天気のいい朝方、観光客は来ないような静かな浜辺に愛犬と散歩に行った時のことだった。穏やかな波の音の合間、遠くから聴こえる魅力的な音楽に俺は思わず足を止めた。明らかに波の音ではない、風の音でも動物の鳴き声でもなく、それはメロディーを奏でているなにかだ。
誰かが海に向かって歌っているという可能性もなくはない、が、この時期でも朝の海は肌寒いくらいで、声出しに適しているとは思えなかった。それにここに来るまで俺は誰ともすれ違っていない。浜辺に俺の他に人影は見当たらないのだ。
どこかの家からラジオでも漏れ聞こえているのだろうと片付けてしまえばそれまでだけれど、胸の奥に響くようなこの歌声を誰が歌っているのか気になって、ここにその誰かがいるのなら一目見たいと思ってしまった。あたりを見渡し、やはり浜辺に人はいなさそうだと判断する。少し離れた堤防や岩影なら、もしかしたら。どうするの?と言いたげな顔で俺を見上げていた愛犬にゴーの指示を出し、俺は再び海辺を歩き始めた。
歌声はまだ聴こえる。ずっと聴いていたいような、このまま眠ってしまいたいような心地良い歌声。
しばらく行くと不意に先を歩いていた愛犬が足を止め、俺も慌てて立ち止まった。彼が俺のことを見上げてからふいと海を見つめる。何か見てほしいものがあるのだろうと視線をやったその先、海から突き出した大きな岩の上に腰掛けている人影があった。ゆっくりと頭を揺らしているその人から、例の歌声が聞こえてきている。
「いた……」
肩にかかる紫色の髪、薄い羽織りは白い肌の色を透かして見せて、腰のしなやかなラインが朝の弱い陽光に照らされていた。どこかで魚が跳ね、歌声が一瞬止む。けれどしばらくするともう一度、やわらかな音楽が紡がれ始めた。
どれだけの時間そうしていたのか、時間の感覚はなくなっていた。しかし一緒にいた彼は大好きな散歩の途中だからそうもいかなかったようで、突然「ワウッ」と俺を呼ぶように鳴き声を上げ、俺は驚き足元を見遣った。俺の足の間に頭を突っ込んで早く行こうと急かしてくる彼の頭を撫でたところで先ほどまで聞こえていたそれが聞こえなくなっていることに気がつく。
パッと顔を上げるとそこには何も、影も形もなくなっていて、ただ朝の静かな海が広がっているだけ。波の音はするのに、耳鳴りがするくらいの静寂に感じて寂寥感に胸が詰まる。
「……行こう」
ポツリと落とした言葉に愛犬が楽しそうに走り出した。また明日、同じ時間に来たら会えるだろうか。後ろ姿と歌声を聴いただけなのに、どうしてこんなにあの子のことで頭をいっぱいにしているんだろう。まるで、恋みたい。