目が覚めた瞬間男の顔が真正面にあるという経験を今までの人生でしたことがなかった。学生の頃の修学旅行では個々にベッドがあったから一人で眠ったし、昔付き合っていたのは全て女性だった。ここ数年は自分の部屋で他人が寝ることはなかったから、今の俺はまあまあ、わりと、驚いている。
早鐘を打つ心臓が落ち着くまで、無言のまま一ミリも動かずにただ瞬きと呼吸を繰り返した。すこしでも動けば目の前の男が起きてしまうかもしれないから。混乱が和らぎようやく考える余裕が出てきたところで、昨夜のことを思い出す。
浮奇を拾ってから、三日が過ぎた。最初の日はまだ姿を変えられないと言うから冬用の布団を出してそこに寝かせた。次の日、体調が良くなったらしい浮奇は俺の目の前で本当に猫の姿になって見せ、ずっと一緒にいてくれた俺の愛犬と二匹で重なるように眠っていた。
そして昨日、「猫になるから、お願い」と浮奇は俺と眠ることを望んだ。クーラーのついた部屋は体温調節が難しいらしい。前日と同じように犬と猫とで寝ればいいだろうと言ったら浮奇は無言で猫になり、甘えた声で「みゃう」と鳴いたけれど、残念ながら俺は犬派だ。勝手に手の中に入り込んできて頭を擦り付け、色違いのまあるい瞳で俺を見上げる小さな猫になんて、なんにも。
「……踏み潰されても知らないからな」
「にゃあ」
「……」
「みゃ、にゃう、にゃ〜」
「……猫のまま喋ったって何を言ってるのか分からないよ」
「んにゃ」
ああ、今笑ったな、とか、なんとなく分かるのが悔しい。在宅仕事のおかげで俺はこの三日間人間の浮奇と猫の浮奇、どちらとも長く接していて、彼の言いそうなことがすこしだけ予想できてしまうのだ。
布団の中で丸くなる猫の頭を優しく撫でれば浮奇は気持ちよさそうに喉を鳴らす。猫の姿なのに、どうして人間のほうの浮奇の顔が思い浮かぶんだろう。人間の姿でも頭を撫でたら今頭の中に浮かんだみたいな顔で笑うのだろうか。犬とは違う柔らかい毛を撫でながら、俺は眠りについた。
そして、起きたら目の前に人間のほうの浮奇がいるわけだ。記憶を思い出したらようやく特に慌てる必要も俺に非がないことも分かって、浮奇に対する呆れが浮かんできた。おまえ、猫になるからって言ってただろう。ごはんもしっかり食べられるようになったし昨日再診のため連れて行った病院でも元気になってますねと言われた。体調に問題はないのだから、自分の意思で人間の姿になったはずだ。
「……うき」
「ん……にゃ……」
「……浮奇、起きろ、ばか」
「んん……? ……あれ……ふーふーちゃん、なんで……あ」
「人間の言葉が喋れるみたいだな? 浮奇?」
「あー……ええと……」
「弁解があるなら一度だけ聞いてやる」
「……ふーふーちゃんに、抱きつきたくて」
「……」
「……やっぱり今のナシ」
パッと目の前から浮奇が消え、布団を捲れば丸くなって自分の顔を隠した猫がいる。卑怯な使い方をするんじゃない。首根っこを掴んで布団から引き摺り出し浮奇と目を合わせた。
「猫になるからって自分で言ったよな?」
「……にゃ」
「最初からこうするつもりだったのか?」
「……にゃぁ」
「……俺に嘘をつくな。ダメなことはダメだと言うが、やりたいことがあるならきちんと、正直に言え。この家のルールは俺だ、分かったな?」
「ん……にゃ……。……ふーふーちゃん」
「ああ」
「……ごめんね?」
「……今日は許してやる」
人間の姿に戻った浮奇は目を潤ませて、俺が頭を撫でてやればぎゅうっと首に抱きついてきた。忘れているらしいがさっきまで猫の姿だった浮奇は全裸だ。
「浮奇、服を着なさい」
「あ、そうだった」
「ついでに散歩をしてきてくれ。帰りに朝ごはんを買ってきてほしい」
「オーケー。俺も一緒にごはん食べていい?」
「好きにしていい。……猫のエサっておいしいのか?」
「うん、おいしいよ。でも人間のごはんもおいしい。ふーふーちゃんが一緒ならなんだっておいしいけどね」
「ああそう」
「本気で言ってるんだけどな。それじゃあ行ってきまーす」
「寝癖を直してからにしろ」
「分かってるよーだっ」
イーッとしかめっ面をしてみせてから、浮奇は寝室を出て洗面所に向かったようだった。人間の姿の浮奇は見た目を整えるのがとてもうまい。俺の服を組み合わせてまるで俺の服じゃないみたいなコーディネートで着こなし、安いドライヤーとブラシで丁寧に髪をセットしてみせる。
支度の終わった浮奇が家を出て行ってから、俺もベッドを出てシャワーを浴びるため風呂へ向かった。猫のくせに浮奇は風呂が好きで、隙さえあれば一緒に風呂に入りたがる。猫の時の記憶もしっかりあるのだから例え風呂の前で寂しそうににゃあにゃあと鳴かれても扉を開けてやらないけれど、そうして俺が開けないと分かると途端に人間の姿になって強引に扉を開けようとする男なのだ。
それはそうと、俺はシャンプーは大容量の安いのを使っているが、浮奇にはもう少しいいやつを買ってやりたいと考えている。どうやら人間の姿で風呂に入れば猫の毛並みにも影響されるらしく、昨日の浮奇は撫で心地がとても良かった。もっとふわふわツヤツヤにするには、人間の浮奇に良いシャンプーやリンスを買ってやるのがいいだろう。猫用シャンプーには限界があるだろうし、なにより自分で勝手に洗ってくれるほうが俺が楽だ。
そんなことを考えつつ風呂を出て、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに向かう。数日で増えた物に、不快になるどころか居心地の良さを感じる自分が不思議だった。一人と一匹だけで静かに暮らすのを気に入っていたのに。猫の時は高い声で可愛らしく鳴き、人間の時は低く落ち着いた声で俺を誘惑してみせる、騒がしいあの男をどうしてこんなに好ましく思うのだろう。
「ただいまぁー。あ、ふーふーちゃん、ちゃんと髪の毛乾かさないとダメだよ。俺がやってあげようか?」
「暑いから勝手に乾く。朝食は何を買ってきたんだ?」
「ベーグルにしたよ。おいで、乾かしてあげる。ね?」
「……」
「はい、ここ座ってて」
浮奇に手を引かれソファーに腰を下ろす。楽しげな足取りで洗面所へ行きドライヤーを持って戻ってきた浮奇は、大人しく座ったままの俺を見てにんまり笑った。俺の後ろに立ち、鼻歌を歌いながら細い指を俺の髪の間に通していく。正しいドライヤーの仕方なんて知らない俺は、時折その指がマッサージするように地肌をなぞっていく動作を、気持ちよくて眠くなるからやめろと言っていいものか悩んでいた。
「ん、できたよ。ふーふーちゃんサラサラで羨ましいな」
「おまえの髪もふわふわで良いだろう」
「そう? えへへ、ふーふーちゃんがそう言ってくれるならそうかも。撫でていいよ?」
「朝食の時間だ」
「照れ屋さんなんだから。あとで猫になってあげるね。あ、でも猫の時ってふわふわよりはサラサラって感じじゃない? まあ、そっちの方が撫で心地はいっか」
「……」
「わっ」
伸ばした手で浮奇の髪を混ぜるように撫で、目にかかった前髪を横に流してやり真っ直ぐに瞳を見つめた。驚いた時、猫みたいにまあるくなる目が、……。
「……くそ」
「え、俺なんかした?」
「なんでもない。今のおまえだって撫で心地は悪くない」
「うん……? えっと、ありがと……?」
「……」
「……ふーふーちゃん……?」
「……はぁ」
「ええ? 本当になに? 俺なんか変だった? あ、悩み事でもあるの? 猫になろっか、アニマルセラピーって言うんだっけ? あれで癒しを」
「いい、おまえで十分」
髪を撫でていた手を後頭部に回し、グッと力を込めて引き寄せる。浮奇はフラついて俺に向かって倒れ込み、耳元で「え!?」と声を上げた。抱き寄せた背中が案外大きい。
「ふ、ふーふーちゃん、え、え、俺」
「もうすこしだけ」
「……人肌恋しいとか、そういうやつ……?」
「……ああ、そうだな、それでいい」
「……俺は抱きしめたらだめ?」
抱きしめて、と囁くと浮奇はぎゅうっと強く俺を抱きしめた後、その感触を覚えられるくらいの秒数が経ってからパッと姿を変えてリビングから走り去ってしまった。猫の軽い足音は寝室に入っていったようだ。
「……何やってんだろうな、俺は」
恋しいのは人肌じゃなくておまえだよ、浮奇。一人で食べる朝食が味気ないなんてことに気づかせやがって。
話をしないからすぐに食べ終えてしまい、残った浮奇の分のベーグルを皿に乗せる。駆け寄ってきた愛犬に朝食をあげてから俺は寝室に向かった。
「浮奇、入っていいか」
応答はない。けれど衣擦れの音がしたから、猫ではなく人間の姿でそこにいるようだ。
「入るぞ。……浮奇、朝食はどうする? そこで食べてもいいけど」
「……後でにする」
「わかった。……もし俺のことが嫌になったら、好きに生きていいからな。ここにおまえを縛り付けるものはない」
「バカ」
「……」
「なんで人間のくせにそんなバカなの……こっちにきて」
「……」
「はやく」
ベッドの上で布団を被っていた浮奇は、そこから手を出して俺に向かって伸ばした。その手をそっと取り、引かれるままに浮奇に近づく。
「時間の長さなんて関係ないから。俺の命はふーふーちゃんが救ったの。俺のこと甘やかして依存させたくせに、今さら怖がって手を離すなんてずるいよ。俺が猫でも人間の男でも考えてることは同じで、ふーふーちゃんとずっと一緒にいたいってことなんだ」
「……助けられたから、勘違いしてるだけじゃないのか」
「じゃあその勘違いを勘違いじゃなくしてよ。抱きしめられたら心臓が壊れそうなくらいドキドキするんだ。今朝起きた時に言ったこと覚えてる? 寝てるふーふーちゃんのことを抱きしめたくて、猫じゃなくて人間になったんだよ。……ねえ、まだ、俺の感情を認めてくれない?」
言葉にされなくても、浮奇の声と言葉が訴えてくる。重なっていた手はいつのまにか指を絡めてキツく絡まり離せなくなっていた。ここまで言われて、離してやることなんてもうできそうにない。
「浮奇」
「ん……」
「ありがとう。ようやく覚悟が決まったみたいだ。猫でも人間でも男でもなんでもいい。ここで、俺と一緒に生きてくれないか?」
「うん……うん、ねえ、ふーふーちゃん。ここでは嘘をついちゃダメなんでしょう?」
「ああ」
「俺、ふーふーちゃんが大好き。……ふーふーちゃんは、俺のこと、好き?」
それと同等の言葉をさっき言っただろう。でも不安そうな顔で俺を見上げるこの子を、もっと甘やかして依存させるのも悪くない。被っている布団ごと浮奇を抱きしめて、「だいすきだよ」と耳元に優しく囁きを落とすと、人間の姿をしているのに言葉を忘れてしまったのか、「にゃん……」と甘い声を上げ、浮奇は俺の首筋に顔を埋めた。