忠なし義なし、野心あり 美濃国岐阜城下、鍛錬場。晴天の下、その庭へ織田家の武士たちが集っていた。ひとくちに武士といえど甲冑に身を固め刀槍をたずさえた者、薄い小袖をまとった丸腰の者、上裸で瓢箪の酒をあおる者……と、その姿はさまざまである。
「さあ、次に仕合いたい者は誰だ」
板張りの道場から、小柄な男が声を張り上げる。普段は庭との境となっている雨戸が外されており、その声は遮られることなく武士たちの耳へまっすぐに届く。彼の背後、上段の間には畳を敷き胡座をかく男が一人。
「信長様へ直に己の活躍を見ていただけるまたとない機会だ! どんどん名乗り出てくれ!」
ここでは今、御前仕合が行なわれている。織田家当主・信長へ自らの武勇を示すべく各々が腕を競い合う場……ではあるが、それを観戦せんと娯楽気分で参じた者が大半のようで、名だたる将たちが大方仕合を終え去った今、舞台に上がる者を募る藤吉郎の声に、彼らは周囲を見まわし互いに厄介ごとを押しつけ合おうとするばかりであった。
「すまぬ、どいてくれ! 道を、開けてくれ!」
そのような闘気の欠片もない観衆を押しのけ、がちゃがちゃと慌ただしい音を立てて一人の男が躍り出る。きらびやかな鶸色の鎧を身にまとい、六尺に至るであろう自身の背丈をもゆうに超える大太刀を背負う。三日月の前立と鹿角の脇立が打たれた兜から覗かせる顔は涼やかだが、左眉から頬にかけて描かれた巨大な傷痕を見るあたり只の若武者ではなさそうだ。
男は上段の間を前に跪くと、声高に名乗りをあげた。
「山中鹿之助。尼子再興軍を代表し、ここなる闘技の場への参加を願い出まする」
彼の名は、山中鹿之助幸盛。かつて出雲国を筆頭に山陰山陽へ隆盛を誇った尼子家の臣であった。安芸国の毛利家によって滅亡へと追い込まれた主家の再興をかかげる彼は、織田家へ助力を乞うため、主君・尼子勝久とともに数日ほど前に信長のもとを訪れていた。
「ほう。来たか」
上段の間の信長が頷くように鹿之助を見下ろす。
「我が武勇を示すことによって私の、そして尼子再興軍の有用性をご理解いただければと」
「よかろう。しばし待て」
短いやりとりを見守り終えた藤吉郎が、庭の観衆のほうへ呼びかけてみせる。
「さてさてここにおわすは出雲が生んだ猛将・山中鹿之助殿! 一騎討ちをすれば負けなし、獲った首級は数知れず、誰が呼んだか山陰の麒麟児! 幾多の武家から誘いの声がかかりつつも全て蹴り、あくまで滅亡したお家の再興にこだわる忠に篤いお方だ! さあさ、そんな鹿之助殿と戦いたい者はおらんか~」
猛将、負けなし。それらの言葉を耳にした者たちからはざわざわと口々に物を言う音が飛び交っているが、誰一人として進み出る者は居ない。
「信長様への、ひいては織田家への忠義を見せつけてやりたい者、隠れていないで出てこ~い!」
必死の呼びかけは虚しく空へ溶けてゆく。
「わしが忠勇の士を抱えておらぬかのような口ぶりじゃな」
「い、いや……そういうわけではなく………皆、鹿之助殿の武名に慄いて名乗り出ぬだけかと……」
手遊びに扇の開閉を繰り返している信長へ、藤吉郎は項を掻きながら返す。己より強いであろう相手と、無策で真正面から当たりたがる者などそうはいない。ならば適当に田舎から武者修行に来た無名の剣士とでも紹介すべきだったか……と後悔の念がよぎる。
「誰も居ないのならば仕方ありませんな。猫のあやかしを追いかけて出て行った秀の字を呼び戻しに……」
「その必要は無い」
「?」
庭へ出ようとした藤吉郎を呼び止めるかのように、扇がぴしゃりと音を立て閉じられる。
「弥助、連れてまいれ」
信長が示した扇の先で、観衆が何かを避けるように道をつくっている。そこをゆっくりと、人らしきものを担ぎながら進む巨体。漆黒の鎧、漆黒の肌に浮かぶ二つの瞳をぎょろりとさせ、周囲の視線に目もくれず前を見つめる彼は、弥助と名付けられた異国出身の侍である。御前仕合の初戦にて、藤吉郎の相棒である半妖の秀千代と激闘を繰り広げた。
「これ、もうちと優しゅう運べぬのか」
彼の肩上で暴れもせずなされるがままといったふうにだらんと伸びていた者が、顔を上げ文句をこぼす。つるりと光る丸坊主の頭と、それへ相反するように木の根のごとく伸びた髭。顔に刻まれた幾十もの皺が盛りを既に過ぎた歳頃と主張しているが、不気味な光をたたえた双眸は余生をゆるりと楽しむ老爺のそれには見えない。
「まったく、老人は労るものと教わらなんだか」
「だ、弾正殿……」
驚きのあまり目を見開き大声を上げる藤吉郎の視線の先で、床に降ろされた男が乱れた装備を整える。
彼の名は、松永弾正少弼久秀。かつて阿波国から畿内一帯へ覇を唱えた三好家の臣であった。現在は凋落した主家を離れ、それに代わって台頭した織田家へ従属し、大和国の一部を治めている。
「弾正」
「はあ」
信長の呼びかけに久秀は気の抜けた声で返す。
「挨拶ぐらいせぬか」
「そのつもりではありましたが、いかんせん人が多うて……やはり大大名であらしゃるお方の人気は凄まじゅうございますな」
観衆の最後列に隠れていたようだが、高所に座す信長にはその存在を見抜かれていたらしい。
「世辞は要らん。此処へ呼ばれた意味、わかっておろう」
「お断りいたす」
小者ならば震え上がるであろう鋭さを帯びた声を、一切動揺することなくゆったりとした語調で弾き返す。
「岐阜城にて開かれるという重要な軍議……具足着用にて登城せよとの報に少しばかりの訝しさを感じながらもここ美濃まで参りましたが、よもや家中の腕自慢大会へ出場させるためとは。この弾正、謀られた心地にござります」
「うぬを欺くほど奸計に長けた者が居るならば、是非とも会うてみたいものだな」
皮肉を交わし合う二人を包む空気は和やかではないが、さりとて殺伐としたものでもない。呼び出された久秀にはどうやら、御前仕合を行なうことが知らされていなかったらしい。
信長は続ける。
「昨年は浅井、朝倉、三好、そして公方……奴らをあるいは滅ぼし、あるいは降し、あるいは追放し、畿内を我が掌中へおさめるに至った。それにより傘下に加わった者、および数多の戦を経て武芸に磨きをかけた者。各々の技量を把握し、次なる戦に向け軍を再編せねばならぬ。……あとは、わかるな?」
「なるほど、言葉でなく刃を交わす軍議……と云うわけで」
髭を撫でながら頷く久秀の貌には薄気味悪い笑みが張りついている。
信長にとっては他者からの評価など無価値に等しく、己の目で見た物事が全てである。複数の場所で同時に展開される戦にて将たちの活躍を見てまわることは不能だが、それらを一箇所に集め戦わせ実力を知ることは可能である。
「しかしわしは既に隠居の身。それを存じぬ信長様ではありますまい」
「ゆえにだ。忙しく働き軽々に国を空けられぬ当主と違い、うぬは茶をすすり虫を愛で無為に時を過ごしておろうからな。まことの軍議であってもうぬを呼んでいたであろう」
「愚息がもうちとわしに似ておれば、かように気ままな暮らしも有り得たでしょうがな」
「それはどちらでもよい。話を戻す」
髪を剃り落とした頭をぺしぺしと叩きながら軽口を叩く久秀へ、信長は改まったように扇を向けながら言い渡す。
「これは上意である。松永の家を代表し己の武勇を見せよ。背かばその首……まではゆかずとも、大切なものを取り上げることとなろう」
大名家の当主に相応しい威厳を具えたその声が、騒ぎ囃し立てる観衆たちを静まり返らせる。一同が見守る中、信長の視線は久秀の陣羽織へ、胴丸へ、草摺へ、脛当へと流れ、腰に帯びた二振りの刀で止まる。
「前の公方より奪いしその二刀なぞ、誂え向きであるな」
「はぁ〜?」
久秀が左手を耳に当て聞き返す素振りを見せながら声を荒らげ、壁に撥ね返る谺が消え失せるより早く言葉を継ぐ。
「この刀どもはかの剣豪公方・足利義輝公から正式に譲り受けたもの。過日信長様へ差し上げた大般若長光も然り。奪うなど以ての他。ただ突然の死に際しての譲渡であったがゆえにそれを証明すべき書の類いは残されず、証言せし者もわし以外に一人も居らぬのです。そこだけはお間違えなきよう」
「うぬが公方を殺め、戦利品としたのでないか」
「世に蔓延る真偽のわからぬ噂を鵜呑みにし、忠を誓った臣を糾弾なさるとは、信長様のうつけは未だ健在にござったか」
「弾正殿」
「よい」
見かねた言動に藤吉郎が割って入るが、信長は気に留めていないようだった。
「譲り受けた証がなければ奪った証もまたない……とでも言いたいのであろう」
今から九年前の永禄八年(一五六五年)、三好・松永の兵が二条御所を襲い、時の将軍足利義輝は命を落とした。炎に包まれ灰燼に帰した御所、彼の首を挙げた者は定かではない。しかしこの一件ののちに、久秀が己の手柄をひけらかすかのように将軍家へ伝えられていたはずの宝刀を差料としだしたため、巷説は先ほど信長の述べたものとなっている。現在久秀が腰に帯びている二刀──不動国行と薬研藤四郎が、そうである。
「良禽は木を択んで棲むと云うが、同様に名刀の類いも扱わせる主を択ぶと云う。これより剣豪公方の刀らしく刀としての見せ場を与え、己に相応しきものであると証明してみせよ。さすれば譲り受けたといううぬが言、容れてやってもよい」
信長の語調は割方穏やかに感じられるが、久秀の隣で弥助が拳をバキバキと鳴らしながら睨みを利かせており穏やかではない。張り詰めた空気の中さらに脅しをかけるかのごとく念を押す。
「もう一度言う、これは上意である」
「お~ぉ、怖ろしいお殿様じゃ」
久秀は大袈裟に顔を歪め怯えるような態度を取ってみせる。
「この弾正、武芸は不得手にて、些か醜き姿をお見せすることとなりましょうが……信長様直々のご命とあらば致し方なし。披露してさしあげましょう、公方様より譲られし刀にて、公方様より授かりし………ククク……」
二刀の柄頭を撫でながら信長の方へニタリと笑いかける。
──おそらく信長は、この刀たちが己の手に渡った経緯に興味などないだろう。己も、信長がどう思っていようが興味などない。しかしたまにはうつけの口車に乗ってやるのも悪くないと思った。それだけである。
「して、兜はどうした」
「かように重苦しい物を被り続けておってはくたびれますでな。軍議の仔細が予め知らされておれば首を痛めてでも持参いたしたのに」
「弥助、貸してやれ」
信長の言葉に弥助は大人しく頷くと、兜の紐を解き久秀の頭に載せた。漆黒の鉢に重厚な金の錏と吹返しが、仮の主の上で眩しく光る。
「優しゅうできるではないか」
「な、なんと、もう一人の参戦者は松永弾正殿だっ! 知略謀略悪だくみを得意とするお方がこたび、刀を振るって戦うという! それも相手は剛勇無双の山中鹿之助殿! これはあまりにも貴重な、信長様のご指名じゃなければ叶わなかったであろう夢の対決だぁっ! 瞬きする間も惜しいぞっ!」
「やかましい。好き勝手言いおって」
観衆を煽る藤吉郎を冷ややかな目で見やりつつ兜の緒を締める。装着感を確認すると、壁際で腕を組みことの顛末を見届けていた鹿之助のほうへ視線を移した。
「待たせてしもうたか。しかしわしの対手が、かの武名高き山中鹿之助殿とはのう……」
「恐縮にござる。尼子再興がためまだまだ名を挙げまするぞ」
照れるように頬の傷を掻き軽く辞儀をする。言葉の裏を探ろうとしない愚直さ、決して驕らぬ謙虚さ、そして主家を想う清廉さに、彼の強さたる所以を久秀は感じた。
「わしは見てのとおりの老体ゆえ、手柔らかにな」
「難しいことをおっしゃる。強き者と戦えて心踊らぬ者などおらぬでしょう」
「どうであろうな」
鹿之助は三十歳、男も盛りの頃であるが、その貌はどこか少年のような無邪気さと初々しさを帯びている。
「弾正、鹿。せいぜい面白味のある仕合にしてみよ」
談笑を許さぬかのように信長の声が割り込む。左掌へ打ちつけていた扇がこれから刃を交える二人を順に差し、道場の中心へと促す。鹿之助は大きく頷き、久秀は眉根を寄せ、数多の武士に見守られながら歩を進める。
適度に間合いを取ったところで、立ち止まり向かい合う。
「さて、戦るとしよう」
久秀が右手で左腰の刀──不動国行を抜く。早速かと鹿之助も背中の大太刀に手を伸ばし身構えるが、棒立ちのままであるあたり斬りかかってくるようではないらしい。様子をうかがっていると、久秀は抜いた刀を床と垂直になるよう立てて持ち、刃を自らの顔に向ける。その儀式じみた動作に鹿之助は不思議そうに首を傾げ、信長はフンと鼻を鳴らした。
「織田上総介信長が臣にて大和国信貴山城が主……松永弾正少弼久秀。貴殿との手合わせを所望いたす」
「出雲国尼子家が旧臣にて尼子再興軍が筆頭、山中鹿之助幸盛。その申し出、受けて立とう」
続いて正眼に構えると、名乗りを上げた。鹿之助も遅れをとるまいと、愛刀を鞘から引き抜き名乗り返す。石州和貞──五尺六寸の刃長を誇るその大太刀は、並の者では扱いこなすどころか持ち上げることすら能わぬ代物である。
「へぇ。わざわざ名乗りを上げるとは。存外律儀なんですな、弾正殿」
上段の間へ弥助とともによじ登りながら藤吉郎が感嘆する。
「いや、そうではない」
「?」
膝で頬杖をつきながら呟く信長。その記憶の底から、刃を振るう一人の男の姿が浮上していた。
「今からでも木刀に交換いたそうか」
抜き身の大太刀を肩に担ぎながら、鹿之助がちらりと壁に架けられた武器たちを見やる。ここは戦場ではなく鍛錬の場、木製の刀や槍の備えは十全である。
「公方が用いたものでもあれば構わぬが……しかし興に欠けるであろう」
「この仕合、あくまで面白くあらねばならぬ……か」
鹿之助は先ほどの信長の言葉を繰り返す形で返した。端から木刀で戦う気などないのかもしれない。そうと決まれば、ことの始まりである。
間合いを保ちながら睨み合う。涼やかな貌から一転、眼光炯々として険しさを滲ませる鹿之助に対し、久秀はいつもの薄ら笑みである。鹿之助から見ればそれは余裕の表れとも、此方への侮蔑や扇動とも、実力差による自棄とも捉えられた。
「……はっ!」
床を駆ける跫音とともに重鈍い音が耳を揺らす。振り下ろされた大太刀が風を起こし、横跳びに回避した久秀の髭をなびかせる。
「お~ぉ、おそろしや」
目を細めながら放たれた声色は、畏怖の中に好奇のようなものが含まれているように感じられた。
「やっ! とっ!」
大太刀は攻撃範囲が広く威力も高い。武芸におぼえのない者からの一撃であっても、浴びてしまえば致命傷となること必定である。しかしその重量と動作の大きさゆえに隙が生まれやすく間合いを詰められやすいため、愛用者はあまり見られない。鹿之助はそれを山で拾った枝を拾いはしゃぐ童のごとく振り回し攻め続ける。久秀は跳び、走り、転がり……と、刃を次々に回避してみせる。
「まだまだっ!」
止むことをしらず唸りをあげ続ける大太刀。対手の腕力と体力に感心しながら、久秀は逃げるようにその攻撃範囲から外れ、右腰に差されたままのもう一振りの刀──薬研藤四郎に左手を伸ばした。
「そろそろわしからもゆくとするか」
身に纏う衣を脱ぎ捨て素肌を晒すかのごとく、暑苦しい尻鞘からすらりとした白刃が姿をあらわす。両手にたずさえた二振りの刀……その煌めきを映すように、久秀の瞳の光も幾分か増したように見えた。
二刀を手になじませるように軽く振っているところへ、鹿之助が八相に構えながらじりじりと迫りくる。これから強烈な斬撃がくり出されることは明白であるが、久秀は先ほどとは違い両の足を前方へ進めている。その行動に驚きも怯みもせず、天井へ向いていた鋒が床めがけ曲線を描く。障害物となる男など兜ごと真っ二つに斬ってしまうものと観衆の大半は予想していた。しかし結果は、異なる。ざわめく彼らの先には、鹿之助の大太刀を、頭上で二つの刃を交差させ受け止める久秀の姿があった。
「おお!」
思わず藤吉郎が身を乗り出す。
「弾正殿……ああ見えて怪力の持ち主なのか?」
隣人が放つ大きな独り言にかまわず、信長は斬り結ぶ二人を見つめたまま微動だにしない。
ぎりぎりと武器に力を込めながら睨み合う視線が形を得たかのように、三つの刃からは火花が散っている。
「フム……」
二刀がわずかに大太刀を押し上げる。しかしそこから攻撃に転じるようなことはなく、二人同時に退がり、体勢を立て直す。
「今のはちと、こたえたぞ」
「誉め言葉として受け取らせていただこう」
肩や腕を回し身体をほぐす久秀。対して鹿之助は、眉ひとつ動かさぬまま下段に構え立っている。
「逃げてばかりというのも、らしいといえばらしいが……やはりこうでなくてはな」
二刀へと投げかけた呟きに反応はない。
「さて、続けるとしよう」
改まったように顔を上げ構える。鹿之助のほうへ視線をやると、ひとつ頷き構えをそのままに距離を詰めてくる。
ひゅうと音を立てて逆袈裟に刃が振り上げられる。それを跳び退きながら躱し、同時に、交差させた両の腕と脇で二刀を挟み込むように構える。そのまま跳ね返るように床を蹴り、頭上まであげられた大太刀の下へ潜り込みながら斬り上げる。二つの刃が鹿之助の胸を裂くように十字を描くが、すぐさま垂直に立てて下ろされた刃が斬撃を阻む。二刀に押さえられつつ鋒から前方に倒れこもうとする大太刀。そこからさっと二つの刃を引き、鹿之助の右側面にまわり込む久秀。振り下ろされかかった大きな刃が持主の身体ごと右へ大きく振れる。その棟が久秀の胴を打つのと、二刀が鹿之助の草摺を薙ぐのはほぼ同時であった。
「む!」「ぐぬ……」
衝撃を受け久秀の陣羽織がひらひらと揺れている。立ちすくむ両者の力は拮抗していた。
「棟では殴ることしか出来ぬぞ」
「その小洒落た陣羽織、ただのぼろ切れとするには勿体無うござるゆえな。貴殿こそ、いかな名刀とて具足までは斬れますまい」
「ククク……わからぬぞ」
互いの身体から刃を離し、間合いを取り構え直す。
ふたたび鹿之助が斬り込んでゆく。久秀は大太刀の上段よりの振りを右手の刀で流し、その勢いのままに飛び上がり左手の刀で頭を狙う。目庇を掠めた鋒にかまわず振り下ろされた大太刀が床へ沿うように半円を描く。宙より降り立った久秀の脛がその刀身に触れわずかによろめく。隙を見出した鹿之助は大太刀を後ろへ引き力を溜め、前方へ渾身の突きを放つ。しかしその刃は空を裂いただけで何も捉えてはいない。久秀は二刀を床に刺し大きくのけぞることで回避していた。それらを支えに、大太刀を蹴りつつ後方へ回転し体勢をととのえる。驚きの表情を見せる鹿之助にかまわず、二刀を逆手に持ち替えながら腰を落とし、その身を旋回させながら前のめりに伸ばす。地から天を衝くように起こされた旋風が、鹿之助の頬に触れ小さな傷を創る。それへ向かって順手に持ち直した二つの刃を掲げながら助走をつけて飛び込む久秀。しかし鹿之助は吹く風も頬を濡らす傷にもかまわず大太刀を横に構え、斬撃を難なく受け止めた。
「ひぇ〜っ。鹿之助殿も弾正殿もなかなかだ」
「剣豪公方……」
興奮に胸を踊らせる藤吉郎の耳へは届かぬであろう声量で、信長はぼそりと言葉を漏らした。
──室町幕府第十三代征夷大将軍、従四位下足利参議兼左近衛権中将源朝臣義輝、参る──
その記憶の中で刃を振るう男こそ、彼らが剣豪公方と呼称する足利義輝その人であった。将軍という尊貴の身でありながら剣聖・塚原卜伝のもとで鹿島新当流の剣技を学び、自ら武器を執り戦うことをよしとした男である。
十五年前の永禄二年(一五五九年)、当時まだ尾張国の小名であった信長は上洛し義輝に謁見した。その折に手合わせの申し出と云う名の命を受け、二人は木刀にて刃を交えた。義輝は二刀の使い手であり、信長はその両手から間断なく放たれる斬撃に苦戦を強いられた。そして今、眼前にて繰り広げられている久秀の戦いぶりが、あのときの記憶を思い起こさせたのである。
二刀の扱いには高い技術が問われ、好む者は大太刀以上に稀とみられる。今川義元や斎藤義龍がそうだったというが、織田家の将たちには憧れている者はおれど扱いこなせている者は居ない。ただ一人、久秀を除いては。
また、久秀から義輝の影を感じたのは、二刀使いの戦い方を他に知らぬがゆえ二人の太刀筋が似通って見えたという理由が全てではない。御剣の構え……仕合前に見せた、刀を立てる動作。鹿島新当流に伝わるというそれを、かつて義輝も行なっていた。しかし久秀が鹿島新当流の使い手であるという話など聞いたことがない。そして長々と肩書きを並べた名乗りも、義輝が好んでいた。ならば答えは………そこまで考えて、自然と声が出ていた。
「弾正」
「何用ですかな」
呼び止められて、久秀は間合いを遠く取りながら言葉を返す。鹿之助もそれへ攻撃することなく刃をおろし様子をうかがっている。
「猿真似は楽しいか」
ゆらりと二刀を鞘におさめながら薄ら笑む久秀の貌がわずかに曇ったのを、信長は見逃さなかった。
「ククク……お戯れを。いかなわしとて、殺めた者の真似事で愉悦にひたるような悪趣味は有しておりませぬわ。信長様が彼奴の剣技をお望みかと思い、痛む心に鞭を打ちつつ再現してさしあげたのですが……お気に召されぬようでしたか」
「いや。その刀に相応しきはやはり剣豪公方の他にはおらぬ、とでも言いたいのかと思うたが」
「まさか。いつまでも過去に拘っていては身の破滅を招く……それは武器も武士も同じ。旧き主とともに焼け落ちるよりも、新たな主とともに輝くべきでありましょうて」
「私はそうは、思わぬが」
「ほう?」
鹿之助が二人の応酬に割って入る。
「焼け落ちて終わりとは限らない。瓦礫の下に、灰の中に、小さな光が埋もれているかもしれぬ。それを捜し出し、輝かせることもまた、道のひとつではなかろうか」
「ふむ……わしならばかような、開けた平野を前にしながらも鬱蒼とした山林へ突っ込むがごとき道など選ばぬがな」
「苦しく困難な道であればあるほど、そこで得られるもの、その先で待つ喜びは大きい。我が身と尼子家に降りかかる苦難に打ち克ち乗り越え、必ずや尼子家再興という輝きを掴んでみせる」
侍は渡り者。主家の滅亡や主君との軋轢などが原因で仕える家をたびたび変える武士は少なくなかった。いつまでも滅んだ家に執着し、主家筋の遺児を探し出し担ぎ上げ再興を目論む……荊棘の上を裸足で駆けるかのごとき苦難に溢れた道を選ぶ者など、異端中の異端である。そして道のために立ち上がろうとも、力も金も人も持たねばそれらを持ちし者から即座に踏み潰され終わる。持たざる者たちへ手を差し伸べるような、酔狂な持ちし者もいない。いや、いなかった。信長に出会うまでは。
「ククク……かように大言壮語を吐いておきながらわしのような老いぼれに苦戦しておっては、信長様も助力してはくれまいのう」
「そのために貴殿には踏み台になっていただく」
「ただでは踏まれぬぞ」
「望むところ」
織田家がこのまま勢力拡大を続けてゆけば、いずれ山陰山陽の大勢力と化した毛利家と衝突する。彼らによって奪われた故郷・出雲国を取り戻すことが、鹿之助および尼子再興軍の悲願である。それを果たすために、力も金も人も持ちし織田家を利用する。そして織田家には己らを利用させるため、並み居る将と渡り合いその価値を示さねばならない。今がその時である。
「さて、つまらぬ遊びは終いにして、これより面白うしてゆこうか」
久秀が抜刀する。火のついた二人を、信長は何も言わず眺めているだけだった。
間合いが詰まる。大太刀の薙ぎを、身を翻して回避する。背後に回り込んだ二刀の攻撃を、柄を用いながら受け止める。ぶんと音を立てて一回転した巨刃が二人を遠ざけ、勢いのままに胸めがけ刺突が放たれる。正面から迫りくるそれに合わせ久秀が高く跳躍するが、それはただ攻撃を躱したわけではない。着地点には風を突いた長尺の刀身が次の動作に入らんと浮かんでおり、その上にゆっくりと爪先をつけたのだった。
「!」
大太刀使いの逡巡をよそにそこからさらに飛び、彼の真上で一回転しながら背後に降り立つ。
「暑かろう」
鹿之助の右頸部にひやりとしたものが触れる。それが何であるかは考えるまでもなかった。
「ッ!」
即座に左方へずれつつ身体を回転させ背後へ刃を振る。狙いの定まらぬそれを難なく避けた久秀の右手にはやはり刀が握られていたが、頸に流れるものを感じないあたり刃ではなく棟のほうが当てられていたらしい。
「よいのか? かようなまでに隙を見せてしもうて。まことに斬ってしまうぞ」
慣れた手つきで手首をくねらせ、刀たちとたわむれるように振り回してみせる。くるくると踊る刃が庭からの光を受け、周囲に煌めきをまき散らす。それとは対照的に、庭へ背を向けて立つ久秀の顔は影を増し、張りついた笑みは不気味さを際立たせている。
「……ならば、斬っていただいても構わなかった」
鹿之助は右手で大太刀を持ち、左肩をぐりぐりと回す。左右を入れ替え同様の動作を行なったのち、ひょいと大太刀を担ぎ上げた。撥ねた光が天を衝くよう一直線に伸びる。
「私がその程度で死に到れるとお思いであれば、是非とも試していただきたくあったが」
皮肉交じりに返すその貌には、久秀と同様に笑みが浮かぶ。釣り上がった眉、眦、口角。左頬の傷がよく似合う気魄を有した荒武者がそこには立っている。山中鹿之助という男は戦場にて刃を振るうことを生き甲斐としているのだろう、武器を執る前の穏やかそうな好青年とはまるで別人に見えた。久秀がかつて戦った、どこぞの誰かを彷彿とさせる。
「ククク……そうでなければな」
言いながら左手の刀をおさめ、右手のみで刀を構える。右半身を前に立ち、空いた左手は陣羽織の中に突っ込んでいる。それが刀に触れる気配は無い。逃げるようでなければ、片手で大太刀の斬撃を受けるつもりか……それともまた飛ぶ気か……鹿之助は思考を巡らせながら距離を縮めてゆく。
「はっ!」
あと二,三歩で攻撃範囲に入ろうかというところで、久秀の左腕が動き出した。それは刀の柄ではなく宙へ。伸びた拳がぱっと開き、小石ほどの大きさをした二粒の球が放たれる。一つは鹿之助の頭上で、もう一つはその先の上段の間で、それぞれ弾け、粉状の物体をまき散らした。
「ぐわっ……なんだぁ っげほごほっ……」
「ぅっ、毒の類い……かっ」
毒粉が鍛錬場に舞い人々を襲う。藤吉郎は噎せながら騒ぎ立て、鹿之助は片手で口を押さえ周囲を見まわしている。
「はっ、信長様! これを……」
藤吉郎が腰の小箱から解毒薬を取り出して口にねじ込むと、同様のものを信長へ差し出す。万が一にも主君の死……そこまでいかずとも重篤な熱病にでも冒されるようなことがあってはならない。最悪の場合織田家は崩壊し、己は主君の命を守れなかった責を問われ厳罰に処されるだろう。
「要らん」
しかしその忠は冷ややかな声に拒まれる。
「弥助に与えてやれ」
視線のみで示した先では、黙りこくって弥助がうずくまっている。肌の色で判別し難いが、随分顔色が悪いように見える。
「の、信長様は平気なので?」
彼の相棒である秀千代はあやかし退治を得意とする。身体に毒を帯びているあやかしは少なくなく、依頼から戻った秀千代が嘔吐し続けたり寝込んで数日起きなかったりすることが頻繁にあった。その姿に見かねて現在は薬を常備しており、手持ちは山のようにある。
「うぬもわかっておろう。わしは弾正以上の敵を抱えておる。この程度の毒、街道を駆ける馬が砂塵を舞い上がらせておるにすぎぬ。煙たかろうが、死はおろか苦しむことすら叶わん」
「さすがは信長様……!」
凛乎とした姿で仕合を眺め続ける織田家当主は、多くの戦いを経てここまで上ってきた。そのために幾多の敵を滅びへと導き、ときには己の一族へも手をかけた。彼を慕う者は多いが、その死を望む者もまた多い。平時に刺客が出現し、あるいは見えぬところから狙撃され、さらには食事に毒を盛られと、害意に襲われた過去は数え切れない。その備えの一つとして、信長は毒への耐性を身につけていたのだった。
「それともわしがかようなことを予見も出来ずやつを舞台へ上がらせるほどの愚か者であると言いたいのか」
「い、いや……そんなつもりは………はっ、弥助殿! 薬を!」
責められるような口ぶりから逃げつつ弥助に薬と水の入った瓢箪を手渡す。それを受取り口にした弥助はみるみる顔色を取り戻し、故郷の言葉で例を述べていた。
「よもや、刀だけが武器とは思うておるまいな」
舞い踊る毒粉の中に立ちながら、久秀は刀の棟で肩を叩く。視線の先では対手が壁際で厳めしく鼻と口を塞いでいる。
わずかな時が経ち、粉が全て床へ積もる姿を見届けると鹿之助はペッと唾を吐き、掌で口周りを拭った。毒の影響は軽微で済んだらしい。
「飢えに苦しみ喰らった得体の知れぬ茸のほうがよっぽど不味い」
「ならばたんと味わうがよい」
懐をまさぐる久秀の機嫌は最高潮に達している。
絶え間なく投げつけられる球の一つを躱す。壁に衝突して弾ける。一つが間合いの中間で爆ぜる。飛び退きながら大太刀を振り起こした風で吹き飛ばす。一つが兜の前立に直撃し割れる。
「この程度の苦難なぞ……苦難とよべぬ!」
叫びながら毒の霧へ斬り込んでゆく。その足許で、突如ガシャリと音が鳴った。
「なッ……」
鹿之助の大太刀が床に寝転がっている。その持主は、小刻みに揺れる両の手を見つめながら悲鳴に近い声を絞り出した。
「どうじゃ。こちらも美味かろう」
粉の入った球を複数個、左手でぽんぽんと受けて投げてを繰り返し遊ぶ久秀。球の色は二つ。
「ピリリとした感覚、癖になるぞ」
一つは毒、もう一つは……痺れ粉。鹿之助はふと懇意の忍びがそれらを地胆粉や海月粉と呼んでいたことを思い出したが、今はどうでもよい。毒にまぎれそれをまかれていたらしく、握力が失われてしまったようだ。
「ぐ………む……っ」
全身が思うように動かない。痺れに抵抗しながら小刻みに揺れる鹿之助へ久秀の連撃が繰り出される。頸を狙い、脇を狙い、腿を膝を足を狙う。紙一重で躱され続けるその刃は、いたぶるようにわざと速度を落としているようにも見える。
「そろそろか。ではその首、貰うとしよう」
じりじりと追い詰められる鹿之助へ二つの刃が迫る。両腕をかかげながら助走をつけて飛ぶ久秀。曲線をえがいた二筋の光が、同時に動きを止めた。
「……すまぬが断らせていただく」
斬撃は、受け止められていた。鹿之助が背負っていた大太刀の鞘によって。一面を覆う鹿皮が刃によって傷つけられ、無惨にも捲れ内部の漆が露わになっているが、持主を守るという役割はしっかりと果たしている。どうやらのろのろと逃げまわるうちに握力を取り戻したらしい。
「刀だけが武器ではござらぬゆえな」
先刻投げられた言葉をそのまま返してみせる。そのしたり顔に久秀は少しばかりの驚嘆を見せた。
「拾うがよい」
「かたじけない」
大太刀との再会への道が開かれる。拳と掌を交互に作りながら伸ばした背筋は、痺れから完全に解放された証であろう。
「……などと言うと思うたか?」
「!」
久秀の前を通り過ぎようとして、漏らされた呟きが耳に届く。焦燥感とともに大太刀へ飛び込み確保し、片膝立ちで防御体勢を取る。
「ククク……からかい甲斐のある奴よ」
突っ立ったまま刀を遊ばせている久秀に攻撃の意思は見られない。鹿之助は口を尖らせながら右手に大太刀を、左手にその鞘を握り立ち上がる。
「私も二刀流でゆこうかな」
「おぉ、恐ろしや」
怯えたような声に態度は伴っていない。踊り狂う二刀を鎮め、ぴたりと狙いを定める。その先では鹿之助が鞘を背負い直し、両手で大太刀を脇に構えている。
「いや、やはりこちらのほうがいい」
言いながら間合いを詰め、横薙ぎに斬りかかる鹿之助。その刃と垂直に交わるよう二つの刃を平行に立てて防ぐ久秀。力比べは拮抗するかに見えたが、床を踏みしめた久秀の足がずりずりと後方へ滑っている。
「ふん……ぬっ!」
大太刀の柄には左手が、棟には右手に加え左足が置かれ、取り戻した全身の力が刃に込められる。耐えきれず押し倒された久秀が床に背をつき天を仰ぐ。
鹿之助はすかさず柄を両手で持ち替え、刀身を下にした状態で頭上にかかげる。真一文字に迫りくる刃。その先にある標的は、恐怖の欠片もないといたふうにほくそ笑んでみせながら、刀を放した左手で懐をまさぐる。鹿之助の反応は追いつかない。鋒が頸に触れるか否かのところで、懐から取り出された物が、鹿之助の顔前で爆ぜた。
「わっ!」
毒でも痺れ薬でもない、純粋な火薬の香り。回避の暇をわずかほども与えられなかった悲鳴が、白煙に混ざって広がってゆく。潤む目をこすりながら視界を取り戻すと、そこに久秀の姿はない。
「どうした、わしはここにおるぞ」
しかしたしかに声は聞こえる。どこにいるのか。右でもない、左でもない、前でも後ろでもない……ならば。
「上!」
「遅いわ」
顔を上げると同時に久秀の脛が眼前を埋め尽くす。ほぼ同時に、ゴンと鈍い音を立て顎に蹴りが入る。頭を揺さぶられ体勢を崩した鹿之助は後ろに大きくよろめくが、尻餅をつくことなく足を踏みしめ耐えた。対する久秀はゆるりと着地しながら放した刀を拾い上げている。
「どこまでも質の悪いお方でござるな」
「クク……悪こそ我が誉れよ」
「越え甲斐のある苦難、痛み入る」
片手で大太刀を構えたまま逆流した汗を拭う鹿之助、刀を遊ばせながら懐をまさぐる久秀。笑み合う二人には同様の感情が生まれていた。
打ち合いは続く。毒を浴びせ、痺れ粉で動きを封じ、煙に紛れ斬りかかる……そのような久秀の戦法に翻弄されながらも、鹿之助は一つ一つを堅実に捌いてゆく。大太刀が起こした風によって毒や煙を吹き飛ばし、痺れ薬により握力が失われれば逃げ回りつつ体当たりや蹴りで応戦する。刃が空を切り、火薬が爆ぜ、鍛錬場に響く音は止まない。爆発が小具足の一部を焼け焦がし肌を露出させているが、熱を帯びた身体にはそこから入り込む風が涼しかった。庭へ舞った毒粉や痺れ粉が観衆を襲い、その場に倒れ込む者や嘔吐する者が続出している。命の危険を感じ帰った者も多く、当初の喧騒は跡形もない。しかし二人にはなんら関係がなく、気にかけるような余裕もない。
「松永殿っ。そろそろ限界が……近いのでは、ござらぬかっ?」
「己の意を、他者の意として述べるのは……好ましゅうないな」
刃を合わせながら言葉を交わす彼らの息は荒い。体力気力を消耗し続け、いよいよ果てが近いらしい。
「じゃがよい。わしもそろそろかと……思うておった」
「次の一撃で終わりといたす……!」
鹿之助の言葉で、さっと二人は離れてゆく。汗を拭い、呼吸を整え、ゆっくりと構える。鹿之助は得意の、大太刀を肩に担いだ上段の構え。
「な、なんだあの構えは」
久秀を見た藤吉郎が声を上げる。
左半身を正面に、左肘を高く張りながら膝を曲げて立つ。鋒を後ろに下げ、右肘窩へ棟を置くように一振りの刀を構えているが、鹿之助からは左肘に隠れて刀身の姿をとらえることはできない。
「もしや卜伝殿が公方様に授けたという、秘剣・一の太刀を弾正殿も……?」
藤吉郎は初めて見る構えであった。興奮に身を乗り出しながら鼻息を荒げる。一方信長はフンと吐息を漏らしたきりである。
ぴたりと時が止まったように静寂が襲う。少し間をあけて、一歩、二歩と、進む跫音が響く。
「はっ!」「とおっ!」
三歩目で、大きく踏み込む。渾身の一撃同士が衝突すると同時に、轟音が鳴り響き衝撃が全身を震わせる。
「うっ」
鍛錬場が黒煙と火薬の香りで満たされる。また何かが爆発したらしいが、これまでの火薬玉の倍はゆうに超える威力だった。視界もなかなか開けない。藤吉郎は信長の身を案じつつ、煙の向こうの状況を確認しようと睨むように凝視するが何もわからない。しかし斬り合う音も悲鳴の類いもきこえてこないあたり、二人も煙が流れるまで待っているのだろうか。
「……あれ? 弾正殿……?」
やっとのことで視界が取り戻されると、そこには大太刀を降ろして鹿之助が突っ立っていた。足許には久秀へ貸し与えていた弥助の兜が落ちているが、着用していた当人の姿は見当たらない。
「消えた……?」
周囲を見まわしてみるが、天井や壁に張りついている様子もない。これだけ時が経ちながら、いつまでも出てこないのもおかしい。
「もしかして、逃げたのか? ということは鹿之助殿の勝ち……なのか?」
「いや」
大太刀を鞘へおさめながら、鹿之助は藤吉郎の独り言じみた問いに返答する。煤で黒く汚れた頬をこする貌はどことなく嬉しそうに見える。
「松永殿は去った……が、彼が敗北を認めぬかぎり私は勝利したと認められぬ。我ら尼子再興軍が、そうであるように」
「な、なるほど?」
藤吉郎は理解し得たのか否か、曖昧に相槌を打つ。主家再興の戦を幾度も仕掛け幾度も失敗に終わっているが、勝利するまで諦めなければそれは敗北ではない……という己の信念と通ずるものがあるのだろう。鹿之助は続ける。
「それに信長殿は、勝敗を決めよではなくこう仰った」
上段の間を見上げ、信長の方をじっと見つめる。
「面白味のある仕合……と」
「十分楽しんだであろう。わしは帰らせてもらう」
黒煙に包まれながら鹿之助の耳へと届いた声は、たしかに久秀のものであった。それを最後に、彼の気配は消え失せた。
「じゃ、じゃあつまり、手加減してたってことなのか……?」
吃驚する藤吉郎に鹿之助は眉をひそめる。
「手加減とは人聞きの悪い。他者を楽しませる仕合というものは、ただの全力勝負よりも難しゅうござったぞ。即座に相手を倒して終わらせてしまえばつまらぬと思われようし、かといってダラダラと斬り合いを続けていては飽きがくる。お互い適度に見せ場を作り、一方的な戦いにせず、ときには負傷などして展開を読ませぬことも重要。戦場とはまた違った技を求められるようでしたな」
「なるほど?」
ふたたび曖昧な相槌が飛ぶ。鹿之助は足許の兜を拾い上げ、上段の間に置く。奥に座す弥助と視線が合い、頷き合った。続いて手前に座す信長へ再度視線を移動させながら、己の胸を叩いてみせる。
「しかしまことの戦場ではこうはいきませぬぞ。全力をもって敵と戦い、信長殿を、織田軍を勝利に導いてみせます。そして出雲を手中におさめられたあかつきには是非とも月山富田城を我らが手に……」
「わしが弾正と命のやりとりをせよと命じておれば、如何にしておった」
べらべらと長ったらしい主張を打ち切らせて信長は問う。鹿之助は一旦言葉を止め、ひとつ大きく息を吸い、迷うことなく続ける。
「臣の命は主がためにある。ならば戦場にて主がため刃を振るい果てるべきと考えまする。ここはあくまで、腕の見せ合いを目的として用意された場。かようなところで命を落とせば、不忠者として後世の笑いものとなりましょう。久秀殿も武士ならば、武士らしい死を望むはず」
「武士らしい死か。やつがそのようなものを望んでおればさぞかし滑稽であるな」
鼻で笑う信長にかまわず続ける。
「それに私は尼子家の臣、信長殿の臣でも織田家の臣でも……ござらぬ。ゆえに信長殿が弾正殿を殺せと仰られ、私がそれに従わなかったとしても、背反にはあたらぬかと」
堂々たる態度に悪意は微塵も感じられない。それが罷り通るならば、ここで己の敵対者として斬り捨てても問題はなかろうとの雑念がよぎる。だが、そのようなことはしない。
「あくまで同盟者の立場である気か、尼子は」
「流浪の身とはいえ尼子家は大名。ならば当然のこと」
鹿之助が御前仕合に参加した目的は尼子再興軍の利用価値を示すことであり、殺し合いではない。むしろ殺めてしまえば、織田家の家臣たちからの再興軍に対する風当たりが強くなるのではと考えていた。
「して、我が武勇、お認めいただけたか」
改まるように跪き信長へ問う。自信のようなものを隠しきれていない貌へ、大袈裟に悩むようなそぶりを見せつつ返す。
「ふむ。悪くない仕合であった。いずれうぬらを必要とする時が来よう。それまでせいぜい刃を磨いておけ」
「言われずとも、そのつもりでおります」
再興軍はさておき、鹿之助の利用価値は十分にある。それが信長の出した答えだった。己の臣でないと主張する者ばかりが戦功を挙げていれば、己の臣らはどうなるか、どうするか。わからせてやる絶好の手札を得たと感じた。
「またこのような催しを開かれるようでしたら、松永殿とも再戦したきものでござるな。そのときは是非出雲からも駆けつけたい」
涼やかな笑みは、遊び疲れた少年のごとき無邪気さを帯びている。武芸を不得手とする者がこれほど己の胸を高鳴らせるのならば、武芸自慢の者たちとはこれ以上の盛り上がりを期待できそうだと、大大名家に在ることを鹿之助はわずかばかり羨ましく思った。会話が終わると一礼して、大太刀を杖に立ち上がり庭から去ってゆく。
「……望まずとも、弾正のほうから来るであろう」
ふらふらと歩みながら遠のく後姿へ呟く。それは近い将来おとずれる出来事を見通しているかのようだった。
「いやぁ、見ごたえのある仕合でしたな! 鹿之助殿と弾正殿……二人がまさかこれほどまでの激戦を繰り広げるとは。しかし鹿之助殿が全力でなかったのならば合点もいきましょう」
藤吉郎が膝を叩きながら声高らかに騒ぎ立てる。
「うぬの情報網とやらもその程度であるか」
「?」
「……いや、気にするな」
なにか言いかけて顔をそむける。
信長は、久秀に興味を抱いていた。権謀術数によってのし上がった大悪人。そして茶や歌を愛する風流人。ただ少し頭が切れるだけの老爺には見えなかった。根拠などない。数多くの者と戦い、殺め、従え、結び、契り、関わってきた経験がそう訴えかけているだけのこと。今回彼を呼びつけたのも、そういった興味からである。
重い具足を纏いながらも鞠のように跳ねまわり、両の手で二刀を自在にあやつり、毒薬火薬をまき散らし、忍のごとく姿をくらます……知将はおろか並の武将すらも凌駕する芸当を見せた彼に、たしかな手応えを感じた。まことに鹿之助が手を抜いていたのだとすれば、もしややつもそうなのではないかとさえ思った。
──だが剣技は、やはり剣豪公方が上手か。
「ククク……鹿之助とやらも存外話のわかる男であったな」
岐阜城天守のそびえる金華山に背を向け、久秀は長良川を渡る小舟に揺られていた。
「かような場に屍を晒すなどという……つまらぬことがあってはたまらぬわ」
腰に帯びた二振りの刀。その柄頭を撫でながら目を細める。彼らの言葉なき対話へ割り込むように、青い光を帯びた蜘蛛が久秀の膝上にぴょんと飛び乗った。糸繰──彼の守護霊である。
「一度にすべて見せてしもうては勿体無かろう。おぬしは次に取っておかねばな」
言葉を受けて糸繰は宿り主の真似をして笑っているのか、かたかたと身体を大きく震わせている。
「わしはまだまだ現世を楽しみ足りぬ……のう?」
二つの鍔が西陽を浴び、眩い光を放っていた。
「しかしまさか弾正殿があの一の太刀を会得しておられるとは……これはまた、次回の楽しみができましたな!」
前後に身体を揺らしながら膝を叩く藤吉郎は感心に目を輝かせている。
「たわけが。あれは一の太刀などではない。苦しまぎれの強言を真に受けおって」
「え?」
信長によってすぐさまその輝きは奪われた。どうやら勝手な思い込みだったらしい。
「あれは車の構え……鹿島新当流が用いる脇構えの一種にすぎぬ。卜伝の門弟皆が使え、常人が容易く真似できるものが秘剣になりうるか」
「さ、さすがは信長様。お詳しい」
秘剣・一の太刀。その正体は編み出した本人である卜伝と、彼からそれを授けられたごく少数の門弟しか知らない。武技の一つであるのか、あるいは精神的な訓えなのか……それを信長が知るすべはない。……ならば、先ほどのあの構えによって一の太刀が放たれるということも……と考えられぬこともなかったが、振り払い、笑みを引きつらせ項を掻く藤吉郎へ言葉を投げた。
「うぬはちと剣術への見識が足らぬようだな」
「そういうのは全て秀の字に任せておりますので……」
言い訳じみた返答を聞こえぬそぶりで信長は立ち上がる。かかげた扇は、庭で弱りきっている観衆へと向けられている。
「皆の者、聞け。次なる参戦者はここなる藤吉郎。商人から武士となり城持ちとなったこやつを羨む者も妬む者もおるだろう。しかし力と才、加えてそれを遺憾なく発揮できる場さえあれば、うぬらも同様に成り上がることが出来る。今がその場じゃ。褒美は弾もう、各々自慢の技と想いを刃に乗せ、こやつを倒してみせよ!」
成り上がり、褒美、城……魅力的な言葉を耳にした武士たちに生気が宿ってゆく。己らの主君がつまらぬ嘘を吐くわけがない。ざわざわとした喧騒が取り戻され、武器のある者はそれを手に、ないものは己の拳を頼りにして、立ち上がる。
「な、なんてことを……」
藤吉郎の顔が青ざめてゆく。
「武士ならば己の身くらい己で守れて当然であろう。さあ行け!」
「わっ!」
背中に蹴りを受け、床へ転がり落ちる。身を起こし庭に目をやると、血相を変えた武士たちが早くもにじり寄ってきている。上段の間を見上げると、信長がにこやかに佩刀を放り投げてきた。
「上意である」
その一言が合図であったかのように、武士たちがわっと一斉に飛びかかる。それらへ捕らえられぬよう、藤吉郎は受け取った刀を抱えながら庭を駆けまわり叫ぶ。
「ひっ、秀の字~! なんとかしてくれ~!」
御前仕合は続く…………。
【終】