのときは、前の恋人に情熱的すぎると怒られたのでアタックするのに躊躇っていたそうだ。
    そっと指先を掬われ、何度目かにこっと笑い掛けられた。
    きっと前の恋人さんは、他の人がこの笑顔に落ちてしまうのが耐えられなかったことだろう。
    その日の穏やかで暖かい時間の後、ようやく僕は彼に恋をしたと自覚したのだった。





    一度事務所に寄ってから、今日は数か月前に仕上げていた別の曲の収録をしに近くのスタジオまで歩いてきていた。
    小さな事務所故に、充分な設備が整っていないのは段々と大きな問題になりつつある。
    だがそれも僕が精一杯稼いでやればいいだけのこと。
    そう思って入れ直した気合は、その歩幅をも自然と大きく変えた。
    その時だった。道路を跨いだ反対側の歩道に、彼を見かけたのだ。
    つい反射的に手を振ろうとしてからその姿をまともに認めると、僕は半端に掲げた右手を瞬時に左手で掴んで下ろした。
    隣に、女性が立っていた。
    すらっとしていて、遠目に見てもとても綺麗な人。風に靡く銀髪が街の中でも一際目を引いている。
    僕は驚いて、立ち竦んだ。
    彼の口から聞いたことのある恋愛といえば、相手は皆男性だったからだ。
    一体どのくらいそうしていたのか、やがて額をすっと透明な汗が流れた。
    それを合図にはっとして時計を見れば、約束の時間はもうとうに過ぎてしまっていた。
    「遅くなってしまってすみません!」
    駆け足で向かったその日の収録がぼろぼろだったのは言うまでもない。
    何テイクも取り直し、結局納得できるほど入れ込めなかった僕はお願いして収録をまた次回に回してもらうことにした。
    足取りだけが鉛をくくりつけたように重く、心すらも痛いほど締め付けていた。


    帰宅して、ふとピアノに手を伸ばした。
    そこから悲しいメロディが、躍るように生まれる。
    自我もなく夢中でギターを掻き鳴らし、朝になれば曲が完成していた。
    心は何処かここではない場所に浮かんでいて、妙な高揚感だけが身体を支配していた。
    出来上がったのは、ふわふわとした甘くて柔らかい愛と、どうしようもなく心を縛る深い哀しみを織り交ぜたような歌。
    酷く満足していた。だって、今までで一番の出来栄えだと確信していたから。
    今にも崩れ落ちそうな姿勢で椅子に座っていた僕はその背をしゃんと立て直し、かたかたと鳴らしたキーボードのエンターキーを力強く叩いた。
    途端に襲ってきたのは眠気で、意識は簡単に暗闇へと墜ちていく。
    そのまま机に伏せて寝落ちてしまった僕は、気が付くと優しい香りのするベッドに寝かされていた。
    夢の中では彼が、まるで愛しいなにかに触れるようにお姫様抱っこをしてここまで運んでくれていた。
    その温かい眼差しはまだ恋人のままみたいで、こんな夢になら囚われてもいいと一瞬本気で思った。
    つうっと頬を伝った涙は現実だったのだろう。
    僕はそこで、意識を手放してしまった。





    懐かしい、愛おしい夢だった。
    彼と僕が付き合っていた日々の思い出をありったけ詰め込んだようなそれに、僕はまるで雲に包まれたような温かい目覚めを迎えた。
    反芻しながら幸せな気持ちに浸る。ずっと心を占めていた曲がやっと完成したことも、大きな理由だったのだろう。
    出会ったあの日、なけなしの勇気を振り絞って連絡先を交換した僕は彼と驚くほどすぐに再会を果たすこととなった。
    それも、彼の方から連絡が来たのだ。「デートしないか」と。
    そのメッセージを口にしながら悪戯っぽくウインクをする彼を脳裏に浮かべてしまい、心臓の鼓動は速まるばかりだった。
    その日連れられたのは知らない隠れ家レストランで、店内には僕らと、頭のてっぺんから爪先までお洒落な店員さんだけだった。
    そのままの木を活かして作られたというその内装は息を呑むほど美しく、見れば見るほどに楽しいものだった。
    「気に入ってもらえてよかったよ」
    そう言ってふわふわと笑う彼はその雰囲気に酷く合っていて、一層素敵に見えたのだからしようがない。
    美味しくて彩り豊かなフルコースを食べ、こんなサプライズを用意していてくれた彼に対する気持ちが大きくなると同時に、自分の現金さには嫌気が差した。
    自分の打算的なところを、本当はずっと苦手に思っていたのだ。
    その因果かはわからないが、今まで本気で真っ直ぐに人を好きになれたことは一度としてなかったのだった。
    いつ済ませたのかもわからないお会計後も尚嬉しさを隠さずに細められた瞳に見つめられ、初めて心から好きになるのがこの人ならいいと心から思った。
    帰り道、僕らは手を繋いで街を歩いた。
    雑貨屋さんや屋台なんかを流し見しながら、好き勝手なことをつぶやけば彼が笑ってくれる。
    どんな些細な言葉でも聞き逃さない彼の耳には魔法がかかっているみたいで。
    気づけばあっという間に家まで送り届けられ、手を振って彼の背中を見送り終えるとしゃがみ込んで泣いた。
    どうしようもなく満たされていた。たった今日のこの夕方の数時間だけで、人生の全てが報われたような気がして。
    それはあの一瞬から恋で、そして今日この瞬間から愛になった。
    僕は確かな決意とともにその夜、初めて自分から約束を取り付けるメッセージの送信ボタンを押した。


    次のデートの日。僕は彼を楽しませたくて、デートプランを夜も眠らず考えたが、どうしても結局は自分の好みの場所ばかりになってしまって少し気恥ずかしく思っていた。
    それを予め断れば、「浮奇の好きな場所に連れて行ってくれるなんて嬉しいよ」と跳ねるような声色で言われ、危うく膝から崩れ落ちるところだった。
    最初に行ったのは、アンティーク調のカフェ。
    浮奇の住む家からでもバスで三十分ほどかかるため、交通手段はどうしようかと電話口でぽろっと零せば「俺が車を出すよ」とのお誘いがあったので一も二もなく飛び乗った。
    運転ができるだなんて。そして、助手席に乗せてもらえるのか。
    幸せに緩みきった口角をなんとか抑えながら、迎えに来てくれたその車に乗り込み、初めて見た運転する彼の横顔がフィルターでも掛かったように輝いていたのは言うまでもない。
    免許を持った元カレなんていっぱいいたし、何度も助手席には乗ったことがあったのに、知らないときめきが心を埋め尽くしていた。
    カフェではお茶をしながら他愛もないことばかり話した。
    それだけなのに、窓から迷い込んでくる穏やかな春の色を纏った空気に一際華やぐ彼の笑顔を見るだけでそれはどうしようもないほどに幸せな時間になっていた。
    そのまま、この間は流し見してしまった商店街をぶらぶらと散策する。
    どうやらこの辺りは彼の家からも離れた地であるようで、お互い物珍しいものを見掛けては報告して笑い合った。
    彼が勧めてくるちょっと挑戦的な異国の料理だったり、少しセンスのズレたお土産なんかを見るたび隠せず顔を顰めれば、嬉しそうな笑い声を聴かせてくれる。
    とくとくと一定の速さで鳴る心臓と共に、ゆっくりと日は落ちていった。
    気付けばすっかり辺りは薄暗くなっていて、かじかむ指先をこっそり握ったり擦ったりしていると、彼の僅かしか変わらない温度の手がそれを掬った。
    僕らは何も言わず、ただ繋がれた指先に想いを込めて近くのコインパーキングに駐車していた車まで戻る。
    乗り込めば、外の寒空からは乖離した穏やかな静寂が空気に満ちていく。
    最初に息を吸ったのは、僕の方だった。
    「あの……今日は、付き合ってくれてありがとう」
    そんな一言発するのにも勇気が要って、どこの初恋だよとやっぱり嗤いたくなる。あながち間違いでもないのだからたちが悪い。
    「こちらこそだよ。浮奇のお陰でとっても楽しい休日になった」
    にっこりと笑い掛けられながら名前を呼ばれただけで、心臓はもう簡単に音を上げてしまう。
    「……ふーふーちゃん」
    「なに?」
    幸せそうな彼を見て、心の殆ど壊れていた鍵がゆっくりと開いて落ちる。
    彼が僕を見て、不思議そうな、心配そうな顔をする。
    「浮奇……?泣いてるのか?」
    「へ?あ、あれ。おかしいな」
    誤魔化すように笑いながら目元を隠して拭えば、不意に温かい身体に抱き締められた。
    「大丈夫だ」
    背中を擦られ、子どものようにしゃくり上げて泣くことこそ最後のプライドにかけてできなかったものの、声を抑えてぽろぽろと泣いてしまう。
    何故泣いてるのかと問われたところで、理由はもうとっくに具体的なものではなくなっていた。
    そもそもずっと僕はこんな愛を求めて生きていたのだ。そう正面から叩きつけられた気分だった。
    こんな優しさ、僕には勿体ない。
    でも、もう知ってしまった。
    知ってしまったら、それなしで生きてはいけないのだ。
    優しい彼は、涙の理由を聞いたりはしない。
    それが有り難くて、本当に、堪らなく好きだった。
    「ふー、ふーちゃん、好き、好きです」
    息も絶え絶えに必死の告白をしたなら、背に回された腕の力が少しだけ強くなる。
    「……浮奇」
    そっと顔が離れた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔を好きな人に晒すのはとても恥ずかしくて、それでもきっとこの人ならいつもの優しい顔で笑ってくれるのだととっくのとうに解っていた。
    「遅くなってごめん。君を愛してるよ。だから、もし良ければずっと、俺のそばにいてくれるか?」
    今度は違う涙が込み上げてきて、必死に溢しながら首を縦に振る。
    唇が重なって、彼は心底愛おしそうな瞳で僕を見る。
    それが耐え難く嬉しくて、壊れた心が喜びの音を鳴らした。
    僕と彼は、恋人になった。





    真新しい空気が肺を柔らかく占め、僕は優しい決意を胸にその扉を開いた。
    「ふーふーちゃん」
    「浮奇、おはよう!」
    起きたのか、といい匂いのするキッチンから駆け寄ってくる彼。
    こんなにエプロンの似合う男を僕は知らない。
    おはようと返して、それからひとつ息をして言った。
    「曲ができたんだけど、聴いてくれる?」
    たった一言、そして僕の真剣な顔から、彼は全部を汲み取ってくれた。
    一瞬にして色の変わったその眼差しはどうしようもなく真っ直ぐで、少しだけ泣きたくなった。
    ふ、と表情を崩して挑戦的に微笑んだ筈が、きっともう僕は蕩けるように優しい顔をしていただろう。
    「ドラマ制作のスタッフの一員である、ファルガー・オーヴィドさんとして、ね」
    彼はコンロの火を素早く消して、すぐに部屋までついて来てくれる。
    部屋に着いて、クリックする指先はずっと震えて、僕はひとつ深呼吸をした。
    あとの役目はただ、出来上がったそれを流すだけ。
    制作陣の一人として、とは言ったもののこれはまだ仮音源でしかなく、事務所からだってなんの返答も貰えていないものだった。
    それでも僕は、僕の音楽を一番に信頼してくれていたこの人に最初に聴いてほしかったのだ。
    それは私情だとしても、余りあるほどに純粋な気持ちだった。
    決意を固めて、カーソルを合わせてクリックする。
    特徴的なイントロに、少しすれば僕の声が混じり合う。
    普段よりも目立つ吐息を散りばめて、とにかく深く、優しく歌った。
    脚本から感じる切情を生かして、でも、曲単体でも人によって違う感情を溶かせるように。
    六割の情熱と四割の理性で成り立ったその曲を聴き終えたとき、彼は泣きそうな顔でこちらを見て一秒、僕を抱き締めた。
    その温かい匂いに胸が痛いくらい締め付けられて、僕は必死で逃がすようにぎゅっと両目を瞑った。
    「めちゃくちゃいい曲じゃないか!みんなにも聴かせてきていいか?」
    彼の腕に強く抱かれたまま真剣に勢いよく問われ、僕は押されるがまま頷いた。
    今日は折角のお休みなんだから明日でいいんじゃない、というささやかな静止は振り切って、それでも僕の朝ごはんだけはしっかりと作り終えてから彼は飛ぶようにして家を出て行ってしまった。
    前に一席空いたまま食べる久しぶりのご飯は少し寂しくて、一緒に食べてから言えばよかった、だなんて口を尖らせてみる。
    彼の分はラップに包んで冷蔵庫へ入れておき、寂しい気持ちを持て余したまま自分の使ったお皿を洗う。
    リビングルームに満ちた静寂に、曲を聴いた彼の泣きそうな顔を思い返しては瞳が潤んだ。
    曲は完成した。きっと彼とは、もう会えなくなるだろう。
    せめて、幸せでいてくれますようにと、抱えきれないほどの愛が祈りなんかを捧げていた。
    熱の籠もって乾いた空気が虚しく、鼻を擽った。



    やっと凝り固まっていた心労が溶けたようで、脱力したようにベッドに寝転び、気付けばそのまま寝てしまっていた。
    見たのは昨日の夢の続きで、僕は眠ったことをとても後悔した。
    恋人になってから彼と過ごす日々はとにかく、天と地がひっくり返ったように幸せであった。
    元カレたちとは全てが違って、もう比べることもできないほど。
    とにかく、たった指先が触れ合っただけで幸せになるのだ。
    彼は、この世の価値のある全てを掻き集めたって成り得ない宝物を触るみたいに僕に触れる。
    それが堪らなく嬉しくて、もう離れられないほど好きにされてしまった。
    「…………どうしよう、僕がふーふーちゃんを振る未来が見えない」
    とある休日、僕の家で映画の鑑賞会をしていた。
    昼から始めたのでちょうどひとつ見終わり、紅茶を飲みながら感想や関係のないことをだらだらと話していた時。
    ふと何気なく零せば、微かに驚いたような、それでも自信と余裕に溢れた表情がこちらに問いかける。
    「振るつもりだったのか?」
    「ち、違うよ。でも、僕がふーふーちゃんを振らないってことは、ふーふーちゃんが僕を振るってことだから……」
    想像するだけでしんどくなり、語尾を曖昧に濁した。
    あまり、そんな遠い未来のことは考えたくない。そして遠くあればいいと切に願う。
    うーんと唸りながら頭を抱えた僕に、彼は吹き出した。
    「どうして別れる選択肢しか君の頭にはないんだ」
    呟くような声と共にそっと手を掬われ、自然と顔を上げればどんな日の太陽より眩しい笑顔がそこにあった。
    「一生、一緒に居ればいいだろう?」
    そんなふうに永遠を誓われては、すっかり骨抜きにされてしまっている僕は堪らなかった。
    「………………一生一緒にいてくれるの……?」
    「もちろん」
    そう言った彼の口により、僕の手の甲にはキスが落とされる。
    夢みたいに格好が良い恋人を前に、僕はきっと毎日途方に暮れていたのだと思う。


    僕が生まれて初めて手にしたそんな柔らかい愛情を失ったのは、二年前の雨の日だった。
    気持ち悪いほどの湿気で髪が肌に張り付いて、朝から機嫌を損ねていたのを鮮明に憶えている。
    それでもそんなことはどうだっていいほど久しぶりのデートに心が躍っていて、傘を伝って響く雨音すら祝福の音楽のように聴こえていた。
    彼の仕事の後からだったので僅かな時間ではあったけれど、夕食を共にし、幸せに浸りきった夜を共に過ごした。
    「実は、転職の目処がついたんだ」
    愛車で例の如く家の前まで送り届けてくれた彼から、そう唐突に打ち明けられた。
    元々大学では映像制作の勉強をしていたそうで、テレビ制作の仕事をするのが夢なのだとそう輝く目で打ち明けた彼を知っていたので、僕は心の底から喜んだ。
    彼はてっきりいつものように、そんな僕の一挙手一投足に柔らかく目を細めてくれているのだと思いきや、見たこともないほど暗い顔をしていた。
    とても嫌な予感がした。童話みたいな例えだけれど、悪魔が僕の全てを奪い去っていくような、そんな予感。
    「決まった仕事場が、ここからはかなり遠くてな。その、……会えなくなるかもしれない」
    真剣に藍色が揺蕩っている。僕は途端に心臓が鈍く真っ直ぐに貫かれたような心地になった。
    「わかった。……大丈夫だよ。一生、僕の側にいてくれるんでしょ、?」
    声が震えていた。顔からは血の気が引いていた。その全てに気づかないふりをした。
    「浮奇」
    どうしてそんな、泣きそうな顔をするのだろう。
    その先の言葉を聴きたくなくて、僕は勢いよく言葉を紡いだ。
    「わかった。全部、わかったから。もう……言わないで」
    涙を隠すように顔を覆えば、耳元にはキスが降ってくる。
    そんなお情けみたいなキス、嬉しくなんてないのに。
    心は確かに一度跳ねてしまう。僕はいつからこんなにも彼のことを好きなのだろう。
    「浮奇は、事務所が決まったんだろう?」
    毎日生活費のためせっせと働きながらもフリーでミュージシャンをやっていたところ、つい先日路上にて小さな事務所ではあるが社長直々にスカウトを受けたのだ。
    どうして知っているのか、なんて問う心の余裕はもう一欠片も残されていない。
    その報告を今日するつもりで、きっと君なら顔をくしゃくしゃにして笑ってくれるだろうって、僕の髪を優しく撫でて褒めてくれるだろうって思っていたのに。
    その顔が見たくて、今日ここにやってきたというのに。
    感情が心の鍋の中でぐちゃぐちゃになって、何がなんだかわからなくなった。
    ただそれはどうしようもなく、寂しい味をしていた。
    「……そうだよ。やっと音楽に専念できるんだって、凄く嬉しいって、そう一番最初に報告したかったんだ」
    開き直って真っ直ぐに見据えるけれど、頬を絶え間なく伝う涙がきっと全て台無しにしている。
    「よかったな、本当に、おめでとう」
    彼が潤んだ瞳で、自分のことよりもずっと嬉しそうに言うので胸が苦しくなる。
    別れ際にこれ以上好きにさせてどうしようっていうのだ。
    「……好きだよ、ふーふーちゃん」
    もう抱えきれなくてその肩に頭を預ければ、優しい手のひらがそっと撫でてくれる。
    願っていたのとは随分違うけれど、いっそこのまま死んでしまえたらいいと思った。
    「浮奇。俺も愛してるよ」
    お互いに同じ想いなのに、どうして別れなくちゃいけないの、なんて子どもじみたことはどうしても言えなくて。
    恋愛の、空気を読むことは昔から得意なのだ。今まで感謝こそすれ憎むことなどなかったそれを初めて手放したくなった。
    本当は今日会ったときから薄々勘付いていた。
    でも、彼があんまり寂しそうに笑うから、僕は何も聞けなくて。
    「浮奇、……別れよう」
    とどめの一言が、喉にひゅっと冷たい空気を通した。
    俯いて、暫くしてそっと一度微かに首を上下させた。
    「………………さよなら」
    最後に一度、当てつけみたいにキスをした。反応を見ることもなく、急いで鍵を開けて家に飛び込む。
    暗い室内でじっと息を潜めていると、やがてエンジン音が遠ざかっていく。
    ほっとした次の瞬間から僕は嗚咽を漏らして泣いていた。
    苦しくて堪らなかった。振られるのは、こんなにもつらいのか。
    軽々しく扱ってきた元カレたちには謝りたくなった。
    でも本当は、振られたのが他の誰でもなく彼だからこうなっているのだと痛いほどにわかっていた。
    僕は一週間、丁度いいと半ばやけくそで有給消化を兼ねて仕事を休み、その後辞表を出した。
    悔いはなかった。食いつなぐためだけに選んだ職場だったし、ようやく音楽に専念できるのだ。
    彼とさえ出会っていなければ。それこそ僕は今幸せの絶頂期にいたことだろう。
    埋まらない大きな穴は雲隠れして、見つからないほど深くへ入り込んでしまった。
    そんなやるせなさも時折込めながら毎日こつこつと曲を作っていると、少しずつマイナーな層から人気が出始めた。
    それは確かな地盤となり、僕は着々と活動の礎を築けていた。音楽という不安定な世界の中ではとても稀有なことで、それは僕の才能を明るいところまで引っ張り出した。
    段々と仕事が忙しくなるにつれ、彼の存在ごと、恋人という概念が自分の中で薄れていった。
    こうして僕はきっと、正しく歌手という夢の始まりに立つことができたのだった。



    はっと目が醒めて飛び起きれば、涙が慣性のままに頬を伝って流れ落ちた。
    思い出したくないものが返ってきて、僕の心を重たく締め付けていた。今だって、言葉にしようもないくらい好きだったから。
    ゆっくりと気持ちを落ち着けるように窓まで歩み寄ってそのカーテンを開ければ、すっかり夜は更けている。何時間寝ていただろう。
    部屋を見渡せば少しずつ持ち帰っていた荷物はもう僅かになっていて、僕はようやく決意を固めることができた。
    彼の寝ている部屋の前を、足音を潜めて通り過ぎる。
    後ろ髪を引かれて振り返る女々しさに唇を噛んでも、引き留めてほしいと願う心には歯止めがかからない。
    願いも虚しく、冷ややかな外気に当たりながら少し歩いたところでタクシーを拾って乗り込めば、気付けば一か月弱もお世話になってしまった彼の家は簡単に遠ざかっていった。
    淋しくて空っぽな心の何処かでは、柔らかくて蕩けるように甘い居場所が今も確かに存在していた。
    それを抱き締めて目を瞑れば、零れ落ちる涙はもう必要ない。
    さよならとありがとうを込めて、消えもののお菓子と短い手紙を残して。
    これできっと忘れられる、だなんて戯言を掲げて、流れる景色を見ながらただずっと泣いていた。





    数か月後、とうとうドラマがスタートし、それは瞬く間に世を席巻した。
    脚本自体が稀に見る精密さで、恋愛における小さな心情の揺れが上手に描かれていたことも大きな要因だろう。
    一足先にそれをよく理解っていた浮奇は、その一大ブームになんとも言えない安堵と喜びを覚えた。
    そして何よりエンディングで流れた、世間からすればまだ無名の歌手の歌が話題に拍車をかけていた。
    異例の大抜擢だと各社雑誌には見出しが掲げられ、事務所はもう何日もお祝いムードであった。
    「浮奇さん!!やりましたね!!」
    マネージャーのハイタッチにも乗っかってやれるほど、浮奇だってその現状を大変好ましく思っていた。
    なにしろ今までで一番苦労して作った曲だ。これくらいは見返りがないと、だなんて生意気を考えては笑みが溢れる。
    「作業場所を提供してくれた人がいたんだろう?私からもお礼を言わないとね」
    社長の言葉にはっとして、即座に首を振った。
    「元々の知り合いなので、大丈夫です。……僕からまたちゃんと言っておきます」
    「え!?ファルガーさんと浮奇さんって知り合いだったんですか!?どうりでよく電話が来ると……」
    ぺらぺらと話し始めたマネージャーの口を慌てて塞いだ。その名はもう知れ渡ってしまっているのだ。これ以上の面倒は避けたい。
    と思っているうちに向こうのサポートの社員さんたちがざわつき始めたのでもう手遅れかもしれないが。
    このマネージャーの一番直近で見つけた欠点は無駄に声が大きいことだ。
    「お世話になっていたのはあの人だったのかい?」
    抵抗も虚しく、社長までもが驚いた顔をした。
    「まあ、その、はい……」
    浮奇はあの日逃げるように帰ってから、一度も彼と会っていなかった。向こうから来た数件の連絡だって、無視していればあっさりと来なくなったのだ。
    大方初めての月九ドラマの担当で、彼もとても忙しかったのだろう。
    「……彼は浮奇の歌のために尽力してくれていたみたいだね。たくさん挨拶に回って、一生懸命売り込んでくれていたと聞いたよ」
    え、と顔をあげて社長を見ると、その瞳は優しく揺れていた。
    「きちんと、お礼を言っておくように」
    どこか侮れないこの人は、きっと浮奇の現状にほんの少しだけ勘付いている。
    「……はい」


    帰宅して紅茶を入れた僕の指先が、彼の電話番号の照らされた画面の上をひたすらに逡巡していた。
    するとその瞬間に電話がかかってきて、反射的に名前も見ずに取ってしまった。
    「…………もしもし」
    『浮奇!』
    「……ふーふーちゃん」
    どこかそんな予感がしていたが、まさか本当に彼から掛かってくるとは。
    心を読んだみたいなタイミングに、心臓が甘い音を上げてほとほと呆れる。
    一方では、僕の声を聴いた途端に嬉しそうな声が耳元で弾けた。
    それに気が付けば口角が緩く上がっていて、これはもう魔法かもしれないなと困った顔になった。
    『曲、大ヒットだな!浮奇の音楽がようやく認められて嬉しいよ。本当におめでとう』
    「あ、ありがとう……!その、ふーふーちゃんの力をたくさん借りたから、」
    『俺なんてなんにもしていないじゃないか。全部浮奇の力だよ』
    精一杯捻り出した感謝の言葉も、優しい彼にねじ伏せられてしまう。しかも本心なのだからたちが悪い。
    僕は小さく唸り声を上げた。
    「そうじゃなくて、なんていうか、その……ふーふーちゃんの曲、だから」
    言ってしまって焦りを覚える。こんなこと、言いたいわけじゃなかったのに。
    『俺の曲……って、どういうことだ?』
    それでも全く以てピンときていない、心底不思議そうな声を聞けば、色んなストッパーが吹っ飛んでしまった。
    「あの曲、ふーふーちゃんのこと、考えて書いたから」
    それはもう、僕の全てを賭けた告白だった。
    曲を聴けば解ること。きっと、誰より聴いてくれている彼にはもっと。
    恥ずかしくて、居た堪れなくて、返事なんて聞きたくもなくて。
    僕は瞬間的に電話を切ってしまった。折り返しには聴こえないふりをする。
    心音がどくどくと鳴っていた。小悪魔のようだった数年前の僕は一体どこへ消えてしまったのだろう。
    僕はやっぱり魔法使いにはなれないようで、早く明日になれと願って床に就いても一向に目は冴えたままだった。





    あの電話から早くも二か月半。ドラマは今日で最終回を迎える。
    長かったようで短かったその期間だけで、浮奇の人生は文字通り一変した。
    作品と真摯に向き合ってきた俳優さんたちも浮奇の曲をとても気に入ってくれていたようで、クランクアップの日に呼ばれたかと思えば花束まで贈られたのが記憶に新しい。
    久方ぶりの暖かさに包まれて、自然と瞳が潤んでいた。春の陽気も手伝って、僕はとても幸せだった。
    次から次へと舞い込む仕事も、敏腕と呼べるまでに進化してきたマネージャーの捌き方により安定してこなせるようになってきた。
    有難いことに浮奇には固定のファンが多く、このブームも一過性のものではないと安心して過ごすことができたのだ。
    事務所はじきに都心部へ移り、数倍にも大きくなる予定だ。来月にはファーストアルバムの発売に、アニメの主題歌となる新曲発表も控えている。
    「では、今日もお疲れ様でした!」
    「うん。ありがとね」
    少し歩きたいからとマネージャーには家の手前で降ろしてもらい、桜の降る帰路を辿っていた。
    こうやって取り留めのないことを考える時間が、無駄なようで浮奇にはとても好ましく感じられる。
    忙しない日々の中ではそれが一層輝いていた。
    ふと微笑んで、思った。
    こんな日には恋がしたい。
    叶うことなら、春らしいトレンチコートを着た彼と────
    「ふーふーちゃん!!?」
    幻覚かと思って目を擦れば、春景色の中に確かに彼がいる。銀に輝く愛車も一緒だ。
    「浮奇、ドライブに行かないか?」
    いつどんな別れ方をしたって、この優しい笑い方を見れば全てを忘れてしまう、僕は愚かだ。
    愚かで、幸せ者だと思う。
    「……うん!乗せてくれるの?」
    「もちろん」
    たった四文字がじんわりとバターのように溶けて沁みていく。
    軽い足取りで駆け寄れば、助手席を勧められるので恐る恐る乗り込んだ。
    いつまでも彼の隣に居場所があるような心地がして、それだけのことが堪らなく嬉しくて唇を噛んでいると、ハンドルを握った彼がこちらに視線を寄越した。
    「ここは、浮奇の席だろう」
    「…………ずるい」
    ほんの少し怒って、半分泣きそうで、サイドミラーに写る僕はとてもへんな顔をしていた。
    こうして僕と別れてからも、たくさんの人を虜にしてきたのだろうか。
    車は優しい運転をするドライバーの腕により、至極穏やかに発車した。
    時折横顔を眺めては、また外の景色を見てカモフラージュする。案外お喋りな僕は、隠しきれない本音を零しながら。
    「ふーふーちゃんは、格好良いね」
    本気で言えばどんな反応が返ってくるだろうと、試し半分で言ったことだった。
    すると信号で止まって、彼がこちらに微笑みかける。
    「浮奇は世界で一番素敵だよ」
    「………………もう、勘弁して」
    ぷしゅーと起動停止してしまった僕を見てくすくすと笑う悪戯な人。
    景色が窓をさらさらと流れていく。行き先はこわくて聞けないけれど、この幸せな時間がずっと続けばいいと願った。彼といると僕は願ってばかりだ。
    「……ふーふーちゃんのせいで、欲張りになっちゃった」
    「なればいいさ。俺にできることならなんだって叶えるよ」
    真剣に前を見据えたその顔は何を考えていることやら。もうてんでわからない。
    じっと顔を伏せて、また時々彼の顔を盗み見てしまう。信じられないほど格好良いのだから許してほしい。
    そうこうしているうちに車が減速した。
    丁度助手席から見える場所には海が広がっている。
    どこか見覚えのあるそれに、心がふわふわと躍り始めた。
    「ここ……もしかして前に僕が話した、」
    赤信号で問い掛けようとすれば、まだ言わないでと人差し指で口を封じられる。
    いちいち格好良い仕草にまでときめく心臓にはずっとしっかりしろと命じている。
    車を駐車場に停めて外に出れば、昼過ぎの穏やかな陽が背を照らす。
    「それじゃ、行こうか」
    当たり前みたいに手を握られて、これは都合のよい夢なのだと本気で思った。
    「ふーふーちゃん」
    「なんだ?」
    「海、綺麗だね」
    「そうだな。でも」
    一際笑って振り向いた彼を不思議に思うと。
    「浮奇のほうが、綺麗だよ」
    殴られたみたいな衝撃によろければ腰を支えられる。
    僕は童話のプリンセスかなにかなのか。変な錯覚に支配されそうにもなる。
    ダメージを負ったまま連れてこられたのは思った通り、海辺の教会だった。
    真っ白な壁はまだ新しく、今では毎日結婚式が挙げられているとても人気の場所だ。
    ここは付き合って二年目くらいに、僕が一番気に入って何度も話題に出していたところだった。
    そんな場所に、今日は人の気配がない。
    まるで世界から切り離されたように、僕と彼のふたりだけ。
    彼は迷うことなく歩みを進め、気付けば教会の中まで来てしまっていた。
    内装も泣きたくなるほど美しくて、僕は幸せを噛み締めていた。
    「浮奇、」
    「なに、?」
    赤いカーペットの終着点に跪いた彼に、繋いでいた手が掬われる。
    そっと唇が沿う。伏せた睫毛が、窓から差し込む光に透けて綺麗だ。
    「愛してる」
    言いたいことも、言えることも、返せる言葉だってたくさんあったと思う。
    それでも、その手に光る銀の輪を見つけて出てきた言葉は。
    「僕はこの世界で一番、ふーふーちゃんが好きだ」
    透明が瞳から零れた。自分の意志とはまるで無関係なように、溢れて止まらない。
    骨張った指がやがて僕の目元を慈しむように拭った。
    愛だけが、繋いだ手を通してまっすぐに伝わってくる。
    「忘れてくれると、思ったんだよ」
    苦い顔で零す彼が何を言っているのか、僕にはわからない。きょとんとした僕の心を読んだように、彼が言う。
    「俺は、君には釣り合わないだろう。今も…………本当はそう思ってる」
    「ふーふーちゃん……?」
    考える前に身体が動いて、僕の小さな手はそっと彼の頬を拭った。
    その涙は意図せずして流れたようで、彼のほうが驚いた顔をしていた。
    それでも、言葉は途切れることなく紡がれる。
    「君がこんなにも俺を好きでいてくれたなんて知らなかったんだ。だから……本当に酷いことをしてしまって、すまなかった」
    まるでこの二年間彼のほうが苦しかったみたいに痛々しい顔を見せるものだから、僕は徐ろに少し微笑んで見せた。
    「……いいよ。ふーふーちゃんがくれるものならなんでも。痛みでも、苦しみでも、哀しみでも」
    その頬に大切に手を触れ、また驚いたように瞬く顔にキスを落とした。
    数年分の想いを、ありったけ込めて。
    「だって、一生、一緒にいてくれるんでしょう?」
    叫ぶような願いを込めた問いは、柔く優しい声で溶けた。答えはもう、この手の中に。
    彼は凝りもせずまたその顔で微笑むのだから。
    「約束するよ。今度こそ、ずっと」
    唇が重なって、外からは桜が舞い込んだ。
    夢みたいなこの景色を、僕は一生忘れないだろう。





    それから結婚式場の隣のレストランでご飯を食べて、隠し事なんてやっぱり性に合わなかった僕は洗いざらい問い詰めることにした。
    今更彼に嫌われることなんてないのだと、やっと割り切ることができたからだ。
    僕は彼の虜だけれど、彼だって僕に惚れ込んでいるのだから。
    いざそうしてみれば、あの日隣にいた女性はいとこで、指輪選びを手伝ってもらっていたのだと呆れるほどお決まりの答えが返ってきたし、「許してくれる珍しいやつ」に至っては僕のことだったらしい。
    それは見当違いだ、僕なら絶対にどんな事情があろうと別の人の家で寝泊まりするなんて許さないよ、とステーキを切るナイフで高らかな音を鳴らしながら主張したところ、「俺が浮奇以外を好きになる未来なんて想像できるか?」と真顔で問われ、呆気なく白旗を揚げることになった。
    それになんだかんだ、そんな彼のお人好しなところも好ましく思っているのだからどうしようもない。
    いざ友人が困っているから泊めてやってもいいかと聞かれれば、大きなため息を一度ついてから長い沈黙の後にいいよと答える未来しか見えなかった。
    「あの、さ」
    静かな店内に流れるふわふわとした空気の流れを止めて口にして、やっぱり躊躇った。
    これを聞くのには十分な勇気を要する。なにせ、二年間ずっと怖くて聞けなかったことだったのだ。
    それでも目の前の、慈しむように揺れる瞳を見れば大丈夫だと信じることができた。
    「僕たち……どうして別れたの?」
    彼は息を呑んで、逡巡して、ゆっくりと口を開いた。
    「…………浮奇は、大事な時期だったろう。やっと夢の一番近くまで来られた時だった。俺はこの世の誰より浮奇の努力を見ていたつもりだけれど、それでも浮奇自身には敵わない。重ねてきた努力は浮奇だけのものだ」
    表情は読めなくても、誰より僕を想ってくれていたことは言葉から痛いほどに伝わってくる。
    哀しそうな目がこんな時までも微笑んで、僕を確かに映した。
    「…………俺の存在が、邪魔になってしまうのだけは嫌だったんだ」
    指先が震えていた。できるだけ優しく包み込めば、力なく微笑む人。
    「僕のことばっかり」
    「……まあ、世界で一番好きだからな」
    息をするように口説き文句を発していた先程までの彼とは見違えるほどに照れた顔をしてふいとそっぽを向いてしまう彼にとても驚く。
    「なんで今更照れてんの?」
    そう聞いても、色々と耐えきれなくなったのか顔を伏せて起動停止してしまった。つついてみたけど効果なしだ。
    「さては……結構無理してた?」
    「ああ……あんなのは初めから柄じゃないんだ……」
    そう言われて初めてそんな可能性を真剣に検討してみたが、ちゃんと格好もついてよく似合っているので些か不思議にも思える。
    「でも……初めて会った日からずっとそんな感じじゃなかった?まあ、今日は特段凄かったけどさ」
    ふふ、と思い返して笑えば彼がやめてくれと言わんばかりに少し睨んでくる。
    からかうように言葉をかけたりつついたりして、ようやく僕が飽きた頃に彼が小さく呟く。
    「まあ、浮奇相手だったからな」
    今度は僕が照れてしまった。殺し文句だ。
    それにしたって初めて好きな人の照れ顔が拝めたのだから、今日は本当に最高の記念日だ。
    彼が見せてくれる優しくて安心する空気を噛み締めながら、その瞳をちゃんと捕まえて僕は言った。
    「僕のために飾ってくれるふーふーちゃんも、飾らない生まれたままのふーふーちゃんも、どちらも心から愛してるよ」
    祈るように彼の手も一緒に包んで目を瞑って告ったなら、彼と額が触れ合う。
    「俺もだ」
    満ち足りた海風が窓枠を撫で、僕らの頬をなぞって溶けていく。
    隣には彼がいる。それだけで世界は眩いばかりに輝いていた。
    照り返る海の眩しい青には舞い散る桜たちが彩りを重ねて。
    哀色はすっかり桜色に塗られて、どこかであの曲が響く。
    その曲の名前は──────────
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